杉田久女句集 232
京都白川莊 一句
鶯や螺鈿古りたる小衝立
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年の句。「京都白川莊」不詳。]
琵琶湖 二句
舳先細くそりて湖舟や春の雪
水鳥に滋賀の小波よせがたし
[やぶちゃん注:以下、「時雨雲」までの十句は総て昭和四(一〇二九)年三十九歳の時の作。]
若王子 一句
緣起圖繪よむ一行に梅さかり
[やぶちゃん注:昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では前書を、
若王寺 一句
とする。これは前後の京都関連から見ると、京都府京都市左京区若王子町の熊野若王子神社か。但し、同神社に「緣起圖繪」を確認出来ない。また桜の名所ではあるが、梅はネットでは掛からない。]
春雪に四五寸靑し木賊の芽
洛北詩仙堂 一句
きこえ來る添水の音もゆるやかに
[やぶちゃん注:「詩仙堂」正式には凹凸窠 (おうとつか)。京都市左京区一乗寺門口町にある江戸初期の徳川家家臣石川丈山(天正一一(一五八三)年~文一二(一六七二)年)が隠居のため造営した山荘跡で、現在は曹洞宗丈山寺。名前は中国の詩家三六人の肖像を掲げた「詩仙の間」に由来し、詩仙は日本の三十六歌仙に倣って林羅山の意見を求めながら、漢晋唐宋の各時代から選ばれた。肖像は狩野探幽によって描かれ、四方の壁に掲げられてある。「凹凸窠」とは凸凹(でこぼこ)の土地に建てられた住居の意味で、建物や庭園は山の斜面に沿って作られてある。丈山は詩仙の間を含め建物や庭の十個の要素を凹凸窠十境という名数に見立てた。寛永一八(一六四一)年、丈山五十九の時に造営され、九十歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。小有洞という門を潜って竹林の中の道を行くと石段の上に老梅関という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は三階建ての嘯月楼となっており、その右手 (西側) には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の詩仙の間、他にも読書の間など多くの部屋がある(嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築で、他は後世の改築)。庭園造りの名手でもあった丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春の皐と秋の紅葉で知られ、縁の前に植えられた大きく枝を広げた白い山茶花も見所の一つである。一般に猪威しとして知られる添水 (そうず) と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントとなっていて、丈山も好んだという(ここまでウィキの「詩仙堂」に拠ったが、京に暗い私が実はとても好きな名所である)。]
京都にて 三句
芹すゝぐ一枚岩のありにけり
梅林のそゞろ歩きや筧鳴る
探梅に走せ參じたる旅衣
粟生光明寺歸途
時雨雲はるかの比叡にかゝりけり
[やぶちゃん注:「光明寺」京都府長岡京市粟生(あお)西条ノ内にある西山浄土宗総本山報国山光明寺。法然が初めて念仏の教えを説いた地で、紅葉の名所としても広く知られる。参照したウィキの「光明寺(長岡京市)」によれば、『法然を慕い帰依した、弟子の蓮生(熊谷直実)が』、建久九(一一九八)年に『当地に、念仏三昧堂を建立したのが始まりである。のちにここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという』。建永二(一二〇七)年に『熊谷で予告往生を遂げた蓮生の遺骨は遺言により』ここの『念仏三昧院に安置された』とある。因みに熊谷直実は私が殊の外好きな鎌倉武士である。]
法然院
山かげの紅葉たく火にあたりけり
[やぶちゃん注:「法然院」京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町にある寺院(現在は浄土宗系単立宗教法人で正式には善気山法然院萬無教寺と号するが、院号の法然院の方で知られる)。ウィキの「法然院」によれば、『寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという』。『寺は鄙びた趣きを』持ち、『茅葺で数奇屋造りの山門』の内には『内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が』多いとある。]
豐後洋上にて 二句
春潮に群れ飛ぶ鷗縦横に
春雷や俄に變る洋の色
[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月三日に出席した道後公会堂の第一回関西俳句大会の際の句であろう。「豐後洋上」とは福岡から豊後水道を渡ったその時の船旅の途次を指すものと思われる。]
昭和四年 松山にて 二句
師に侍して吉書の墨をすりにけり
春雨や木くらげ生きてくゞり門
[やぶちゃん注:底本年譜の当該年に松山行の記載はない。]

