日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 10 最初の探訪 / モースは土方歳三最期の地を訪ねたのではなかったか?
図―352
昨日曳網の袋が裂けたので、我々は五マイルばかり離れた漁村へ行った。長い、泥深い町をぬけて行くと、長い砂浜へ出た。ここで我々は奇妙な貝を沢山ひろった。目的の村へ来た我々は、一軒の居酒屋を発見し、ひどく腹が減っていたので、不潔なのをかまわず食事をした。ここで休んだ後、我々は丘の一方へ向かったが、たいてい膝まで水がある沼沢地みたいな所を、一マイルも一生懸命に行かねばならなかった。苦しくはあったが、背の高い草や、美しい紫の菖蒲(しょうぶ)その他の花や、若干の興味ある小さな貝や、それから面白いことに、その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである! 私はまた欧州の
Lymnaea auriculataに類似した、淡水の螺を見出した。最後に高地へ来ると、函館と湾とが、素晴しくよく見えた。帰途、我々はまた例の沼地と悪戦苦闘をやり、疲れ切って函館ヘ着いた。ここ四日間、私はズブ濡れに濡れ、或はそれに近い状態にいたが、而もこの上なしの元気である。帰る途中、我々は謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑の前を通った(図352)。簡単な濃灰色の石片の割面に、文字を刻んだものは、我国でも、墓地で見受ける或種の記念碑の代りとして、使用するとよい。
[やぶちゃん注:これは矢田部日誌により、七月二十一日(函館着後六日後で、モースは前日の二十日も大雨をものともせずドレッジを行っている)のことであるが、『朝八時ヨリ八人ニテ七重濱ニ至リ、夫(ソレ)ヨリ有川村ニ向ヒ晝食シ、此村ノ東方ノ沼ニ入リ植物ヲ多ク採集セリ』とあって、モースの記載とやや様相が異なる。矢田部の日記の方が正しいものと思われる。「七重濱」は函館湾のほぼ湾奥でモースらのラボからは約六・五キロメートルに位置する砂浜海岸。「有川村」現在の函館市の西に接する北斗市中央の有川大神宮や有川橋の名が残る一帯であろうか。函館湾の西岸で七重浜からは四キロメートルほどはある。単純に往復でも二十キロを越える距離である。
「五マイル」約八キロメートル。
「一マイル」一・六一キロメートル。孰れの概算距離も異なるが足すとだいたい合っているから不思議。
「その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである!」不詳。モース先生、私は陸生貝類には弱いのです。学名かせめて科名を書いておいて欲しかったです!――識者の御教授を乞うものである。
「Lymnaea auriculata」原文は“Lymnæa
auriculata”で種名の綴りの“-ae-”が古典ラテン語の二重母音の合字“-æ-”となっている。底本では直下に石川氏による『〔モノアラガイ科〕』という割注がある。これは恐らく腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 Lymnaeidae
モノアラガイ属
Radix
イグチモノアラガイ
Radix auricularia
若しくはその近縁種の欧米産種の旧学名であろうかと思われる。
本邦のモノアラガイは Radix auricularia japonica
である。
「謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑」これは私の全くの直感に過ぎないのだが、「三人」というのは土方歳三の「三」を誤釈したもので、これは、現在の函館市若松町にある土方歳三最期の地の石碑ではあるまいか? ここなら「帰る途中」という表現にぴったりの位置だからである。彼は過ぐる九年前の明治二年五月十一日(グレゴリオ暦一八六九年六月二十日)に亡くなっている。但し、歳さんは斬首ではなく、戦死ではある。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]
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