杉田久女句集 242 花衣 Ⅹ
せゝらぎに耳すませ居ぬ山櫻
花腐(くだ)つ雨ひねもすよ侘びごもり
船長の案内くまなし大南風
翠巒を降り消す夕立襲ひ來し
旱魃の舗道はふやけ靴のあと
夜毎たく山火もむなしひでり星
汲み濁る家主の井底水飢饉
水飢饉わが井は淸く湧き澄めど
夏の海島かと現れて艦遠く
煙あげて鹽屋は低し鯉幟
大阪の甍(いらか)の海や鯉幟
目の下の煙都は冥し鯉幟
男の子うまぬわれなり粽結ふ
櫛卷の歌麿顏や袷人
ミシン踏む足のかろさよ衣更
蒼朮(そうじゆつ)の煙賑はし梅雨の宿
焚きやめて蒼朮薫る家の中
[やぶちゃん注:「蒼朮」中国華中東部に自生する多年生草本のキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎を乾燥させた生薬。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがある。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、草体の『日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれ』、『特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。]
おくれゐし窓邊の田植今さかん
早苗水走り流るゝ籬に沿ひ
おくれゐし門邊の早苗植ゑすめり
一人寢の月さへさゝぬよき蚊帳に
踏みならす歸省の靴はハイヒール
寮の娘や歸省近づくペン便り
[やぶちゃん注:この句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和八(一九三三)年のパートに配されてある。一見、この年に東京の女子美術専門学校に進んだ次女光子のようにも見えるが、実は長女昌子がこの前年昭和七年八月に横浜税関長官房文書係雇として就職しており、角川版の前年パートに後に出る
昌子よりしきりに手紙來る 三句
春愁の子の文長し憂へよむ
春愁癒えて子よすこやかによく眠れ
望郷の子のおきふしも花の雨
の三句が載ることから、私はこれらは「寮の娘」という措辞から長女昌子を詠んだものと推定する。前の句はかく並べられると「ハイヒール」からやはり昌子のように見えるが、角川版では創作年代未詳の『昭和四年――昭和十年』パートに配されてあるので断定は出来ない。本底本句集は時期の異なる句が季題別に纏められているので、その点、一読連作ととるのはこれ以降の「歸省子」の句群でもかなり危険であることを言い添えておく。]
歸省子の琴のしらべをきく夜かな
歸省子やわがぬぎ衣たゝみ居る
[やぶちゃん注:角川版では大正一四(一九二五)年のパートにある。この時、昌子十四歳、光子九歳であるから、この「歸省子」は(ご本人である長女石昌子さんの編になる底本年譜にはご本人と次女光子さんの事蹟記載が極めて少ないので特定は出来ない)感触としては長女昌子か。]
いとし子や歸省の肩に繪具函
[やぶちゃん注:この句に描かれたのは「繪具函」から次女光子と考えてよいであろう。]
歸省子と歩むも久し夜の町
遊園の暗き灯かげに涼みけり
起し繪の御殿葺けたる筧かな
[やぶちゃん注:この句、今一つ、句意が取れない。「起し繪」は組立灯籠(くみたてとうろう)とか立版古(たてばんこ)とも言い、しばしば子供の絵本に見られる建物・樹木・人物などを切り抜いて枠の中に立て、風景・舞台などが立体的に再現されるようになっている絵をいう。辞書には茶室の絵図面などにも用いられたとある。「葺けたる」の「葺く」はカ行四段活用であるから、これは已然形か命令形となるが、すると以下の「たる」が分からない。起し絵の御殿が遠近感に齟齬が生じて庭の筧が屋根を葺いているように見えるという意であるなら、連用形接続の完了の助動詞「たり」で「御殿葺きたる」として――御殿葺きとなってしまった(しまっている)筧よ――とするか、若しくは体言接続の断定の助動詞「たり」で「御殿葺(ぶ)きたる」として――御殿の葺(ふ)きとなっている筧よ――でなくてはおかしいと思う。識者の御教授を俟つものである。]
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