日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 4 小樽から札幌へ モース先生、馬に乗る / 銭函の集落
数マイル行った所で、私は初めて馬に乗った。私は馬に乗りつけているような様子をして乗ったが、まことに男性的な、凛然たる気持がした。馬がのろのろしていて、余程烈しく追い立てぬ以上、走らずに歩き続けたことは事実であるが、それにも拘らず私は指揮官になったような気がして、あだかも世界を測量する遠征隊を率いているかの如く感じた。馬の運動に馴れるには、しばらく時間を要したが、間もなく万事容易になり、かなりな心配を以て馬を注視したことによって、私はある程度の平安さを以て景色を注視することが出来た。路の両側にはいたる所、大きな葉の海藻が日に乾してあった。十マイルにわたって路はデコボコな小径で、而もある個所は非常に嶮しかった。切り立った崖に沿うて行く時には、書物に所謂「一歩をあやまれば」、私は千切の深さに墜落していたことであろうが、馬の方でそんな真似をしない。もっとも鞍の上でグラグラするので、私はいささか神経質になっていた。やがて平坦な路へ来たので、私は大胆にも馬に向ってそれとなく早く行くことを奨めて見た。だが私は、即刻それを後悔した。実に苦痛に満ちた震揺を受けたからである。四本の脚の一本一本の足踏が、私を空中に衝き上げ、その度に十数回の弾反(はねかえり)が伴った。私は早速馬を引きとめた。だが札幌へ着く迄に、私は馬の強直な跳反(はずみ)に調子を合わせて身体を動かすコツを覚え込んだので、非常に身体が痛くはあったが、それでも、どうやらこうやら、緩い速度で走らせることが出来た。
[やぶちゃん注:先に記したように驚くべきことにモース(一八三八年生まれ。本邦は天保九年)は四十歳になるこの歳まで(モースの誕生日は北海道旅行の一月前の六月十八日)馬に乗ったことがなかったのである。
「数マイル」一マイルは一・六〇九キロメートル。モースの乗馬は先に記した矢田部日誌により石狩湾の最南奥の銭函(ぜにばこ)であったことが分かっている。小樽から東南へ約十五キロメートルで、確かに一〇マイルには足らない。恐るべき正確な表現と言える。
「大きな葉の海藻」昆布。]
図―370
我々が最初に休んだのは、ねむそうな家が何軒か集って、ゲニバクの寒村をなしている所であった(図370)。我々が立寄った旅籠(はたご)屋には、昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいるのを見ると、蝦夷島を横断した大名の行列が思い出された。今やこの家は滅亡に近く米は粗悪で、私は私の「化学試験所」に、何物まれ味のある物を送るのに困難した。村を離れると路は広くなり、海岸から遠ざかった。今や暑熱は堪え難くなり、我国にいるものよりも遙かに大きい馬蠅が、何百となく雲集して来た。刺されると非常に痛いと聞いていた私は、彼等に対して恐怖の念を抱いた。一生懸命に蠅をよけたり蹴ったりしようとする馬は、立て続けにつまずいて、私を頭ごしに投げ出しかけたりした。時々馬は頭を後に振って、鼻で私の脚をひどく打った。私は真直に坐り、そして馬も真直にしていることが、非常に六角敷(むつかし)いことを知った。
[やぶちゃん注:「ゲニバク」底本では直下に石川氏による『〔銭函〕』という割注が入る。原文は“Genibaku”。は現在の北海道小樽市最東端に位置している銭函(ぜにばこ)地区。ウィキの「銭函」によれば、ここは『アイヌが住む時代から鮭漁の場所として栄え、その後ニシン漁で栄えた時代には各家庭に銭箱があったという伝説が残り、それが今の銭函の地名に由来しているといわれている。北海道開拓の父、島義勇が札幌に開拓府を建設するにあたり、交通、交易の要所として仮本府を置いた場所でもあり、その後も明治14年の鉄道開通の時も小樽と共に開駅した歴史のある場所である』とある。この開拓府仮本府の廃止(明治三(一八七〇)年四月)後の一時的な寂れがモースの描写の「昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいる」に現われているように思われる。現在は『札幌市のベッドタウン化しつつあり、特に3丁目は同市手稲区星置の市街に隣接しているため、人口は増加傾向にある。また、準工業地帯として軽工業的な工場が立ち並び銭函工業団地を形成している。一方、漁師町の流れをくむ1丁目及び2丁目地域では、昔ながらの商店やもちろん現役の漁師が住む歴史ある街として現存している』とある。モース先生、風評被害で訴えられますぜ。
「蝦夷島を横断した大名の行列」原文は“the daimyo processions that used to pass across the island”。小樽は河口に松前藩がオタルナイ場所(この「場所」とは江戸時代の蝦夷地(北海道・樺太・千島列島)で松前氏が敷いた藩制の一つで松前氏家臣が現地蝦夷(アイヌ)と交易を行う知行地のことをいう。ここはウィキの「場所」に拠った)を開いてはいるが、藩主が蝦夷縦断したとは思われないから、これは松前藩の蝦夷探訪のための一隊か、若しくは明治になってからの開拓使以下の入植開拓団の誤認ではなかろうか?
「化学試験所」彼の胃。モースの好きな比喩。
「大きい馬蠅」原文は“a huge horsefly”。この英語は一般には双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目Brachycera
に属するミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorphaのアブ類でもアブ下目アブ科 Tabanidae のウシアブ Tabanus trigonus・アカウシアブ Tabanus chrysurus (特に後者はまさしく大型でしかもオレンジがかった縞模様がスズメバチによく似ていて――恐らく捕食者への擬態である――私が最も恐怖するアブである)及び狭義のハエ類に属しながら吸血する短角亜目ハエ下目
Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ Stomoxys calcitrans などが候補となる。]
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