今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道
本日二〇一四年六月 二十日(陰暦では二〇一四年五月二十三日)
元禄二年五月 四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 二十日
である。【その二】「曾良随行日記」を見ると、
四日 雨少止。辰の尅、白石を立。折々日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神と云有。その別當の寺の後に武隈の松有。竹がきをして有。その辺、侍やしき也。古市源七殿住所也
○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、
左の方一里計有、三の輪・笠島と村並て
有由、行過て不ㇾ見
。
○名取川、中田出口に有。大橋・小橋二つ
有。左より右へ流也。
○若林川、長町の出口也。此川一つ隔て仙
臺町入口也。
夕方仙臺に着。其夜、宿國分町大崎庄左衞門。
とある。【その一】で述べたように、順列が入れ替えられ、しかも以下に示す通り、「奥の細道」では泊まっていない岩沼に泊まったと虚構しているのである。
笠島はいづこさ月のぬかり道
奥州名取の郡(こほり)に入(いり)て、
中將實方の塚はいづくにやと尋(たづね)
侍れば、道より一里半ばかり左リの方(か
た)、笠島といふ處に有(あり)とをしゆ。
ふりつゞきたる五月雨、いとわりなくなく
打過(うちすぐ)るに
笠島やいづこ五月(さつき)のぬかり道
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「猿蓑」の句形で「曾良書留」には(【 】は右傍注)、
泉や甚兵へニ遣スの發句・前書。
【册尺一枚、前ノ句。】
中將實方の塚の薄も、道より一里ばかり
左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に
及侍れば、わりなく見過しけるに、笠島
といふ所にといづるも、五月雨の折にふ
れければ
笠嶋やいづこ五月のぬかり道 翁
と出る。初案である。
貴種流離の典型ともいうべき藤原実方については既に注したが、実方は長徳四(九九九)年十二月、任国であったここで馬に乗ったまま笠島道祖神前を通った際、乗っていた馬が突然倒れて下敷きになって馬もろともに没し、そのままこの地に埋葬されたという。これは「源平盛衰記」や謡曲「実方」で広く知られていた。芭蕉の「笈の小文」に帰郷の際に杖突坂で落馬した話が載り、「かちならば杖つき坂を落馬哉」の句が載る。もしかすると芭蕉は歌人実方よりも、稀代の伊達男で困ったちゃんであった破滅型アウトロー・ヒーロー実方にこそ、言い知れぬ魅力を感じていたのやも知れぬ。それだけに、この泥だらけの遥拝回向という仕儀もまたよしと芭蕉に思わせたのではなかったか? 芭蕉に隠された悪童性にこそ私は実は惹かれているのである。
「奥の細道」を「武隈の段」を含めて一気に示す。
*
[やぶちゃん注:前の「伊達の大木戸をこす」から改行せずに続く。最初の空欄二字は、「こす」。]
あふみ摺白石の城を過て
笠しまの郡に入れは藤中
將實方の塚はいつくの程ならんと
人にとへは
これより遙右に見ゆる山際の里を
みのわ笠嶋と云道祖神の社かたみ
の薄今に侍りとをしゆ此比の五月雨に
道いとあしく身つかれ侍れはよそなから
なかめやりて過るにみのは笠島も
五月雨の折にふれ
たりと
笠島はいつこさ月のぬかり道
岩沼宿
武隈の松にこそ目覺る心地はすれ
根は土際より二木にわかれてむかしの
姿うしなはすとしらる先能因法師おもひ
出往昔むつのかみにて下りし人此
木を伐て名取川の橋杭にせられたる
事なとあれはにや松は此たひ跡もなしとは
よみたり代々あるはきりあるひは植次
なとせしと聞に今將千歳の
かたちとゝのほひてめてたき松のけしきに
なん侍し
たけくまの松みせ申せ遲櫻
と擧白と云ものゝ餞別したり
けれは
櫻より松は二木を三月越シ
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇あふみ摺白石の城を過て → ●鐙摺白石の城を過ぎ
〇道祖神の社かたみの薄今に侍り → ●道祖神の社・かたみの薄、今にあり
〇岩沼宿 → ●岩沼に宿る。
[やぶちゃん注:表記通り、ただ字下げで「岩沼宿」と出る。ここは貼り紙による補正がされている箇所で、前の行の「みのは」以下も窮屈に字が詰めてあって、相当な推敲がなされていることが分かる。]
「みのは笠島も五月雨の折(をり)にふれたりと」「みのは」は現在の名取市高館川上にある箕輪で、その南隣りに名取市愛島笠島(旧名取郡笠島村)があり、孰れも当地の地名。それらに「箕(蓑)」「笠」という折からの五月雨の縁語が含まれているという風流から、の謂い。]
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