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2014/06/17

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (3)

 さてかやうな動物が生殖するときには、如何にして卵と精蟲とを出遇はしめるかといふに、これは實に簡單を極めて居る。即ち生殖細胞の成熟する期節が來ると、雌は勝手に海水中へ卵を吹き出し、雄は勝手に海水中へ精蟲を吹き出すだけであるが、卵や精蟲が小さな孔から吹き出されるところを横から見て居ると、人が煙草の烟を鼻の孔から吹き出して居るのと少しも違はぬ。かしこでは雄が精蟲を吹き出し、こゝでは雌が卵を吹き出すと、卵と精蟲とは水中を漂うて居る間に相近づく機會を得て、精蟲は卵の周圍に游ぎ集まり、かくして受精が行はれるのである。されば「うに」や「ひとで」の子供にも父と母とは慥に有るが、産まれる前に既に緣が切れて居るから、親と子との間には始から何の關係もない。父は我が子の母を知らず、母は我が子の父を知らず、しかも幾千・幾萬の雄と雌とが同じ海に住んで居ること故、どの雌の産んだ卵がどの雄の精蟲と相合するかわからぬ。かゝる動物では受精は全く獨立せる生殖細胞の、互に相求める力によつてのみ行はれるのである。

 

 右の如き方法による受精は、無論水中に住む動物でなければ行はれぬ。そして水中で卵と精蟲との出遇ふのは、餘程までは僥倖によること故、卵の多數が受精せずしてそのまゝ亡びることもないとは限らぬ。特に水中には小さな卵や弱い幼蟲を探して食ふ敵が非常に多く居るから、精蟲に遇はぬ前に他の餌食となるものも澤山あらう。また小さな幼蟲となつてから食はれるものも頗る多からう。さればこの類の動物は、かやうな損失をも悉く見越して餘程多くの卵を産まぬと、種族保存の見込みが十分に立たぬわけであるが、實際飼うて置いて見ると、その生殖細胞の産み出されることは實に非常なもので、水槽函内の海水が全部白く濁る程になる。植物でも蟲媒花の花粉が無駄に散つて居ることは少くないが、松などの如き風媒植物の花粉は驚く程多量に生じて、恰も硫黄の雨でも降つたかの如くに地上一面に落ち散るのも、恐らくこれと同じ理窟であらう。

 

 卵も精蟲もまづ親の身體から離れ、しかる後に水中で勝手に受精するたうな動物は、「うに」や「なまこ」の外にもなほ幾らもある。普通に人の知つて居るものから例を出せば、「はまぐり」・「あさり」・「しゞみ」などの二枚貝類が皆これに屬する。「はまぐり」でも「しゞみ」でも一疋づつ悉く雄か雌かであるが、介殼だけで區別の出來ぬは勿論、切り開いて内部を見ても全く同樣である。それ故、多數の人々は常に食ひ慣れて居ながら、雄と雌とがあることさへ心附かぬ。一體雌雄の體形上の相違は、主として雄の精蟲を雌の體内へ移し入れるための器官、または兩性を相近づかしめるための裝置の差にあるゆえ、雌雄が相近づく必要のないやうな動物に、雌雄體形の相違のないのは當然である。「くらげ」や「さんご」なども雌と雄とがあるが、身體の形には何の相違もない。

[やぶちゃん注:『「はまぐり」でも「しゞみ」でも一疋づつ悉く雄か雌かである』は厳密には正しくない。軟体動物門斧足(二枚貝)綱異歯亜綱シジミ科上科シジミ科 Cyrenidae に属するシジミ類のうち、全国に分布する汽水性のヤマトシジミ Corbicula japonica と琵琶湖固有種の淡水性のセタシジミ Corbicula sandai は確かに雌雄異体で卵生であるが、やはり普通に食卓に載る全国に分布する淡水性のマシジミ Corbicula leana は雌雄同体で卵胎生である。しかもこのマシジミは動物界では稀な雄性発生である(他個体と遺伝子を交換せず、自身の精子の情報のみで発生・繁殖する発生様式で、クローン若しくはクローンに近い状態で発生している。但し、詳しい繁殖様式は現在も解明中ではある)。これらの斧足類の雌雄判別はやはり非常に難しく、産卵期に解剖してその成熟した雌雄の生殖腺の違いを見る以外にはないらしい。]

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