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2014/06/15

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 17 小樽にて

M358359

図―358[やぶちゃん注:上の図。]

図―359[やぶちゃん注:下の図。]

 図358は小樽湾へ入るすぐ前の岬の、簡単な写生である。これ等の崖のあるもあるのは、高さ六百乃至七百フィートで、殆ど切り立っている。そこを廻って小樽湾へ入る場所にある岬は、非常に際立っている(図359)。私は小樽滞在中に、これを研究しようと決心したが、我々が旅行の目的にあまり没頭したので、時間が無かった。沿岸全体が、大規模の隆起と、範囲の広い浸蝕との証跡を示し、地質学者には、興味深々たる研究資料を提供することであろう。私が判断し得た所によると岩は火山性であるが、而も小樽付近には鋭い北向きの沈下を持つ、明瞭な層理の徴証がある。この島の内部には、広々とした炭田が発見される。小樽の寒村は海岸に沿うて二マイルに、バラバラとひろがっている。

[やぶちゃん注:図357は「そこを廻って」という表現から、積丹半島北東から小樽にかけての海岸線、特に小樽に近い、石狩湾の南西部分の余市湾から小樽海岸(高島岬の西側)の部分かと思われる。図358は現在の祝津(しゅくつ)パノラマ展望台のある高島岬と思われる。崖の感じと小さな島がよく一致するように思われる。

「六百乃至七百フィート」一八三~二一四メートル程。

「二マイル」約三・二キロメートル。]

 

 我々は十時頃上陸した。人々が我々をジロジロ見た有様によって、外国人がまだ珍しいのだということが知られた。我々は町唯一つの茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰る事を申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行って見ると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。私は札幌の先生が、もしこれ等を研究しているのならば、今日の発掘物も進呈しようと思っている。

[やぶちゃん注:矢田部日誌明治一一(一八七八)年七月二十六日の条に(「……」は磯野先生による省略部と思われる。「[省略]」は磯野先生の割愛注)、

〇二十六日 「十二時過小樽着……札幌本庁ノ人來リテ已(スデ)ニ昨日ヨリ馬二匹用意シテ当地ニアル旨ヲ告タリ。且開拓三等属北川氏來リ訪ヘリ。小蒸気ヲ借リ受ルコトト一小屋ヲ海岸ニ借受ルコトヲ請セリ。皆諾セリ。二時頃食後浜邊ヲ經テ古土器ノ出ツル處ニ至リ、器ノ破片若干ヲ得タリ。皆大森ヨリ出ル所ノモノニ均シク、恐クハアイノウノ造リシモノナリ。右ニ付キ少シクモース氏卜論セリ。確乎タル証ナクンバ吾之ヲアイノウノ造リタルモノニ非ズト云ハザルナリ……モース氏既ニ二箇ノ古壺ヲ得タリ……此外石堅質ノ石劍、図[省略]ノ如キモノ三四箇ヲ得タリ……此他火山硝子ノ鏃(ヤジリ)アリ

とある。

「内陸の札幌から来た外国人の先生」この人物は、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の矢田部日誌の七月三十日の条の解説(一九一頁)にこの日モースは『札幌農学校のウイリアム・P・ブルックス教授の家に泊めてもらったが、このブルックスは小樽の貝塚をすでに調べており、この日』も彼の案内で発掘を行った、しかし、『土器は見付からなかった』とあるウイリアム・P・ブルックス教授なる人物と同一人かと思われる。ウィリアム・ペン・ブルックス(William Penn Brooks 一八五一年~一九三八年)はお雇い外国人としてかのウィリアム・スミス・クラークが去った後の北海道札幌農学校で教鞭をとったアメリカの農学者。ウィキウィリアム・ブルックスによると、『アメリカ、マサチューセッツ州サウス・シチュエットの農家に生まれ』、一八七一年、『マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、在学中にクラークのもとで植物生理学の実験に参加している』。一八七五年に『同大学を卒業後も大学院で化学と植物学を専攻した』が、『日本政府より札幌農学校の農学教師および校園監督として招聘を受け』てモースより五ヶ月早い明治一〇(一八七七)年一月に『来日、クラークの同校での仕事を引き継ぐこととなった。着任後すぐに農学講義と農学実習』、明治一三(一八八〇)年からは『植物学も担当、タマネギをはじめ、ジャガイモ、トウモロコシといった西洋野菜を紹介し、その栽培法を学生や近郊農家の人々に指導した(注には『ブルックスが持ち込んだ食用植物には上記以外にも、キャベツ、トマト、ニンジン、エンダイブ、コールラビ、セイヨウタンポポなどがある』とある)。札幌農学校には一二年間勤務し、うち4年は教頭を務め、学生には「ブル先生」の愛称で親しまれた』。明治一五(一八八二)年に『一時帰国した際にエヴァ・バンクロフト・ホールと結婚、夫人を札幌へ呼び寄せ、夫妻は日本で7年間暮らした。その間に娘と息子も生まれている』。明治二〇(一八八八)年十月、『家族とともにアメリカへ帰国』翌年、『母校マサチューセッツ農科大学の農学教授に就任、同時にマサチューセッツ州農業試験場技師として勤務した。この時期にアメリカにダイズやキビを導入している』。その後、『家族とともにドイツへ留学』、『博士号を取得し』、帰国後の一九〇六年には『農業試験場の所長に就任』、一九一八年に『辞するまでこれを務め』その後も一九二一年まで同試験場顧問を務めた。一九三二年、『マサチューセッツ農科大学はブルックスに農学の名誉博士号を授与、晩年はアマーストの自宅の庭を耕して過ごした』とある。]

 

 我々が落つくか落つかないかに、役人が一人やって来て、函館から電報で、我々が小樽経由札幌へ向かうということを知らせて来たので、我々の為に札幌から馬を持って来たと告げた。上陸した時、私は小さな蒸汽艇に目をつけ、これを曳網に使用することは出来まいかと思った。矢田部と私は、この土地の最上官吏を訪問して名刺を差し出し、我々の旅行の目的を述べ、そして帝国大学のために採集しつつあるのだという事実を話した。次に、若し我々が数日間、あの汽艇を使用することが出来れば、大きに助かるということを、いともほのかにほのめかし、更に函館では同地の長官が、蒸汽艇の使用を我々に許してくれたことをつけ加えた。こう白々しく持ちかけたので、彼も断ることが出来ず、我々は汽艇を二日間使ってもよいことになった。何たる幸運! 我々は大きに意気揚々たるものであった。

[やぶちゃん注:前段注に引用した矢田部日誌も参照されたい。]

M360

図―360

 港と海岸とは、非常に絵画的である。妙な形の岩が、記念碑みたいに、水面からつっ立っている。図360は、これ等の顕著な岩のあるものの写生である。層理の線は非常にハッキリしていて、挙は過度である。かかる尖岩を残すには、余程大きな浸蝕が行われたに相違ない。私にはこれ等を研究する機会が無かったし、またこの地方を地質学者が調査したかどうかを知らぬ。蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた。

[やぶちゃん注:私は小樽に一度しか行ったことがないので、この岩を同定することが出来ない。識者の御教授を乞うものである。

「擡挙」は「たいきょ」と読み、持ち上げることを意味する。原文は“the uplift”で、尖塔性状の奇岩が頗る高い位置まで伸び上がるように残っていることを言っているものと思われる。

「蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた」原文は“Most of the work of that nature in Yezo has been done from an economic standpoint.”で、これはこうした学術的な調査は、専ら金になるかならないかという観点からしかなされなかった、という学者としての不満を含んだもののように私は読むのだが、誤読であろうか?]

M361

図―361

 図361は小樽の、石造の埠頭から見た景色である。色彩を用いたらば、面白い絵になることであろう。遠方の山、嵯峨たる岩、絵画的な舟や家、植物の豊富な色と対照、澄んだ青い水と、濃い褐色の海藻とは、芸術家の心をよろこばせるに充分であろう。

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