飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅴ
石楠花に伏苓を掘る童子かな
日も月も大雪溪の眞夏空
山梔子に提灯燃ゆる農奴葬
貧農の汗玉なして夕餐攝る
太田公園
白鳥に娘が韈(ソツク)編む涼みかな
[やぶちゃん注:「太田公園」これは現在の山梨県甲府市太田町にある甲府市遊亀(ゆうき)公園のことではあるまいか。参照したウィキに「遊亀公園」には『太田町公園とも呼ばれる』とあり、ネット検索をかけると、かつては太田町公園と呼ばれていたと認識している方もおられるからである。『公園敷地は時宗寺院の一蓮寺旧境内で、近世甲府城下町の町人地(新府中)の南端にあたる寺内町』で、明治七(一八七四)年に『境内敷地の一部が県へ移管されて公園となり、甲府城跡にある舞鶴城公園に対して命名され』、大正六(一九一七)年に甲府市へ移管されて大正八(一九一九)年には『公園内の南隅に附属動物園が開園し』ているとある。
「韈(ソツク)」これは足袋や靴下を指す漢語でここは無論、靴下。]
麺麭攝るや夏めく卓の花蔬菜
老鶯に雲ゆきのこる翠微かな
六月二日、姻戚の幼童薔薇園の池中に墜
つ報あり、手當急なりしも遂ひに蘇生せ
ず。
薔薇うつる水底終ひの梅雨明り
朝雲の灼けて乳牛に桐咲けり
温室のメロンに灯す晴夜かな
紫陽花に雨きらきらと蠅とべり
[やぶちゃん注:「きらきら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
栗咲ける獄みちの雲梅雨入かな
河口湖産屋ケ岬
花卯木水模糊として舟ゆかず
[やぶちゃん注:「産屋ケ岬」河口湖の北岸に向け、現在の河口湖大橋を渡りきった最初の交差点を右に曲がったところにある岬。富士山に向かう形で突き出た小さな岬で、富士と河口湖大橋とのコントラストは河口湖を代表するビュー・ポイントの一つとされる。「河口湖コム」の「産屋ヶ崎」を参照した。リンク先には地図や写真もある。]
牆の薔薇旅寝の幮に近かりき
[やぶちゃん注:「牆」は「かき」(垣)、「幮」は「かや」(蚊帳)。]
きぬぎぬの籬に衷甸(ばしや)まつ薄暑かな
[やぶちゃん注:「きぬぎぬ」の後半は底本では踊り字「〲」。「衷甸」は二頭立ての馬車。音は「チュウデン」で「甸」は乗の意。馬車とくればこれは現代の景、男が妾の宅から夏の日に朝帰りする景か。私はこの景にまさしく相応しい御屋敷が石和の妻のよく行く病院のまん前にあるのことを知っている。]
窓曇る卓の静物薄暑かな
黎明の雷鳴りしづむ五百重山
九月十三日千甕訪問、一句
夏逝けり養痾の庭のひろやかに
[やぶちゃん注:「千甕」小川千甕(せんよう 明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は京都出身の日本画家。本名、多三郎。仏画師北村敬重の弟子となり、浅井忠に洋画も学ぶ。大正四(一九一五)年川端竜子・小川芋銭らと珊瑚会を結成。油絵から日本画へ移行して院展に「田面の雪」「青田」などを出品、昭和七(一九三二)年には日本南画院に参加した。芭蕉・蕪村・良寛に私淑し、仏典・漢文・国文にも造詣が深く、自らも和歌・俳句・随筆を能くした。代表作「炬火乱舞」など(以上は講談社「日本人名大辞典」及び思文閣「美術人名辞典」を参照した)。]
厚朴蝕し苑囿の霧たちのぼる
[やぶちゃん注:「厚朴」は本来は「こうぼく」で生薬名で、利尿・去痰作用があるモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ
Magnolia obovata またはシナホオノキ Magnolia officinalis の樹皮を指すが、ここは樹木のホオノキ
Magnolia obovata そのものを指して、「厚朴蝕し」は「ほほしよくし(ほおしょくし)」で、これは後の立ち昇る霧が朴の木を蝕むように包んでゆくというイメージであろう。
「苑囿」は「ゑんいう(えんゆう)」で、「囿」は鳥獣を放し飼いにする所の意、草木を植えて鳥や獣を飼う所の意。動物園か。とすると先に出た遊亀公園附属の動物園が候補となろうか。]