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2014/07/31

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 15 北上川舟下りⅢ

M442

図―442


M443

図―443

 

 翌朝我々は元気よく、夙く起き、そして気持のよい景色や、河に沿うた興味のある事物を、うれしく眺めた。馬の背中や人力車の上で、この上もなく酷い目にあった我々にとっては、こづかれることも心配することもなく漂い下り、舟夫達や、河や、岸や、その向うの景色を見て時間をつぶすことは、実に愉快であった。間もなく薬鑵の湯がたぎり、我々は米と新しい鱒とで、うまい朝飯を食った。図442は船上の我々の炉、図443は舟夫の二人が飯を食っている光景を髣髴(ほうふつ)たらしめんとしたもの。

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図―444


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図―445


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図―446

 

 河上の景色は美しかった。一日中南部富士が見えた(図444)。我々は筵の下でうつらうつらして、出来るだけ暑い太陽の直射を避けた。飲料水とては河から汲むものばかりで、生ぬるくて非常にきたなかった。図445は船尾から見た我々の舟である。帆は上述した通り、かなりな間隙をおいて布の条片をかがったものであること、写生図の如くである。この河の船頭の歌は、函館の船歌によく似ている。図446は、フェノロサ教授が、その歌を私の為に書いてくれたもので、最初の歌は函館の歌、次の節は北上川の舟夫が歌う、その同質異形物である。時々舟乗が魚を売りに来たが、取引きをしながら、我々は一緒に、下流へ押し流される。図447は我々の舟の舟夫が漕いだり、竿で押したりしている所である。図448は、航行三日目における舟夫の一人を写生したもの。丁髷(ちょんまげ)が乱れて了い、彼はそれを、頭のてっぺんで束にして結んだ。剃った脳天と顎とには、新しい毛がとげのように生え、鼻は日に焼けて非常に赤い。彼は上陸すると先ず床屋を見つけ出し、剃刀を当てて貰い、丁髷の復興建築を行うことであろう。図449は河舟の別の型式で、底が平く、船尾は広い荷船である。この舟は遡行中で、船尾の下にいる男は、舟を砂洲から押し出しているのである。

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図―447

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図―448


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図―449

 

[やぶちゃん注:図446の楽譜を楽譜演奏ソフトに打ち込んで聴いてみたが、孰れも私の耳に馴染みがない。もし現存するか類似に舟唄があれば、是非とも御教授を乞うものである。

「フェノロサ」既注であるが再掲しておく。東洋美術史学者で、モースが招聘した当時の東京大学文学部政治学及び理財学教授アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 一八五三年~一九〇八年) はアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム生まれ。ハーバード大学で哲学を学び、一八七四年に首席で卒業、二年後に同大学院修了後、一八七七年にボストン美術館付属美術学校で油絵を学んでいた。モースの推薦で明治一一(一八七八)年八月九日附で東京大学に迎えられた彼は、二年後の明治十三年度からは哲学・理財学・論理学担当に変わった。彼の政治学講義は社会有機体説を提唱したハーバート・スペンサーの学説が中心で、当時の自由民権運動の思想的支柱として少なからぬ影響を及ぼし、哲学講義ではヘーゲルなどのドイツ哲学を初めて本邦に紹介した功績が挙げられる。また、来日後間もなく、彼は日本美術に並々ならぬ関心を寄せ、その収集と研究を開始(以前にも注したが、これもモースの陶器収集に触発されたものともいう)、狩野友信・狩野永悳(えいとく)に師事して鑑定法を学んだ。フェノロサの鑑定力は人々に大きな驚きを与えたようであり、後に永悳から「狩野永探理信」という画名をも受けている。一方、日本美術の復興を唱え、明治一五(一八八二)年に龍池会(財団法人日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較する中で日本画の優秀性を説いて日本美術界に大きな影響を及ぼしてもいる。明治十七年には自ら鑑画会を結成、狩野芳崖・橋本雅邦らとともに新日本画の創造を図った(これらの作品はフェノロサ自身の収集によって現在ボストン美術館・フィラデルフィア美術館・フリーア美術館などに収蔵されている)。 同年に図画調査会委員となって以降、美術教育制度の確立にも尽力、明治二〇(一八八七)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を設立(開校は明治二十二年)、同校では美術史の講義を行い、これが本邦初の美術史研究の濫觴となった。古美術保護にも尽力する一方、仏教にも傾倒、明治一八(一八八五)年にはビゲローとともに天台宗法明院(三井寺北院)で桜井敬徳師により受戒、「諦信」の法号も受けている。明治二三(一八九〇)年に帰国してボストン美術館中国日本美術部主任となったが、六年後に辞任、その後も数度来日している。一九〇八(明治四十一)年、ロンドンの大英博物館での調査中に心臓発作で客死した。当初、英国国教会の手によりハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志によって火葬された後に日本に送られ、大津の法明院(三井寺(園城寺)寺塔頭で滋賀県大津市園城寺町にある)に改めて葬られた。近代日本での華々しい功績とは裏腹に、フェノロサの後半生は必ずしも恵まれたものではなかった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「アーネスト・フェノロサ」とを比較参照しつつ、より正確と思われる記載を探り、それに「磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えたものである)。しかしこの譜面、どう考えても、東京に戻ったモースが思い出して唄ったものを、フェノロサが採譜した以外にはちょっと考えられないわけで、原曲とは――モース先生の声楽の才を疑う訳ではないのですが――かなり違っているのではないでしょうか?……]

M450

図―450


M451

図―451

 

 ある場所で我々は絶壁の下で太陽が照りつけるのもかまわず、陸産の螺(にし)をさがす為に上陸し、そして短い間に、我々がそれ迄に採集したことのない新種を八つ見つけた。このような絶壁に、漁師は屯所を設ける。この屯所に使用する小舎(図450)は、河から三十フィート向い所にあり、漁夫は長い繩で網を引上げ、魚が入っているか否かを見る。実にお粗末極まる小舎にまで、梯子(はしご)がかけてある。図451は網の一つの形式を示す。河の全長にわたって、このような漁屯所が見られる。

[やぶちゃん注:「陸産の螺」原文“land snails”。基本的には海産・淡水産を除く腹足類の、有肺類・カタツムリ・キセルガイ・ナメクジ等を広範に含む謂いである。

「三十フィート」九メートル強。

「屯所」「漁屯所」原文は“station”と“fishing stations”。魚群を探るためのそれならば魚見台であるが、これは図から明らかなようにそれではなく、そこで四手網を操作して直に魚を釣る施設である。岡山県南部の児島湾沿岸に今も残る四手網漁ではこの小屋を四手網小屋と呼んでいる(きよくらならみ氏のブログ「きよくらの備忘録」の「児島湾岸の夏の風物詩、四手網」を参照)。他に鳥取県東伯(とうはく)郡湯梨浜町(ゆりはまちょう)の汽水湖東郷湖にも残るが、このような断崖絶壁タイプのそれではなく、海や湖に張り出した小屋である。ただ私はこのようなタイプのものをかつて何処かで見た記憶があり、それは確かに東北南部(但し、海岸線であったように思う)であったように記憶する。識者の御教授を乞うものである。]


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図―453

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図―454

 

 仙台湾に近づくにつれて、河幅は広くなり、流れはゆるく、きたならしくなった。航行の最後の日には、水を飲むことが容易でなかった。沈渣(おり)が一杯入っていたからである、河岸では人々が、布や、自分等の身体やを洗っていた。鳥が如何に人に馴れているかを示す、小さな写生図が一つある。女が一人、舷によって、見受けるところ魚を洗っていたが、そこから数フィートはなれた所に鳥が一羽、舷にとまって、女のすることを見ていた(図452)。河口に近づくと、風が吹き上げ始め、舟夫は岸へ上って数マイル間舟を曳いた(図453)。これをやるのに彼等は檣(マスト)を立てそのてっぺんに繩を結ひつけ、そして舟を引張った。舟夫の一人は舟に居残り、長い竿を使用して、舟が岸にぶつかるのを防いだ。三日間も船中に立て籠り、その間の多くを居眠りしたり寝たりしたというのは、まことに懶惰なことであった。写生図454では、一行中の一人が、蚊をよける為に、顔に紙をかぶせている。

[やぶちゃん注:図453はちょっと分かり難い。陸に上がった船頭らが引く曳き繩の線が三本ともちょっと向こうへ向いているように見えてしまうからである。老婆心乍ら、一言いっておくと、この途切れた曳き繩の先は画面の手前にある描いているモースが載った船の画面右手前に存在する当の舟の帆柱の先に実は繋がっているのである。]

 

 このような緩慢な河旅を数時間続けた後に、我々は時間を節約するため、最初の村で上陸し、仙台まで人力車で行くことに決定した。これは結局よいことであった、というのは、我々が入り込んだ村では、外国人を見る――もしそれ迄に外国人が来たとすれば――ことが非常に珍しいに違いなかった。人々は、老幼を問わず、大群をなして我々の周囲に集り、我我が立ち寄った旅籠屋では、庭を充し、塀に登り、まるで月の世界からでも来た男を見るように、私を凝視した。時に私は彼等に向って突撃した。これは勿論何等悪意あってやったのではないが、彼等は悪鬼に追われるように、下駄をガラガラいわせて四散した。我々が人力車で出立した時、彼等は両側に従って、しばらくの間、最大の好奇心と興味とを以て私を眺めながら、ついて来た。

[やぶちゃん注:「最初の村」現在の宮城県石巻市鹿又。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 14 北上川舟下りⅡ

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 河岸には釣をしている人々がいた。日本人は如何なる仕事をするにも、遊ぶにも、脚を折って坐る癖がついているので、これ等の漁夫もまた、軽い竹製の卓子(テーブル)を持っていて、岸や川の中でその上に胡坐(あぐら)をかき、我々は彼等がこの卓子の上にいたり、それを背負って水中を歩いていたりするのを見た。彼等の釣糸には釣針が二つついていて、その一つには囮(おとり)に使う生魚がつけてある。彼等は魚を市場で生きたまま売るので、釣った魚を入れる浮き箱を持っている。図439は漁夫達のこの上もなく粗末な写生図である。夜の十一時迄我々は、まことにゆるやかではあったが、とにかく水流に流されて行ったが、前方に危険な早瀬があり、かつまだ月が出ないので、舟夫たちはどうしても前進しようとしない。そこで我々は小さな村の傍に舟をつけ、辛棒強く月の出るのを待った。月は二時に登り、我々はまた動き出した。私は早瀬を過ぎる迄起きていたが、そこで日本の枕を首にあてて固い床に横たわり、翌日明るくなる迄熟睡した。図440は舟夫の一人が、布をボネットのように頭にまきつけて、煙草を吸っている所である。ここで私は、蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬという事実を書いて置こうと思う。図441は別の舟夫である。

[やぶちゃん注:前半の川釣りは、鮎の友釣りの様子である。

「月は二時に登り」当日の月の出は二十二時二分で、正中は翌日の五時五十分であるが、内陸の沼宮内では日付が変わった午前二時頃(出航は矢田部日誌に零時半とある)でないと、中天に月は昇らあなかったのである。因みに明治一一(一八七八)年八月二十一日の月はまさに下弦の月であった(「こよみのページ」の当月の月齢カレンダーを参照されたい)。

「ボネット」原文“a bonnet”。底本では直下に石川氏による『〔婦人帽の一種〕』という割注が入る。ボンネット 。婦人や小児用の帽子で付紐を頤の下で結ぶタイプのもの。グーグル画像検索「bonnet

「蝦夷では、最も暑い日にあっても、田舎の女が青い木綿の布で頭と顔とを包み、時に鼻だけしか見えぬ」とあるが、これは「蝦夷」ではなく、「東北地方」のモースの誤りであろう。東北地方南部で農作業時に顔に被る「ハンコタンナ(袢衣手綱)」のことである(グーグル画像検索「ハンコタンナ」)。浮遊人氏のブログ「きままな山と旅の徒然話」の秋田・山形の黒覆面美女?」によれば、私の知っている「ハンコタンナ」以外にも、東北地方各地域で形状の異なるそれらがあり(これらは東北地方特有のものである)、名称も以下のように違うことが記されてある。

 フロシキ       (青森六ヶ所村)

 ナガテヌゲ      (秋田市仁井田)

 タナカブリ/ズキン  (秋田由利郡大内村)

 ヒロタナ       (秋田県本荘)

 ハナガオ       (秋田由利郡子吉川)

 サントク       (秋田鳥海村)

 ハンコタンナ     (山形遊佐町吹浦)

 カガボシ       (山形鮑海郡一体から温海町)

 ツノボシ/サンカクボシ(新潟岩船郡山北町)

 ドモコモ/オカブリ  (新潟村上市)

浮遊人氏は『潮風や日焼けから肌を守る習慣から』とプラグマティックな理由を掲げておられるが、『日本民俗文化体系14「技術と民俗」(下)』(小学館一九八六年刊)から引用されて、『覆面の由来は定説はないが、北前船が江戸で流行したトモコモ頭巾がそれぞれの港に伝わり一般に普及』、『またこの地方の女性が肌の白さを保つため日焼け防止として、覆面が生活のなかに融合と推察』、『また秋田角館の侍が被ったドウモッコと呼ばれた絹の頭巾が江戸のキママ頭巾の名残と見られることから参勤交代の武士の手で伝えられたものと考えられる』とあるとし、同書『では1977年の農繁期に羽越沿線を調査し、1,800名の女性(農業従事者)の80%が覆面をしていたと書かれて』おり、『本はむすびに黒覆面の将来と題し、「覆面は過去の野良着に似合っても、飛躍的発展をとげた今日の農村の服装(トレーパンなど)野良着には黒覆面は調和しない……日焼け防止に効果ある野良帽子の出現で黒覆面はしだいに消滅する運命をたどっている」』ともあって、『覆面の型は様々で、種類にして十数種類、名称も二十種以上とか。そのほか江戸時代、この地方には雪から目を守る黒いメッシュ状の「目すだれ」もある』と附記、『確かに黒覆面、黒頭巾は絣のモンペによく似合う』と感想を述べておられる。私も同感で、私はこのハンコタンナに対して実は不思議な魅力を感じており、この「くの一」のような黒覆面には、もっと別な民俗学的呪術的意味が隠されているように無性に思われてならないのである。リンク先は同書に載る地域差の写真も載る。必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 13 北上川舟下りⅠ

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図―437

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図―438

 

 我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町へ入った。町通の両側には、どっちかというと、くつつき合った人家と、庭とが並んでいる。蜀葵(たちあおい)が咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。この町へ行く途中でエワタヤマ又はそれが富士山に似ていて、ナムボーといわれる地方に聳ゆるが故に「ナムボー・フジ」と呼ばれる山がよく見えた(図437)。盛岡では河が大いに広く、ここで我々は舟に乗らなくてはならなかったが、舟をやとうのに我々は、河岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋やすべての衛生設備は、この上もなく清潔であった。而もこれが、何でもない製材所なのである! 舟と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は、盛岡には、ほんの短時間止まり、果実と菓子とを買い込んで、正午、北上川を百二十五マイル下って仙台へ出る、舟旅にのぼった。我々が雇った舟は、去年利根川で見た物とは違い、船尾が四角で高く、舳は長くてとがっていた。図438は舟を写生したもので、一人がこぎ、二人が竿を使い、乗組の四人目は熟睡している。舵は奇蹟によってその位置に支えられる。すくなくとも軸承(じくうけ)は幅僅か三インチで、見受ける所、何にも無いものにひっかかっている。舟の中央部には、藁の筵を敷いた四角な場所があり、ここで我々は数日間食事をしたり、睡眠したりしなくてはならなかった。我々の頭上には、厚い藺(い)の筵が、屋根を形づくつていた。河は遅緩で、流れも大して役に立たず、おまけに舟夫たちは、気はいいが怠者のそろいで、しよつ中急ぎ立てねばならなかった。

[やぶちゃん注:この前後の矢田部日誌を再掲しておく。

〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」

○二十二日 「終日船中ニ在リ」

○二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故ニ此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」

○二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」

「エワタヤマ」底本では直下に石川氏による、『〔岩手山〕』という割注が入る。現在は「いわてさん」と呼ぶ。

「ナムボーといわれる地方」原文“a region called Namboo”。南部地方。南部とは方位ではなく氏族名。中世以来の旧族居付大名南部氏が近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(岩手県北上市から青森県下北半島まで)を領有したことに由来する。

「ナムボー・フジ」底本では直下に石川氏による、『〔南部富士〕』という割注が入る。岩手山。奥羽山脈北部の山で標高二〇三八メートル。二つの外輪山からなる複成火山で岩手県の最高峰。ウィキ岩手山」によれば、『別名に巌鷲山(がんじゅさん)があるが、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われる。春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもある』とある。

「百二十五マイル」約二〇一キロメートル強。現在の盛岡市内の北上川畔から北上川を鹿又まで下り(最後の部分は旧北上川で計測)、そこから陸路で松島まで計測してみると約二〇〇キロ強あるから、この実測も非常に正確である。

「三インチ」七・六二センチメートル。

「見受ける所、何にも無いものにひっかかっている」原文は“apparently hangs on nothing”一見したところでは、全く引っ掛かっているようには見えない、ただ舵は船尾にちょこんと置かれているだけのように見える、の意。

「数日間」矢田部日誌を読むに、二十一日の午前九時四十分に盛岡を発って、午後七時半に黒沢尻(現在の北上市中心部)に着くも、下流に急流があるために、月の出を待って、日が変わった午前零時半に黒沢尻を発っている。二十二日は丸一日川下りで、翌二十三日午前十一時に鹿又村に到着した。ところがそこから南風があまりに強いために舟下りが不可能になってしまったため、急遽、人力車四台と馬一匹を雇って、夕刻六時半に松島着した。厳密には延べ三日で実船時間は四十九時間二十分に及んだ。この小さな船に四人+船頭四人、計八名は如何にもきつい。がたいのでかいモースにとっては結構、しんどかったのではなかろうかと同情するのだが、モース先生は実は人力車や馬でしたたかに尻を痛めつけられてきたせいで、意外なことに、この三日間を愉快に「懶惰」に過ごしたのであった(後の段に出る)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 12 東北スケッチⅥ 浪打峠の交叉層

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図―436

 

 福岡を出てから我々は、急に登りにさしかかった。事実、我々は高い山脈の頂に達するのに、けわしい阪を登ったのであるが、遂に頂上に来た。ここには傾斜を緩和するために、深い切通(きりどおし)が出来ている。岩はこの山を構成している、軽い砂岩らしく思われた。切通の写生は国436に示す。岩層は僅か西に傾下し、私が津軽海峡で曳網した「種」と全く同じに見える、見や腕足類の破片で充ちていた。この堆積は、地質学的には非常に新しいに違いなく、この島の北部で起った変化が、如何に新しく、且つ深甚であったかを示している。この地方は、化石から判断すると、かつて水面下三十尋(ひろ)、あるいはそれ以上の所にあったので、近い頃の地質学的時代に二、三千フィートも、もち上げられたものである。

[やぶちゃん注:ここは時間的に巻戻って描写されている。「福岡」、現在の二戸を出たのは八月二十日であるが、その日は前に注したように渋民に泊まっている。次の段の頭は「盛岡の町へ入った」と始まるが、渋民を発ったのは八月二十一日の朝四時二十分、盛岡着は約三時間半後の午前八時前だからである。

「けわしい阪」岩手県二戸郡一戸町から同県二戸市にかけてある旧奥州街道、山越えの街道(現在の国道四号線の奥州街道より東西直線距離で二・五キロメートルほど離れた東方にある)の最高地点である浪打峠。標高は三百二メートル。ウィキの「浪打峠」によれば、『旧奥州街道が通り、一戸町側の峠手前には浪打峠一里塚がある』とし、『また、峠両側の崖は浪打峠の交叉層と呼ばれ、粗粒砂岩層に「偽層」(クロスラミナ[やぶちゃん注:地層が斜めに交叉する小規模な地層のことで、流動する水中又は空気中に於いて砂や細礫などが堆積することで生じた地層様の現象をいう。])が堆積して縞模様となっている。交叉の様子もはっきりし、外見が美しく、その規模も大きい』とある。この地層は現在、国の天然記念物に指定されており、地層は荒い砂岩で、ホタテガイなどの化石の砕屑物が層になって点在し、それが美しい縞模様をなしている。この浪打峠地層は「末の松山層」とも呼ばれ、今から七百万年前のものと推定されている(最後のリンク先を見るとこの地層の最下層の堆積は今から千五百万年前まで遡るらしい)。グーグル画像検索「浪打峠の交叉層」を見ると、現在のそこ(私は行ったことはない)がまさにモースのスケッチと百三十六年経った今も一致することがよく分かる。個人サイト「ウチノメ屋敷 レンズの目」内の一戸町・浪打峠の交叉層ページ(こちらには貝の化石の現場の写真が出る。そのキャプションに『ここ浪打峠の地層は、第三紀中新世門の沢層とその上部末の松山層からなり、二枚貝、巻貝、腕足類等の浅海性軟体動物化石を多く含んでいる。』とあり、本文を読む上で必見必読と言える。

「水面下三十尋」水深五四・九メートル。

「近い頃の地質学的時代」三陸海岸は第四紀(二百五十八万八千年前から現在に至るまでの地質時代の期間)後期に隆起している。

「二、三千フィート」六〇九・六~九一四・四メートル。浪打峠の現在の標高が三〇二メートルであるから、それに「水面下三十尋、あるいはそれ以上の」水深を加えても三六〇メートルほどにしかならないが、これは恐らく採取した腕足類やホタテガイが浅海性であるからその砂浜海岸の最も浅い数値を示したまでで、実際にはもっと遙かに水深の深い位置からの隆起を想定していたからに他ならない。しかも現在、三陸北部では過去約一〇〇万年間の継続的隆起傾向(現在も進行中)が平均隆起速度で年〇・三ミリメートルと測定されおり、一〇〇万年で三〇〇メートル、二〇〇万年なら六〇〇メートルとなり、実にモースのここでの二千フィートの謂いが実に的を射ていることが分かるのである。恐るべし、モース!]

橋本多佳子句集「紅絲」 露

  

 

鶏頭起きる野分の地より艶然と

 

伏目に読む睫毛幼し露育つ

 

露の中つむじ二つを子が戴く

 

人の背をふと恃みたる穂草の野

 

白露や鋼の如き香をもてり

 

露けき中竈火胸にもえつゞけ

 

虫鳴く中露置く中夫(つま)死なせし

 

[やぶちゃん注:既注乍ら、夫豊次郎の逝去は、本句集刊行(昭和二六(一九五一)年六月一日)の十四年前の昭和一二(一九三七)年九月三十日、享年五十であった。この句集刊行当時、多佳子五十二歳、夫の年を既に越えていた。]

 

露霜や死まで黒髪大切に

 

露万朶幼きピアノの音が飛ぶ飛ぶ

 

椎の実の見えざれど竿うてば落つ

 

  淡路島

 

一夜の島月下の石蕗(つは)の花聚まる

 

海より雨激しくよせる石蕗の花

 

海彦の答へず霧笛かけめぐる

 

[やぶちゃん注:「海彦」単に海の比喩であるが、言わずもがな乍ら、淡路島は記紀の国産み神話に於いて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初に創造した島である。同じ記紀に載る山幸彦と海幸彦自体の伝承の内、彼らの誕生地や背景は現在の宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中しているが、これから派生した浦島太郎伝承は四国にあり、淡路島と海彦の取り合わせは必ずしも場違いではない。]

 

舟虫の背に負ふ瑠璃の砲塁亡し

 

[やぶちゃん注:甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ Ligia exotica は一般には背中側の体色は鈍い光沢のある黒色であるが、淡黄色の斑(まだら)模様や褐色の広い縁取りがある個体もあり、成体の大型個体の中にはまさに多佳子のいうように「瑠璃」の虹色を帯びた個体もいる。「砲塁」跡が何処かは不明。太平洋戦争末期の本土防衛のために日本各地で海岸直近に砲塁は建てられたが、幕末のそれらも多くあり必ずしも直近のそれとも断定は出来ない(寧ろ、幕末期のそれの可能性の方が高いか。とすると福岡か)。ロケーションの分かる方は御教授下さると嬉しい。]

 

高まりつゝ野分濤来るはや砕けよ

 

野分濤群れ来る歓喜生き継ぐべき

杉田久女句集 263 花衣 ⅩⅩⅩⅠ 春晝や坐ればねむき文机

 

  花衣時代 一句

 

春晝や坐ればねむき文机

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では、昭和七(一九三二)年のパートに同じく『花衣時代』の前書で六句載るその冒頭の句である。因みに他の五句は直ぐ後に出る『蒲生にて 五句』と同一である。本句集でこの一句を独立させたところに、久女の本句に対するなみなみならぬ自信のほどが見てとれる。久女を知る人には言わずもがなであるが、ここで一応注しておくと、俳誌『花衣』は、久女が昭和七(一九三二)年三月に主宰誌として創刊した女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となったが、この『花衣』は同年九月の五号を以って廃刊となった。長女石昌子氏編の底本年譜によれば『家事の多忙と雑務に追われ作品の低下するのをおそれたのが理由だった』とある。続く同年の記載には『この頃より久女は俳句作者として生涯を打ち込む決意を』したとあり、また、『句集出版の志を持ち、序文を虚子に願うも承諾されなかった』のもこの時であったとある。――気怠い春昼……文机に前屈みに凭れる……春愁に沈む麗人……それが俳人久女その人の絵姿であったのである……]

にこにこ正月   山之口貘

[やぶちゃん注:以下、本ブログ・カテゴリ「山之口貘」で示す五篇は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「その他の既刊詩集未収録詩篇」に載る、初出の確認が出来なかった残されていた原稿の中で定稿或いは清書原稿に近いと編者松下博文氏によって判断され選択された作品である。これは、そうした判断や選択から除外された草稿類が多く残存することを意味するのであるが、それらは同新全集第四巻(二〇一四年七月現在未刊)で公開されるものと思われる。

 注が容易と思われる詩から順に選んだ関係上、ブログ版では以下の詩篇の順列は底本とした上記新全集の順列とは異なる。上記新全集の順列は、

 

 沖縄舞踊

 にこにこ正月

[やぶちゃん補注:この間に「坂」という詩が入るが、これは底本製本終了後にバクさんの詩友淵上毛錢(本名、喬)の詩であることが判明、「訂正とお詫び」の投げ入れが入る。バクさんは彼の詩集の序詩(昭和一八(一九四三)年一月詩文学研究会(東京市麻布区霞町)発行の「淵上喬詩集 誕生」の序文が初出。詩集「鮪に鰯」に収録された例の「チェロ」である)も書いている。思潮社の投げ入れによれば、この詩稿は不思議なことにバクさんの自作自筆原稿の中に作者を記さずに混入していたためにこのような事態が出来した旨の記載がある。既に昭和四七(一九七二)年に国文社から刊行された「淵上毛銭全集」の拾遺詩篇に「坂」として全く同一の詩篇が載っているとある。正直言うと、新全集を手にした際に一番吃驚したのはこの大きなミスであった。]

 お金の種類

 龍舌蘭

 (いつもは……)

[やぶちゃん補注:最後の『(いつもは……)』は説明がないが、詩題がないために、一行目の詩句にリーダを配して丸括弧で括って仮に示したものと思われる。私は無題とした。]

 

である。この順列については解題に説明がないが、底本の配列全体に細心の緻密な配慮をなさっておられる松下氏のことであるから、バクさんの癖である逆編年順列を考証しての配置であると私は思っている。]

 

 にこにこ正月

 

あけまして おめでとう

どの子も にこにこ

おめでとう

 

ひろ子ちやんも おめでとう

みゝ子ちやんも おめでとう

はねをついて にこにこ

まりをついて にこにこ

 

まことちやんも にこにこ

凧々あがれ おめでとう

天まであがれ おめでとう

 

みずえちやんも にこにこ

小さな おてゝに

大きな

みかんのお正月 おめでとう。

 

[やぶちゃん注:拗音表記がないのはママ。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題では『掲載紙不明』とし、『原稿は一枚のみ』で『(正月の朝)に類する』と注記する。正月朝」は底本の「既刊詩集未収録詩篇」(旧全集は「児童詩」)のパートに所収するもので、初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学五年生」である。そこではミミコ(泉)さんが登場し、年齢を言うシーンが出ることから私は『これはシチュエーションとしては実に正しく前年昭和三十年のお正月の景であることを表わしている。バクさんは満五十一歳』と注した。「にこにこ」というリフレインという共通性、「みゝ子ちやん」の登場からも、この「おめでとう」は「正月の朝」と同一時期でしかも同一シチュエーションを素材とした創作のようには思われる。バクさんが有意に年月をおいて似たフレーズを詩篇で濫用することはあまりないように思われるからでもある。問題は拗音表記の有無で、「正月の朝」は拗音が表記されてあり(「いった」二箇所と「ちょっと」二箇所)、そこから遡って「既刊詩集未収録詩篇」を調べると、拗音表記がない詩篇は「古びた教科書」(児童詩。松下博文氏の解題によれば昭和三〇(一九五五)年頃の創作と推定される)である。しかし、この「古びた教科書」での松下氏の推定が正しいとするなら、やはり本詩「おめでとう」が昭和三十年の創作である可能性が結果として高くなるのである。]

2014/07/30

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 秋

〈昭和十二年・秋〉

 

山川は鳴り禽たけく胡桃(くるみ)熟る

 

露の瀬にかゝりて螻蛄(けら)のながれけり

 

露さむや娘がほそ腰の力業

 

藷堀りの小童(こわつぱ)のせて片畚

 

[やぶちゃん注:「片畚」は恐らくは「かたもつこ(かたもっこ)」と訓じていよう。「畚」は通常は「ふご」と読み、竹・藁・縄などを網状に編んで四隅に吊り紐を附けた物や土砂などを入れて運ぶ用具のことであろう。これはこれから芋掘りに向かおうという農夫が天秤棒の先にもっこを提げそこにその子を乗せて悠々と行く景と私は採った。]

 

落穗簸(ひ)る身重の妻女歳老けぬ

 

[やぶちゃん注:「簸る」は、箕(み)で穀物を煽って籾殻や塵芥を除き去るの意。]

 

野みちゆく秋の跫音したがへり

 

零餘子おつ土の香日々にひそまりぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「零餘子」は「むかご」である。]

 

霧さぶくこずゑに禽はあらざりき

 

蔬菜園矮鷄(ちやぼ)鳴く霧に日ざしけり

 

黍熟れて刈敷(かりしき)の萱穗にいでぬ

 

[やぶちゃん注:「刈敷」は伝統的な施肥法の一つで、春先から初夏にかけて山林から刈り取った柴草・雑木の若葉・若芽や稲藁・麦藁などを水田に敷き込むことをいう。ここは来年のそれになる「萱」(かや)が「穗」となって出初めたというのであろう。]

 

露の香にしんじつ赤き曼珠沙華

 

草川のそよりともせぬ曼珠沙華

 

初栗に山土の香もすこしほど

 

蘡蔓(えびづる)のここだく踏まれ荼毘の徑

 

[やぶちゃん注:「蘡蔓」はバラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。蔓(つる)性落葉木本で雌雄異株。古名は ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiaeとともに「葡萄蔓」(エビカズラ)と呼んだ。「ここだく」は「幾許」で「ここだ」とも読み、副詞で程度の甚だしいさま。]

 

歸燕とび雲ゆく大嶺秋花滿つ

 

牧婦織り歸燕すずろになきにけり

 

  甲府郊外朝氣

 

菩薩嶺は獄(ごく)はるかにて歸燕ゆく

 

[やぶちゃん注:「菩薩嶺」大菩薩峠。]

 

  郡内吉田宿

 

天澄みて火祭畢へぬ秋つばめ

 

[やぶちゃん注:「吉田宿」現在の山梨県富士吉田市。富士山の山仕舞の時期に当たる八月下旬に催される日本三奇祭の一つ、「吉田の火祭」で知られる。]

 

乳牛鳴き秋燕は迅く花卉越えぬ

 

卵とる人影かこつ秋の雞

 

秋果つむ荷船の景もときあげぬ

 

雌は噎(む)せて粟はみたてる軍雞の雄

 

軍雞乳むみぎりの荏の香ながれけり

 

[やぶちゃん注:「乳む」は本文ルビ既出で「つるむ」。「荏」はエゴマ。既注。ここは「ごま」と訓じているか。]

 

芙蓉咲き風邪ひく山羊の風情かな

 

秋の苑花卉日月をはるかにす

 

鑛山のひぐらし遠くなりにけり

 

屍室の扉梧(きり)の蜩ひびきけり

 

[やぶちゃん注:単なる直感だが、鉱山附属の病院の霊安室か。]

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月Ⅲ

 

秋燕となりて一日(いちにち)天にばかり

 

秋の蝶吾過ぐるとき翅ゆるめよ

 

霧中にみな隠れゆく燈(ひ)も隠る

 

いなづまに誘はれ飛びて蝶はづかし

 

頭(づ)あぐればかなしさ集ふ野分あと

 

白露やわが在りし椅子あたゝかに

 

荒百舌鳥や涙たまれば泣きにけり

 

百舌鳥の下みな雨ぬれし墓ばかり

 

墓と共に花野に隠れゐたかりし

 

傘いつも前風ふせぎ雨の百舌鳥

 

秋風や鶺鴒二つ飛びたる白

 

断崖や激しき百舌鳥に支へられ

 

叫びても翅濡る雨のの百舌鳥なれば

 

老いよとや赤き林檎を掌に享くる

杉田久女句集 262 花衣 ⅩⅩⅩ

 櫻の句

 

  一 延命寺(小倉郊外) 三句

 

釣舟の漕ぎ現はれし花の上

 

花の寺登つて海を見しばかり

 

花の坂船現はれて海蒼し

 

[やぶちゃん注:「延命寺」現在の福岡県北九州市小倉北区上富四丁目にある黄檗宗東北山延命寺。恒武帝の延暦二一(八〇二)年に最澄入唐の前に一夜霊夢に感じて開山したという古刹であるが、慶応二(一八六六)年の小倉戦争で長州軍により火をかけられて焼失、その後、明治元(一八六八)年に現在の寺として再興された。ネット上の記載によれば、ここは本州との海路の玄関口でもあり、寺の高台からは関門海峡が臨めるとある。]

 

 

  二 阿部山五重櫻(花衣所載) 四句

 

傘をうつ牡丹櫻の雫かな

 

[やぶちゃん注:「牡丹櫻」八重桜のこと。グーグル画像検索「牡丹。]

 

うす墨をふくみてさみし雨の花

 

[やぶちゃん注:「うす墨」次の句にも出る淡墨桜は狭義には岐阜県本巣市の淡墨公園にある樹齢千五百年以上のエドヒガンザクラの古木を指し、蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわに特異な淡い墨色になり、名はこの散りぎわの花びらの色に因む(ウィキ淡墨桜」に拠る。グーグル画像検索「淡墨桜)。一重。これを分けたものか。]

 

雨ふくむ淡墨櫻みどりがち

 

花の坂海現はれて凪ぎにけり

 

[やぶちゃん注:「阿部山五重櫻」これは安部山の誤りではあるまいか? 安部山公園ならば、現在の福岡県北九州市小倉南区安部山にある。小倉南区北端部の足立山(標高五九七・八メートル)の南麓にある公園で、敷地は小倉南区安部山と湯川四丁目及び大字葛原に跨る。参照したウィキの「安部山公園によれば、安部山の地名は、明治三八(一九〇五)年に『この地を開墾し果樹や桜を植えて公開した小倉市生まれの農業指導者である安部熊之輔に由来し』、『園内には約700本の桜が植えられており、花見の名所となっている』とある。しかし前書の「五重櫻」の意が不詳。八重ほどでないということか。しかし薄墨桜は一重であるから解せない。識者の御教授を乞う。]

 

  三 八幡公會クラブにて 六句

 

掃きよせてある花屑も貴妃櫻

 

[やぶちゃん注:「貴妃櫻」楊貴妃桜。サトザクラ(グーグル画像検索「サトザクラ」)の一品種で花は大きく淡紅色の八重咲き。グーグル画像検索「楊貴妃桜。]

 

風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ

 

花房の吹かれまろべる露臺かな

 

むれ落ちて楊貴妃櫻房のまゝ

 

むれ落ちて楊貴妃櫻尚あせず

 

きざはしを降りる沓なし貴妃櫻

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、六句とも八幡製鉄所の迎賓館であった八幡公餘倶楽部(現在は新日鐡の研修所である高見倶楽部)とする。するとこの前書の「八幡公會クラブ」(底本表記は「八幡公会クラブ」)の「會」は「餘」の誤りとも考えられる。]

石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案) ★注意:不採用

 石神井東中学校々歌   山之口貘作詞(案)

[やぶちゃん注:「山之口貘作詞(案)」は私が附した。この校歌は不採用となったものである。後注参照。]

 

むかしをしのぶ     武蔵野の

緑の原に        そゝり立つ

甍(いらか)がもとに  つどひ来て

われらは学ぶ      若人ぞ

 

秩父の山脈(なみ)に  胸を張り

はるかに富士を     ながめつゝ

四季の色彩(いろどり) めぐまれて

そだつわれらは     若人ぞ

 

文化日本を       背負ひ立つ

われらの肩に      力あり

いざ若人よ       もろともに

理想を高く       掲げなん。

 

[やぶちゃん注:所収する思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、創作は昭和三三(一九五八)年頃。現在の練馬区立石神井東中学校の校歌は草野心平の作詞(渡辺浦人作曲。同校公式サイトで確認。新全集解題は「渡辺浦」とするが脱字か)で、昭和三三(一九五八)年三月一日に校歌として制定されているとある(採用された草野心平のそれは二番の頭で「秩父山脈(ちちぶやまなみ)」を詠んでいる以外は、詩句も構造(草野版は二番まで)も似ていない)。但し、草野心平はバクさんと同い年の詩友でもある。あくまで推測であるが、依頼されて作ったものの、何らかの注文がつけられて厭になり、草野心平に頼って、結局、譲ったものなのかも知れない。]

彦根市立西中学校々歌   山之口貘

 彦根市立西中学校々歌

 

むかしも文(ふみ)の  華(はな)さきし

城のふもとに      つどいきて

学ぶわれらは      西中健児

「おのこの瞳(ひとみ) 陽(ひ)にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

夢はうるはし      もろともに。

 

伊吹の山        琵琶の水

四季のながめに     めぐまれて

そだつわれらは     西中健児

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

こころはつよし     もろともに。

 

ひこねの要(かなめ)  金亀(きんき)の城に

われらは文化の     要ぞと

西中健児の       意気映(は)ゆる

「おのこの瞳      陽にもえて」

「み空の星か      おとめの瞳」

われらがひこね     西中の

希望はたかし      もろともに。

 

 *昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に

  彦根市立西中学校の前途に幸多からんことを祈りつゝ

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十一月に滋賀県彦根市立西中学校校歌として正式に制定されたもの(作曲は静岡県浜松市出身の音楽家市川都志春氏)。「滋賀県彦市立西中学校の校歌」で男女混声二部合唱(詩中の鍵括弧部分男声女声個別パート。但し、以下のリンク先を見て戴くと分かるように、「おのこの瞳/陽にもえて」は女声パート、「み空の星か/おとめの瞳」は男声パートなので注意されたい)の本歌を聴くことが出来る。男女混声二部合唱の校歌というのは恐らく極めて珍しいものと思われる(リンク先では『全国唯一の』とある。因みに私の母校である富山県高岡市立伏木中学校は「伏木中学校の歌」であって校歌ではない。これが校歌の代わりなのである。校歌のない学校というのもやはり珍しいと思う。以下の私のブログ僕の中学校――「伏木中学校の歌」――記事内の下の方の『この「歌」』の同中学公式サイトのリンク先で、伏木の出身で同中学校卒業生でもある作家堀田善衛氏の作詞になる詞本文と歌曲自体(作曲は団伊玖磨氏)を聴くことが出来る)。

「昭和二十七年四月二十八日 日本独立の日に」とは第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約「日本国との平和条約」(Treaty of Peace with Japan:昭和二七年条約第五号。別名「サンフランシスコ条約」「サンフランシスコ平和条約」「サンフランシスコ講和条約」)が発効した日である。参照したウィキ「日本国との平和条約」によれば、前年の昭和二六(一九五一)年九月八日にサンフランシスコに於いて『全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された』。『この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認』、『国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。条約に参加しなかった国との戦争状態は個別の合意によって終了している』とある。]

うちのしろ   山之口貘

 うちのしろ

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

でっかい トラックに

ほえたてた

 

わんわん わんわん

わんわん ほえるのが

わんわんくんの

やくめだ

 

わんわん わんわん

しろが ほえたてた

みみずが うごいたら

ほえたてた

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三八(一九六三)年二月発行の『児童ブック ことり』(東京都渋谷区上通(かみどおり)の国際情報社発行)。現在、砕身の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「既刊詩集未収録詩篇」の中で最も新しい、則ち、最後のバクさんの詩である。「鮪に鰯」の冒頭と二番目にある「ひそかた対決」(昭和三八(一九六三)年三月号『小説新潮』初出)]と「弾を浴びた島」(昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』初出)の直前、三番目にある「桃の花」(昭和三八(一九六三)年二月二十一日附『家庭信販』初出)と同時期か若しくは先の発行になり、これら、現存するバクさんの最後の詩篇群の一篇である。]

りんね   山之口貘

 りんね

 

朝になつたり

夜になつたりして

その日その日が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その月その月が廻つて

 

朝になつたり

夜になつたりして

その年その年が廻つて

 

どの人もどの人も

起きては地球を廻して

地球を廻してはまた寝て

 

窓の上では

誰だか

タクトを振りつ放し

 

[やぶちゃん注:標題の平仮名書きと最終行の「振りつ放し」はママ。昭和三七(一九六二)年二月頃から翌昭和三八(一九六三)年二月頃の創作と推定される一篇(根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を参照されたい)。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

吾家の歌   山之口貘

 吾家の歌

 

七坪ほどからはじまったのが

九坪になり十坪になって

いまでは十一坪の設計となったのだ

さてしかしこの吾家

どこに建つのか

いつ建つことなのか

建たないうちは夢なので

どこに建つのやら

いつ建つのやら

科学的には知る手がかりもないのだが

生きてゐるうちには

建てるつもりで

どんなに遅くなるにしても

棺桶よりは先に吾家を

どこかに建てるつもりなのだ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。未発表かも知れない。昭和三七(一九六二)年二月頃から翌昭和三八(一九六三)年二月頃の創作と推定される一篇(根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を参照されたい)。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

あわてんぼう   山之口貘

 あわてんぼう

 

朝のごはんのとき あわてて

あついみそしるで したをやけどした

「おお あつい」とさけんだら

おかあさんが しかめっつらをして

「なにを そんなにあわてるんです」

といった。

 

駅まえの ふみきりのところで

しゃだん機が おりかけたとき

いそいで 通りぬけようとしたら

横から おとうさんが

ぎゆつと えりくびをつかんで

「おっとあぶない あわてるな」といった。

 

節分の夜 大きな声をはりあげて

ぼくが まめまきをしていると

うしろのほうで みんなのわらい声がした

ふりかえると にいさんが

「あわてんぼうだなあ

ふくは外 おには内じゃないんだよ

ふくは内 おには外だ」といった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三七(一九六二)年二月号『小学四年生』。]

物の表情   山之口貘

 物の表情

 

生れたついでに

生きて

生きるついでに

結婚したのか

ついではそこでまた腰をあげるのだが

もうなんにもいふな

金を借りに行くのも

これまた結婚の

ついでなのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三四(一九五九)年五月四日附『読売新聞』。詩集「鮪に鰯」の編纂用詩篇原稿群の中に含まれていることから、『鮪に鰯』への収録を検討した一篇と推定される。実際には採られていない。]

丸いうで時計   山之口貘

 丸いうで時計

 

おじさんの時計

 四角だねと ぼくがいうと、

それじゃ おじさんの

 この顔みたいだ、

と おじさんは 自分で そういった。

おじさんは ぼくに、

 おまえも 時計がほしいか ときいた。

ぼくが こっくりをすると、

 ぼんぼん時計の

  大きなのかい といった。

ぼくは うで時計の

 丸いのがほしいんだ というと、

おやおや それじゃ

 おまえの顔みたいに

 まん丸いのかい、

と、そういった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三三(一九五八)年六月号『小学三年生』。]

掌と人工衛星   山之口貘

 掌と人工衛星

 

わんと云へば

わんと云ひ

お坐りと云ふと

お坐りをして

懸命にしつぼを振つてゐるあなた

 

ついこの間のことあなたの仲間がひとり

夢みたいな機械のなかに閉ぢ込められて

はるか地球の彼方に旅をしたらう

そのことについて

あなたはどうおもつてゐるか

 

あなたはそこにゐてしつぽを振つてゐるが

ほくおせんべいなんか

持つてゐやしないよ

わんわん云つても無駄なんだよ

これこの通りだ

なんにも持つてゐやしないよ。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。未発表か。内容から昭和三二(一九五七)年十一月三日以後、それからほど遠からぬ頃の創作と推定される。

 ウィキスプートニク(ロシア語“Спутник-2”:「スプートニク」は「付属するもの」の意から「衛星」「人工衛星」の意となったもの)によれば、ソビエト連邦が一九五七年十一月三日に打ち上げた人工衛星で世界初の宇宙船(イヌを乗せたことから)で、『この成功により有人宇宙船の可能性が開けるものとなった』。前月十月の『スプートニク1号に続くスプートニク計画における2つめの機体である。円錐の形状をしており、ライカという名称で知られるイヌ』(メスの野良犬であった)『が乗せられていた』(「ライカ」は犬のニックネームで犬種ではない。後述)『スプートニク2号はライカを乗せるために宇宙船として気密が保てるようになっており、内部に生命維持装置が付けられていた。地上への帰還は当初より考慮されず、大気圏に再突入し安全に着陸するための装備はなかった。計画では必要な酸素が尽きる10日後にライカは死ぬだろうと考えられていた』。『衛星は無事に軌道に投入されたものの、ロケットから正常に分離されず、結合したままとなった。これに加え断熱材も一部損傷し、熱制御が妨げられた。船内の温度は40℃にまで上昇した』。『ライカが実際にどれだけ生きながらえたかは正確には分かっていない。初期のデータではライカが動揺しつつも食事を取る様子が伺われた。その後は上記の熱制御の問題で異常な高温に晒されたため、1日か2日程度しか持たなかったと考えられている』。『スプートニク2号からの通信は11月10日に途絶え、更に打ち上げ162日後の1958年4月14日に大気圏に再突入し消滅した』とある。

 ウィキライカ」によれば、実はこの時この衛星に載せた犬の「ライカ」というのはその雌の野良犬に実験者たちがつけた名前であるとする。私も今日まで誤解していたのだが、これは犬種名ではないそうである。西側で「ロシアン・ライカ」と呼ばれるロシア原産のスピッツ・タイプの犬種は存在するものの、スプートニクに載せた犬はスピッツ・タイプではあったが、「ロシアン・ライカ」種ではないそうである(この部分についてはウィキロシアン・ライカに拠る)。

 以下、重複する部分もあるが、ウィキライカ」の記載も引用しておく。『1957年11月3日、ライカを乗せたソ連のスプートニク2号はバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、地球軌道に到達した。それ以前にも米ソが動物を宇宙に送り出していたが、弾道飛行のみで軌道を周回するまでは至っていなかった』。『実験にオスではなくメスの犬が選ばれたのは、排泄姿勢の問題からである』。『スプートニク2号は大気圏再突入が不可能な設計だったため、1958年4月14日、大気圏再突入の際に崩壊した。ライカは打ち上げから10日後に薬入りの餌を与えられて安楽死させられた、とされていた』。『しかし、1999年の複数のロシア政府筋の情報によると、「ライカはキャビンの欠陥による過熱で、打ち上げの4日後に死んでいた」という。さらに2002年10月、スプートニク2号の計画にかかわったディミトリ・マラシェンコフは、ライカは打ち上げ数時間後に過熱とストレスにより死んでいた、と論文で発表した。ライカに取り付けられたセンサーは、打ち上げ時に脈拍数が安静時の3倍にまで上昇したことを示した。無重力状態になった後に脈拍数は減少するも、地上実験時の3倍の時間を要しストレスを受けている兆候が見られた。この間、断熱材の一部損傷のため、船内の気温は摂氏15度から41度に上昇し、飛行開始のおよそ5~7時間後以降、ライカが生きている気配は送られてこなくなったという。結論としては“正確なところはわからない”ということである』とある。

 本詩は詩句表現からは中学生向けの少年詩のように見えるが、私には何かひどく強い衝撃を感じさせる大人への詩のように感じられてならない。……

……小さな頃、私と同じ年の「ライカ」ちゃんは「むごたらしく」安楽死させられたのだと、私もその報道を残酷だなあと思いながら信じきっていた……いいや、事実は、もっといい加減で、もっと残酷だったのだ……バクさんは、この時、もうそれを、敏感に嗅ぎとっておられたのかも知れないなぁ…………


Laika

もうすぐ冬だ   山之口貘

 もうすぐ冬だ

 

木ぎの葉っぱを

ふり落しながら

つめたい風が ふいて来る。

森や 林をふきぬけて

風は 急いで 冬を運んで来る。

ふるえて立っている

はだかの かきの木たち、

ふるえて立っている

はだかの くりの木たち。

ぼくは はなの頭を

まっかにしながら

風を切って 急いでいる。

はなを すすって

学校の門に とびこむと、

はだかの 大きな いちょうの木が

風にたえて 立っている。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年十二月号『小学三年生』。]

みどりの五月   山之口貘

 みどりの五月

 

みどりの季節

こころのおどる五月

庭や林にみどりがあふれ

山にも森にもみどりがあふれ

絵筆をにぎつて

立っている人の

こころもそこでおどってか

カンバスにあふれた

みどりの五月

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七年五月号『小学五年生』。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 11 東北スケッチⅤ 鮎挿し(弁慶) / 卵苞

 一番主な旅籠屋へ行って見たら、部屋は一つ残らず満員で、おまけに村中の、大小いろいろな旅館を、一時間もかかってさがしたが、どこも泊まることが出来なかった。たった数時間前、二百名の兵士の一隊が到着したばかりで、将校や兵士の多くが旅館に満ちていた。で我々は、-人の村人が村の有力者をさがし出し、我々の苦衷を説明し、何等かの私人的の便宜を見つけて貰う可く努める間、極度に空いた腹をかかえ、疲れ果てて暗闇の中に坐っていた。日本には、外国人が個人の住宅に泊ることを禁じた法律があるので、我々は全く絶望していた。最後に我我が休息していた満員の旅館の、ほとんど向う側にある個人の住宅に、泊めて貰えることになった。美麗で清潔な大きな部屋が一つ、提供されたのである。ここには蚤が全然いなかったが、すでに身体中に無数の噛み傷を受けていた私にとって、これは実に大なる贅沢であった。我々は美味な夜食の饗応を受け、翌朝は先ずその家の主人に、この歓待に対して何物かを受取ってくれと、大きにすすめて失敗したあげく、四時に出発した。村をウロウロしている田舎者以外に、長い行軍の後でブラついている兵隊も何人かいたが、私は敵意のある目つきも、またぶしつけな態度も見受けなかった。私は米国領事から数百マイルはなれた場所に、只二人の伴随者と共にいたのである。

[やぶちゃん注:二百名もの兵士というのは尋常ではない。これは陸軍の演習であろうと思われるが、確認出来なかった。]

 

図―434

 

 我々が巡った村の一つで、私は何か新しい物はあるまいかと思って、町の後の方へ行って見たら、ある家の中央の炉の上に大きな藁の褥(クッション)がつるしてあり、それに各々小魚をつけた小さな棒が、沢山さし込んであった。これは、こうして燻製するのである。日本人は燻した鱒(ます)を好む。そして捕えるに従って、長い、細い竹の串につきさし、それを図434に示すように、褥につき立てる。

[やぶちゃん注:「大きな藁の褥」「鮎挿し」である。また、七つ道具を背負った姿に喩えて「弁慶」とも呼ぶ。]

 

 鶏卵を、輸送するために包装する、奇妙な方法を、図435で示す。卵を藁で、莢(さや)に入った豆みたいに包み、これを手にぷら下げて持ちはこぶ。

[やぶちゃん注:卵苞(たまごつと)である。グーグル画像検索「と」。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 10 東北スケッチⅣ……推理の最後のツメでこけた! クソ!……(やぶちゃんの呟き)

 河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた。この時はもう暗くなりかけていた。我々は、非常に多数の人々が村からやってて来るのに出会ったが、これ等の殆ど全部が酒に酔って多少陽気になっていた。私は従来、これ程多くの人が、こんな状態になっているのに逢ったことがない。彼等は十数名ずつかたまって、喋舌ったり、笑ったり、歌ったりして来たが、中にはヒョロヒョロしているのもあった。路の平坦な場所は極めて狭いので、多くの場合、我我は彼等の間を歩かねばならなかった。彼等にとっては外国人を見ることは大きに珍しいので、絶間なく私を凝視した。村に着いた時我々は、相撲の演技が行われていたことを知った。群衆がいたのは、その為である。私がこの事を書くのは、天恵多き我国のいずくに於てか、人種の異る外国人が、多少酒の影響を受け、而も相撲というような心を踊らせる演技を見たばかりの群衆の間を、何かしら侮蔑するような言葉なり、身振りなりを受けずに、通りぬけ得るやが、質問したいからである。

[やぶちゃん注:「河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた」「この時はもう暗くなりかけていた」という叙述から、私はこれは青森を経った三日目の七月二十日午後六時二十分に到着した渋民村(現在の岩手県盛岡市玉山区渋民)ではなかろうかと推理している(翌日の発時刻も矢田部日誌が四時二十分とし、次段でモースが四時発とするのと一致するのである)

 そこで調べてみると、旧盛岡藩は相撲が盛んであったこと、現在でも各地で奉納相撲大会が行われていることが分かった。

 次に渋民村で相撲場を持ち、奉納相撲が行われていたであろう渋民村村民から厚く信仰されていた古い神社を調べるてみると、火伏せの守護神とされる岩手県盛岡市玉山区渋民字愛宕の愛宕神社に相撲場を確認出来た(安倍冨士男氏のサイト「奥州街道探訪の旅」の同神社の写真)。個人ブログ「石田道場」の愛宕神社(盛岡市玉山区渋民)の上から九枚目も同じものと思われる土俵跡が確認出来る。「石田道場」氏の記事は同神社の入口にある説明版の写真がある。電子化する。

   *

   愛宕の森

 この森の上に、愛宕神社が祀られている

総本社京都の愛宕神社の支社として、およそ

三百年前に建立された。防火の守護神として

村人に信仰され、毎年旧暦の六月と八月の

二十四日に例祭が催される。

 啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで

散策しては詩想を練った。この森の下に、

啄木が代用教員として教鞭をとった、渋民尋

常小学校があった。

   昭和四十八年三月

          玉  山  村

          玉山村観光協会

   *

 ここで奉納相撲が行われたのであれば、これは私の好きな啄木所縁でもあり、思わず小躍りしたくなるところなのであるが、実はそうは上手くいかない。問題なのは祭日で、モースが到着した明治一一(一八七八)年八月二十日は旧暦の七月二十二日で合致しないのである。非力な私ではここまで、である。別な神社か? そもそも渋民ではないのか?

 まことに残念であるが、ともかくも調べただけのことは記しておきたい。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 9 東北スケッチⅢ 436年前の日本でモース先生が無人販売所にびっくらこいた事

M433
図―433

 

 日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔其桑瓜の一種〕 に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた筋が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「村や町の境界を示す」「大きな塚」境塚などと呼ばれるものである。江戸時代に公的に作られた藩境塚とは別に、村単位で作られたものがもとから存在した。

明治一一(一八七八)年から実に百三十六年も経った今も、私の日々の犬の散歩道(藤沢市内。但し、私の居住地は鎌倉市である)に幾らも当たり前に無人販売所がありますが……モース先生、きっと信じないよね?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 9 東北スケッチⅢ 436年前の日本でモース先生が無人販売所にびっくらこいた事

M433
図―433

 

 日本の北方の各地で、私は路の両側に、村から相当離れた場所に、大きな老木を頂に持つ大きな塚があるのに気がついた。これ等は村や町の境界を示すのだそうである。また路の所々に、瓜を売る小舎(図433)が建ててあった。瓜は我国のカンテロープ〔其桑瓜の一種〕 に似ていない事もないが、繊維がかたく、水分を吸う丈の役にしか立たぬ。もっとも東京附近にある同じ果実は、美味である。これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた筋が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る! 私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味いつつ、仲間から遙か前方を進んでいた。非常に渇を覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘、田へ仕事に行って了ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなし、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。

[やぶちゃん注:「村や町の境界を示す」「大きな塚」境塚などと呼ばれるものである。江戸時代に公的に作られた藩境塚とは別に、村単位で作られたものがもとから存在した。

明治一一(一八七八)年から実に百三十六年も経った今も、私の日々の犬の散歩道(藤沢市内。但し、私の居住地は鎌倉市である)に幾らも当たり前に無人販売所がありますが……モース先生、きっと信じないよね?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 8 東北スケッチⅡ 明治11年当時の東北の正真正銘の電信柱

M432

図―432

 

 道路に添うて政府は、日本の全長にわたるべく電信を敷いている。この仕事を徹底的に行うやり方は、興味が深かった。電柱になる木は、地上、一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しつかりと電柱を立て支える。柱の頂点には、雨を流し散らす為に角錐形の樫の木片を取りつける(図432)。

[やぶちゃん注:「電柱になる木は、地上、一、二フィートの場所で伐らず、根に近く伐るので、底部は非常に広く、そしてこの部分は長持ちさせる為に火で焦す。この広い底部は大地に入って、しつかりと電柱を立て支える。」ちょっと意味をとりにくい。原文は“The trees to make the poles, instead of being cut a foot or two above the ground, were cut close to the roots, so that the base was very wide, and this part was charred to preserve it. This wide base gives it a much firmer hold in the ground.”で、これは通常ならば、電柱に用いる木は上下の太さが大きく異ならないように、根元から「一、二フィート」(約三十一~六十一センチメートル)の箇所を伐ってそこから上を用材とするところだが、そうせずに、有意に幅の広い根元近くから木を伐って使用している(だから埋設する部分が上部より有意に幅広で安定感が生ずる、ということを言っているもののように私には受け取れる。老婆心乍ら、この図は地下に埋設されている部分を含めて描かれた透視図である。左右に電線のように出ている(実は私は当初、こんな低い位置に電線を張るのか! とビビった)のは地面であって、これには電信線は描かれていない。個人ブログ「ふるさとの礎 なかしべつ伝成館」の丸太の電信柱さがしで北海道根室管内標津郡中標津町に現存するこのスケッチに近い丸太の電柱を見ることが出来る。必見。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 7 東北スケッチⅠ

M430
図―430

 

 北日本の家屋の屋根梁の多くは、赤い百合で覆われている。村を通過しながら、家の頂が赤い花で燃えるようになっているのを見ると、中々美しい。東京附近では、青い鳶尾(いちはつ)がこの装飾に好んで用いられるらしい。高くて広い、堂々たる古い萱葺の屋根が素晴しい斜面をなして軒に達し、その上に赤い百合が風にそよいで並ぶこれ等の屋根が、如何に美しいかは、見たことのない人には見当もつかない。これ等の萱葺屋根の軒には、厚さ三フィートに達するものもよくある。人々の趣味は、屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用することに現れる。軒を平らに刈り込むと、濃淡二色の藁の帯が、かわるがわるに見える(図430)。

[やぶちゃん注:「赤い百合」不詳。この時期(八月中旬)に咲く赤い百合に似た花で、屋根の上の強い陽光にもよく堪え、乾燥に強く、立ち上がりがよくてよく根を強く張る植物(藁葺屋根の棟の上という条件はこれらを満たす必要がある。「鳶尾(いちはつ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum が好まれるのは、その根が棟部分を強くするからであるし、そもそも根をしっかり張れないものは簡単に吹き飛んでしまう)というとアオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea を思い浮かべたが、梅雨明けには開花が終わるからやや時期が遅過ぎる(但し、後段の盛岡の段で「蜀葵(たちあおい)が咲き乱れて」いるという描写が出る)。「百合」というところからは北方系のヒメユリであるユリ科ユリ属ミチノクヒメユリ Lilium concolor  var. mutsuanum か。しかしこれも七月上旬に開花が始まるから、やはりやや遅過ぎるように思える。ネット上の複数ワード検索や画像検索をかけたが、最早、藁葺屋根が失われつつある現在、モースや後に小泉八雲が感動した(「日本その日その日 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅」の私の注を参照されたい)屋根(棟)菖蒲の画像すら覚束ない。齋藤優子氏のブログ「徒然日記」の「ジャーマンアイリス」にこのイチハツの学名について、『この学名は命名者の Maximowicz が日本の藁葺き屋根に植えてあるのを見て命名したそうで、 tectorum というのはラテン語で「屋根の」という意味。英語では Roof iris と言うそうです』。『イチハツが植えられたのは乾燥に強く、根がしっかり張ることで藁を押さえ、強風で家の棟が取られないようにする為とのことですが、目にも美しく何とも風情があります』とあり、牧野富太郎「随筆 植物一日一題」(東洋書館昭和二八(一九五三)年刊)から以下の一節も引用されておられる。『昔の東海道筋にあたる武蔵程ヶ谷(保土ヶ谷)の藁葺の家には、その家根の棟にイチハツが栽えてあって、花時にはその花があわれにも咲いてなお昔の面影をとどめている。もしも時の進みでこの藁葺の家がなくなれば、この風景が見られなく、きのうはきょうの物語りになるのであろう』。私も三十五年前に最後に鎌倉の光触寺前の藁葺の古民家の棟上に見た青々としたイチハツを思い出す。齋藤氏の記事のずっと下を見られたい。「川崎市の日本民家園で撮影されたもの」というキャプションの写真が辛うじて見られる。

「三フィート」九十センチメートル強。

「屋根を葺くのに、濃色の藁と淡色の藁とを交互に使用する」藁を葺く工程では基本は三層構造である。monmo 氏のブログ「茅葺き(かやぶき) 屋根」に図入りで解説が載る。ただ、確かに私も古式の神社の手の込んだ藁葺で、モースの描くような何層にもかなり詰って堅くなったそれが濃淡を繰り返しているのを何度も見たことがある。]

 

 昨年私は日誌に、百姓が屋根梁の末端に彼の一字記号をきざみ、それを黒く塗ることを記録した。これはこの優雅に書かれた漢字を見て、自然に推定したことであった。我々が旅行しつつある地方で、同じ字が見られる。矢田部教授は、これが水を意味する支那語であると語った。彼はこの文字が、火事を遠ざけるという、迷信があるのだろうと考えた。これは或は莫迦気(ばかげ)ているかも知れぬが、理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。

[やぶちゃん注:「日誌」は本書ではなく、まさにモースの私的な日記を指す。私の記憶ではこれ以前にここに書かれているような記載はない。

「支那語」底本では直下に石川氏の『〔漢字〕』という割注がある。「水を意味する」について水の象形文字はこの画像を参照されたい(中文サイトから)。本邦では屋敷や土蔵の梁の端の部分や瓦の軒先部分・壁面の装飾(妻飾り・丑鼻などと呼ぶ)に火除けの呪(まじな)いとして、「水」や「龍」の字を書いたり、家紋や吉祥文様などが鏝絵などで描かれたりした。この火除けの呪いについての「水」の民俗学的論文としては江川隆進・池田俊彦共著「住まいと水の縁」(PDFファイル)が詳しい。

「理解のある人が、ある種のことをいった後で木材を叩いたり、戸の上に蹄鉄を打ちつけたりすることだって、同様に莫迦げている。」原文は“but no more ridiculous than to see an intelligent man rap wood after some statement or to nail a horseshoe over the door.”。これは欧米の呪(まじな)いと思われる。前者はよく分からないので識者の御教授を乞いたいが、後者はウィキの「蹄鉄」に、「魔除けとしての蹄鉄」の項があり、以下のように解説されてある。『扉に蹄鉄をぶら下げると魔除けになると信じられている文化圏があり、多くの国では幸運のお守りとも見なされている。一般的な迷信として蹄鉄の鉄尾(末端部分)が扉に留められていれば、幸運が舞い込むというものがある。しかし、両端が下に向いていると不運が舞い込むともいう。このあたりは文化圏によって異なり、2つの鉄尾が下を向いていれば幸運が舞い込むというものもある。むろん、蹄鉄が普及しなかった国ではこういった風習は見られない。ただし、日本でも自動車のフロントグリルに蹄鉄を模したアクセサリーを付けることが流行った時期がある。さらにそれは、馬は人間を踏まないということから、交通安全のお守りとして蹄鉄を自動車に付けたという説がある』。『蹄鉄による幸運も悪運も、それを掛けた人ではなく、その所有者に降りかかると信じられている地域もある。従って盗んだり、借りたりした蹄鉄からはどんな幸運も得ることは出来ないといわれている。ある地域では蹄鉄は人目に付くように留められておかないと何の効果もないといわれている』。『このような風習の起源は諸説ある。ケルト人がダーナ神族を鉄器と騎馬で打ち倒した事から、邪鬼などの異界の住人は鉄を嫌うという伝承が起こり、本来の民話や伝説が持つ意味は忘れ去られ、ただ幸運をもたらすという風習だけが残ったという説。後にカンタベリー大司教となった鍛冶屋の聖ダンステンが 悪魔から馬の蹄鉄を修理するよう頼まれた際、悪魔の足に蹄鉄を打ち付け、痛がる悪魔に、扉に蹄鉄が留められているときは絶対中に入らないという約束を取り付けようやく蹄鉄を取り外してやったことから悪魔除けとされた説。女性器の象徴を家の外壁に飾ることで悪魔の目をそらせ家への侵入を防ぐという風習が古くからあり、馬蹄が女性器を象徴したためこの悪魔除けの力が幸運のシンボルとなったという説。蹄鉄に打つ鋲の数が7(ラッキーセブン)だったためという説などがある』とある。いや、実に面白い。]

 

 馬に安慰を与える為の注意には、絶えず気がつく。我々も真似をしてよい簡単な仕掛は、馬の腹の下に広い布をさげることである。この布はしょっ中パタパタと上下して、最も届き難い身体の部分から、蠅を追い払う。

[やぶちゃん注:これは「障泥・泥障」と書いて「あおり」と読む本邦の馬具の付属具。鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)、即ち、鞍左右両側に結び垂らして、馬の腹の両脇を保護すると同時に、騎者を蹴上げた際の泥跳ねや馬の汗から防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい大和鞍や水干鞍に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例とするが、武官は方形として、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。モースが言う実用性とはちょっと主旨が異なる。]

M431

図―431

 

 我々が通りがけに見た漆の樹の幹には、面白く切口がついていた(図431)。人々はここから液を搔いて集めるのであるが、まるで態々(わざわざ)入墨で飾ったように見える。

[やぶちゃん注:長野県塩尻市木曽平沢「まる又漆器店」公式サイト内の漆の採集や「漆を科学する会事務局」の「うるしとうるしのうつわホームページ」のうるしの採取などを参照されたい。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 48 酒田 暑き日を海にいれたり最上川

本日二〇一四年七月三十日(陰暦では二〇一四年七月四日)

   元禄二年六月十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月三十日

である。この前日の十三日、芭蕉は鶴岡から赤川を行く川舟で発ち、酒田に着いた。翌日の十四日、酒田湊の豪商御城米浦役人(東西廻船の要所に配された城米輸送船の荷の積み替えや監視・管理を掌っていた幕府の米置場役人。ここ酒田湊は西廻廻船の要衝として幕命を受けた豪商河村瑞賢が設置した)寺島彦助安種(やすたね:号は詮道。)邸に招かれて、七吟連句(恐らくは歌仙)興行が行われた。

 

暑き日を海にいれたり最上川

 

  安種亭より袖の浦を見渡して

涼しさや海に入(いれ)たる最上川

 

涼しさを海に入たりもがみ川

 

暑き日を海に入ㇾたる最上川

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「継尾集」(つぎおしゅう・不玉編・元禄五年刊)で「曾良俳諧書留」も同句形で、そこでは、

 

  六月十五日、寺島彦助亭にて

涼しさや海に入れたる最上川    芭蕉

  寺島

  月を搖りなす浪のうき見る   詮道

 

と亭主が脇を付けている。日附が十五日となっているが、同じ曾良の「随行日記」の、

 

〇十四日 寺島彦助亭ヘ 被ㇾ招。俳有。夜ニ入歸ル。暑甚シ。

 

によって十四日の誤りと推定される。これによってこの「涼しさや」が初案と分かるが、これは既に決定稿とは印象が全く異なり、別稿・改案というより全くの別句としたくなるものである。所謂、芭蕉にしばしば見られる、有意に乖離した二様の創作時心情の併存という稀有の心的状態である(私は実はここにこそ芭蕉に対する深い魅力を感じている)。なお、この七吟連句は「曾良俳諧書留」には七句を並べただけで『末略ス』とあり、満尾したものが残されていない。

 第三句は「奥の細道菅菰抄(すがごもしょう)附録」=「奥細道附録菅菰後考」(梨一著・文政一二(一八二九)年少波写本)の、第四句目は「奥の細道曾良本」の初稿である。

 

 さて、頴原・尾形氏訳注の角川文庫「おくのほそ道」の発句評釈では、この日を「暑き夏の一日」とし、「暑き日」を直ちに水平線に沈む「太陽」を指すという解釈は、『芭蕉当時の句としては、そうした見かたや考え方はふさわしくない』とし、夕陽の海に沈む実景を知ることによって鑑賞を確かなものにするのは『少しもさしつかえない』、『しかし、「暑き日」の』(底本では傍点)『は、やっぱり直接太陽をさしたものではない』と、異常なまでに【「日」≠「陽」説】を否定する。

 ところが山本健吉氏の講談社学術文庫「芭蕉全句」では、逆に「日」を即物的な『沖に今しがた沈もうとする赤い大きな夕陽の景観と、最上川の押し流す力との間に、一つの対応を作り上げている。最上川が夕陽を水平線の彼方に押し入れようとしているものとして、表現している。「暑き日」を「暑き太陽」と取らず、「暑き一日」と取る解釈もあるが、句の味わいが落ちる。太陽と大河と、あたかも自然のエネルギーとエネルギーのが相搏(う)ような壮観であり、大景によって得た感動の句である』、と全く真逆の【「日」=「陽」限定説】を宣明する評釈が載る。

 個人的には、前者のような観念上の「暑き一日」を象徴する海に没する夕陽の実景として私は印象してきた。

 そもそも前者には、当時の詩人の観念には即物的な夕陽の物理的直截詠や包括的象徴的手法はなかったという肝心のその証左が挙げられておらず、何より、「暑き一日」鑑賞の一助とするに『少しもさしつかえない』がしかしその印象は全くの誤りであるということを知れ、というこの意味不明の、国文学者の人を食った非論理的な謂いが、すこぶる附きで不快である。

 かといって後者の山本氏のように、ジリジリと焼けつくような往年の日活映画みたような「太陽」でなくてはだめ! 「太陽」が「青春」そのものを短絡的にドラマライズする如きシャウト一点張りの主張も、ちょとついて行けない。

 加藤楸邨は「芭蕉の山河」でこの議論の多い問題に触れるが、『それにこだわらない方がよいであろう。自分の相伴ってきたこの最上川の流れを、今海に入れて涼しさが萌してきた。甚だしいこの暑き日』(楸邨氏の謂いなら「(陽)」と追記したくなる)『も海に入れてしまって、今眼前には最上川だけが涼しく海に流れこんでいるという気持ち』を詠んだものであり、『芭蕉の発想は横から眺めるというのでなく、対象とする物の中に入り立って、そこから機微の真実を把握してくるゆき方』をとる。この句の場合も『単なる眼前の景と限定するのでなく、最上川そのももの中に入り立ってゆくことを大切にしてみたいと思うのである』と美事、中庸の【「日」∨「陽」説】で記される。如何にも元国語教師然とした心地よい解説ではある(私も似たようなもってまわった言い方をしばしば教師時代にしたことを思い出すのである)。両説をいなすのではなく、体をくいっと捻ってかわした上に、分かったような分からないような禅語染みたオチをつけるである。両者の包括的相互象徴的共時認識と言わないところがミソである。それともやっぱり芭蕉の時代にこうした複合的比喩象徴やアウフヘーベンに似た観念はタブーだとでもいうのであろうか?

 安東節ではどうなるか、やっぱり最後はそこを楽しみにしていたのであるが、これが思ったより案外にしょぼいのである。安東次男は曾良の「随行日記」を披見してみたら当日の最後に『暑甚シ』とあるので、芭蕉が「涼しさや」から改稿した思い付きが分かった、と言うのみである。即ち、『甚暑にかさねて「暑き日」を持出したらかえって涼意をつよめるだろう、というところに滑稽の』それがある、と評するだけなのである。

 敢えて私の立ち位置に近いものを選ぶとすれば、凡そ教師時代の私とは対極乍ら、やはり根性ドラマ風の熱血系山本健吉先生のそれを最終的には支持する。インキ臭い輩は惟然坊風に、

 日を海にじゆつと入れたり最上川

とでもやらかさない限り、梗塞した頭脳には十七音が響かぬものらしい。これは冗談ではない。私はその音が確かに聴こえると本気で言っているのである。それは本段の直前にその音が聴こえるように芭蕉がちゃんおセットしていると考えているからである。前段、標高の高い羽黒山から月山・湯殿山は、登攀の大苦行はあったものの、「雪をかほらす」地であり、「ふり積む雪の下に埋もれて遲ざくら」が「かほる」地であり、「涼しさ」と「月の山」「ぬらす袂」の山行であった。「炎天(の梅花)」などは比喩の彼方へ去って涼風に冷感さえ添えている。しかしここで考えてみると、何故に芭蕉は、

 谷の傍らに鍛冶小屋と云ふ有り。此の國の鍛冶、靈水を撰みて、爰に潔齋して劔を打つ。終ひに月山と銘を切りて世に賞せらるる。彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや。

という考証をわざわざ挟み込んだのか? それはこの三山詣前から始まって体感し始めていた下界の「甚暑シ」(『曾良随行日記』にしばしば出る)という自然を捕らまえているからに他ならない。そうしてその直後、饒舌さを反転させて、「羽黒を立」ち「川舟に乘」って「酒田の湊に下る」までの急ぎに急いで削ぎに削いだ(これは「五月雨を」の句のような最上川の速さではなく、私はその川風の向こうにある、実は炎熱をこそ暗示させるものだと思っている)の文の後にあるのは「あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ」の炎暑の昼間を表象する句であり、その次に本句「暑き日を海に入れたり最上川」が現われれば、それはまさに直前で鍛えに鍛え抜いた真っ赤になった「日」=「陽」の「劔」を最上川が「龍泉」たる海(「龍」と「海」とこれほどぴったり合致する語彙があろうか)にぐいっ! と差し入れて「淬(にら)ぐ」と読まない方が、私は鈍感だと断ずるものである。

 ともかくも私は――本句が大好き、なのである。

 以下、「奥の細道」の鶴岡・酒田の段を示すが、そこに出る「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」という句は、この後、象潟へ行って再び酒田へ戻ってから創られた句で、時系列上の操作が加えられている。従って象潟の句の後に再掲して評する。

   *

羽黑を立て鶴か岡の城下長山氏

重行と云ものゝふの家にむかへられて

俳諧一卷有左吉も共に送りぬ

川舟に乘て酒田のみなとに下ル

渕庵不玉と云醫師の許を宿とす

  あつみ山や吹浦かけて夕すゝみ

  暑き日を海に入ㇾたる最上川

   *

■やぶちゃんの呟き

 

「渕庵不玉」「えんあんふぎよく(えんあんふぎょく)」と読む。伊東玄順(慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九二)年)。淵庵が医号で不玉は俳号。既出の大淀三千風が天和三(一六八三)年が酒田を訪れた際にその脇を付けている。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入った。現在の酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていない(以上はムーミンパパのサイト「旅のあれこれ」内の『奥の細道』ゆかりの俳人 伊東不玉を参照させて頂いた。不玉の脇句なども読める)。「醫師」は「くすし」。]

2014/07/29

北條九代記 卷第六 優曇花の說 付 下部女房三子を生む

 

      ○優曇花の說  下部女房三子を生む

 

同七月に、鎌倉藥師堂の谷(やつ)の邊(ほとり)に、淨密法師とて、獨り住みける僧あり。庵の前に、優曇花(うどんげ)の咲きたりとて、遠近に風聞す、鎌倉中は申すに及ばず、近國の在々所々聞流(ききつた)へ聞流へ、貴賤男女群集して是を見ること夥し。二位禪尼この由を聞き給ひ、「優曇花とやらんは、世に希なる事に喩へて侍るよし、この比如何なる謂(いはれ)に依て、咲くべしとも思はれず」とて、近弘(こんぐ)上人を召して、優曇花の事を尋ねらる。上人、申されけるは、「抑(そもそも)優曇花と申すは、この世界の人の壽(いのち)、八萬歲の時に當りて轉輪聖王(てんりんしゃうわう)とて、須彌(しゆみ)の四洲を領じ給ふ威德不思議の大王、世に出給ふ。一千人の皇子(わうじ)を持ち給ひ、七寶を身に帶し、不足なる事一つもなし。國、豐に、民、賑ひ、風、枝を鳴(なら)さず、雨、塊(つちくれ)を破らず、五穀は耕作せざるに、自(おのづから)地より生じて、糠糟なし。衣裳は樹(うゑき)の枝に現れて、裁縫(たちぬふ)といこともなし。輪王、卽ち車に召されて、須彌の四洲を𢌞り給ふに、大海の渚、黃金の沙(いさご)の上に、三千年催して、優曇花の開(ひらき)出でて、盛(さかり)はいとゞ久しからず。干潮(ひしほ)に咲きて、滿潮(みつしほ)に散り候。かゝる子細は、此比(このごろ)の生學匠(なまがくしやう)は知る事にても候はず、然るに、只今、乞丐(こつがい)法師が庵の前なんどに咲くべき花にては候はず。只賣僧(まいす)の結構なり」と、傍若無人にいひ散らされたり。二位禪尼は「誠にかゝる子細は始て聞き候。さて其優曇華は如何なる花の形(なり)にて候らん。木にて候か、草にて候か」と問(とは)れしに、上人、屹(きつ)となりて「其までは覺ず候」とて御前を立て歸られけり。當座にありける人々、さて麁末(そまつ)なる學者かなと笑(わらひ)合ひ給ひけり。二位禪尼は遠藤左近將監を召(めさ)れ、「善く見屆(みとどけ)て參れ」とて遣さる。歸(かへり)參りて申しけるは、「さしもなき事にて候、芭蕉の花の咲きたるにて、今は大方、散果(ちりはて)たり」とぞ言上しける。「昔より今に至る迄芭蕉の花は咲く事、希(まれ)なれば、世の人、是を優曇華の花と云習(いひならは)す。貴賤群集して見に來るも理(ことわり)なり」とて、何の御沙汰もなかりけり。同九月五日、大倉谷(おほくらがやつ)の橫町(よこまち)に、ある下部(しもべ)の女房一度に三子を產みたり。兩子(ふたご)は世にあれども、三子(し)まで生む事は希有の例(ためし)なり。然れ共、先規(せんき)あればにや、三子を產めるには、官倉(くわんさう)の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり。其期(ご)九十日なりと、有職(いうそく)の人、申すに依て、二位禪尼より雜色(ざふしき)三人を彼(か)の家に付けて、養育すべき由、仰含(おほせふく)められ、子母(しぼ)の衣食を賜りける所に、三子ながら夭殤(えうしやう)すとぞ聞えし。是も鎌倉の珍事なりと人々、申し合はれけり。

[やぶちゃん注:優曇華の花の話は「吾妻鏡」巻二十六の貞応二(一二二三)年七月九日の条、三つ子誕生の話は同巻同二年九月五日・六日の記事に基づくが、特に前者は元は優曇華の花が咲いたと騒いでいるので、遠藤為俊に見に行かせたところ、芭蕉の花であったという単なる事実記載のみであるのに対して、こちらは遙かにシチュエーションを膨らましてあり、話柄として楽しめるように創られてある。因みに、政子による三つ子の養育は五日に即刻命ぜられたが、翌六日には三人とも亡くなったと「吾妻鏡」にはある(後掲)。

「優曇花」仏教経典で三千年に一度花が咲くという伝説上の花で、本文で近弘上人が述べる如く、その際に金輪王(転輪王の一人で金の宝輪を感得して須弥山の四州を統治する王。金輪聖王)が現世に顕現するという。本文では「八萬年」と異なる。

「藥師堂の谷」大倉薬師堂(現在の覚園寺)のある谷戸。

「近弘上人」不詳。鎌倉時代史をいろいろ学んできたが、聴いたことがない。筆者が仮想した、それこそ自身が「生學匠」でしかなかったピエロ的人物と思われる。

「糠糟なし」米糠や酒粕を貪るような貧窮の生活に喘ぐことがなくなる。

「乞丐法師」乞食坊主。「丐」も物乞いするの意。

「生學匠」有名無実の浅学の僧侶。

「芭蕉の花」は優曇華の花に擬せられ、そう呼ばれることがあった。

「三子を產めるには、官倉の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり」律令の令に記されてある。 

 

 以下、「吾妻鏡」の貞應二(一二二三) 年七月九日の記事。

○原文

九日庚戌。藥師堂谷邊有獨住僧。號淨密。於件坊前庭。優曇花開敷之由風聞。鎌倉中男女爲觀之成群。自二品遣遠藤左近將監爲俊。被見之處。芭蕉花歟之由申之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

九日庚戌。藥師堂が谷(やつ)の邊りに獨住せる僧有り。淨密と號す。件(くだん)の坊の前庭に於いて、優曇花開敷(かいふ)するの由、風聞す。鎌倉中の男女、之を觀んが爲に群を成す。二品より遠藤左近將監爲俊を遣はして、見らるるの處、芭蕉の花か、の由、之を申すと云々。 

 

 次に同九月五日及び六日の条。

○原文

五日甲辰。天晴。橫町邊下女生三子云々。女人生三子。自官庫賜衣食。養育。是被載國史之由。有識申之。仍二品差國雜色三人。各可養育之旨被仰含。其上。母衣食同可被下行云々。」午刻。和賀江邊有火。」今日可被行御祈禱之由。於奥州御方。內々有其沙汰。藤內所兼佐爲奉行。是近日連夜天變出現之故也。

六日乙巳。下女所生三子皆殤死。

○やぶちゃんの書き下し文

五日甲辰。天、晴る。橫町の邊りの下女、三子を生むと云々。

女人、三子を生めば、官庫より衣食を賜はりて、養育す。是れ、國史に載せらるるの由、有識(いうそく)、之を申す。仍つて二品、國の雜色(ざうしき)三人を差し、各々養育すべきの旨、仰せ含めらる。其の上、母の衣食、同じく下行(げぎやう)せらるべしと云々。」

午の刻。和賀江邊に火有り。」

今日、御祈禱を行らるべきの由、奥州の御方に於いて、內々に其の沙汰有り。藤內所兼佐(とうないところのかねすけ)、奉行たり。是れ、近日、連夜、天變出現するが故なり。

六日乙巳。下女生む所の三子、皆、殤死(しようし)す。

・「奥州の御方」北条義時。

・「藤內所」本来は藤原氏から任ぜられた内舎人(うどねり:供奉雑使・駕行時の護衛と天皇の身辺警護を担当)を藤内と呼称するが、これはその中務省に属する内舎人「所」の単なる勤務経験者を指していよう。

・「殤死」「殤」は若死にの意で、二十未満で死ぬ場合をいう。]

耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事

 入定の僧を掘出せし事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組千人同心某(なにがし)が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚(おどろき)て内へ人を入れ見しに、巾(はば)六七尺其餘(そのよ)も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘(ふしよう)一つありて、一人の僧形、其邊(そのあたり)に結迦扶座の體(てい)なり。いかなる者よと、大勢松明(たいまつ)など入(いれ)て立寄(たちより)見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋(うづみ)て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:情報屋是雲二連発。この僧、八王子所縁の僧らしいが、どうも、私には信用におけぬ。なお、本話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では巻之十に所収するが、標題も「入定の僧」で、以下の叙述も有意に異なるため、ここに全文を正字化して示しおくこととする(読みは歴史的仮名遣に直し、一部を省略・追加した)。

   *

    入定の僧の事

 

 寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘(ほり)ける處、八疊敷(じき)程廣く穴室(けつしつ)有り。其内に人坐(すはり)候樣成(やうなる)形見えし故立寄見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰の如し。其脇に鉦(かね)一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。

   *

「委く」は、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。

 こうした入定僧奇譚・怪談の類は私の得意とする分野で、既に、

章花堂「金玉ねじぶくさ 讃州雨鐘の事 附やぶちゃん訳注」

三坂春編(はるよし)「老媼茶話 入定の執念 附やぶちゃん訳注」

小幡宗左衞門定より出てふたゝび世に交はりし事 附やぶちゃん訳注」

上田秋成春雨物語 二世の縁 附やぶちゃん訳注

といった「耳嚢」の前後にある類話について電子化とオリジナル訳注を試みている。未読の方は、是非、お読みあれかし。この「耳嚢」よりもそれらは遙かに面白いことを請け合うものである。

・「八王子千人頭」八王子千人同心の総統括者。八王子千人同心は江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団で、その任務は武蔵・甲斐国境である甲州口の警備と治安維持にあった。以下、参照したウィキの「八王子千人同心」によれば、徳川家康の江戸入府に伴い、慶長五(一六〇〇)年に発足し、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などによって組織されたものであった。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためであったが、甲斐が天領に編入、太平が続いて国境警備としての役割が薄れ、承応元・慶安五(一六五二)年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となっていた。江戸中期以降は文武に励むものが多く、優秀な経済官僚や昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々(私の電子テクスト「鎌倉攬勝考」の作者植田孟縉もその一人)、天然理心流の剣士などを輩出した。千人同心の配置された多摩郡は特に徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされ、それが幕末に、千人同心の中から新撰組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。十組・各百名で編成、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭(本話の主人公の役職)によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は二〇〇~五〇〇石取の旗本として、組頭は御家人として遇された。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられており、現在の八王子市千人町には千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。なお、寛政一二(一八〇〇)年に集団(一部が?)で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った、とある。

・「萩原賴母組千人同心某」前に見る通り、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では名が示されてある。但し、この場合は八王子千人同心である萩原賴母の組の統括者である組頭とあって、ひらの同心ではない。名前の明記、入定僧の周囲の様子が本底本よりリアルであること(特に鉦の年号や祟りを恐れてなどとわざわざ書き入れてある)から、本底本をもとに更に後人(恐らくは色気のある筆写した人物辺りが)が都市伝説として補強するために書き直した疑いが濃厚であると私は思う。

・「寛政十一年」西暦一七九九年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、九年前で比較的新しい都市伝説である。

・「巾六七尺其餘」一・八二~二・一二メートル余り。

・「鳧鐘」鉦鼓。叩き鉦(かね)。

・「結迦扶座」ママ。結跏趺坐。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 入定の僧を掘り出だいた事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)殿の組の、千人同心の一人で御座った某(ぼう)が、自家の墓所の地所が突然、陥没致いたによって、従者にそこを覗いて見させたところが、よほど大きなる穴が続いておることが判明致いたによって、驚き、ともかくもと、その穴の内へと人を入れさせてみたところが、幅六、七尺余りも、これ、正しく四角に掘りたる場所がその奥に御座ったれば、さらに燈を点して探らせたところ、叩き鉦が一つあり、一人の僧形を成した人の形と思しい「もの」が、その辺りに結跏趺坐の体(てい)にて、おるように見えたと申す。

 さればそれを聴いたる某、

「……そは、如何なる者ならん!……とくと検分致そうぞ!」

と、大勢にて松明なんどまで用意させて入り、その怪しい「もの」の近くまで寄って見たところが、

――突如!

――その形、粉々に砕け

――ただ、先の伏せ鉦ばかり残ったと申す。……

……されば、某、僧を請じ、その伏せ鉦も、その僧の座って御座った場所に埋め、跡を弔ろうて御座った、と。

 これ、当時、某の上司で御座った萩原殿の親族が、前話に出でたる僧是雲に直かに語った、ということで御座る。

耳囊 卷之八 桑の都西行歌の事

 

 桑の都西行歌の事 

 

 八王子を、桑の都と土俗申(まうし)習はしけるは、玉川を越してあざ川と云ふ小さき川ある邊なる由。絕景の土地なり。富士をもよく見る所なり。西行の歌なりとて、故老の申傳へしは、

 字(あざ)川をわたれば富士の雪白く桑の都に靑嵐たつ

いかにも氣性ある歌なれど、いづれの集にも見へずと、是雲といへる法師の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。西行伝承譚。和歌嫌いの私には退屈である。ウィキの「八王子市」に、『後北条氏および徳川氏から軍事拠点として位置づけられ、戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町(八王子宿)として栄えた。明治時代には南多摩郡の郡役所所在地となり、多摩地域内で最も早く市制施行した。かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑の都」及び「桑都(そうと)」という美称があり』、『西行の歌と伝えられてきた「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」という歌もある』とある。

・「あざ川」「字川」浅川。現在の東京都八王子市、及び、日野市を流れる多摩川の支流の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「是雲」耳囊 卷之八 雀軍の事の法螺話に出る。比較的新しい根岸の情報屋である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桑の都西行の歌の事

 

 八王子を「桑の都」と土俗が言い習わすのは、多摩川を越して「あざ川」(浅川)という小さなる川がある辺りを狭義には指す由。

 絶景の土地で、富士をもよく見える所である。

 西行の歌であるとして、故老の申し伝えている和歌には、

 

 字(あざ)川をわたれば富士の雪白く桑の都に青嵐たつ 

 

とある。

「……まあ、いかにも西行らしい和歌では御座るが、孰れの集にもこれ、見えませぬ。」

と、是雲と申す知れる法師が語って御座った。

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 夏

〈昭和十二年・夏〉

 

楡がくり初夏の厨房朝燒けす

 

アカシヤに衷甸(ばしや)驅る初夏の港路

 

はしり出て藻を刈る雨に鳴く鵜かな

 

虹に啼きき雲にうつろひ夏雲雀

 

槻の南風飛燕の十字かたむけり

 

[やぶちゃん注:「槻」欅(けやき)。上句は「つきのはえ」と訓じていよう。この句、個人的に好きである。]

 

朝日夙く麓家の桐花闌けぬ

 

[やぶちゃん注:「あさひとく/ふもとやのきり/はなたけぬ」と訓ずるか。]

 

はつ蟬に忌中の泉汲みにけり

 

褸(る)のごとく女人のこゑや蚊ふすべす

 

軍雞乳(つる)み蕗の絮とびて夕映えぬ

 

[やぶちゃん注:「軍雞」は「しやも(しゃも)」、「絮」は「じよ(じょ)」でフキの花の綿毛様の種子のこと。]

 

ほとびては山草を這ふ梅雨の雲

 

梅雨風に楡がくれゆく戎克かな

 

[やぶちゃん注:「戎克」じゃ「ジヤンク(ジャンク)」“junk”(元来はジャワ語で船の意)。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つ。この光景は一体どこでの嘱目吟であろうか? それとも想像吟か?]

 

   反古燒却、ひそかに生靈もろもろの供養をとて 二句

 

茂山に反古の煙たつ供養かな

 

奥嶺より郭公啼きて反古供養

 

[やぶちゃん注:前書「もろもろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月Ⅱ 仏足に一本の曼珠沙華を横たふ

  唐招提寺金堂に首なき美しい仏像あり

 

仏足に一本の曼珠沙華を横たふ

 

[やぶちゃん注:「首なき美しい仏像」「如来形立像」(にょらいぎょうりゅうぞう)と呼ばれるもの。頭部及び両手・両足首が破損している。実際には元の尊名も分からず、如来に同定する物証があるわけではないが、装飾品をつけていない点から如来と推定されてかく呼称されている。「唐招提寺のトルソー」という異称の方でよく知られる。木心乾漆で漆箔(うるしはく)、像高百五十四センチメートルでほぼ等身大の榧(かや)材製一木造。全体に均整がよくとれており、理想的肉体の表現という点では奈良様式であるが(唐招提寺公式サイトでは奈良時代八世紀とする)、衣文の表現法や大腿部の強調などは平安前期の特徴とされる。参照した『朝日新聞デジタル』「探訪 古き仏たち」の二〇一三年十二月二十一日附沖真治氏の記事によれば、『脚の長い、腰高のスマートな体形だが、大腿(だいたい)部は盛り上がって、がっしりしている。胴体部は、豊満な胸、衣を通して表される膨らんだ腹、引き締まった腰が抑揚に富む。衣のひだ(衣文(えもん))が整然とした波形の曲線を描く。翻波(ほんぱ)式衣文と呼ばれる様式で、腹部、そで、大腿部に浅く、鋭く、洗練された彫り口で刻まれ、リズム感をつくっている』とある。重要文化財。グーグル画像検索「如来形立像も参照されたい(二〇一四年七月二十九日現在では最上部一列は一つを除いて当該仏像である)。]

杉田久女句集 261 花衣 ⅩⅩⅨ 八幡製鐵所起業祭 三句 

  八幡製鐵所起業祭 三句

 

かき時雨れ鎔炉は聳(た)てり嶺近く

 

群衆も鎔炉の旗もかき時雨れ

 

おでん賣る夫人の天幕訪ひ寄れる

 

[やぶちゃん注:「炉」は勘案の末、ママとした。「八幡製鐵所起業祭」福岡県北九州市八幡東区で行われる祭り。毎年十一月三日付近の三日間で開催される。正式名称は「まつり起業祭八幡」。もとは官営八幡製鐵所(現在の新日鐵住金八幡製鐵所)の創業を記念した祭りで、明治三四(一九〇一)年十一月に「作業開始式」が行われたのを始まりとする。当初は八幡製鐵所主催の企業の祭りで、八幡製鐵所が操業を開始した十一月十八日から三日間に亙って行われていた。当時の十一月は寒く、たびたび霙や霰が降ったという(昭和六〇(一九八五)年より、「まつり起業祭八幡実行委員会」主催になる市民祭となり開催日時も現在の十一月三日前後に移動、現在では八幡の秋の風物詩として定着している。会場は八幡製鐵所の企業城下町として発展してきた八幡東区中央、八幡製鐵所の福利厚生施設が立ち並ぶ大谷、そして八幡製鐵所発祥の地である東田と広範囲に及び、製鐵所の一般公開も行われている。以上はウィキ起業祭に拠った)。]

でんしやごつこ   山之口貘

 でんしやごつこ

 

 ぼうやが おおきな

 こゑを はりあげる

やまたかせんが

まいりまあす

やまてせんだよ

 と おしえたら

 みむきも しないで

 こゑを はりあげる

やまたかせんの

はっしやですう

 

[やぶちゃん注:初「ごつこ」はママ。出未詳(発表されている可能性は有り)。昭和三二(一九五七)年頃の創作と推定される。根拠は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題を参照されたい。

 因みに亡き母によれば、私は二歳頃、裏山から見える東海道線の「こだま」を見ては「こまだ」「こまだ」と叫び、好きな「葡萄」は「どぶう」「どぶう」と読んでいたそうだ。]

桜並木   山之口貘

 桜並木

 

むかしからあまりに

有名な花だ

ぼくといえどもその花が

桜の花だとは知つているのだが

バラ科の木だとは

ついぞ知らなかつたのだ

いいかいよくおぼえておきな

かれはそう言いながら

桜並木の花を仰いだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年四月号『中学生の友 3年』。

 桜は被子植物門双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属 subg. Cerasus のサクラ節 sect. Cargentiella・ミザクラ節 sect. Cerasus・ミヤマザクラ節 sect. Phyllomahaleb・ロボペタルム節 sect. Lobopetalum に属する落葉広葉樹の総称である。参照したウィキの「サクラ」によれば、『園芸品種が多く、花弁の数や色、花のつけかたなどを改良しようと』『多くの園芸品種が作られた。日本では固有種・交配種を含め600種以上の品種が確認されて』おり、『とくに江戸末期に出現したソメイヨシノ(染井吉野)』(subg. Cerasus 若しくはサクラ属 Cerasus 品種ソメイヨシノ Cerasus × yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil. ‘Somei-yoshino’)『は、明治以降、日本全国各地に広まり、サクラの中で最も多く植えられた品種となった』。『サクラ属 Prunus は約400種からなるが、主に果実の特徴から5から7の亜属に分類される。サクラ亜属 subg. Cerasus はその1つである。これらの亜属を属とする説もあり、その場合、サクラ亜属はサクラ属 Cerasus となる』。『サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる』(但し、最後の部分には要出典要請がかけられてある)とある。因みに、よく授業で言ったが、世界中のソメイヨシノは総てがたった一本の木の同一体、クローンである。種子で増殖させても親の形質を必ずしも継承しないため、総ては挿し木か接ぎ木で増やすからである。造り出した人間の手が入らないと生存出来ない品種であるところも如何にもクローンらしいとは言えるのである。「クローンは桜に限る」――]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 5 二戸辺り

 

 山地から我々は長い平地で、いくらかアイオワ州の起伏した草原に似た場所へ出た。世界地図で見ると、日本は非常に小さいが、而もこの草原を越すには、まる一日かかった。村はすくなく、離れ離れに立っていた。我々が通過した部落は、それぞれ特徴を持っていて、ある物は貧弱で、見すぼらしく、他のものは非常にきちんとしていて、裕福らしかった。我々はまた一つの山脈に近づいたが、そこの村の人々は、急な渓流が主要道路の中央を流れるようにしていた。町は奇麗に掃いてあり、所々に美しい花のかたまりや、変った形をした矮生樹が川に臨み、ここかしこには、鄙(ひな)びた可愛らしい歩橋が架けてあった。平原には高さ十フィートの、電信柱みたいな棒が立っていたが、針金がなく、そして電信柱にしてはすこし間がひらきすぎていた。聞いてみると、これ等は冬、旅人が道路に添うて行くことが出来る為に建てたので、冬には路のしるしがすべて、深い雪の下に埋って了うのである。これは米国でも、場所によって真似してよい思いつきである。最近あった暴風雨が、大部ひどい害をしている。あちらこちらで橋が押流され、地辷りで街道が埋っていた。我々もいくつかの地辷りの鼻を、避けて廻った。ある所では、一部分崩壊した家が、小さな流れと見えるものの真中に建っていた。前にはこれが、烈しい激流だったのである。

[やぶちゃん注:これは現在の金田一温泉辺りまで下った印象であろう。

「アイオワ州」同州高地地域はプレーリーとサバンナであるが、前者の様態との類似を指すか。

「一つの山脈」進行方向左手に現われた北上高地のことかと思われる。

「急な渓流」馬淵川。二戸(福岡)附近では町を貫流し、この西岸を奥州街道(現在の国道四号線)が並走する。

「十フィート」約三メートル強。

「電信柱みたいな棒」現在は視線誘導標(デリネーター。デリニエーター。英語の区切り文字の意の“delimiter”(デリミター)に基づくか)の一種(若しくは兼用)、特に北方の積雪地域ではスノー・ポールと呼ぶ。積雪時の路肩の誘導標。当時からあったそれを何と呼んだのか、識者の御教授を乞うものである。] 

 

 朝から夜遅く迄旅行していて疲れたので、あまり沢山写生をすることが出来なかった。福岡という村は広い主要街の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあって、極めて美しかったことを覚えている。この地方の人々は、目が淡褐色で、南方の人々よりもいい顔をしている。子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。路に沿うて、多くの場所では、美味な冷水が岩から湧(あふ)れ出し、馬や牛の慰楽のためにその水を受ける、さっぱりした、小さな石槽(いしぶね)が置いてある。この地方に外国人が珍しいことは、我々と行き違う馬が、側切れしたり、蹴ったりすることによって、それと知られる。古い習慣が、いまだに継続しているものも多い。一例として、我々と出合う人は如何なる場合にも馬に乗った儘で行き過ぎはせず、必ず下馬して、我々が行き過る迄待つのである。最初これに気がついた時、私は馬が恐れるので、騎手は馬を押えているために下馬するのだろうと思ったが、後から、低い階級の人々は決して馬に乗った儘で、より高い階級の人とすれちがわないという、古い習慣があることを聞いた。何人かの人が、路の向うから姿を現すと共に、早速高い荷鞍から下り、そして私が遠か遠くへ去る迄、馬に乗らぬのには、いささかてれざるを得なかった。また私は、只芝居に於てのみ見受けるような、古式の服装をした人も、路上で見た。

[やぶちゃん注:「てれ」は底本では傍点「ヽ」。]

M428

図―428

 稲田を濯漑する奇妙な装置は、図428に示す所のものである。流れの速い川の岸に、水車を仕掛け、それは流れによってゆっくりゆっくり廻転する。車の側面についている四角い木の桶は、流れの中にズブリとつかって水で一杯になり、車が回転すると共に水は桶から、それを向うの水田へ導く溝の中へと、こぼし入れられる。

[やぶちゃん注:アメリカに水車がないわけではないが、稲作の水田灌漑用の、こうした低い位置で稼働して水を送り込むための装置としての水車はモースには極めて珍しかったのである。]

 

M429

図―429

 昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蠟の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、考婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人人は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蠟をつくりつつあった。この蠟で日本人は蠟燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネテイカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホップス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蠟を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蠟をつくる。先ず種子を集め、反鎚(そりづち)で粉末にし、それを竈(かまど)に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔(くさび)を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蠟をしぼり出す。すると蠟は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。

[やぶちゃん注:「植物蠟」木蠟(もくろう。生蠟(きろう)とも呼ぶ)は当時は主にハゼ蠟で、他にウルシ蠟があった。ウィキ蝋」によれば、ハゼ蠟はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の果実から作られる蠟で、『主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる。日本以外では“Japan wax”と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』が本邦での生産は衰退した。二十一世紀初頭の現在においては『海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである。木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪である』。主成分はパルミチン酸のトリグリセリドである。一方のウルシ蠟はハゼノキと近縁なウルシ科ウルシ Toxicodendron vernicifluum の果実から採取するハゼ蝋と性質のよく似た木蠟であるが、ハゼ蠟に押され、『現在の日本ではほとんど生産されていない』。主成分はハゼ蝋と同じ、とある。この図429に相当する装置をネット上で探したが見当たらない。モースのスケッチはもはや失われた蠟造りの実際を伝える貴重なものと言える。

「弾薬筒」原文“the cartridge”。明らかに薬莢であるが、ここでモースが詳述するような事実と本邦産のそれが、明治の初めから、多量に、殺人兵器の必要原料として、多量に輸出され続けていたという事実を私は初めて知った。]

耳嚢 巻之八 實心盜賊を令感伏事

 實心盜賊を令感伏事

 

 八王子に布屋權三郎迚、有德なる富家(ふけ)あり。此家に若き年より勤(つとめ)たる手代に次兵衞と云(いへ)る有(あり)。生得貞實なる生れにて、厚恩に成りし主人へ是迄さしたる忠儀も不盡(つくさず)、人間一生其功もなさず相果(はて)んも無慙なり、しかれども何も是ぞ主人の爲になる事もなければとて、いか成(なる)所存ありしや、給金の内にて金子二三十兩もたくわへて、其内には如何なる了簡にや、五百疋三百疋の目錄包(づつみ)をこしらへ置(おき)ける。或日夜盜三人忍入(しのびいり)て、まづ次兵衞が上にまたがりて、前後より刀を拔(ぬき)て金子の合力(かふりよく)を乞ひけるにぞ、金の合力も可致(いたすべ)けれど、かくおさへ居(をり)候ては事調はず、しかれども聲をたてゝ汝らを捕へんとするにもあらず、主人は老人又は若年なれば、我だに取計(とりはから)はゞいか樣にも可成(なるべし)、御身たちも、いかなればかゝる業(わざ)をやなせる、某(それがし)殺さるゝとも、また不殺(ころさず)とも、盜惡事(ぬすみあくじ)なさんもの助かるべきいわれなし、近くは某殺さるゝを不厭(いとはず)、大聲をあげ御身と命がけに取合(とりあは)ば、起合(おきあふ)者も有て、おん身を捕へん、是まのあたりの災(わざわひ)なり、主人へ申聞(まうしきき)、多(おほく)の金遣しなばよかるべけれど、左(さ)なさば大勢の人、やわか起出(おきいで)ざる事や有べき、しかれば御身のためならず、某主人より貰ひ請(うけ)候目録、爰元(ここもと)にあり、外に手元に金なし、是を參らする也とて、側にある簞笥の引出しより、五百疋包みを壹つ宛三人へあたへ、くれぐれも、かゝるあやうき渡世はやめ給へと、しみじみ異見なしければ、さすが本心の善もありけるや、彼(かの)盜賊も金を請取立歸(うけとりたちかへ)りぬ。其翌年右盜賊の内、兩人白晝に來りて治兵衞を尋(たづね)、對面して、我々は去年(こぞ)來りて合力を受(うけ)し盜賊なり、さるにても其節御身の異見に感伏して其後は盜(ぬすみ)を止めて、合力の金子を元手として渡世なしぬれど、惡業故や今に貧窮にて日雇などとりて暮しぬ、さるにても御身の異見今に忘れず、貧(まづし)けれど心は安しなど、禮を述(のべ)けるゆゑ、今壹人は如何(いかが)成しやと尋ければ、是も惡業は止(やめ)て、此節上方へ稼(かせぐ)事ありてまかりぬといゝければ、次郎兵衞是を聞て、志あら玉(たま)りぬる上はとて、金三兩宛三包出して相渡し、是にていか樣(さま)にも元手を拵(こしらへ)て良民となれよとあたへけり。厚く禮を述て歸りぬ。是を聞(きく)輩(やから)あり、兩人志をあらためしといへば迚、實事とも思はれず、又々ゆすり取られたるなりと笑ひ嘲けりけるが、其あくる年、三人とも次兵衞を尋(たづね)來りて、兩度にあたへし金子を不殘持參(のこらずもちまゐ)り、其外禮謝の品をももちて次兵衞に對面し厚く禮を述けるとぞ。かの三人も、どこどこに今は宿(やど)をもちて、渡世なしぬと語りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:誠意から出た言が人心を感動せしめた例で連関。

・「忠儀」底本では右に『(義)』と訂正注を附す。

・「疋」当時の銭を数える単位。二十五文を一疋としたから、「五百疋」は一万二千五百文で凡そ三両相当、「三百疋」だと七千五百文で二両に少し足りない額に相当する。

・「治兵衞」ママ。訳では訂した。

・「次郎兵衞是を聞て」底本では名の部分の右にママ注記。訳では訂した。

・「志あら玉りぬる」底本では「あら玉」の右に『(改まり)』と注する。

・「やわか起出ざる事や有べき」の「やわか」はママ。「やはか」が正しい。副詞(副詞「やわ」+係助詞「か」)で反語の意を表わす。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心が盜賊を感伏せしめたる事

 

 八王子に布屋権三郎とて、有徳なる富家(ふけ)があった。

 この家に若き年より勤めておった手代に、次兵衛と申す者がおる。

 生得、貞実なる生れにして、

「……厚恩を蒙ったるご主人さまへ、これまでさしたる忠義も尽くさず、人間一生、そうした恩義への報恩の一節(ひとふし)さえなすことのぅ相い果てんも、これ、如何にも恥ずかしことじゃ。……しかれども、我ら無才なれば、何もこれといって、ご主人さまのために出来得ること、これ、なければのぅ……」

と、如何なる所存のあったものか、主人から戴く給金の内より少しずつ残しおき、金子これ二、三十両も貯え、またその中(なか)には、これまた如何なる了簡か、五百疋・三百疋に小分け致いて、それを書き記したる目録包みを拵えておいた。

 さて、ある日の夜、押し込み強盗が三人、布屋に忍び入り、まずは手代部屋で独り寝ておった次兵衛の上に一人跨り、残る二人が前後よりだんびらを抜いて構え、

「……おぅ!……一つ、金子の合力(こうりょく)を、願いてぇんだがなぁ……」

と押し殺した声で威しつけた。

 と、次兵衛は、

「……金の合力もしてやろうとは思う。……思うがの、このように無体に押さえつけられたのでは、どうにもならん。……しかし、かく申したからといって、別段、隙を見て大声を挙げ人を呼び、お前さんらを捕えてもらおうなんどと思うておるわけではない。……大旦那さまと若旦那さまは、これ、老人と未だ若き者なればこそ、まあ、何なく、如何様(いかよう)にも我らがうまく取り計ろうこと、これ、容易に出来申す。……しかしな。おん身たちも、これ、如何なれば、かかる業(わざ)をばなさるるのじゃ?……儂(わし)が殺さるるとも、また殺されずとも、盜み悪事をばなさんとする者が、これ、何時までも無事に助かるべき謂われは、これ、ない。……今にも、例えば……儂が殺さるるを厭わず、御主人さまのために大声を挙げ、おん身と命懸けで取っ組み合ったとすれば、その物音に起きて来る者もあって、必ずやおん身を捕えるであろう。……これは、実に今、おん身の目前に迫った確かな災いじゃ。……儂がこっそりと大旦那さまへ申し開きを致いて、多分の金子を遣すことは、これ、出来得るならば、やってもよい。……が……そうすると本家は使用人も多ければこそ、変事を聴きつける者、これ、必ず、ある。……どうして大勢の人が起き出して来ぬことがあろうか。……しかればこそ、それはおん身らのためには勧めぬ。……じゃが……ここに、儂がご主人さまより特に請い貰い受け、何かの折りのためにと貯めおきたる五百疋の目録包み、これ、都合丁度、三包み、ある。……外には手元に金はない。一つ、これをそなたらに差し上げようと存ずる。――」

と、側にあった簞笥の引き出しより、五百疋の包みをやおら出だすと、一つ宛(ずつ)三人に与え、

「――くれぐれも、このような危うき渡世は、これにて、おやめになされい。」

と、終始静かにしみじみと三人に異見なした。

 すると、流石に両三人の盗賊、その心底(しんてい)には善へ向いたるところもあったものか、金子を受け取ると、しおらしくいとも速やかに且つ静かに立ち去っていった。

 

 その翌年のことである。

 白昼のこと、かの折りの盜賊のうちの二人が如何にもむさ苦しい賤民の形(なり)で、突然、布屋の店先へとやって参り、丁稚へ次兵衛を訪ね、出て参った次兵衛と店の前の道端にて対面した。

「……お恥ずかしながら、我らは去年、夜分に参りまして合力を受けましたる盜賊でごぜえやす。……それに致しましても、その節はお身のご異見に感伏致しまして……その後(のち)は盜みをきっぱりやめ、合力に戴いた金子を元手として渡世致しましたれど、先(せん)の悪業(あくぎょう)の報いゆえか……今は二人、かくも貧窮となりはて、日雇いなんどをよすがとして暮しておりまする。……何はともあれ、おん身のありがたきご異見、これ、今に忘れずにおりますれば。……貧しけれど、あのお諭しのお蔭にて、心は安うごぜえやす。まっこと、ありがとう存じやした。」

などと、礼を述べた。次兵衛が、

「今、一人おられたが、あのお方は如何なされた?」

と訊ねたところ、

「へえ。あ奴も悪業から足を洗いまして、同じく貧しいながらも、ちょっとした商いを細々と続け、今は上方でその稼ぎごとのこれ、ごせえまして、出でておりやす。」

と応え、二人はそこで深く礼を致いて、踵を返さんとした。

 すると次兵衛、それを押し止め、

「志しの、かくも改まったからには――の――」

とて、そこへ二人を待たせておき、急ぎ手代部屋へ戻ると、簞笥の引き出しの奥の隠しから、例の別の金子を取り出だすと、金三両ずつ三包に包んで、店先へと走り出て、二人にそれを渡し、

「――これにて、いかようにも再度、元手を拵え、良民となられよ!」

と、またしても金子を与えた。

 二人は涙を流して恐縮しつつ、二度までもと、しきりに辞退致いたものの、次兵衛が強いて渡いたれば、厚く礼を述べて帰っていった。

 

 この一部始終を見聞きしておった店内の者がおった。

 満足げに笑顔で戻った次兵衛に、

「……そんなことがあったんですか?……その前の一件というも、これ、如何にも奇特(きとく)なことでは御座いますなあ!?……しかし、なんですな、かの両人、志しを改めたと言うても、これ、とてものこと、まことのこととは思われませんぜ。……まんず、それは、またまた、心お優しいあなたが、ゆすりたかられたんでは御座いませんかねぇ?……へっつへへへ!」

と他の店の連中に、かの元盗賊の貧民のおじけた際の真似までして、面白おかしく語っては、皆して笑い嘲った。

 それでも次兵衛は黙って、かくも相好を崩したままに、逆に一緒になって笑っておった。

 

 そのまた翌年のことである。

 かの元盗賊三人、ともにすっかり町人の粋な姿と相い成って次兵衛を再び訪ね来たり、次兵衛に対面すると、

「――二度に及びましたる御高恩、まっこと、ありがたく、ここに御礼申し上げたく存じまする――」

と口上を述ぶるや、両度与えたる金子千五百疋と九両、これ、耳を揃えて持ち参り、その外にも豪華なる謝礼の品をも持って厚く礼を述た。

 この三人、それぞれまっとうなる仕事につき、どこそこに相応の一家を持って、安穏に暮らしておりますと、次兵衛に礼方々述べたとか、いうことである。

2014/07/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 4 青森から二戸へ

M426

図―426

 

 所々で我々は、北日本に特有と思われる、奇妙な看板の前を通った(図426)。これは樅(もみ)か杉の枝を結んで、直径二フィートの大きな球にしたもので、酒屋の看板である。「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ。第一日は岩の出た山路を越して行くので、我々は屢屢人力車夫の負担を軽くする為下りて、急な阪を登った。景色は非常によく、大きな入江や、面白い形をした山々がよく見えた。二日目は、夜に近くなってから、急な山脈を越す為、駄馬に乗った。この距離は十五マイルであった。我々の馬子は老人達で、十五マイルの間、絶間なく仲間同志、ひやかし合ったり、口喧嘩をしたりしていた。これ等の男の耐久力には、東京の労働者のそれよりも、更に驚く可きものがある。彼等はすくなくとも、五、六十歳であつたが、最も急な阪路を、ある場合には馬を引張って上りながら、絶えず冗談をいったり、ひやかしたりする程、息が続くのであった。峠の頂上で私は下馬し、素晴しい景色を楽しむために長い間歩いた。ある場所で我々は、底部から八百フィート、あるいは千フィートあるといわれる断崖の上に立った。正面は河によってえぐられ、その河の堂々たる屈曲線は、つき出した絶壁の辺で、我々の足の下にかくされている。我々は凸凹激しく、曲りくねり、場所によっては恐しく急な小径を、馬を引いて下りて来る老盲人に逢った。彼はこの路を、隅から隅まで知っているらしかった。

[やぶちゃん注:最初に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から矢田部日誌の帰京までの記載紹介を見ておく。

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文と最後の文部省宛報告書は例によって正字化した。[ ]は磯野先生の割注。「……」は磯野先生の省略と思われる。]

○十八日 「朝六時靑森發、十一時小湊着、午後七時七ノ戸着」

○十九日 「朝六時十五分七ノ戸発、午前十時四十五分五ノ戸着、晝食ス。道中広原[三本木原]ヲ過グ。五ノ戸ニテ車ヲ換へ、十二時十五分発、三時半三戸着。午後三時二十分三戸發。人力車出切リニ出タル二付、馬ニテ行ク。七時半福岡[二戸]ニ達ス」[やぶちゃん注:底本では『三時半三戸着。午後三時二十分三戸發』の両時刻の右には孰れも磯野先生によってママ注記が附されてある。]

〇二十日 「朝六時福岡發、七時五十分三戸着。……午後二時沼宮内着……六時二十分渋民着」福岡出発後、浪打峠の切通しで貝や竪類の化石を採集したと、矢田部もモースも記録。

〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」

〇二十二日 「終日船中ニ在リ」  

〇二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故二此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」

〇二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」佐々木と内山は松島に残して採集させ、松島以降はモースと矢田部の二人旅だった。二人は仙台で東京に電信を打とうとして、私人の電信使用が禁止されていることを知り驚くが、のちに東京竹橋兵営で反乱が起きたためと知る。一行は仙台からまた人力車で、長町、岩沼、大河原、白石を経て、「九時十五分藤田[現国見]着」

〇二十五日 「五時半藤田發、七時半福島着、十一時四十分二本松着……四時半郡山着……十時十五分白川[白河]發」

〇二十六日 「五時半白川發。十二時大田原着、三時十五分前喜連川着、六時宇津宮[宇都宮]着」

〇二十七日 「五時宇津宮發、馬車ニテ行クナリ……午後六時四十五分淺草着」

 人力車と船の旅はやっと終わった。青森を出てから丸十日。六時間ほどで上野に着く今では、その苦労は想像もつかない。

 このとき大学から文部省に宛てた報告が残っている。最後にそれを引用する。

「動物見本採集幷學術研究ノ爲メ七月十三日發程、徃復五十日間ノ期限ヲ以テ横濱ヨリ海路渡島國函館ニ到リ上陸、該地近傍ヲ經廻シ、尋デ後志胆石狩國ノ各郡ヲ廻歷シ、順路函館ニ歸リ、同所ヨリ陸奧國靑森ニ渡リ、夫ヨリ盛岡ニ出テ北上川ヲ下リ、鹿又村ヨリ上陸シテ順路陸前國仙臺ニ到リ、奧州街道ヲ經テ歸京」

   《引用終了》

二十四日の条の磯野先生の解説にある『東京竹橋兵営で反乱』とは前日の明治一一(一八七八)年八月二十三日に発生した、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件、竹橋事件を指す。以下、ウィキの「竹橋事件」によれば、『反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。 旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なもので』、『午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害』、『砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された』。『この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ』。『正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった』。『同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった』。『動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである』。『内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった』。『のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている』とある。

「直径二フィートの大きな球」直径約六十一センチメートル。無論、杉玉である。ウィキの「杉玉」によれば、『スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である』。『吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る』。『今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる』。『起源は、酒神・大神神社の三輪山のスギにあやかったという。俗に一休の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである』。『スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある』。作り方は『針金で芯となるボール(できあがりの半分ぐらいの大きさ)を造り、杉の葉を下方から順に差し込んで固定していく。上まで刺したら、球状になるようにきれいに刈り揃えてできあがり』となるとある。但し、全国で見られ、モースの「北日本に特有と思われる」というのは当たっていない。

『「よき酒は樹枝(ブッシュ)を必要とせず」という諺言は、この国でも同様の意味を持っているかも知れぬ』底本ではこの一文の最後に石川氏による『〔樹枝は西洋でも酒屋の看板になった〕』という割注が入る。諺の原文は“" Good wine needs no bush,"”。これはイギリスの諺で、昔、英国でワインを造っていた旅館や個人の家ではブドウの蔓(bush)をドアや窓の外に掛け、そこでワインやビールが飲めることを旅人に示したという。Bushivy:セイヨウキヅタ。イングリッシュ・アイビー。ツタのこと。) これは酒神 Bacchus の象徴であり、ブドウの蔓が看板(宣伝)の代わりに使用されていたことに基づくもであるが、既に良い味の酒を置いていることで知られていた旅宿や家では旅人が必ずそこに寄るので、蔓を戸外に垂らしておく必要はなかったことから、「良酒に看板は要らぬ」(「桃李もの言わずとも下自ずから蹊を成す」と同義。元来は、徳のある者は弁舌を弄するまでもなく、人はその徳を慕って集まり帰服するものであるの謂い)の謂いとなった(ここは「宮代翻訳工房」の「宮代翻訳工房の標語について」を参考にさせて戴いた)。

「第一日」八月十八日。朝六時に経って午前十一時に小湊(現在の青森県東津軽郡平内町大字小湊)に着き、夜七時に七戸(しちのへ)に到着している。

「岩の出た山路を越して行く」夏泊半島の根元を東に越して小湊へ出るルートを指すものと思われる。

「大きな入江」陸奥湾。

「面白い形をした山々」入り江を述べた後に記しているところからは、陸奥湾を隔てた下北半島の釜臥山から朝比奈岳の山容であろう。特に前者は名前の通り、独特の形をしている。

「二日目」八月十九日は朝六時十五分に七戸を出発、午前十時四十五分五戸着でここで昼食を摂り、三本木原を経て五戸、ここで人力車を乗り換えて十二時十五分に発ち、三戸で一本取ってここで人力車を乗り換えようとした。ところが人力車が出払っていたために、急遽、馬にかえて夜の七時半にようやっと二戸へ到着したとある。この「夜に近くなってから」越した「急な山脈」とは青森県南東部にある標高六一五・四メートルの名久井岳(なくいだけ)の西麓を越えてゆくルートか。

「十五マイル」は約二十四キロメートル。この距離は私は、最後に長い休息をとった三戸からの騎馬による距離と考える。私が考えるルートを採った場合、なるべく奥州街道(現在の国道四号)沿いに計測した三戸―二戸間の結果は二二キロメートル強となった。二戸側に下りると川幅の広い馬淵川畔を南下するが、この川の上流部は有意な河岸段丘が展開していることがネット情報によって分かる。以下のような断崖があってもおかしくないと思われるが如何であろう。私は現地を知らない。識者の御教授を乞うものである。

「百フィート」三〇・四八メートル。

「千フィート」三〇四・八メートル。]


M427

図―427

 

 通り過ぎた家に、奇妙な籠揺籃(ゆりかご)かあるのに気がついた(図427)。これは厚ぼったい、藁製の、丸い籠で、赤坊は温かそうにその内へ詰め込まれていた。

[やぶちゃん注:これは、平凡社の「世界大百科事典」に載る「つぐら」である。藁製の保育用具で「イヅミ」「エジコ」などとも呼び、大小いろいろに作って冬期には飯の保温用にも使う(「イヅミ」は「飯詰」の意である)。秋田では「イヅミ」、青森や岩手で「イヅコ」「エジコ」、信州北部から越後にかけては「ツグラ」「フゴ」、佐渡では「コシキ」、東海地方では「エジメ」「クルミ」、三重県では「ヨサフゴ」と呼ぶ。「イヅミ」は多く中部地方から東北地方の寒い地方で使われていたもので、ところによって製法や形が少しずつ異なっているが、多くは藁製で臼型に作り、底に藁を敷き、その上に籾殻や木炭灰などを厚く敷いて子どもの着物を捲くっておむつのままで座らせて布団で包む、とある。ウィキエジコ」には、『エジコ(嬰児籠)は藁などで筒状にしたもので他には木や竹製のものもあり、世話が出来ないときに赤ん坊が這い回らないようにする育児用の篭。地域によりエヅメ・イジコ・イズミ・イブミ・ツブラ・ツグラ・コシキ・エジメ・イヅミキともよばれる。

農作業などのとき長時間離れなければならない時に家または作業場近くに据え置くための道具として使われていた。 そのため、お漏らしをしても』幼児が不快にならぬように『工夫がなされている。 大まかには、底に灰・藁・籾殻・海藻・木炭などを敷き詰めその上に、 尿などを吸収しやすいように、オシメや軟らかくしたわら・い草で出来たシッツキなどを敷き、汚れた場合にはそのつど洗って使い、子どもが勝手に動かない様に布団や布切れなどで包み固定していた。そのため発育が妨げられたり、 不潔などの理由で衰退することとなり、 現在では従来の藁でエジコを作れる人がいなくなったのも含めて、新たに入手することはほとんど出来ず、どの地方でもエジコを使用する習慣はほぼ見られ無くなっている』とある。当該物を「こけし」化したものが多く出るが、グーグル画像検索「えこ」を参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 3 函館にて(Ⅲ) モースがドレッジに使った青函航路蒸気船は実は前の年に西南戦争で薩摩軍を砲撃した船だった?!

M425
図―425

 

 蝦夷島を検断して帰って来てから、我々は目ざましい曳網を数回やって、腕足類を沢山集め、その生きた物に就て興味のある研究をした。最終日の曳網には、当局者が大部大きな汽船(図425)を準備してくれ、我々は津軽海峡の、今までよりも遙か深い場所まで出かけた。何から何まで当局者がやって呉れたので、採集に関する我々の成功は、すべて彼等の配慮に原因する。陸路東京へ帰るに際して、私は矢田部教授、佐々木氏、及び矢田部氏の植木屋が私と一緒に来、ナニヤ、高嶺両氏は新潟で曳網するために日本の西海岸を行き、種田氏、私の従者、及び大学の小使は採集した物を持って、汽船へ帰ることにきめた。面白いことに、これ等の異る目的に行く三艘の汽船が、いずれも八月十七日に出帆した。我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった。海は完全に平穏で、我々は函館から青森までの七十マイルを、一日中航行した。この町は長くて、低くて、ひらべったい。これ等以外に、我々は何も気がつかなかった。翌朝六時、我々は四台の人力車をつらねて、五百マイル以上もある東京へ向けて出発した。十五日はかかると聞いたが、十日間で目的地へ着き度いというのが、我々の希望であった。

[やぶちゃん注:前段で注したように、八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念し』(磯野氏前掲書)ている。先の引用と前後するが、磯野氏前掲書の矢田部日誌紹介の八月九日と十日の記事には、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は恣意的に正字化した。]

〇九日 「朝八時頃モース氏ト共ニ時任氏ヲ訪フ。同氏青森ヨリ陸路ニテ歸ルコトヲ[旅行]免状ニ加入スルコトニ付、加藤君[加藤弘之東大綜理]ニ電信ヲイダセリ。時任氏モ此件ニ付キ外務省へ電信ヲ出セリ」当初は海路で直接帰京するつもりだったらしい。

○十日 「朝八時過石狩丸卜云フ小汽船ニテ有川村へ行キ……佐々木海底動物ヲ採集シ、モース氏ハ高嶺ト共ニ上陸シ海岸ニ沿ツテ行ケリ。汽船兩人ノ行ク處迄至ル筈ノ処、風高クシテ途中ヨリ歸レリ故、高嶺モースハ陸ヲ戻リ大イニ失望セリ」

   《引用終了》

とあり、以下、先に示した十二日と十四日記事を挟んで、

   《引用開始》[やぶちゃん注:日誌本文部分は同前で、波江の記事(『波江元吉動物学雑誌』第九巻・五五~六一頁・一八九七年発行)も準じて正字化した。]

○十五日 「朝八時矯龍丸ニテ沖ニ探底ニ出ツ。午後六時帰港」後年波江元吉が、「或日箱館靑森間ヲ定期航海セル小汽船ヲ雇ヒ、箱館ノ湾口ニ至リ八十尋ノ所ニ Boat dredge ヲ用ヒテ曳網ヲ試ミシコトアリシ。……本邦ニ於テ汽船ニテ八十尋ノ所ニどれじヲ使用セシハ蓋シ之ヲ嚆矢トスベシ」と記したのは、このときのことらしい。

○十七日 「朝十時半函館ヲ發シ靑森ニ向フ。船ハ三菱ノ靑龍丸ナリ……午後六時半靑森着」この日、モース、矢田部、佐々木、内山の四名は、日誌どおり青森へ、高嶺と波江はドレッジを試みに新潟へ、種田と菊地は標本を持参して直接横浜へ、ほとんど同時にそれぞれ出発した。

 モース・矢田部組は青森から東京まで、北上川の舟下りを別にすれば、後はほとんど人力車の旅であった。

   《引用終了》

と記されておられる。

「大部大きな汽船」これは何と、北海道大学名誉教授理学博士角皆静男(つのがいしずお)氏のサイト内の「新函館物語(ハイカラ都市、函館の外国人)」の「函館物語(2):エドワード・モースと日本最初のドレッジ」によれば、『青函連絡船を雇い、函館港外水深150mのところで、日本初の船によるドレッジ(海底上に降ろした篭を曳く)を行った』とある。一研究者のために青函連絡船が恐らくは貸切で使用されたのである(前に注で記したが、角皆先生は海上自衛隊函館基地本部をラボの同定地とされておられるが、採らない)。前注の矢田部日誌十五日の記事の「矯龍丸」が、まさにこの角皆氏の言う『青函連絡船』(厳密には我々に馴染みのこの呼称は後の日本国有鉄道(国鉄)と北海道旅客鉄道(現在のJR北海道)との鉄道連絡船の固有名詞で明治四一(一九〇八)年以降のもので、正確には開拓使の青函航路連絡船である。以下の引用を参照のこと)に相当するものである。「函館市史 デジタル版」の「函館支庁付属船」によれば、『開拓使は主要幹線の定期航路とは別に、不定期航路として札幌本庁や各支庁に付属船を所轄させて、用途に応じて道内各港間へ就航させている。所轄船は年次で異動があったが、明治11年当初には大幅な交替があった。同年1月7日付の函館新聞にその報道がなされている。それによれば、函館支庁所管として函館丸、矯龍丸、弘明丸、鞆絵丸、石明丸、白峰丸、辛未丸、札幌本庁が稲川丸、豊平丸、空知丸、乗風丸、根室支庁が沖鷹丸、択捉丸、千島丸、そして東京出張所が玄武丸となった。なお4月2日付の「函館新聞」には、函館支庁の管轄となり、函館港を定繋港とするこれらの船舶によって近県へ運輸を盛んに乗客輸送などの便宜を図る趣旨について連絡をしたところ近県からは、それに同意し実地取調べのうえ回漕の依頼などをする旨の回答があったと報道されている。12年には開拓使の青函航路が取りやめられたので、弘明丸は他へ所管替えとなり、その他の船舶も一部所管が変わった。函館丸、辛未丸、矯龍丸の3艘となり、翌年には函館丸、矯龍丸、白峰丸が函館支庁所管となっている』とあり(下線やぶちゃん)、矯龍丸が青函航路の函館支庁所管船であったことが分かる。しかも、この船、前年の明治一〇(一八七七)年の西南戦争勃発に際して錦江湾海上から薩摩軍を砲撃した矯龍丸と同一かと思われ、とすればこの船は元は軍用船であったことになる。

「植木屋」底本では直下に石川氏による『〔植物園の園丁〕』という割注がある。小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎。既注

「ナニヤ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という不詳を示す割注があるが、随行していた教育博物館動物掛の波江元吉のこと。既注

「我々は気持よく海峡を越して、大きな入江へ入った。ここへ入る前に、もう一つの大きな入江の入口を過ぎたが、その上端では更に陸地が見えなかった」前者が青森湾、後者が平館海峡を抜けた陸奥湾のことであろう。

「七十マイル」約一一二・七キロメートル。地図上で函館―青森航路を計測すると一一〇キロメートル弱であるから概算表としてはおかしくない。

「五百マイル」約八〇五キロメートル。

青森―東京間は直線ならば約五八〇キロメートルであるが、これは実際の行程距離を示したものであろう。この後の矢田部日誌(後掲する)を見ると、その行程は、

 

青森―小湊―七戸―五戸―三戸―二戸―一戸―沼宮内(ぬまくない:現在の岩手県岩手郡岩手町大字江刈内(えかりない)沼宮内)―渋民―盛岡―(川船による北上川下りで玄沢尻から船中泊二泊)―鹿又(かのまた。現在の宮城県石巻市鹿又)―松島―仙台―長町―岩沼―大河原―白石―国見―福島―二本松―郡山―白河―大田原―喜連川―宇都宮―上野

 

であった。この行程を凡そ旧奥州街道添いに小まめに実測してみたが、青森からは凡そ八〇〇キロメートルになった。モースの計算は実に正確である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 2 函館にて(Ⅱ)

M423
図―423

M424

図―424

 

 図423は前面から見た我々の実験所の、又別の写生図である。我々は、海峡を越え、青森から東京迄十二日かかる長い旅に出る準備として、今や荷物をまとめつつある。図424は私が函館へ来てから住んでいる家を示す。隣にはお寺の門がある。人々が礼拝のために門を入ったり、あるいは入口の前を通る人が、礼拝のために頭を下げたりするのを見ては、興味深く感じた。今日私は娘達や子供達がいい着物を着、沢山の花、殊に螢袋(ほたるぶくろ)の一種が町へ運び込まれるのに気がついた。夕方には多くの人が、お寺に入って行った。私も寺の庭に入り、人々が広い段々を登るのを見た。老人や若い人が、先ず荷厄介な木の履物を、段段の下で脱いで上って行くのは、気持がよかった。上へ登り切ると、美しい着物を着た彼等の姿が、寺院内部の暗黒に対して、非常にハッキリ見られた。この光景を楽しみつつ家へ帰るとデンマーク領事のディーン氏が廊下から私に向って、まだまだ見るものは残っている、寺院の裏の丘にある墓地まで行って見給えと叫んだ。寺の構内をぬけて上の方の、高い杉の壮厳な林の中にある墓地までの路は面白かった。ここで人々は死者にお供物を捧げていた。先ず墓石の前の地面を平にし、持って来た奇麗な砂を撒きひろげ、その上に、小さな花生けのように立つ竹筒に、花を入れた物を置くと共に、赤味がかった煎餅若干も置くのだが、中にはとても素敵な御馳走もあった。一人の老婆が祈禱をつぶやきながら、石碑の周囲を平にし、花をいくつか、趣深く配置するのに没頭している。巨木の静寂な影、四角くて意匠の上品な灰色の石、奇怪麗な蝶々のように飛び廻る美装の子供何百人……それはまこと匠心を魅するような景色であった。これ等の人々もまた彼等の宗教を持っており、彼等が天主教徒と同様に熱心に祈り、その信仰の程度は天主教徒よりも深くさえあることを発見するのは、興味があった。朝、五時と六時との間に、必ず礼拝が一回行われ、この早朝の弥撒(ミサ)は、老いさらばえた男女が、頑丈な親類の者に背負われて来る。往来では、寺院の前を過ぎると、人々は常に非常に低くお辞儀をし、祈りを唱える人も多い。

[やぶちゃん注:「我々の実験所」その後のネット検索によってモースが実験所を置いたのは、函館市中央図書館公式サイト内の「はこだて人物誌」の「エドワード・シルベスター・モース」に、『函館における博士の生物学研究は、当時の「函館船改所(現・函館市臨海研究所)」の一部を借用して行われた』(現在の函館市大町13番1号)とあり、同研究所の紹介記事(PDFファイル)によれば、ここの二階にラボがあったことが分かった(一部情報では四百メートルほど東北方向にある現在の海上自衛隊函館基地隊本部のある北海道函館市大町10番3号であったとするが採らない)。

「私が函館へ来てから住んでいる家」既に本文でも函館到着後に滞在中の世話をした役人が、『西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した』と出るように、後に『家へ帰るとデンマーク領事のディーン』が誘いをかけるとあるようにここはこの『ディーン』の家である(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」でも『ディーン』とするが、事実は「デュース」が正しい。彼については後注する)。問題はこれが何処にあったかであるが、ネット検索ではよく分からない。そこで一つの推論を立ててみた。彼が当初、イギリス人扱いであり、しかもイギリス領事ヴァイスが詳細な報告の中に彼のことを記しているとすれば、彼の常勤先は当時のイギリス領事館の一室ではなかったか、そうしてそこに併設する形かすぐ近くに、モースの言う『西洋館』はあったのではないか? 函館市旧イギリス領事館(現在の開港記念館)は現在の函館市元町3314にあった(引き続き、次注を参照されたい)。

「隣にはお寺」函館ホテル旅館協同組合の「はこだて幕末・開港マップ」を見ると、函館山の麓にある浄玄寺(現在の東本願寺函館別院)安政四(一八五七)年にアメリカ貿易事務官ライスの仮止宿所となったとあり、その西に隣接する称名寺という寺は二年後の安政六年にイギリス領事館として貸与されたとある(イギリス領事はフランス領事も兼ねたと記す点に注意)。大谷派函館別院船見支院は現在の函館市船見町1820、称名寺は同船見町1814である。ここだとまさに本文の叙述によく一致するし、少なくとも来日した頃のデュースはこの両寺の孰れか(称名寺か?)に隣接する場所に居住していたと考えてよいであろう。因みに北海道大学付属図書館の「北方関係資料総合目録」に「イギリス商人(?)J.H.デュースへ箱館港の地所145坪貸渡証書(和文原本) / 箱館奉行小出大和守」という文書を見出せるが、私の能力ではよく判読が出来ず、場所がよく分からない。これはずっと後の慶応四(一八六八)年四月のものでもあり、住居ではなく、商業用施設なのかも知れない(無論、これがモースが滞在した当の場所である可能性もある)。郷土史研究家のご援助を切に乞うものである。因みにもうおわかりのことと思われるが、モースの二度目の函館での滞在は八月四日夜から十七日の朝までであった。モースが見た驚くべき数の人々の墓参りはまさに盂蘭盆の中日の光景だったのである。

「デンマーク領事のディーン氏」原文は“Mr. Dean, the Danish consul,”であるが彼の名は“John H. Duus”で「デュース」が正しい。「函館市史 デジタル版」のイギリスとの通商についての記載中に以下のようにある(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

在函のイギリス領事が各年の報告の中で個々の動向を報告している。断片的なものではあるが、これまであまり知られていないことなのでそれを中心にみてみよう。

 まず居留商社の動きに関する記事としては文久元(1861)年のエンスリーの報告にデント商会とリンゼー商会が安政6年の終わりから上海に向けて大量に木材輸出したが損失を被ったことを伝えている。リンゼー商会は先に述べたようにアストンが代理人であったが、文久元年にJ・H・デュースがアストンに変わって代理人となった(文久元年「各国書翰留」道文蔵)。ちなみにデュースはデンマーク国籍であるが来函時にはイギリス人の扱いとなっている。これはデンマークとの通商条約が締結されていなかったためである。文久2年に関するヴァイス[やぶちゃん注:当時の英国領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)。]の報告では同年にクニッフラー商会と呼ばれているプロシアの商社の代表者C・ゲルトナーが貿易の目的のために来函したとある。ちなみにこのゲルトナーとは日本側史料にガルトネルとある人物であり、その後プロシア領事となる。R・ゲルトナーはその兄弟である。クニッフラー商会は『横浜毎日新聞資料集』によれば日本における最初のドイツ商社の1つであり、安政6年に拠点のバタビアから長崎に進出し、横浜には文久元年に出店するに至った。同商会は明治13年にイリス商会(C.Illis & co)と改称して今日に至っている。ちなみにイリス商会は明治20年代の函館の水道工事用資材の受注している。慶応元(1865)年のヴァイスの報告には清国において多くの商社が失敗し、それは函館の外国商社にも少なからず影響を与えたにもかかわらず函館の輸出は増加をみせたが、そのなかでもリンゼー商会が大量に輸出したことを述べている。

   《引用終了》

則ち、彼は領事とはいうものの、その実態はやり手の商人でもあったことが分かるのである。同じ「函館市史」の前ページの「表6-23 幕末から明治初期の外国居留人(商業関係)」では、彼を一貫して肩書を『貿易商』『貿易業』と記している。

 

 因みに、「函館市公式観光情報」の「あさり坂」に『1878(明治11)年に来函したイギリスの地震学者ジョン・ミルンと、アメリカの動物学者エドワード・モースらが、函館在住のイギリス商人トーマス・ブラキストンと協力し、市中で貝塚を発掘しました。貝塚からは古代人が食べたと思われるアサリの殻が多く見つかったため、この付近を通っていた坂の名前に「あさり」を取り入れた』とある。この「あさり坂」は現在の函館市宝来町にあり、ここは函館でも西方に位置する。この事蹟は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には載らないが、モースが函館で成した考古学上の大きな業績の一つと考えねばならないが、何故か、モースは一言も述べていない(これはもしかすると以前に日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 23 丘からの眺めの注で記したようにミルンとの間にあった大森貝塚人論叢のしこり(後年、本書刊行の前に和解はしているが)が記憶の底にあったからではなかろうか? ミルンの事蹟についてもリンク先を参照されたい)。そこで矢田部日誌を見ると、一つ、引っ掛かる以下の記載を見出せるのである。八月四日にモースは函館に着いたが、『それから二週間近く、連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念した』(磯野氏前掲書)。その八月十二日と十四日の記載である。

   《引用開始》[やぶちゃん注:例によって恣意的に正字化してある。]

○十二日 「函館山ノ西方ヘマリイス氏ト共上ル。又同氏案内二テ古土器ノ出ル処こ至ル。モース氏高嶺掘テ土器ノ片ヲ多ク得タリ。昨日他ノ一所ニテモース高嶺余ト共ニ土器ノ片、鹿骨ナドヲ掘リ出セリ。此皆介殼丘ナリ」

○十四日 「モース其外土器ヲ掘リニ出ツ」

   《引用終了》

これによって、十一日と十二日は別な場所で土器の発掘を行ったことが分かるが、そこでは矢田部と高嶺の他に「マリイス氏」なる人物が同行している。『函館山ノ西方』というのが、現在の「あさり坂」の位置と完全に一致すること、「マリイス氏」という表記が何となく、ジョン・ミルン(John Milne)の姓と似ていることから、私はこの十二日にモース・ミルン・矢田部・高嶺の四人が「あさり坂」附近で有意の数の土器片を発掘、それに気をよくしたモースは、ミルンの他に当地で既に博物学研究家として知られていたブラキストン(Thomas Wright Blakiston:言うまでもなく津軽海峡における動物学的分布境界線ブラキストン・ラインを指摘した彼である。彼は当初は木材貿易のために函館に来、友人とともに設立したブラキストン・マル商会で貿易商として働いていた。ここはウィキトーマス・ブレーキストンを参照した)を誘ってこの八月十四日に再度、「あさり坂」貝塚を発掘したのではなかったか? 矢田部日誌の『モース其外土器ヲ掘リニ出ツ』の『其外』がまさにミルンとブラキストン(二人はイギリス人)で、『出ツ』から矢田部は同行していないことが分かる。ミルンとブラキストンの二人はイギリス人で、しかもブラキストンは長く函館に滞在しているから土地勘も十分にある。日本人を気にせず、英語で気楽に会話で来る三名(発掘品を運ぶための人夫はいたかも知れない)だけで行ったとしても不自然ではない。矢田部の日誌はそうした印象を十分に与えるもののように私には読めるのである。]

2014/07/27

杉田久女句集 260 花衣 ⅩⅩⅧ 

  タラバ蟹を貰ふ 二句

 

大釜の湯鳴りたのしみ蟹うでん

 

大鍋をはみ出す脚よ蟹うでる

 

  或家の初盆に 四句

 

うつしゑの笑めるが如し魂迎へ

 

美しき蓮華燈籠も灯を入るゝ

 

[やぶちゃん注:「燈籠」「灯」は底本の用字。次句も同じ。]

 

玄關を入るより燈籠灯りゐし

 

露の灯にまみゆる機なく逝きませり

 

  出生地鹿児島 五句

 

朱欒咲く五月となれば日の光り

 

朱欒咲く五月の空は瑠璃のごと

 

天碧し盧橘(ろきつ)は軒をうづめ咲く

 

[やぶちゃん注:「盧橘」はミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名で、食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。ここでは五月の初夏の句で季語は「天碧し」(「盧橘」は実のつく秋の季語)、「うづめ咲く」とあるから初夏に白い花をつけるキンカンである。]

 

花朱欒こぼれ咲く戸にすむ樂し

 

風かほり香欒(ざぼん)咲く戸を訪ふは誰ぞ

 

南國の五月はたのし花朱欒

 

  琉球をよめる句 十三句

 

常夏の碧き潮あびわがそだつ

 

爪ぐれに指そめ交はし戀稚く

 

栴檀の花散る那覇に入學す

 

島の子と花芭蕉の蜜の甘き吸ふ

 

砂糖黍かぢりし頃の童女髮

 

[やぶちゃん注:「童女髮」は「うなゐがみ(うないがみ)」と読んでいよう。]

 

榕樹鹿毛(かげ)飯匙倩(ハブ)捕の子と遊びもつ

 

[やぶちゃん注:「飯匙倩」の三文字に「ハブ」とルビする。これは有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科 Protobothrops 属及び Trimeresurus 属に属するするハブの三角形の頭部が飯を掬う匙に似ることに由来するらしい(英名では西洋の騎士が用いた槍(ランス)に擬えて“lance-head snake”と呼ぶ)が、「倩」の意は不詳(「倩」には「愛らしい口元」とか「はやい」という意があり、この辺りが関係するか? 因みに「飯匙倩」音読みすると「はんし(又は「じ」又は「ひ」)せい」である)。「鹿毛」は本来は馬の毛色の名で、全体にシカの毛色のように茶褐色で鬣と尾及び四肢下部が黒色のものをいうが、ここは蔭に同音のこれを当てて、熱帯の異国風俗を強調したものであろう。]

 

ひとでふみ蟹とたはむれ磯あそび

 

紫の雲の上なる手毬唄

 

海ほうづき口にふくめば潮の香

 

海ほうづき流れよる木にひしと生え

 

海ほうづき鳴らせば遠し乙女の日

 

吹き習ふ麥笛の音はおもしろや

 

潮の香のぐんぐんかわく貝拾ひ

 

[やぶちゃん注:これらの句は久女六~八歳の頃の追想吟である。底本年譜によれば、久女は三、四歳までは鹿児島に住み、明治二九(一八九六)年六歳の時、父(鹿児島県県庁の官吏)が沖縄郡那覇県庁へ転勤(他県の県庁職員を転々と転勤するという、こうした人事があったのは少し私には意外である)したのに伴い、一家で那覇に移り、翌明治三十年四月に那覇の小学校に入学したものの、五月には父がまた転勤で当時の日本領であった台湾の南西の嘉義(現在の中華民国嘉義市)に転住、翌明治三十一年には台北に移ってここで久女は明治三十六年に小学校を卒業、上京して東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属お茶水高等女学校を受験して合格、入学した(一家は明治三九(一九〇六)年、久女十六歳の時に父が内地転勤となって東京に戻った)。]

杉田久女句集 259 花衣 ⅩⅩⅦ 

  タラバ蟹を貰ふ 二句

 

大釜の湯鳴りたのしみ蟹うでん

 

大鍋をはみ出す脚よ蟹うでる

 

  或家の初盆に 四句

 

うつしゑの笑めるが如し魂迎へ

 

美しき蓮華燈籠も灯を入るゝ

 

[やぶちゃん注:「燈籠」「灯」は底本の用字。次句も同じ。]

 

玄關を入るより燈籠灯りゐし

 

露の灯にまみゆる機なく逝きませり

 

  出生地鹿児島 五句

 

朱欒咲く五月となれば日の光り

 

朱欒咲く五月の空は瑠璃のごと

 

天碧し盧橘(ろきつ)は軒をうづめ咲く

 

[やぶちゃん注:「盧橘」はミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名で、食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。ここでは五月の初夏の句で季語は「天碧し」(「盧橘」は実のつく秋の季語)、「うづめ咲く」とあるから初夏に白い花をつけるキンカンである。]

 

花朱欒こぼれ咲く戸にすむ樂し

 

風かほり香欒(ざぼん)咲く戸を訪ふは誰ぞ

 

南國の五月はたのし花朱欒

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 春

   昭和十二年

 

〈昭和十二年・春〉

 

庭竈家山の雪に燈らしぬ

 

[やぶちゃん注:「家山」故郷。漢語。]

 

獏枕わりなきなかのおとろへず

 

[やぶちゃん注:「獏枕」獏を描いた絵を下に敷いた枕。こうして寝ると悪夢をみることがないという俗信に基づく。新年の人事の季語。]

 

粉黛のかほおぼめきて玉の春

 

[やぶちゃん注:「粉黛」は「ふんたい」と読み、白粉と黛(まゆずみ)・化粧、ここでは美人の謂いであろう。]

 

喫茶房支那樂かけて松の内

 

落飾の深窓にしてはつ日記

 

   久遠寺

身延山雲ひく町の睦月かな

 

サーカスの身を賭(かく)る娘が春衣裝

 

   古墳發掘 二句

 

上古より日輪炎えて土の春

 

春佛石棺の朱に枕しぬ

 

花薊露珊々と葉をのべぬ

 

[やぶちゃん注:「珊々」は「さんさん」で輝いて美しいさま。]

 

死火山の夜をさむきまで二月空

 

樹々芽立つさなかの獵家午過ぎぬ

 

百千鳥酣にして榛の栗鼠

 

[やぶちゃん注:「酣」は「たけなは(たけなわ)」、「榛」「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景はシチュエーションから見て後者と思われる。]

 

雲ふかき厚朴一と株の芽立ちかな

 

[やぶちゃん注:「厚朴」は「こうぼく」で本来は生薬の名。この生薬はモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキMagnolia obovata)又はシナホオノキ Magnolia officinalis の樹皮を指すが、ここでは樹木本体で、前者であろう。]

 

雹やみて雲ゆく甌窶蘭咲けり

 

[やぶちゃん注:「甌窶」は「おうる」と読ませているらしい。諸注は高台の狭い土地とする。「甌」は原義が小さな平たい鉢、「窶」は小さな塚や岡を指す。通常は「おうろう」であるが、小丘の謂いの場合、「ル」という音を持っている。]

 

歯朶もえて岩瀧かける雉子かな

 

[やぶちゃん注:「雉子」は「きぎす」と訓じていよう。次の句では「きじ」かも知れないが、私は字余りでやはり「きぎす」と読みたい。]

 

雉子なけり火山湖の春いぬる雨

 

[やぶちゃん注:「火山湖」蛇笏の居住地山梨県東八代郡五成村(後に境川村となり、現在は笛吹市)の近辺とすれば、富士五湖か。]

 

   山蘆庭前

蔦の芽の風日にきざす地温かな

 

[やぶちゃん注:「地温」は「ちをん(ちおん)」で土の温度。]

 

暮の春奥嶺の裸形ただ藍(あを)し

 

[やぶちゃん注:「奥嶺」は「おうれい」と読むか。]

 

   赤の浦大嶽山

雹まろぶ大山祇(おほやまつみ)の春祭

 

[やぶちゃん注:「赤の浦大嶽山」は現在の山梨県山梨市三富上釜口赤の浦にある大嶽山那賀都(だいたけさんながと)神社。人皇十二代景行天皇の頃、日本武尊の東征の際、甲武信の国境を越える折りに神助を受けたことから、神恩奉謝の印として国司ヶ岳の天狗尾根に佩剣を留め置いて三神を祀った(現在の同神社奥宮)ことを起源とし、天武天皇の頃、役行者小角が当山(現在の社地)の霊験あらたかなるを以って修験道場として開山した。その際、山が昼夜連日鳴動して止まなかったことから、「大嶽山鳴渡(なると)ヶ崎」と呼ぶようになった。 天平七(七三五)年には行基が観世音像(昭和二五(一九五〇)年に流失して現存しない)を刻し、「赤の浦鳴渡ヶ崎に那留(なる)神のみゐづや高く那賀都とは祈る」という神歌を奉じて、是より「那賀都神社」と称するようになったと伝えられている。養老元(七一七)年には最澄が、天長八(八三一)年には空海が相次いで来たって、清浄(しょうじょう)ヶ滝・座禅岩、下流川浦に絵書石等の行跡(ぎょうせき)を残した。江戸初期に一時、大破して小祠となったが、元文五(一七四〇)年に再建のために羽黒派修験東叡山支配となり、社殿が建立された(以上は大嶽山那賀都神社」公式サイトの由緒に拠る)。]

 

   山廬端午

軒菖蒲庭松花をそろへけり

はだかのきゅうぴい   山之口貘

 はだかのきゅうぴい

 

 きょうは どようびな

ので、ただしちゃんは、

いつもより はやく、

がっこうから かえりま

した。さむい かぜが

ふいている まちを、

ただしちゃんは、はなも

ほっぺたも まっかにし

て かけだしました。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三二(一九五七)年二月号『小学一年生』。底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題に、『「詩」というより、「お話」。掲載誌の性格上、「児童詩」として』扱った旨の記載がある。標題と話柄の関連性が見えないが、解題にある渡辺三郎氏の絵がその意味を繫げているのであろうか?

 因みに、私藪野直史は昭和三二(一九五七)年二月十五日生まれで名は「ただし」と読む。]

学校への道で   山之口貘

 学校への道で

 

たべても たべても

たりないみたいで、

けさも また

ごはんをたべすぎた。

 

いつもの道を歩いてきて、

ふと 見あげた

カキの木。

すきとおるような

空の青、

うまそうに赤い

カキの実。

 

けさは こんなに

おなかがいっぱいなのに、

もう また ぼくはたべたくて

カキの実のあまみが

したにつたわってきた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学四年生』。]

まつかさ 山之口貘

 まつかさ

 

お友だちの 家へ

遊びに 行くとちゅう

イチョウの 黄いろい落ち葉が

カサッ コソッ

と ささやいたよ

ヒバの かきねのところを

まがる時

モミジの 赤い落ち葉が

カサッ コソッ

と ささやいたよ

門のところで ふいに

ポンと 頭を たたかれて

びっくりすると

まつかさだよ

お友だちの名を よぼうとしたら

ポンと また落ちたよ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学三年生』。]

2014/07/26

橋本多佳子句集「紅絲」 忌月

 忌月

 

[やぶちゃん注:これは「九月」と三句目にあることから、亡き夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年九月三十日逝去。享年五十歳)の忌月である。句の順列から考えると、この句は昭和二五(一九五〇)年の作と私は推定するが、とすれば十四回忌、節目となる十三回忌の翌年なればこそのある淋しさが「忌月」という標題に現われているように思われる。]

 

忌日眼に見ゆるちかさに青野分

 

忌日ある九月に入りぬ蝶燕

 

麻衾暁の手足を裹み余さず

 

[やぶちゃん注:「麻衾」は「あさぶすま」で麻布で作った粗末な夜具のこと。これは実際に粗末なのではなく(残暑も残るから薄いものではあったであろう)、多佳子の孤独感の表象である。]

 

くらがりに傷つき匂ふかりんの実

 

蟬声や吾を睡らし吾を急(せ)き

 

日の中にゐて露冷えに迫らるゝ

 

曼珠沙華咲けば悲願の如く折る

 

曼珠沙華からむ蘂より指をぬく

 

昏くして雨ふりかゝる曼珠沙華

 

瀬を流るゝとき曼珠沙華のもつれとけず

 

[やぶちゃん注:参考までに。単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ Lycoris radiata (別名の「マンジュシャゲ」又は「マンジュシャカ」はサンスクリット語“manjusaka”の音写。仏典に載る天界に咲ていて瑞兆を示すために天から降ってくる赤い花を指す。属名“Lycoris”はギリシャ神話に登場する海のニンフ(ネレイス或いはネレイドと呼ばれる)の一人、金髪の “Lycorias”(リコリアス)に由来するものと思われる)。種小名“radiata”は「放射状」の意である。ここまでは主にウィキヒガンバナその他のネット情報に拠った)の花言葉は「情熱」「独立」「再会」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」……「悲しい思い出」……そして「あきらめ」である……]

杉田久女句集 258 花衣 ⅩⅩⅥ 和布刈の鼻枕潮閣にて 二句

  和布刈の鼻枕潮閣にて 二句

 

新船卸す瀨戸の春潮とこしなへ

 

新艘おろす東風の彩旗へんぽんと

 

[やぶちゃん注:「和布刈の鼻枕潮閣」枕潮閣(ちんちょうかく)は現在の福岡県北九州市門司区門司にある百年以上の歴史を持つ河豚(ふぐ)料理専門の料亭。先に注した和布刈(めかり)神社(初凪げる和布刈の磴に下りたてりなどの注を参照)の境内から関門海峡に突き出した形で社務所の前に建つ。参照したMAC&JOY氏の「九州旅倶楽部」の枕潮閣と源平小菊で現在の画像が見られる。

「新船」「新艘」は恐らく「しんぞ」と読んでいると思われる。「新造下ろし」「新艘下ろし」は「しんざう(しんぞうおろし)」で新造の船を初めて水上に浮かべること、ふなおろしのことを言うが、これには別に他人の妻の敬称として「御新造(ごしんぞう)」(古くは武家の妻、後に富裕な町家の妻の敬称。特に新妻や若女房に用いた)があり、さらに音変化した「ごしんぞ」(これはさらに近世遊郭用語として、遊里で姉女郎の後見つきで客をとり始めた若い遊女の呼称ともなった。語源は遊女を舟に見立てたものともいうが不詳)がある。音数からも、この「しんぞ」の方が(それでも字余りではあるが)しっくりくるように思われる。]

杉田久女句集 257      花衣 ⅩⅩⅤ 馬關春帆樓 三句

  馬關春帆樓 三句

 

薰風や釣舟絶えず並びかへ

 

釣舟の並びかはりし籐椅子かな

 

晩涼や釣舟並ぶ樓の前

 

[やぶちゃん注:「馬關春帆樓」赤間神宮・安徳天皇御陵に隣接する関門海峡を望む高台(現在は山口県下関市阿弥陀寺町)に現在もある割烹旅館春帆楼(しゅんぱんろう)。明治二八(一八九五)年四月十七日に日清戦争後の日清講和条約(下関条約・馬関条約)が締結された場所として知られる。ウィキの「春帆楼」によれば、『敷地内に日清講和記念館(登録有形文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像、講和条約時、李鴻章が宿泊した引接寺へは、敷地内より李鴻章道が続く』とある。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(3) けふのうた(全) /「ソライロノハナ」短歌部全電子化終了

 けふのうた

 

すさみたる女の顏の白粉か

酒に醉ひたるのちのこゝろか

 

われは尚生きて居たりき氣まぐれに

折から歌を詠みいでしため

 

むくむくと煙たちのぼり玉手箱

わがたのめごと消えはてにけり

 

[やぶちゃん注:原本では上句が「むくむくと煙たりのぼり玉手箱」であるが、意味が取れない。校訂本文を採る。]

 

一(ぴん)となげよ兔にも角にもすてばちの

このさいころを轉がしてみよ

 

        こゝろ惱ましく狂ほし

とんがらしくるりくるりとめぐる日は

眼にいたいたし泣け泣け咲二

 

[やぶちゃん注:前書は原本は「こゝろ腦ましく狂ほし」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「惱」とする。「くるりくるり」及び「いたいたし」の「いたいた」の後半は原本では踊り字「〱」。この踊り字使用は「ソライロノハナ」の中で特異点で、しかも同一歌の中に二箇所使われている点でもこれは確信犯で、この時の朔太郎にとってはこのスラーのような踊り字が、「こゝろ惱ましく狂ほし」の内在律を示すための音楽記号のようなものででもあったのかも知れない。

「咲二」は萩原朔太郎が二十二~二十六歳頃に盛んに作歌していた頃の雅号。]

 

かへろかへろ山(さん)しよ太夫の赤面か

やんまとんぼか飛べ飛べきちがひ

 

きちがひのうすら笑ひに茜(あかね)さし

いなごの如く鳳仙花とぶ

 

ひとゝこを見つめて居れよ日は照れよ

くるりくるりとめぐれひぐるま

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「めぐれひぐるま」の「め」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「けふのうた」歌群の終了を示している。

 本歌群を以って「ソライロノハナ」全巻が終了する。]



 私は既に「ソライロノハナ」の内、
をブログにて電子化しているので参照されたい。

これより「ソライロノハナ」総ての電子化に向けて、残るわずかな箇所を電子化、最終的にサイトに完全版「ソライロノハナ」を公開する作業に入る。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 47 鶴岡 めづらしや山を出羽の初茄子

本日二〇一四年七月二十六日(陰暦では二〇一四年六月三十日)

   元禄二年六月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十六日

である。この日、芭蕉は遅く午後三時頃に羽黒山を後にし、鶴岡へ夕刻五時頃に着いた。鶴岡では先の図司左吉(露丸。彼はここまで芭蕉らと同道している)の縁者であった庄内藩(鶴岡藩とも呼ぶ)士長山五郎衛門重行(しげゆき)亭に泊まり、その日から三日がかりで本句を発句とする歌仙「めづらしや」の巻が巻かれた。

 

  羽黑山を出(いで)て鶴が岡重行亭

めづらしや山を出羽(いでは)の初茄子(はつなすび)

 

[やぶちゃん注:「初茄子」(呉天編・享保一三(一七二八)年跋)。「曾良俳諧書留」に歌仙が載る。そこでは、

 

  元祿二年六月十日

    七日羽黑に參籠して

めづらしや山を出羽の初茄子    芭蕉

  蟬に車の音添(そふ)る井戸  重行

 

という前書に発句、脇を亭主が付けている(他に曾良と露丸)。

 「山を出羽(いでは)」は、羽黒山をというよりも、山また山の奥羽山脈を越えて遂に日本海側へと下ったといった感慨に「出で端(は)」山家から出てすぐにの意を掛けて、亭主が饗応した膳に盛られた初茄子を詠み込んで謝意の挨拶句とした。加藤楸邨は「芭蕉の山河」(講談社学術文庫一九九三年)で、この茄子は鶴岡近くで産する小粒の珍しい民田(みんでん)茄子と呼ばれるもので『非常にうまい』と記しておられる。山形県農林水産部六次産業推進課の「やまがた伝統野菜」によれば、民田茄子は『皮が堅く、果肉のしまりが良』く、『手のひらに乗るくらいに成長したところで収穫、卵型で果皮が堅く、果肉のしまりが良い。江戸時代、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われている』。『浅漬け、からし漬け、味噌漬け、一夜漬けなど漬物として食べられる』とある。]

2014/07/25

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (1)

     三 局部の別

 

 以上述べた通り外形では雌雄の別のわからぬやうな動物でも、腹の内には必ず卵巣か睾丸があつて、何らかの方法によつて卵と精蟲とを出遇はしめる。即ち或る者は體外で受精が行はれ、或る者は雌の體内に精蟲が移し入れられるが、雄が直接に雌の體内に精蟲を入れる場合には、これを確實に行ふために特殊の器官を具へて居る者も少くない。例へば普通の鳥類にはかやうな交接器はないが、「がん」・鴨の如き水鳥類の雄には生殖の出口に肉質の突起があつて、交接する時これを雌の肛門内插し入れる。駝鳥では雄の交接器が特に大きくて長さが三十糎以上もある。かやうな交接器が體外へ突出して居るときには一目してその雄なることが知れるが、平常はこれを體内に收め入れて居るため、外から見ては雌雄の局部の相違が少しもわからぬ。

[やぶちゃん注:『「がん」・鴨の如き水鳥類の雄には生殖の出口に肉質の突起があつて、交接する時これを雌の肛門内插し入れる』鳥類には疎い私はここで初めてそうした事実を知ったが、永く実際のそれを見たことがなかった。今回、科学記事を発信する「ワイアード」でカモの驚くべきペニス:螺旋型が「爆発」動画)」という記事を発見、イェール大学の進化生物学者 Patricia Brennan 氏が、カモの仲間であるバリケン(カモ目カモ科 Cairina 属ノバリケン Cairina moschataの家畜化されたもの。ウィキノバリケン」によれば、バリケンは『食用家禽として日本に持ち込まれたが、あまり普及していない。飛行能力が残っており日本各地で逃げ出したものが散見される』とある)オスが約二十センチメートルのドリル(螺旋)型のペニスを三分の一秒(!)ほどで伸ばしきる瞬間を高速度カメラで記録することに成功したとあり、動画も見られる。

「駝鳥では雄の交接器が特に大きくて長さが三十糎以上もある」なかなか見つからなかったが「Ostrich sex」という画像で確認出来る。なかなかに交尾中の♂の羽と雌雄の首の上下運動が美しい。二十五秒のところで交尾を終わって♂が離れる際に螺旋状のかなり大きなペニスが見える。なお、これらの鳥類の中に稀に存在するペニスはヒトと同じような海綿体組織から成るものの、その勃起は血液ではなくリンパ液によって行われていることが最近分かったようである。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(2) はつはる(全) 

 はつはる

 

ぎたあるのあの糸の切れしをつぐ如し

しづかにくるゝ春のゆうべは

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。]

 

ほのかにもケレオソートのにほひして

はつはるの日はくれて行くかな

 

[やぶちゃん注:「ケレオソート」クレオソート。ブナなどの木タールから得られる無色又は黄色がかった油状の液体で、グアヤコールなど種々のフェノール類の混合物。刺激臭があり、防腐薬・鎮痛薬などに用いる。現在の正式呼称は木(もく)クレオソート。所謂、正露丸の臭いである。]

 

春あさき若草山のふもとにて

しづこゝろなく吸ふ煙草かな

 

すつぽんと花火の玉の破れしとき

さくらさくらはあめいろに咲く

 

薄葉(すすやう)に口紅すこしにぢむほど

月の出よしやくちづけのあと

 

[やぶちゃん注:「すすよう」のルビ及び「にぢむ」はママ。「薄葉」は「薄樣(様)」とも書き、読みは「うすえふ(うすよう)」が正しい。薄手の鳥の子紙・雁皮紙又は一般に薄手の和紙を指す。]

 

思ふどち語りつかれて息らへる

藤椅子(といす)の影の靑きくちなし

 

[やぶちゃん注:「藤椅子」はママ(「籐椅子」が正しい)。ルビもママで、萩原朔太郎は詩篇交歡記誌(大正三(一九一四)年七月号『創作』。リンク先はこの注のために急遽作った私の電子テクスト)でも「藤椅子」と書き、しかも「といす」とルビを振っているから、朔太郎は普段も「籐椅子」を「藤椅子」と書き、しかも「といす」と発音していたと考えてよく、これは朔太郎にしばしば見られる一種の確信犯的誤用であるからママとした。]

 

なにかしてうき身をきつくし死ぬばかり

ひと戀ふすべをおぼへたきかな

 

[やぶちゃん注:「おぼへ」はママ。]

 

ふきあげのみづのこぼれをいのちにて

そよぎて咲けるひやしんすかな

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第五号(大正二(一九一三)年五月発行)に掲載された、

 ふきあげの水のこぼれを命にてそよぎて咲けるひやしんすの花

の標記違いの相同歌である。]

 

きのふ心ひとつに咲くばかり

ろべりやばかり悲しきはなし

 

[やぶちゃん注:「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種。歌群「ろべりや」他で既注。

 本歌は前と同じ『朱欒』に掲載された、

 きのふけふ心ひとつに咲くばかりろべりやばかりかなしきはなし

の標記違いの相同歌である。]

 

たち別れひとつひとつに葉柳の

しづくに濡れて行く俥かな

 

[やぶちゃん注:本歌も前と同じ『朱欒』に掲載された、

 たちわかれひとつひとつに葉柳のしづくに濡れて行く俥かな

の標記違いの相同歌。]

 

しのゝめのまだきに起きて人妻と

滊車の窓より見たるひるがほ

 

[やぶちゃん注:底本では「滊車」の「滊」は(「米」+「氣」)であるが表示出来ないし、意味は明らかに汽車であるから、かく訂した。因みに校訂本文は「汽車」としている。「滊」は「汽」の異体字である。以前から申し上げている通り、意味に変化がなく、誤用でないにも拘らず、異体字まで『校訂』してしまっている底本にはやや疑義がある。何故なら異体字を総て正字化する根拠とその徹底可能性には明らかに限界があるからであり、それが絶対の定本とされること自体に疑問を持つからである。

 本歌は、前と同じ『朱欒』所収の、

 しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓よりみたるひるがほ

の標記違いの相同歌。]

 

ちりほこり散らばふ黄なる木の葉など

むしろのうへの名所繪圖など

 

あさはかの女ごゝろにちらちらと

酒のこぼれて嘆く夜かな

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「嘆く夜かな」の「く」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「はつはる」歌群の終了を示している。]

交歡記誌   萩原朔太郎

 交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の藤椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

先頭にある指もて十字を切るごとし

女は左に素脚ひからし

男は右にならびて杖をとがらす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、ともがらはしんあいなり

遊樂は祈禱の沒落

靈肉の音の交歡

いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演説す。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年七月号『創作』。底本筑摩版全集第三巻の「拾遺詩篇」に所収する。

「戲奴」は「わけ」と読む。これは二種の用法がある万葉以来の古語で、一つは一人称の人称代名詞で自身を謙遜していう、「わたくしめ」で、今一つは二人称の人称代名詞。目下の相手を親しみを込めて、半ばののしるようにいう「おまえ」「そち」の意である。ここは標題と詩想、及び後に一人称の「われ」が出ることから、二人称代名詞と私は採る。

 但し、底本の校訂本文では、著者の削除と追加の書き入れのある掲載誌によって校訂本文が載る。以下に示す。但し、底本では一行目の「深き」を「深く」に、二行目の「凉しき」を「涼しき」に、九行目の「藤椅子」を「籐椅子」に『校訂』してしまっているのでこれらは元に復した。

 

 交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

涼しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の藤椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演説す。

 

 個人的には初出のままの詩の方がずっとよいと感ずる。]

橋本多佳子句集「紅絲」 月明

 月明

 

一燈なく唐招提寺月明に

 

野の猫が月の伽藍をぬけとほる

 

百姓や月の白壁惜しみなく

 

  薬師寺

 

月天へ塔は裳階(もこし)をかさねゆく

 

月光に朱(あけ)うばはれず柱立つ

 

月光のいまも黒髪老いつゝあらむ

杉田久女句集 256 花衣 ⅩⅩⅣ 廣壽山の老僧林隆照氏遷化 四句

  廣壽山の老僧林隆照氏遷化 四句

 

木の實降る石に座れば雲去來

 

蕗味噌や代替りなる寺の厨

 

櫻咲く廣壽の僧も住み替り

 

お茶古びし花見の緣も代替り

 

[やぶちゃん注:「廣壽山の老僧林隆照氏」小倉北区寿山町にある黄檗宗の名刹広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)の住持で、坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、林隆照『禅師は漢詩に造詣が深く、久女のよき理解者であり親交が深かった』とある。]

飯田蛇笏句集 山響集 電子化始動 / 昭和十一年(全)

飯田蛇笏句集「山響集」の電子化を開始する。

 

[やぶちゃん注:「山響集」は「こだましふ(こだましゅう)」と読む。飯田蛇笏が先に電子化した第二句集「靈芝」に次いで昭和一五(一九四〇)年十月三十一日に河出書房より刊行した第三句集である。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリー版を視認したが、ポイントの違いは原則、無視した。ルビは( )で示した。底本では上部左(右)頁でそれぞれ左(右)インデントで年号と季節が示される(右書き)という変わった趣向を持つ。それぞれの頁の頭にあるが、変化する頁の最初の句の前にそれを〈 〉で配しておいた。]

 

句集

山響集

飯田蛇笏

 

河出書房

 

[やぶちゃん注:扉。底本では右書き。「河出書房」は下インデント。次に目次が入るが省略する。]

 

句集 山響集(こだましふ)   飯田蛇笏

 

   昭和十一年

 

〈昭和十一年・春〉

 

水神をまつる日虧けて夏隣

 

〈昭和十一年・夏〉

 

つりそめて水草の香の蚊帳かな

 

かたつむり南風茱萸につよかりき

 

荼毘のあと炭いつまでも藜草

 

[やぶちゃん注:「藜草」は「あかざぐさ」と読んでいるか。ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ Chenopodium album変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum 。春から初夏にかけて若葉や中心部の芽が赤紫色となり、初夏には淡緑・紅紫の小花を房状につける。]

 

聖母(マドンナ)に灯し紫陽花こゝだ插す

 

[やぶちゃん注:「こゝだ」副詞。沢山。大層。甚だしく。漢字では「幾許」と書く。「ここば」とも。万葉以来の古語。]

 

空梅雨に衷甸(ばしや)みどりなる耶蘇詣で

 

[やぶちゃん注:「衷甸」は二頭立ての馬車を意味する漢語。音は「チュウデン」で「甸」は「乗」と同義(そのせいか「チュウジョウ」と誤読する表記を見かける)、「衷」は中央の意か。元は貴人の乗る馬車を指す。]

 

   御嶽昇仙峽

 

打水す娘に翠巒の雲ゆけり

 

[やぶちゃん注:「御嶽昇仙峽」秩父多摩甲斐国立公園に属する名勝昇仙峡の正式名。甲府盆地北側山梨県甲府市の富士川支流である荒川上流に位置する渓谷。長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約五キロメートルに亘る渓谷で奇岩多く、特に十一月頃の紅葉が美しいことで知られる(ウィキの「昇仙峡」に拠った)。]

 

〈昭和十一年・秋〉

 

毬栗のはぜかゞりゐる八重葎

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「はぜ」は「爆(は)ず」で]草木の実などが熟しきって裂け飛び散る、はじけるの意の「爆(は)ぜる」の文語。]

 

秋雞が搏ちまろがせる狗(こいぬ)かな

 

秋雷に首さしのべて塒雞

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「塒雞」は「ねぐらどり」と読む。]

 

夜も撞いて江湖の鐘や鰯(いわし)雲

 

    註――江湖會

 

[やぶちゃん注:「江湖」=「江湖會」は「がうこゑ(ごうこえ)」と読み、禅宗寺院で修学参禅の僧を集め、夏安居(げあんご:単に「安居」という。元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院。)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。因みに安居の開始は結夏(けつげ)、終了は解夏(げげ)と称する。雨安居(うあんご)ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)を行うことをいう。]

 

   箱根賽の河原にて

 

曾我の子はこゝにねむりて鰯雲

 

[やぶちゃん注:「箱根賽の河原」現在、双子山山麓箱根神社の芦ノ湖畔元箱根の入口に建つ一の鳥居の傍らにある。この地は神仏習合の江戸時代まで地蔵信仰の聖地として信仰を集め、かつての芦ノ湖畔には至るところに供養のための夥しい石仏や石塔が並んでいたというが、明治の廃仏毀釈によって現在のように纏められ、矮小化されてしまった。箱根町史跡とされ、伝曽我兄弟の墓と伝える日本最古とも言われる五輪塔二基があるものの、同神社(曽我神社として後掲する曽我兄弟を祀っているにも拘わらずである。但し、同神社の曽我兄弟祭祀は江戸の正保四(一六四七)年、小田原城主稲葉美濃守正則の造営になる新しいものである)の公式サイトにさえ記されていない。

「曾我の子」仇討ちで知られる曽我兄弟。弟の曽我五郎時致(ときむね)が箱根権現(箱根神社の旧称)の稚児であった関係から、賽の河原伝兄弟の墓とするものが現存する。傍らにやや小さな同形の五輪塔があり、こちらは兄の曽我十郎祐成の思い人であった虎御前の墓とも伝える(グループ東海道53コム制作のサイト「夢出あい旅 サイバー五十三次」の「曽我兄弟の墓と賽の河原」で写真が見られる)。但し、伝承に過ぎず、供養塔の可能性はあるが墳墓とは思われない。彼らの墓地としては千葉県匝瑳(そうさ)市匝瑳地区山桑に伝わる曽我兄弟の墓の方がまだ信憑性がある(リンク先は匝瑳市公式サイト内)。但し、ネット上の情報では賽の河原に現在残っている石仏石塔群の中には鎌倉後期までは遡れるものが認められるようである。]

 

艇庫閉づ秋寒き陽は波がくれ

 

  北巨摩古戦場耳塚原 二句

 

巖温くむら雨はじく秋日かな

 

[やぶちゃん注:「北巨摩古戰場」「耳塚原」ともに不詳。個人サイト「城と古戦場」の「山梨県の城」には、谷戸城(北巨摩郡大泉村谷戸。武田氏滅亡後に徳川家康と北条氏直との覇権争いに利用される)・若神子城(北巨摩郡須玉町若神子。武田信玄が佐久進軍の際に、幾度もここに宿を置いた)・獅子吼城(北巨摩郡須玉町江草。武田信虎の甲斐統一の仕上げの山城)の三つが北巨摩郡としては載る。リンク先の各解説を読むと、獅子吼城のそれが凄絶な戦場の雰囲気を伝える。「耳塚原」も固有名詞と思われるが、検索に掛からない。用年研究家の御教授を乞うものである。

 老婆心乍ら、「温く」は「ぬくく」と読む。]

 

雷遠く雲照る樺に葛咲けり

 

   信濃白骨行

 

温泉(でゆ)ちかき霽れ間の樺に秋の蟬

 

〈昭和十一年・冬〉

 

花金剛纂(はなやつで)焚火に燻(く)べて魚香あり

 

[やぶちゃん注:「花金剛纂」セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科ヤツデ Fatsia japonica の枝分かれした小さな毬状の白い花を指す。「金剛纂」は漢名。熟した実は堅いことからの命名か。ヤツデの花を燃やすと魚臭いのか? 今度、やってみようと思う。実験後に結果を追記する。]

 

マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな

 

   靑森港

 

ペチカ燃え牕(まど)の寒潮鷗とべり

 

うす日して震災堂の玉あられ

 

[やぶちゃん注:「震災堂」現在の東京都墨田区横網の横網町公園内にある東京都慰霊堂。昭和五(一九三〇)年に関東大震災の身元不明遺骨を納め、死者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和二三(一九四八)年より東京大空襲の身元不明遺骨をも納め、死亡者の霊を合祀して、昭和二六(一九五一)年に東京都慰霊堂となった。東京都の施設であるが仏教各宗により祭祀されている。ここは元陸軍被服廠があった場所であったが、大正八(一九一九)年に赤羽に移転してその後公園予定地として更地にされて被服廠跡と呼ばれたが、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災では多くの罹災者の避難場所となっていた。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災がこの家財道具に燃え移り、更に火災による旋風が起こったためにこの場所だけで推定東京市全体の死亡者の半数以上、訳三万八千人もの市民が死亡したとされる。震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和五(一九三〇)年九月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。昭和六(一九三一)年には震災復興記念館が建てられている。本堂は築地本願寺の設計でしられる名建築家伊東忠太の手になる(ここまではウィキ東京都慰霊堂に拠る)。Sohsuke Suga 氏の震災慰霊堂で昭和五創建当時の写真が見られる。]

 

聖樹灯り水のごとくに月夜かな

 

どんぐり   山之口貘

 どんぐり

 

どんぐり

どんぐり

どんぐりさん

むこうの お山へ

いきたくて

おいけの なかに

ざんぶりこ

どんぐり

どんぐり

どんぐりさん

おみずが

つめたい

はっくつしょん

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年十一月号『小学一年生』。]

金魚   山之口貘

 金魚

 

笑いなさんなと さも言いたげな

おどけ顔の

くろんぼデメキン

 

白に黄に黒や青などの

色とりどりを身に染めて

すまし顔のシュブンキン

ながい尾びれもあでやかに

夢追い顔のリユーキン

 

一度はお目にかかってみたいのが

オランダシシガシラにランチエウで

今夜は顔見知りの金魚ばかりだ

 

みんな口をぱくぱくなので

アイスクリームが

ほしいんじゃないのかいと

そばの弟に言ってみるのだが

自分がほしいんじゃないのかいと

金魚のかわりに弟が笑った。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年七月号『中学生活』(小学館発行)。以下、一応、グーグル画像検索を掲げておく。

『くろんぼデメキン」』→出目金」(クロデメキンで掛けるよりもこちらの方が生体個体写真が多いため)

シュブンキン

「リユーキン」→リュウキン」

オランダシシガシラ

ランチュウ

 個人的にはどうも金魚は好きになれない。特に最後の二品種などは私には奇形にしか思われない。因みに金魚が出る名詩といえば、

 

 水中花   伊東靜雄

 

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

 

今歳水無月のなどかくは美しき。

軒端を見れば息吹のごとく

萌えいでにける釣しのぶ

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きてあらむ。

六月の夜と晝のあはひに

萬象のこれは自ら光る明るさの時刻。

遂ひ逢はざりし人の面影

一莖の葵の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

すべてのものは吾にむかひて

死ねといふ、

わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

これに尽きる。]

ウォター・シュート   山之口貘

 ウォター・シュート

 

 スル スル すべって

 バシャーン。

 

水が びっくり

しぶきは 高く とびあがる

はずんだ ボートが

大きく ゆれる

しぶきに ぬれて

みんなも ゆれている

ぼうやは おどおど

パパの 首を だいている

ぼくらは へいちゃら

そうかいだよ。

スルスルすべって

バッシャーン

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年七月号『小学三年生』。ウォター・シュートはお若い方には分からないかも知れない。個人サイト「T. Kanehira & TEXAS COMPANY」の小学生時代の風景に「豊島園のウォーターシュート」に写真がある。私(昭和三二(一九五七)年生。幼稚園と小学一年生まで練馬の大泉学園にいた。リンク先に作成者の方は私より十歳年上であるが、どの写真もひどく懐かしい感じがするんである)はまさにこれに乗った時のことを未だに覚えいる。舳先のお兄さんのジャンプがとってもカッコよかったんだ……]

阿蘇の春   山之口貘

 阿蘇の春

 

ながいながい冬のねむりから

カエルやトカゲの

目のさめるころ

空には高く

ヒバリのさえずるころ

ツバメがまちにやってくるころ

ヒガンザクラやモモの木に

アネモネやチューリップや

モクレンに

きれいな花のひらくころ

山はむねをはっていきづいてくるのだ

おお 阿蘇の高原の

みわたすかぎりのうすみどりよ

四月のあたたかい陽をあびて

みんな希望にもえたつのだ

見よ

むこうでウシがたちあがり

こちらのウシもたちあがった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年四月号『五年の学習(進級お祝い号)』(学習研究社発行)。]

アリスは52位だった

しばしば僕の少女趣味と勘違いされるんであるが、うちのアリスは先代のアリスの血統書の正真正銘の名前がAliceで、それを引き継がせたもので、今のアリスの血統書上の本当の名前はアメジスト(奇しくも僕の好きな僕の誕生石。……「奇しくも」でも何でもないか……)なんだが、これは如何にも呼びづらいので、亡き母と話して、アリスにしたんである。
因みにあまり知られていないようだが、血統書の名前は、母親の1回目の出産の場合をA胎と呼び、出来た子供には総ての子にAで始まる名前をつけるんである。先代のアリスの父は「アーサー」だったが、母親は「ジャバリン」であったから、先代アリスのおばあちゃんは10回も出産した肝っ玉母さんだったことが分かるんである。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 46 涼しさやほの三か月の羽黑山

本日二〇一四年七月二十五日(陰暦では二〇一四年六月二十九日)

   元禄二年六月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十五日

である。この日は羽黒山滞在の最後の夜であった。

 

涼しさやほの三か月の羽黑山

 

涼風やほの三ケ月の羽黑山

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「曾良俳諧書留」の句形(元は「涼風」を「掠風」と誤る。訂した)。後者は真蹟短冊もあり、これが初案である。底本(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では六月九日の作かとある。句柄や状況からも実際には私もこの日の作であったと思いたい(この日の月の山形での南中は六時十二分。但し、月齢から見ると、確かな「三か月」の形であるためにはその六月八日(南中は五時二十九分)の方がよりよいが、ここは三山順礼の間の月が三日月であったその名残を詠んだとすれば問題ない)。

 夕景である。しかし、この句、ただの写生ではない。

 本句は意外にも「奥の細道」旅立ち以後の初めての月の句であるが、安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」でこの点に着目し、芭蕉が冒頭「松島の月まづ心にかかりて」と述懐しておきながら、結局、『松島で月の句を詠まなかったのは』、『羽黒の月(法(のり)の月)』(仏法の真如を写す明鏡としての月の謂いであろう)『を大切に思う心が既にその時点』(松島での意)『であったからだ、と覚らせる作りだ。「ほの三か月」に仄見を掛け、前文の「他言する事を禁ず」と呼応させて、私にも修行者の真如の月がいくらか見え初めたと言っているのだ。三日の新月に合わせて羽黒入したのは、どうやら予定の行動だった。ここまでくると先に見咎めた「日和待」』(最上川大石田の段で天気はそう悪くないのに日和を待ったとあり、事実、滞留している)『の意味がほぐれる』とある。頗る同感する分析である。]

2014/07/24

私は

そんな感懷が私にもあつたといふことをあなただけに自白します。

君は思わないか……

君は思わないか?……宮澤賢治が福島第一の致命的現実をどう詩に読むかを……それを感じず、宮澤賢治の研究者であるなどという輩は――賢治の研究者では――ない。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(1) ひとづま(全)

 うすら日 

 

うすら日はやゝ來て這へる露臺など

紅き花など咲けるこのごろ

 

[やぶちゃん注:「うすら日」の標題の裏に一首のみ配されたもの。因みに筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第十五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の校訂本文では「やや来て」となっているが、この「来」は明らかに誤植である。]

 

 ひとづま

 

なにごとも花あかしやの木影にて

きみ待つ春の夜にしくはなし

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

なにごとも花あかしやの木影にて君まつ春の夜にしくはなし

の標記違いの相同歌である。]

 

あいりすのにほひぶくろの身にしみて

忘れかねたる夜のあひゞき

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

あいりすのにほひぶくろの身(み)にしみて忘(わす)れかねたる夜(よる)のあひゞき

の標記違いの相同歌(太字「あいりす」は底本では傍点「ヽ」)。]

 

夏くれば君が矢ぐるまみづいろの

浴衣の肩ににほふにひづき

 

[やぶちゃん注:本歌は同じく朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

夏(なつ)くれば君(きみ)が矢車(やぐるま)みづいろの浴衣(ゆかた)の肩(かた)ににほふ新月(にひづき)

の標記違いの相同歌。]

 

しなだれてはにかみぐさも物はいへ

このもかのも逢曳のそら

 

[やぶちゃん注:前歌と同じ初出の、

しなだれてはにかみぐさも物(もの)は言(い)へこのもかのものあひゞきのそら

の標記違いの相同歌。]

 

おん肩へ月は傾むき煙草の灯

ひかれる途のほたるぐさ哉

 

[やぶちゃん注:底本校訂本文では「傾むき」を「傾き」に、「灯」を「火」と『訂』する。採らない。特に後者は明らかな捏造である。]

 

なにを蒔く姫ひぐるまの種をまく

君を思へと涙してまく

 

[やぶちゃん注:本歌は、朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

なにを蒔くひめひぐるまの種を蒔く君を思へと涙してまく

の標記違いの相同歌である。]

 

あひゞきの絶間ひさしき此の頃を

かたばみぐさのうちよりて泣く

 

うち侘びてはこべをつむも淡雪の

消(け)なまく人を思ふものゆへ

 

[やぶちゃん注:「ゆへ」はママ。朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に載った、

うちわびてはこべを摘むも淡雪の消なまく人を思ふものゆゑ

の標記違いの相同歌である。]

 

かくばかりひとづま思ひ遠方の

きやべつの畑の香にしみてなく

 

いかばかり芥子の花びら指さきに

しみて光るがさびしかるらむ

 

[やぶちゃん注:「芥子」は原本では「艾」(よもぎ)の右払いの左の起筆箇所に左下向きの点が入った字体。後掲する先行する歌形に従い、「芥子」と訂した。本歌は朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に載った、

 

いかばかり芥子(けし)の花(はな)びら指(ゆび)さきに泌(し)みて光(ひか)るがさびしかるらむ

 

の標記違いの相同歌である。]

橋本多佳子句集「紅絲」 北を見る

 北を見る

 

いなびかり遅れて沼の光りけり

 

いなびかり北よりすれば北を見る

 

地(つち)の窪すぐにあふるゝいなびかり

 

わが行方いなづましては闢きけり

 

いなづまの触れざりしかば覚めまじを

 

双の掌をこぼれて了ふいなびかり

 

いなづまのあとにて衿をかきあはす

 

いなびかりひとの言葉の切れ切れて

 

いなづまの息つく間なし妬心もつ

 

燈の消えて野にあるごときいなびかり

耳嚢 巻之八 一言人心を令感動事

 一言人心を令感動事

 

 文化四五年加州金澤城燒亡(しやうまう)、僅に出丸(でまる)やうの所殘(のこり)て、加賀守も右の處に假住居(かりずまひ)ありけるに、領分の内ある百姓の、此度の燒亡にて國主難儀の儀を歎き、牛蒡(ごばう)二把(は)を持參、獻じ度(たき)由申(まうし)けるを、重き家來其外其事に拘(かかは)る役人、志は奇特なから百姓より直(ぢき)に領主へ右體(てい)の品獻上と申(まうす)儀、例は勿論聞不及(ききおよばざる)事など各(おのおの)申合(まうしあひ)、彼是(かれこれ)論議有(あり)しを加賀守聞(きき)て、夫(それ)は奇特なる事なり、非常の折柄は常の取計ひには難成(なりがたし)、志の處過分至極なり、早く調味せよとて、料理申付(まうしつけ)て其身も食し、殘りあらば有合(ありあ)ふもの寄り集り候ものへもあたへよとありければ、其事を聞(きき)、灰片付(はひかたづけ)に集りし者まで難有(ありがたし)とて給(たまひ)けるが、あけの日より右の趣(おもむき)承(うけたまはり)及び、百廿萬石の村々百姓共、銘々(めいめい)收納物の儀申立(まうしたて)、彼是取集りたる金十七萬兩の由。且領分の内いづれの村なるか、兼て非常の備(そなへ)とて、城築(しろつき)其外(そのほか)異變格別の時は斗枡(とます)にて小判小粒一枡宛(づつ)約候事の由。是等は僞説にも有(ある)べけれど、大家に候得ばあるまじき事にもあらざらん歟。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「文化四五年」西暦一八〇七~一八〇八年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏。

・「出丸」本城から張り出して設けられた城の外衛とする曲輪(くるわ)。出曲輪(でぐるわ)。

・「加賀守」底本鈴木氏注に、『加賀中将斉広が正しい。前田氏百二万二千七百石』とある。前田斉広(なりなが 天明二(一七八二)年~文政七(一八二四)年)は加賀藩第十一代藩主。金沢にて生まれ、父重教が弟の治脩(はるなが:第十代藩主。)に家督を譲って隠居した後、生まれた息子であった。寛政七(一七九五)年に実兄斉敬(なりたか)が夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。寛政九年、将軍徳川家斉より偏諱を授かって斉広に改名、正四位下左近衛権少将・筑前守に任ぜられた後、享和二(一八〇二)年に治脩の隠居により家督を継いで加賀守を称し、同年六月に左近衛権中将に任ぜられた。治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折、文政五(一八二二)年に嫡男斉泰に家督を譲って隠居、肥前守を称した。参照したウィキの「前田斉広」には、芥川龍之介の短編小説「煙管」(大正五(一九一六)年発表)では、『金無垢の煙管をモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている』とある。芥川龍之介フリークの私としては特に附しおきたい。

・「二把」後の分配するシーンから見て、一把が相当な分量であったものと思われる。

・「奇特なから」ママ。

・「斗枡」一斗枡。一斗=十升=百合で現在の一八・〇三九リットル。

・「小粒」岩波版長谷川氏注に『江戸では一歩・二朱などの小型金貨をいう(上方は豆粒状の銀貨)』とある。加賀は関西圏であるから後者の可能性の方が高いか。

・「約候事」底本では右に『(尊經閣本「納候事」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一言(いちごん)が人心を感動せしむる事

 

 文化四、五年のこと、加賀国金沢城が焼亡(しょうぼう)、僅かに出丸(でまる)のような所ばかりが焼け残って、藩主加賀中将斉広(かがのちゅうじょうなりなが)殿も右の所に仮住居いなされておられたところが、領分の内の、とある百姓、

「……このたびの焼亡にて、国主様、御難儀の儀を嘆き悲しみ、牛蒡(ごぼう)二把(わ)を持参致し、これ、お畏れながら、献じとう御座いまする――」

との由、申し出でたるを、重臣・家来その外、献上等の申し出を掌れる役人ども皆、

「……志しは奇特(きどく)乍ら……」

「……その……百姓より直(ぢか)に御領主へと申すは……」

「……そうそう。……しかもまあ、その……かようなる品をば、献上致いすと申す儀は、これ……」

「……如何にも。過ぎし例には勿論のこと……凡そ牛蒡は……聞いたことが御座らぬ……」

なんどと、おのおの申し合い、牛蒡二把に議論白熱して御座ったところが、加賀中将殿御自身のお耳へも入った。

 すると、加賀中将殿、

「それは奇特なることじゃ! 非常の折からは、常の取り計い方では万事は成り難きもの! かの百姓の志しのあるところ、これ、過分至極! 早(はよ)う、調味せよ!」

というご下知なれば、早速に受け入れ、料理申し付け、加賀中将殿も食され、

「残りあらば、この場におる者は申すに及ばず、これより出丸周辺に来ったる者らへも、めいめい与えよ。」

との仰せが御座ったによって、それを聞いて、お城の火事場整理に参じて御座った下々の者も、この有り難き御下賜の牛蒡を食したと申す。

 ところが、その翌日より、この牛蒡献上の一部始終を聴き及んだる、加賀百万石の村々の百姓どもが、一人残らず、めいめいの分に応じたる収納品を上納致したき儀を、これ、申し立てて来たった。その、かれこれ取り集めたる品々、ざっと金子に換算致いても、実に金十七万両に相当する驚くべきものとなって御座ったと申す。

 なお且つ、聴いた話にては、加賀領分の内には――孰れの豊かなる村なるかは存ぜねど――城築(じょうちく)大修理その他御領内に格別の異変のある折りには、かねてよりの非常の備えとしてあったものをおのおのの家が出だいて、一斗枡にて小判・小粒一枡ずつ当村方より納めることを、その村の掟(おきて)として取り決めて御座る由。

 これらは総て偽説のようにも思わるるが、かの加賀百万石の大家にあらるればこそ、必ずしもあり得ぬこととも断ずることは出来ぬことと、言えようか。

ひなまつり   山之口貘

 ひなまつり

 

ミミコの

ひなだんかざりは

ボール紙だ。

だいりびなもボール紙

三人官女もボール紙

五人ばやしもボール紙

右大臣も左大臣も

みんなボール紙。

おかあさんが

はさみでちょきちょき

おねえさんは

おけしょうのかかりで

みごとにできあがった

ひなだんかざりだ。

ヒロキチくんも

あそびにきて

すてきだなあ と目を見はった。

ミミコは もうすぐ五年生だ。

ひなだんかざりだって いまに

じぶんの手で

つくるのだと

おもった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年三月号『小学四年生』。

「おねえさん」ミミコ(泉)さんは長女であるから、これは実の姉の謂いではない。近所の年上の「おねえさん」であろう。

 発表当時は泉さんは既に十二歳であるから、画面の彼女は前年の彼女としてもあり得ない感じがする。寧ろ、掲載誌に合わせたものであれば、泉さんが小学四年生、九歳以前(昭和二十八年以前)の景を元にしているか。……小学生のミミコさんの雛人形を化粧する「おねえさん」とは……中学生になった泉さん自身なのかも知れない。……

 児童しとしても何とも特異である。この当時、小学館の『小学四年生』を買って貰える家庭の女の子がこれを読んでどう思ったろうか。雛人形を激しく偏愛する私(「忘れ得ぬ人々 9 Mariaなどを参照されたい)には、この一篇、何か、ぐっときてしまうんである。]

杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句

 

  英彦(えひこ)山 六句

 

谺して山ほととぎすほしいまゝ

 

[やぶちゃん注:大阪毎日新聞社及び東京日日新聞社共主催になる「日本新名勝俳句」の「山岳の部英彦山」で帝国風景院賞(金賞)に選ばれた久女の代表作とされる名吟である(同受賞作は全二十句)。久女三十歳。

「英彦山」は通常「ひこさん」と読み、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。耶馬日田英彦山国定公園の一部を成す。ウィキの「英彦山」によれば、『日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる』。古くは「彦山」という表記であったが、享保一四(一七二九)年、霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。『英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』とある。坂本宮尾氏の「杉田久女」には、『江戸時代には英彦山参りの講が組織されて多くの参拝者があったが、明治維新の神仏分離令や修験道廃止令で霊山の参拝は衰退し、山伏の多くは還俗した。最盛期には三千八百あった宿坊も百ほどになっていた、と久女の日記にある』とある。山の中腹五百メートルほどの位置に英彦山神宮(ひこさんじんぐう:通称、彦山権現。現在の福岡県田川郡添田町内)があり、ウィキの「英彦山神宮」によれば、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ:高天原でのアマテラスとスサノオとの神生み比べの誓約の際にスサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の一柱。葦原中国平定の折りには天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるも、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。後、タケミカヅチらによって大国主から国譲りがなされ、再びオシホミミに降臨の命が下ったが、オシホミミは息子のニニギに行かせるように進言し、ニニギが天下ることとなるという、天孫降臨でも重要な役柄を担っている。オシホミミは「忍穂耳」で生命力に満ちた稲穂の神の意で、後、稲穂の神、農業神として信仰されるようになる。ここはウィキの「オシホミミ」に拠った)を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する』。『英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する』とある。

 試みに、本句を、総て現代仮名遣でローマ字化してみる。 

Kodama site yamahototogisu hosiimama

十七音中、“a”音が六音(その内、子音の“ma”音が四音を占める)、“o”五音(その内、子音の“ho”音が二音、“to”音が二音を占める)で、この優勢音が、まさに、不如帰の音(ね)の木霊となって、霊性に満ちた幽邃な英彦山全山を領しつつ、その絶対の静謐と広角景観を余すところなく響かせ、映し出している。句柄は豪放にして磊落、自然の持つ神秘の力を伝える男性的な霊力を孕むものの、以上の音律の与えるものは極めて女性的で限りなく優しい。寧ろそれは、私には、老子の称した玄牝やユングの原母(グレート・マザー)に通じるもののさえ感じられ、それがまた、久女という熱情の詩人に相応しいとも感ずるのである。] 

 

橡(とち)の實のつぶて颪や豐前坊 

 

[やぶちゃん注:同じく「日本新名勝俳句」で帝国風景院銀賞に選ばれた句。

「豐前坊」はこの時は既に前注に示した明治の廃仏毀釈によって英彦山神宮摂社高住(たかすみ)神社となっていた。英彦山神宮銅の鳥居から更に約五キロメートル東へ入った英彦山北東中腹に鎮座する(前句の注も参照されたい)。ウィキの「英彦山」によれば、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあり、まさにこの「橡の實のつぶて颪」はそうした天狗の石礫(いしつぶて:主に江戸時代以降、明治期まで記録されている怪異の一つ。凡そ自然現象や人為とは思われない、石や当該物質などが存在しない場所(屋内を含む)に、どこから飛んで来たのか分からない物が投げ込まれる(若しくは投げつける・投げ落とす音のみがして投げた対象物体が存在しない)怪奇現象を言う。ウィキの「天狗礫」(てんぐつぶて)によれば、『天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。天狗が人々に素行の悪さを悔い改めさせようとしているともいい、狐狸の仕業ともいわれる』とある。)を直ちに想起させる久女としてはちょっと珍しい、おかしみの諧謔をも含ませた益荒男振りの句である。] 

 

六助のさび鐵砲や秋の宮 

 

[やぶちゃん注:「六助のさび鐵砲」戦国期の、ここの近くの毛谷村出身(現在の大分県中津市山国町(やまのくにまち)槻木(つきのき)。「毛谷村神社」と神社名に旧村名が残っているのが判る)の怪力無双の義人毛谷村六助(木田孫兵衛)に纏わるとされる錆びた鉄砲が同神社にはあったものか。福岡県添田町公式サイト内の毛谷村六助伝説から引用させて戴く。

   《引用開始》

 英彦山高住神社から東へ行き、野峠から大分県側に四キロほど下った東側山中に槻の木の人家があり、その中に「木田孫兵衛墓」と彫った石塔があって、毛谷村六助の墓だといわれる。六助の父は広島の人で佐竹勘兵衛といい、九州の緒方氏を討つために京都郡今井にやって来て、そこで知り合った園部与兵衛の娘との間に生まれたのが六助だという。当時浪人は人家には住めなかったので、犬ヶ岳に登りケヤキのほら穴で夜を明かし、それから六四町下った現在地に村を開いた。毛谷村の名はケヤキからついたといわれる。

 六助は正直で親孝行な男で、きこりをし薪を背負って小倉の町(彦山の町だともいう。)に売りに行った。大変な力持ちで馬の四本足を両手で持って差しあげたという。その力は彦山権現に祈願してさずかり、彦山豊前坊の窟で天狗から剣術を授けられたといわれる。

 そのころ、広島藩の剣術師範に微塵流の京極内匠という者がいて、同じ藩の師範八重垣流の達人吉岡一味斎の娘お園に思いを寄せていた。ところが、お園も一味斎も受けつけないので、内匠は一味斎をやみ討ちして豊前へ逃げた。

 内匠は小倉藩に仕官するために、藩主の前で試合をすることになるが、その前に相手である六助をたずね「老いた母への孝養のために勝たせてもらえまいか」と頼んだ。六助は、その親を思う気持に感激して内匠に勝をゆずった。後になって六助はそれがまったくの偽りであると知り、烈火のごとく怒った。

 ちょうどそのとき、お園は母親と彦山に参詣に来て、六助の家に立ち寄り、あだ討ちの助太刀を頼むので、六助は承諾した。その後、小倉城下でめざす相手の内匠を見つけ、首尾よくかたき討ちを果たせることができた。これが縁で六助はお園と結婚した。

 上津野の高木神社より今川のずっと上流にお園の妹お菊の墓というのがある。父のあだを討つために六助を頼って毛谷村に行く途中、かたきによって殺された。むら人はその悲運をあわれみ、墓石をたてて供養したといわれる。側に大きな松があって、この松に提灯をかけて姉のお園を待ったというので提灯掛の松といわれたが、残念なことに今は枯れてないし、その跡もわからなくなっている。

 六助は後に、豊臣秀吉の前で相撲をとり、三五人に勝ったが、三六人目の木村又蔵に負けたので(三六人抜きしたという話もある。)加藤清正の家臣になり、木田孫兵衛と名乗り、秀吉の朝鮮出兵に従軍して戦死したといわれる。また無事帰国して六二歳で没したという話もある。

   《引用終了》

 以下を示すと引用許容を越えるので、要約させて戴くと、この六助の仇討ちは江戸時代の軍記物「豊臣鎮西軍記」(成立年代未詳・作者未詳)に天正十四(一五八六)年の事実と記されてあるが、天明六(一七八六)年に大阪道頓堀で人形浄瑠璃として上演された「彦山権現誓助劔」(ひこさんごんげんちかいのすけだち:梅野下風・近松保蔵作)が大当りとなったのが巷間流布の元とされる(但し、浄瑠璃の特性で原話からの有意な改変が行われてある)。その後、寛政二(一七九〇)年には大坂で歌舞伎化され、人形浄瑠璃とともに人気狂言として上演されることで、六助伝承は大いに広まることとなったとある。二〇一一年の大阪松竹座公演「通し狂言 彦山権現誓助劔」のパンフレットによれば『六助は、英彦山麓の毛谷村、いまの大分県中津市の山中に住んでいたが、六助の墓が土地に伝わり、福岡県側の英彦山神社には六助が使ったという刀、鉄砲が残っている。郷土の英雄ということだ』とある(やま爺氏の「お気楽庵」の二月大歌舞伎 松竹座 行ってきました。から孫引きさせて戴いた)。また、毛谷村六助と同一人物として載せるウィキの「貴田孫兵衛」には、『貴田孫兵衛(きだ まごべえ、生没年不詳)は、 戦国時代の武将で、加藤清正の家臣。実名は「統治」ともされるが不詳』。『俗に「加藤十六将」の一人とされる。九百余石を知行していたといい、文禄・慶長の役には鉄炮衆四十名を率いて従軍した。『清正記』は加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に討死したとしているが、その後も清正の書状に貴田孫兵衛の名があるためこれは誤伝らしい。その最期は不明であるが、孫兵衛の一族は、加藤家改易後細川藩士となっている。後述するように、孫兵衛は毛谷村六助の名で有名であるが、史実と伝説との区別が必要である』とし、『江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に1960年代に韓国の民間伝承論介伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたが、もちろん史実ではない。大分県中津市には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓なるものがあり地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えているが、歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もある』とある。因みに、この「論介」(?~一五九三年)とは朝鮮李朝時代の妓生(キーセン)で、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の義妓として知られる人物。全羅道長水生まれ。一五九三年六月に慶尚道の晋州城を占領した日本軍が城の南側を流れる南江の畔りの矗石(ちくせき)楼で酒宴を開いたが、その席に侍らせられた論介は日本の一武将(朝鮮では毛谷村六助とされる)を岩の上に誘い出して抱き抱えたままともに南江に身を投じたという。以来、この岩を義岩として矗石楼の奥に論介祠堂を建て、毎年六月に祭事が行われる、朝鮮では知らぬ人のいない義女である(以上の論介の事蹟は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。] 

 

秋晴や由布にゐ向ふ高嶺茶屋 

 

坊毎に春水はしる筧かな 

 

[やぶちゃん注:現在の英彦山詣でをされた坂本宮尾氏(「杉田久女」)によれば、『鳥居から奉幣殿まで一キロにおよぶ長い長い石畳の参道』『の両側に宿坊跡と記した立て札が並び、人が住んでいる宿坊がいくつか残っているばかりである。久女が〈坊毎に春水はしる筧かなと〉詠んだ、坊から坊へ竹の樋を渡した光景も見られない』と記しておられる。] 

 

三山の高嶺づたひや紅葉狩 

 

[やぶちゃん注:「三山」英彦山は北岳・中岳・南岳の三峰から成り、中央にある中岳山頂に英彦山神宮本社である上宮がある(ウィキの「英彦山」に拠る)。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 45 月か花かとへど四睡の鼾哉

本日二〇一四年七月二十四日(陰暦では二〇一四年六月二十八日)

   元禄二年六月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十四日

である。以下の句、羽黒山滞在中の句ではあるが、この日に同定出来る資料はない。しかし三山礼拝を終えて困憊して休んだその翌日(会覚自らが芭蕉を別院に訪ねている)にこの禅味に満ちた句を配するのは強ち不自然とは思われないのである(この翌日には「曾良随行日記」によって歌仙「有難や」が満尾していることが分かる)。

 

月か花かとへど四睡(しすい)の鼾(いびき)哉

 

  天宥法印の贊

月か花歟(か)問へば四睡の眠り哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は真蹟画賛の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」(何丸著・文政一〇(一八二七)年刊)の句形。第二句目の前書は「天宥」を「天看」と誤る。訂した。天宥筆の「四睡図」への画賛の句である。会覚に請われたものであろう。

「四睡図」とは中国天台山国清寺(こくせいじ)の僧であった豊干・寒山・拾得の三人が虎とともに睡る姿が描かれた禅画の画題。禅の悟りの境地を示すものとされる。参照したウィキの「四睡図」によれば、『構図としては豊干を画面中央に大きく描き、その左右にトラと寒山及び拾得とを小さく配し、不等辺三角形をなす。 画題にふさわしく静粛と安定のある図相である点で、諸作品はほぼ一致する』とある。グーグル画像検索「四睡図

「月か花か」と風狂人芭蕉が大上段に問うのが面白い。芭蕉は既にして自らは鈴(りん)を振られる身と、わざと俗物丸出しで問う。さすれば四睡は鈴の代わりにいや増しの高鼾で応えるのである。]

2014/07/23

はつゆめ   山之口貘

 はつゆめ

 

そこは見おぼえのない教室だ。

先生の問いにひとりずつ立ち上がって

みんなはきはきと答えて言った

「私はバスの車掌さんになって

お客さんには親切ていねいにします」

「私は原子病になやんでいる人たちや

鼻のひくい人たちのために

整形外科の女医さんになります」

「私はよいおかあさんになつて

ふたごをうみたいとおもいます

ひとりつ子はかわいそうですから」

先生はそこでつぎと言った

ぼくはちょっと頭をかいたのだが

えいっとばかりにこえはりあげ

「人間のためまぐろのため

地球のために詩人になつて

平和を絶叫します」と叫んだ

そのときぼくの目があいた

母はぼくの肩をこずきながら

「お正月早々なんの夢見て

とんきょうなこえを出すんだよ」とわらった。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学六年生」。

 これは最早、児童詩ではない。バクさんの数少ない本格の絶唱の詩である。私はこの詩なら、バクさんの反戦詩と名づけて何の躊躇も感じない。]

正月の朝   山之口貘

 正月の朝

 

みんなして にこにこ

お正月の朝だ

おじいさんも元気でうれしそう

おとそをのんで赤い顔して

おぞうにのおかわりをぺろりたいらげて

「さあまた こんねんも一つづつ

みんなの年がふえたわい」といった

 

ところがそれはかぞえ年なので

むかしのお正月のならわしなのだが

いまはあいにくとみんな

満で年をかぞえるのだ

三月生まれのミミコもにこにこ

「十年と九か月ちょっとだわ」といった

すると おじいさんが「おやおや

九か月ちょっとのはんぱなんだ

年にもおまけが

あるのかい!」とにこにこ

 

[やぶちゃん注:「一つづつ」はママ。初出は昭和三一(一九五六)年新年特大号「小学五年生」。ミミコ(泉)さんは昭和一九(一九四四)年三月生まれであるから、発表当時は十一歳と九ヶ月である。従ってこれはシチュエーションとしては実に正しく前年昭和三十年のお正月の景であることを表わしている。バクさんは満五十一歳、登場するおじいさんは妻静江さんの父であろう。バクさんの父重珍は昭和二八(一九五三)年四月、遙か日本の南端の与那国島で既に亡くなっている。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 44 湯殿山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

本日二〇一四年七月二十三日(陰暦では二〇一四年六月二十七日)

   元禄二年六月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十三日

である。この日、月山頂上で目醒めた芭蕉は西の尾根を下って湯殿山を踏破、麓の湯殿権現に参った。その後、再び月山を昼頃に経由し(この月山と湯殿山御神体のルートは出羽三山参拝の最難所とされ、梯子や鎖場を配した急斜面の岩場が一・五キロほども続く)、日暮れになってようよう羽黒山へと帰還したのであった。

 

語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな

 

  湯殿

語られぬゆどのにぬるゝ袂哉

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は「花摘」の句形。

 山本健吉氏は『三山順礼の三句の中で、最も感銘の乏しい句』と斬って捨てるが……どうもそんな気には私はなれない……この句は……昔から気になっていた……

……「語られぬ」は無論、「惣(そうじ)て此の山中の微細(みさい)、行者の法式(ほつしき)として他言(たごん)する事を禁ず。仍(よつ)て筆をとゞめてしるさ」ざるという禁忌を受けた語ではある。……

……「湯殿」と「ぬらす」は縁語で、「ぬらす」は容易に「袂」を引き出す。それは確かに一見、神域に至ったその感涙の涙とはとれる。……

……が……どうもそればかりではない気がする……何か「語られぬ」対象の中に幽かな隠微なるものが漂う……その隠微が実は同じく隠微な響きで「ぬらす」を引き出し、「ぬらす袂」は女人禁制の霊域に……意外にも……仄暗い山中の水迸る岩影に……鏡花の「高野聖」の艶なる妖女のイメージさえ誘い出だしているようには思われまいか?……

――「猥雑なるやぶちゃん!」――と指弾するなかれ!……

……確かに――そうした自分の感懐の中にあるところの猥雑なる詩想を持った己れを痛切に感じて慚愧の念に堪えないことは確かな事実ではある――ある――が……

……さて。この句について、かの安東次男氏は以下のように述べておられるのである。引用して終わりと致そう。

   《引用開始》

○語られぬ湯殿にぬらす袂かな――湯殿詣は『時勢粧(いまようすがた)』(維舟編、寛文一年)の「夏」の部に「湯殿行(ぎょう)」として収め、「垢離(こり)かけば如来肌(にょらいはだ)也湯殿行 中井正成」という例句を挙げている。『桜川』(風虎編、延宝二年)などにも見える。

 修験道の四季の入峰(にゅうぶ)修行のうち夏の峰は、豊年祈願と身心鍛練法を兼ねて、近世に入ると広く一般に行われるようになった。湯殿詣もその一つだが、たまたまこれは三山祭(六月十五日、今は七月十五日)の時分と重り、一方、湯殿の御神体が女陰の形をした巨大な自然岩でその円丘を絶間なく涌湯が洗っているところから、とくに有名になったようだ。湯殿が三山の奥の院とされたのは、性器崇拝に因んでいる。古歌から名を借りて「恋の山」とも呼ぶ。

 他言を封じた御山とはいえ、湯殿の御神体を拝んだらさすがに語りたくなった。だがやはりそれはできない、と読まなければ面白みはない。俳諧師なら、秘法の山をただ有難がって袂を濡したわけはない。

   《引用終了》

■やぶちゃんの呟き

 「曾良随行日記」の三山参拝から帰還するまでの三日間(五日は羽黒山参詣と精進潔斎のさまを確認するため)の記録を見ておきたい(ひらがなの読みは私が附したもの)。

 

○五日 朝の間、小雨ス。晝ヨリ晴ル。晝迄斷食シテ註連(しめ)カク。夕飯過テ、先、羽黑神前ニ詣。歸、俳、一折ニミチヌ。

○六日 天氣吉。登山。三リ、強淸水(こはしみづ)。二リ、平淸水(ヒラシミヅ)。二リ、高淸(たかしみづ)。是迄馬足叶(かなふ)道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原(みだがはら)、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニゴリ澤・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、コヤ有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拜シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

○七日 湯殿ヘ趣(おもむく)。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺ヘモ岩根沢ヘモ行也)、コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦(たすき)カケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡ヘ出ル道有)。是 ヨリ奥ヘ持タル金銀錢持テ不ㇾ歸。惣テ取落モノ取上ル事不ㇾ成。淨衣・法冠・シメ計(ばかり)ニテ行。晝時分、月山ニ歸ル。晝食シテ下向ス。強淸水迄光明坊より辨當持せ、サカ迎(むかへ)セラル。及暮、南谷ニ歸。甚勞ル。

 △ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。

 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役錢弐百文之内。散錢弐百文之内。彼是、壱歩錢不ㇾ余。

 

 月山山頂での「來光ナシ」というのは山岳での大気光学現象として知られるブロッケン現象のことを指している。陽光を背に立った際、影の側に雲や霧があると、光が散乱されて観察者自身の影の周囲に、虹に似た光の環となって現れるもの。霧や雲が観察者の近くにあると見た目の奥行きや巨大感が増大する。本邦では古来、「御来迎(ごらいごう)」「山の後(御)光」「仏の後(御)光」などと呼ばれ、「観無量寿経」などで説かれる阿弥陀如来の空中住立の御姿が現じたものと信じられた(ウィキの「ブロッケン現象を参照した)。

 特に最後の曾良の記載は当時の出羽三山での山岳修験霊場乍ら、結構、いろいろと冥加料のようなものが求められたことが分かる(私は残念なことに月山に登ったことがないのであるが、先に示した山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」の現代の再現踏査でも、小屋で親切ごかして薬湯を飲ませて金を求められるシーンがあり、今も昔と変わらぬらしい)。

 この難行苦行の行程の途中、芭蕉は可憐な咲きかけた高根桜(バラ目バラ科サクラ属タカネザクラ Prunus nipponica 。別名、峰桜(みねざくら))を見出だし、それを「奥の細道」に詠み込んだ。

 ――「惣て此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめてしる」せなかった女陰秘蹟の山行に――淡い紅一点を――美しくもまた艶にも――仄めかしたのではあるまいか……私にははっきりと……可憐な峰桜を愛おしんで……「袂」を「露」に「ぬらし」つつこごんでいる……芭蕉が……見えるのである……]

2014/07/22

耳囊 卷之八 文福茶釜本說の事

 

 文福茶釜本說の事 

 

 館林の出生(しゆつしやう)のもの語りけるは、館林在上州靑柳村茂林寺といふ曹洞禪林の什物(じふもつ)なり。むかしは、參詣の者にも乞ふに任せ見せけるが、今は猥(みだ)りに見せざるよし。さし渡(わたし)三尺、高さ貮尺程の唐銅(からかね)茶釜なり。此に圖する形にて、茂林寺に江湖結齋(がうこけつさい)の時、むかし大衆に茶を出すに、煎じ足らずとて、其ころ主事たる僧守鶴といへる、是を拵へさせし由。守鶴はいつ頃より茂林寺に居けるや知(しる)ものなく、老狸(らうり)の由申(まうし)傳へしと云(いふ)。これを童謠に唱(となへ)ぬらんと云。

Bunnbukutyagama

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。先行する妖狸譚シリーズ。

・「文福茶釜」茂林寺の釜。昔話「分福茶釜」の原型とされる。ウィキの「茂林寺の釜によれば、応永年間『上州(現・群馬県)の茂林寺という寺に守鶴という優秀な僧がいた。彼の愛用している茶釜はいくら汲んでも湯が尽きないという不思議な釜で、僧侶の集まりがあるときはこの釜で茶を振舞っていた』。『あるときに守鶴が昼寝をしている様子を別の僧が覗くと、なんと守鶴の股から狸の尾が生えていた。守鶴の正体は狸、それも数千年を生きた狸であり、かつてインドで釈迦の説法を受け、中国を渡って日本へ来たのであった。不思議な茶釜も狸の術によるものであったのだ』。『正体を知られた守鶴は寺を去ることを決意した。最後の別れの日、守鶴は幻術によって源平合戦の屋島の戦いや釈迦の入滅を人々に見せたという』。そこでは松浦静山の「甲子夜話」に登場する化け狸の話とするが、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜とされるから、根岸の本話の記載(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の方が早い。底本の鈴木氏注に『三村翁注「文福元来文武久、誤言文福化茶釜、請看一日爐開会、自有陰嚢八畳鋪、旦那山人芸舎集。」』とある。これは我流で書き下すと、

文福、元来は『文武久』、誤りて言ふ、『文福茶釜と化す』、請う、看よ、一日の爐開(ろびらき)の会(ゑ)、自から陰嚢八畳鋪は有りと。「旦那山人芸舎集」

「旦那山人芸舎集」は大田南畝の稀少本。ウィキ分福茶釜には、『「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜はいくつもの良い力を持っていたが中でも福を分ける力が特に強くかったことに由来し、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説や水を入れると突然「ぶくぶく」と沸騰することから「ぶんぶく」となったのではないかという説もあるが、どれが本当かははっきりしていない』とある。深夜特急氏のブログ「夢の旅人」の分福茶釜 茂林寺で写真が見られるが、この附図とは全く異なるようである。

・「上州靑柳村茂林寺」現在の群馬県館林市堀工町(ほりくちょう)にある曹洞宗青竜山茂林寺。応永三三(一四二六)年(室町中期)、上野国青柳城主赤井正光を開基とするとし、大林正通禅師が開山。「靑柳」は館林の大字名。

・「さし渡三尺、高さ貮尺程」直径九十センチメートル、高さ約六十センチメートル。かなり大きい。

・「唐銅」青銅。

・「江湖結齋」岩波版長谷川氏注に、『曹洞宗で、雲水僧が一堂に集まり、座禅修行をすること』とある。

・「主事」禅宗で僧職の監寺(かんす:寺内事務を監督する。)・維那(いな:寺僧に関する庶務及び指揮を掌る。)・典座(てんぞ:厨房全般を職掌とする。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林・田畑などの管理及び作務(さむ)全般を管掌する。)の総称。

・「守鶴」底本鈴木氏注に、『開山大林正通禅師に従って来て茂林寺にいた。七代月舟の代、千人法要に大釜が必要になったとき、守鶴所持の茶釜を用いたところ、汲めども尽きず間に合った。その後十代月岑(げっしん)が守鶴の眠り姿を見ると古狸であったという。狸は開山の徳に感じて僧の形にばけていたが百二十年ほどそうしていて姿を消した。後に守鶴宮という小祠を建てて寺の守護神としたという』とある。

・「童謠」昔話。ウィキ分福茶釜に、標準話として、『貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である』とある。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 文福茶釜についての真説の事

 

 館林の出の者が語ったことには、文福茶釜は館林の在方、上野(こうずけの)国青柳村にある茂林寺と申す曹洞宗の禅寺の什物(じゅうもつ)なるよし。

 昔は、参詣の者にも乞うに任せて自由に見せておったが、今は濫りに見せぬとのことで御座る。

 指し渡し三尺、高さ二尺ほどの唐銅(からかね)で出来た茶釜で、ここに描いたような形を成しておる。

 その昔(かみ)、茂林寺にて大がかりな江湖結齋(ごうこけっさい)が行なわれた折り、そこに衆した雲水らに茶を出だすには、これ、並大抵の茶釜にては、とてものことに煎じ足らざるとのことなれば、その当時、同寺の主事を致いて御座った僧の守鶴(しゅかく)と申す者が、これを拵えさせたと伝えておる。

 守鶴は何時頃よりこの茂林寺に居ったものか、これ、誰(たれ)一人として知る者なく、何でも、老いたる狸の人に化けて御座ったものの由、永く言い伝えておると申す。

 これが今に伝わる、かの「文福茶釜」の御伽話として、巷(ちまた)に唱えらるるようになったと申す。

山之口貘旧全集「全詩集」全詩篇と新全集対比検証を完了

ブログ・カテゴリ「山之口貘」で、2月以降に打ち込んだ山之口貘旧全集「全詩集」全詩篇と、新たに入手した新全集との対比検証を完了した。

ひとりで……   山之口貘

 

 ひとりで……

 

坊やは 大きく

なつたのね。 

 

ひとりで おくつも はけるわね。

ずいぶん おりこうさんに、

なつたのね。 

 

おくつを はいたら のこのこと、

ママと ふたりで

散歩でしょう。 

 

パパは おうちで

おるすばん。

 

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:既刊詩集未収録詩篇の児童詩の一篇。思潮社版全集の「第四巻 評論」(一九七八年刊)の中に追記して作られた「児童詩」パートにある。巻末の「掲載誌一覧」によれば、昭和三〇(一九五五)年十一月号『おかあさんの友』掲載の児童詩である。但し、この雑誌、出版社が示されておらず、ネット上の検索でも掛からなかったが、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に、昭和三〇(一九五五)年十一月号『幼稚園 特集(保育テキスト おかあさんの友)』第八巻第八号(十一月一日発行)で、小学館発行であることが判った。]

田園の復興   山之口貘

 田園の復興

 

かつて目をむき出した

りゅつくさっくの群れが

そこらの農家から農家をかぎ回り

米やさつまや

かぼちゃを買いあさった

りゅつくさっくは重たくふくれあがって

すぎ木立のところをまがり

たんぼ道をぬって松林を通りぬけて

もういちどたんぼ道をまがりくねり

土手の上に来てそこで一休みしたものだ

こうして毎日飢えた都会が

餌を求めて田園を踏み荒らしたのだが

おもえばそれも戦争の罪で

十年まえのことだった

ぼくはいまそこら一面に

田園の復興を見るおもいで

黄ばんだたんぼ道を歩いているのだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年十月号『中学生の友』。これは最早、児童詩ではない。バクさんが大人の人間としての中学生に向けた大人の詩としてのエールである。]

赤とんぼ   山之口貘

 赤とんぼ

 

かきねの竹に 見つけた 赤とんぼ。

ぬき足さし足で そっと近づいてみると、

なるほど、にいさんに おそわったとおりだ。

 

ほそ長いおなかで、

いきをするので、

ふくらんだり

ちぢんだり

しているのだ。

 

まるい目玉を ぎょろり、

おっと どっこい

なにをするんだいとばかりに

青空に とびあがった

赤とんぼ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年十月号『小学三年生』。]

古びた教科書   山之口貘

 古びた教科書

 

ぼくの古びた

教科書たちよ

いつのまにやら学年末が来たのだ

毎日々々鞄のなかにおしこまれては

鞄のなかゝらひきずり出されたりして

頁をめくられてはのぞかれ

手あかでよごされ

へなへなになつたりして

みんなすつかりくたびれちやつたらう

ぼくの古びた

教科書たちよ

みんなほんとうにごくろうさんだつた

ぽくもいよいよ進級だとおもふと

おかげで少しは悧巧になつた気がするのだ

まもなくおまへたちはみんなして

押入の片隅にもぐりこみ

つかれを休める時が来るのだ。

 

[やぶちゃん注:原稿現存。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、昭和三〇(一九五五)年頃の創作と推定される。松下氏は児童詩として何処かに発表されている可能性も示唆されておられる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 43 月山 雲の峰幾つ崩れて月の山

本日二〇一四年七月二十二日(陰暦では二〇一四年六月二十六日)

   元禄二年六月  六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十二日

である。この日、芭蕉は遂に月山(標高一九八四メートル)の頂上を踏破し(登頂は午後三時過ぎ)、山頂の角兵衛小屋に泊まった。

 

雲の峰幾つ崩(くづれ)て月の山

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良俳諧書留」には、

 

雲の峰幾つ崩レて月の山

 

とある。

……この句は私の亡き母が好きな句であった。童謡のようなこの句を詠ずる優しい母の声の響きが今も聴こえる……

 ここで「奥の細道」の羽黒山の段の後段総てを示しておく。

   *

五日權現に詣當山開闢能除大師は

いつれの代の人と云事をしらす

延喜式に羽州里山の神社と有書

瀉黑の字誤て里山となせるにや羽

州黑山を中略して羽黑山と云にや

月山湯殿を合て三山とす當-

-江東-叡に属して天台止觀の

月明らかに円-頓融-通の法の燈かゝけ

そひて僧坊棟をならへ修-驗行-

法を励し靈-山靈-地の校-驗人貴

且恐繁榮長(トコシナヘ)にして目出度御山

と可謂

八日月-山にのほる木綿しめ身に引かけ

-冠に頭を包強-力と云ものに

道ひかれて雲-霧山-氣の中に

-雪を蹈てのほる事八里更に

-月行-道の雲-關に入かとあやしまれ

息絶身こゝえて頂上に至れは

日没(ホツシ)て月あらはる笹を鋪篠を

枕として臥て明るを待日出て雲

消れは湯殿に下

谷の傍に鍛冶小屋と云有此國の鍛-

冶靈-水を撰て爰に潔斉して

劔を打終月山と銘を切て世に

棠せらるる彼龍-泉に劔を淬(ニラグ)とかや

[やぶちゃん字注:「棠」はママ。「賞」の誤字。]

干將莫耶のむかしをしたふ道に堪

能の執あさからぬ事しられたり

岩に腰かけてしはしやすらふ程

三尺計なる桜のつほみ半(ナカハ)にひらける

ありふり積雪の下に埋てはるをわ

すれぬ遲桜の花の心わりなし

炎天の梅-花爰にかほるかことし

行尊親王の歌の哀も增りて覺ゆ

惣此山-中の微-細行者の法式として

他言する事を禁す仍て筆をとゝめて

しるさす

坊に歸れは阿闍梨の求に仍て

-山順-礼の句々短冊に書

  涼しさやほの三か月の羽黑山

  雲の峰幾つ崩て月の山

  語られぬ湯殿にぬらす袂哉

          曾良

  湯殿山錢ふむ道のなみた哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇書瀉黑の字誤て里山となせるにや

 ↓

●書寫(しよしや)、「黑」の字を「里山」となせるにや

 

○×【自筆本になし】

 ↓

●出羽といへるは、「鳥の毛羽(もうう)を此國の貢(みつぎもの)に獻(たてまつ)る」と風土記に侍(はべる)とやらん。

 

○靈-山靈-地の校-

 ↓

●靈山靈地の驗效(げんかう)、

 

○目出度御山と可謂[やぶちゃん注:訓読するなら「めでたきおやまといふべし」である。]

 ↓

●めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。

○三尺計なる桜のつほみ半にひらけるあり

 ↓

●三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。

 

○行尊親王の歌の哀も爰に增りて覺ゆ

 ↓[やぶちゃん注:二箇所の相違がある(下線部)。]

●行尊僧正の歌の哀(あはれ)も爰に思ひ出て猶(なほ)まさりて覺ゆ

 

■やぶちゃんの呟き

 この部分の前半は珍しく地誌の考証の体(てい)を成している。最後に出る句のうち、「涼しさや」と「語られぬ」は別に後掲して注する。

「能除大師」「のうじよだいし(のうじょだいし)」と読む。飛鳥時代の皇族蜂子皇子(はちこのおうじ 波知乃子王 欽明天皇二三(五六二)年?~舒明天皇一三(六四一)年?)のこと。崇峻天皇の第三皇子。ウィキの「蜂子皇子」によれば、崇峻天皇五(五九二)年十一月三日、『蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている』(羽黒山の語源説の一つ「奥羽の黒山」の元はこの話に基づく)。『羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている』とあるが、伝説上の比定に過ぎない。

「延喜式に羽州里山の神社と有」「延喜式」にはこうした記載はない。不詳。

「風土記」出羽国の「古風土記」は現存しない。この語源説は誤伝であろう。

「木綿しめ」「ゆふしめ(ゆうしめ)」と読み、「木綿注連」である。紙縒りを編んで作られた修験の袈裟。行者の登山装束(新潮日本古典集成「芭蕉文集」富山奏氏の注に拠る)。

「寶冠」白い木綿で出来た頭を包み巻く頭巾のこと。同じく行者の登山装束(参照元は同前)。

「日月行道の雲關」「じつげつぎやうだうのうんくわん(じつげつぎょうどうのうんかん)」と読む。太陽や月に代表される星々が永遠に運行するところの天空雲間の境域。

「彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや」は後に出る中国の名剣(或いはその剣を鍛冶した夫婦の名ともされる)「干將莫耶」(「かんしやうばくや(かんしょうばくや」と読む)の伝説に基づく。同伝説については私の電子テクスト芥川龍之介の「上海游記 十三 鄭孝胥氏の『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』の注を参照されたい。「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載るそれを詳述してある。「龍泉」とは干將と莫耶の夫婦が呉山で籠って鍛えた雌雄二振りの宝剣を「淬(にら)ぐ」のに使った泉水のこと。「淬ぐ」とは焼き入れをすることをいう。

「堪能の執」練達の人の厳しい執念の強烈さ。

「三尺」約九十一センチメートル。

「わりなし」いじらしい。殊勝だ。前述の富山奏氏の注に、『雪中に痛めつけられながらも咲いている花に、花としての使命に忠実な自覚があるかのごとく感じての言葉。「わりなし」は切実な心情を表明する芭蕉の慣用語』とある。

「炎天の梅花」やはり富山氏注に、「雪裡(せつり)の芭蕉は摩詰(まきつ)が畫、炎天の梅蘂(ばいずい)は簡齋が詩」という「禅林句集」の句に基づき、『稀有(けう)の状の比喩』とある。「摩詰」は盛唐の詩人で絵もよくした王維の号、「簡齋」は陳簡齋で宋の詩人陳与義の号。

「行尊親王」(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年)は冷泉天皇第二皇子三条院の曾孫、敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の子で、保安四(一一二三)年に天台座主となった(但し、拝命直後に辞任している)。天治二 (一一二五)年、大僧正。白河・鳥羽・崇徳三天皇の護持僧で和歌をよくした。ここは「金葉和歌集」の第五二一番歌、

   大峯にて思ひもかけず櫻の花の咲きたり

   けるを見てよめる

 もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし

 

に基づく。しばしば参考にさせて戴いているサイト「やまとうた」の行尊」で彼の和歌が読める。

「湯殿山錢ふむ道のなみた哉」前掲富山氏注に、当時は『地に落ちている物を拾わぬ山中の法で、賽銭は土砂のごとく散り敷いていたという』とある(山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」での実地踏査の記録では現在はそういうことはないようである)。


  ――――――――


……昼――

月山の尾根――

微速度撮影で雲海に且つ現われ且つ消える月山……

……夜――

月山の山頂――

幻想的な雲海たゆたう下界――

見下ろす真如明鏡の月……


  ――――――――


〇芭蕉が見た月について

●1689年7月22日当日は月齢5.4

 当日の月の形は「こよみのページ」「月の朔望」の「1689年7月」を見よ。

●1689年7月22日当日の山形(酒田標準)の月出没時刻(「こよみのページ」の算出に拠る)

月の出 午前10時6分

月正中 午後 4時9分

月の入 午後10時1分


 最後に。最後に記した山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫一九九四年刊)には湯殿山から逆に芭蕉のここでの足跡を辿った記録が「月山登山記」として載る(三三六頁~三四三頁。三三三頁には羽黒山・月山・湯殿山の芭蕉の登山行程を示す概念図もある)。山本氏は「奥の細道」のこの月山登頂記の部分を明治以降に爆発的に流行する近代登山とその紀行『を先取りした山岳紀行といっておかしくな』く、まさに『世界最古の山岳紀行』と称するに足る名文と讃えておられる。山本氏の芭蕉を検証したその登攀記録は、如何なるインキ臭い評釈にも勝る非常に素晴らしい記録である。是非、ご一読をお薦めする。]

2014/07/21

雷とおへそ   山之口貘

 雷とおへそ

 

むかしの人はふしぎなことをいう

うちのおばあさんがそうなのだ

ピカピカ光るとおそれをなすみたいに

雷さまが来たといい

ゴロゴロ鳴るとふるえるみたいに

くわばらくわばらととなえるのだ

暑くて暑くてたまらない日のことだった

ぼくはすっぱだかになったまゝ

いつのまにやら昼寝をしていたのだが

ゴロゴロ鳴り出したので目がさめた

するとのこのこおばあさんがやって来て

それみたことか雷さまだ

ゴロゴロ怒ってはだかん坊の

おへそをとりに来たんだというのだ

ぼくはチェッ!

雷さまがなんだいと起きあがって

電気のくせに神さまぶるな

こちらは人間さまだといばったとたんに

ピカピカゴロゴロ襲って来たので

ふたりはおもわず首をちゞめ

ふたりでくわばらくわばらだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年七月号『小学五年生』。バクさん五十一歳。児童詩ながら、どこかこの主人公の少年はバクさんのような気がしてならない。遠い日の沖繩の幼少期のバクさんの思い出に繫がるもののように私には思われてならないのである。]

学年末の反省   山之口貘

 学年末の反省

 

教科書を広げるたびに

インクのよごれが気になった

僕には今でも

悪いくせがあって

夢中になるのはよいとしても

本を読めば読みっぱなしで

机の上に散らかしたまゝ

その上でなにかをしてしまうくせなのだ

あのときだって夢中になって

万年筆をいじくつているうちに

インクの瓶をひっくり返したのだ

いまは学年末でもうすぐに進級なのだ

よごれた本よごくろうさま

悪いくせよさようなら

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三〇(一九五五)年三月号『中学生の友』。因みにこの時、バクさんは五十一歳(参考までにミミコ(泉さん)は小学校五年生)。無論、これは仮想詩なのであるが、この癖、ゼッタイ、バクさんの癖、なんだろうなあ。]

腕ずもう   山之口貘

 腕ずもう

 

みんな元気な連中だ

お天気ならばきゃっちぼおるとくるのだが

きょうは雨なので

腕ずもうと来たのだ

たがいに手と手を組み合わせると

口をゆがめぎゅっと目を閉じるが

閉じたその目をぱっとひらいては

 

ひといきいれてまたぎゅっと

顔いっぱいをまっかにして力み合うのだ

やがてぼくにも番が回って来て

「こんどは詩人だ」とだれかが言った

詩人というのはぼくのあだ名で

詩人のぼくは

詩には自信があっても

腕にはさっぱり自信はないのだ

しかし負けるにしたところで

やるだけのことは

堂々とやるところに

詩人の精神が生きているのだ

そこでぼくは堂々と

じぶんのほそい腕をまくって

堂々と相手の手に組むと

ぎゅっと目をつむり

口をひきしめて

顔いっぱいを

まっかにがんばったのだが

よいしょとばかりに

ねじ伏せられたのだ。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二八(一九五三)年九月号『中学生の友』(小学館)。]

芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である

 

       四十七 火あそび

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

   *

 これは芥川龍之介の「或阿呆の一生」の一節である(以下、リンクは総て私のオリジナル・テクストである)。

 この章の次は、以下である。

   *

       四十八 死

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

   *

 この「四十九」との連続性から、多くの読者はこれを芥川龍之介が自死直前に起こした平松麻素子との心中未遂事件(昭和二(一九二七)年四月七日とされる)と関連づけ、この「彼女」は妻文が相談相手として接近させた幼馴染みの平松であると無批判に信じ続けてこなかったであろうか? 少なくとも私はまさに無批判にそう思続けてきた。それは研究者の間でも日の同定すらはっきりしなかった(七日の同定は二〇〇八年刊行の新全集の宮坂覺氏による年譜による。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄著「年表作家読本 芥川龍之介」では四月十六日の項にこの未遂事件を掲げ、『七日とする説もある』とする)平松との心中未遂という、自死完遂の二ヶ月前の事実があまりにもスキャンダラスで強烈であったからに他ならない。そうしてまた、平松と龍之介の関係が、ほぼここに語られているようなものであった事実とも一致するからでもある。

 しかし、本当にそうだろうか?――

 この「彼女」とは本当に平松麻素子なのだろうか?――

《補注:但し、私は正直言うと、この「四十八 死」は総体に於いて虚偽記載であると推定している。それは芥川龍之介の自死が一般に信じられているジャールやヴェロナールによるものではなく、青酸カリによるものだと考えているからである(宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(3)の私の注などで既に何度もその論理的理由は書いた)。そうしてそれはこのように関係を持っていた愛人から得たものではないとも思っているからである。そもそも自死後に青酸カリによる服毒自殺であると万一、処理された場合、この記載は極めて都合の悪い事態を招くからである。即ち、この「彼女」が一般に考えられているように平松だとすれば、彼女には立派な自殺幇助罪の嫌疑がかかることになり、それはダンディズムに徹した彼には最も忌まわしい事態となるからである(実際には芥川家の主治医で俳句を通しての友人でもあった下島勲氏によって現行の薬物と断じられて現在に至るのであるが、ここにも私は何か下島氏との間に何らかの事前の密約のようなものがあったのではないかと疑っている)。寧ろ、凡そ平松はそうしたものを入手出来得る女性では到底なく、仮に疑われても直ぐに嫌疑が晴れるような、凡そ信じがたい嘘として、龍之介はこの怪しげな虚偽の章段を創って差し挟んだのではなかったか、と私は思っている――ではどこから青酸カリを入手したか? それは山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」で目から鱗の推理がなされている。是非、お読みあれ。――ほんのすぐ近くにそれは――あったのである(なお、毎回ここでお茶を濁して終わるのは、偏えに、言ってしまうと山崎氏の本を読む楽しみが著しく減ぜられてしまうからであって、言わないことに実は他意はないのである。それほど「藪の中の家」はスリリングなのだ)。》

 とすれば――四十八の「彼女」が自殺未遂をした平松だとすれば――「四十七 火あそび」の「彼女」は『彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』と、「四十八 死」の『彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』の完全に同一に見える叙述内容から、この「四十七 火あそび」の「彼女」も平松であると誰もが認定するであろう。

 しかし――である。

 そもそも章段がここまで強い連関性を持って並んでいる「四十七」と「四十八」は「或阿呆の一生」の中では実は極めて異例であるという事実に私は、ふっと気づいた。

 と同時に、「プラトニツク・スウイサイドですね。」/「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」という応答が、ある疑義の余韻とともに私の鬱々たる脳内に反響し始めたのである。

 「或舊友に送る手記」とともに芥川龍之介の文学的遺書であるところの「或阿呆の一生」の冒頭、龍之介は盟友久米正雄に当てた前書の中で、『君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる』と述べているが、実はこれは龍之介特有の悪戯っぽい作為なのだと私は確信している。久米は実際には「インデキス」はつけられないのである(実際に久米は死後、龍之介の友人たちとの座談の中で本作の「月光の女」の同定を試みたりしているが、そこには現在の知見からみれば明らかな誤りが多く含まれている。宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)などを参照)。いや、今もって芥川龍之介の研究者の間でも本作の「インデキス」はまるで完備していないと言った方が正しいのが実情である。

 それは何故か?

 それはまさに、久米や佐藤春夫らが指摘し、私も「月光の女」の同定を試みた幾多の作業の中(『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』に主な考察のリンクを附してあるので未見の方は参照されたい)に痛感した、龍之介自身による複数の女性の合体が「月光の女」の正体であり、しかもその複数が恐るべき数に上るものであり、しかも「或阿呆の一生」の章段が意識的に時系列をシャッフルして並べ変えられているからである。その際、龍之介は、「月光の女」又は龍之介の愛した「彼女」を〈読者一人ひとりが勝手に錯誤してしまい易いように〉計算して恣意的に配置してもいるのである。

 これは龍之介が最後に我々に仕掛け残した自伝的作品への文学的虚構としての迷宮(ラビリンス)であり、自己告白に対する驚くべき少年染みたはにかみであり、そうして何より、彼が愛した数多の「彼女」たち(そこには実は「或阿呆の一生」には実際には書かれていない女性も含めてである)へのおぞましいまでの復讐であると同時に、胸掻き毟る現在形の懸恋の情のほのめかしでもあるのである。即ち、本作を読んだ、龍之介と接触し、何らかの恋愛関係にあった女性たち――肉体関係の有無を問わない――が読んだ際に「これは私のことだわ!」と思わせるような巧妙な仕掛けが施されたものであるということである。

 しかも龍之介は、それを章単位ではなく、それぞれの章のある部分が、ある特定の女性(芥川龍之介が/を愛した女性)の特徴を限定する〈かのように見えるように〉書いているのである。

 そうして、性交渉を持たなかった数多の女性にまでその感染を広げるための、恐るべき生物兵器こそが、この二章の『彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』であり、『唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』であったのである。それは如何にも童貞の少年ナルシスの甘い〈ほのめかし〉の連続した仕掛けなのである。

 そうした仕掛けである――

 とするなら――

――我々は取り敢えず、この二章は実は繋がっていない無縁なものを巧みにモンタージュしたものとして、「四十七 火あそび」と「四十八 死」の「彼女」を別人とすべきなのである。

 そこで「四十七 火あそび」である。今一度、掲げる。

 

       四十七 火あそび

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。 

 

 まず、『火あそび』という標題である。

 前に述べた通り、心中未遂を起こした平松麻素子は、妻文が夫の自殺の危険を憂慮して文自身が幼馴染みの友人である平松を相談相手として龍之介に接近させたことが分かっている。しかも平松との肉体関係は事実なかったというのが関係者の見解でもあるのである。そうした如何にも特異な関係性にあった平松との関係を――無分別なその場限りの〈情事〉を指す「火あそび」――という語で、かのストーリー・テラーたる文飾彫鏤巧みな芥川龍之介が、使うはずが、ない。「火あそび」という以上、それは妻文には知り得ぬような相手であってこそ「火あそび」である。但し、それは『彼女の體には指一つ觸れずにゐ』るものでも構わない。これはその気がないという意ではない。また『戀愛は感じてゐなかつた』の『戀愛』も、それこそ肉体関係を直ちに希求するような性的欲情を主とする心理状態という意味でとることが出来、それは実際に『戀』していなかったことの証左ではないという点にこそ着目すべきであろう。

……文に知られることのない……肉体関係のない……それをどこかで躊躇させるような女性……しかし龍之介が非常に強い恋情を抱いており……出来得るならば一緒に心中したいと思う女性……

しかもそれは平松のような――一緒に死んでくれるかも知れないと思わせるような多分に感傷的で同情的なか弱い印象の女性――ではないことは明白である。そんな女性は向こうから〈英語で〉『プラトニツク・スウイサイドですね。』とは私は決して言わないと断言出来る。

 以上が、この真の「彼女」の属性である。 

 

 次に『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という叙述である。

 既に私が誰を「彼女」と同定しているかは大方の方はお気づきであろう。

 この『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という表現は直ちに、「或阿呆の一生」の別の一章を直ちに連想させる。

   *

      三十七 越し人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

   *

この『木の幹に凍つた、かゞやかしい雪』という表現である。この『かゞやかしい雪』のような『顏をしてゐ』る『彼と才力の上にも格鬪出來る』『彼女』とは、芥川龍之介が最後に胸掻き毟る恋をした相手――片山廣子――である。

 『彼女の體には指一つ觸れずにゐた』は廣子との関係に照らすと事実であると断言出来るし、その廣子が「死にたがつていらつしやるのですつてね。」と龍之介に語りかけるのも如何にも首肯出来、それに対して、龍之介が丁寧語で「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」と微妙な抑鬱的感触という訂正まで加えて答えるというのも、『才力の上にも格鬪出來る』と彼が絶賛した相手ならではの答えとして相応しい。この答えは平松のみでなく、それ以外の数多龍之介の周辺に見え隠れする如何なる女性(にょしょう)に対する台詞としても似合わしくなく、ただ片山廣子への答えだったと考えた時にのみ、私には最も自然且つ相応しい台詞として「真」であると言い得るのである。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 この台詞は絶対に平松麻素子の台詞ではない。

 「ですつてね」は、そうした噂が広まって他者に知られてしまった後の伝聞に基づく「彼女」の台詞である。平松は既に述べた通り、龍之介の自殺願望を食い止めるために文に懇願されて彼の話し相手になったのであり、その彼女が文の手前からも、こんな火に油を注ぎかねない素(す)の台詞を安易に謂い掛けるというのは、それこそ却って不自然の極みなのである。

 『彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した』。この地の文を、まずは芥川龍之介と片山廣子の二人だけの秘めた会話の冗談とスル―して取り敢えず進める(実際には冗談ではなかったことの考証は最後に述べる)。

 問題は次の会話である。

 

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 

この英語の会話は無論、素人にも解る英語ではある。解るが、しかし、この二つの台詞の英語は尋常な英語表現ではない(と私は思う)。意味がというより、検索をかけてもらっても解る通り、英語としての普通一般に用いられる表現ではないということである。当時の東京帝国大学英文科卒の流行作家芥川龍之介に対して、相手の女の方が「プラトニツク・スウイサイドですね。」という異様な水を向けて来ること、それに対して極めて奇異な造語の「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介が応えているという、このシチュエーションを実際に想起してみてもらいたい。

 この女性は当時の平均的な一般女性ではないことがよく分かる。

 彼女は英語に堪能であるからこそ、先にすかさず「プラトニツク・スウイサイドですね。」と語りかけたのであり、その謂いの背後にある彼女の才気の理解度を分かった上で、二重の、双方向性の、肉の臭いを全く持たない男女の自殺という、異常な英語「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介は応酬しているのである。これは危ないが故に素敵な智の遊びに他ならない。そうしてそうした遊びをし得る芥川龍之介の知人女性というのは、これ、片山廣子をおいて他にはない、のである。

 『彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた』のは何故か。これが二人の冗談だったから――では――ない。

 これは

――この「彼女」とは実際にそうした心中をすることはない

――この「彼女」はそんな心中をする女性では多分ないから

――あるとしても

――僕はしない

――僕は出来ない

――だからこそ

――僕はこの人を愛していられる

――愛したままで

――死ねる

と龍之介が思ったからこそ、彼は彼自身、存外落ち着いていられたのだと考えれば納得がいく。 

 

 片山廣子の後年の随筆に「五月と六月」(松村みね子名義・芥川龍之介の死後二年目の昭和4(1929)年6月号の雑誌『若草』に掲載がある(この作品については私の芥川龍之介と絡めた詳細な論考『「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』がある。未読の方は是非読まれたい。私の貧しいオリジナル論考の中ではかなりの自信作の一つではある)。この前半部「五月」のパートは誰が読んでも相手が芥川龍之介であることが明白である。その後半に附された「六月」に相当する部分を引く。

 

 圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそごそと音をさせることがあつた。

 震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。門だけ殘つてゐた。松嶺院といふ古い札がそのまゝだつた。くづれた材木は片よせられ、樹々は以前のとほりで、梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。

 深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た。

 

「震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た」とあることから、これは大正十三(一九二四)年六月、廣子四十六歳のことであることが分かる。この頃、片山廣子は未だ芥川龍之介とは親密ではなかった。但し、全く知らなかった訳ではない。大正五(一九一六)年に芥川二十五歳の折り、「翡翠 片山廣子氏著」という廣子の歌集評を『新思潮』に掲載、彼女とは何度かの手紙のやりとりがあり、廣子が芥川家を訪問してもいる。その時、廣子、三十八歳。しかし、二人が男女を意識し、急速に接近したのは正にこの廣子円覚寺訪問の一ヵ月後、大正十三(一九二四)年七月のことであった。しかも本作自体は龍之介の自死後に書かれたものである。

 この『そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた』という廣子の述懐は、廣子自身がこの時そう遠くない近過去に自殺を思ったことがあるということを示している(でなければ、昔の馴染みの円覚寺の古井戸を訪ねて覗いてそしてここなら「死ねるな」などとは人は思わぬ)。しかし時系列から言えば、これは前半の「五月」よりも遙か以前となり、「五月」の主人公が芥川龍之介であるならば、この話は何の関係もない、ということになってしまう。しかも本作の前半部とは一見、何の脈絡も持たせずに廣子は叙述しているのである。こんなおかしな話はない。

 実はこの「五月と六月」の「六月」の部分には、ある巧妙な仕掛けがなされているのではあるまいか?

 この廣子が自殺を思ったのは、実はこの井戸の覗いた後の出来事であり、それを井戸に附会させることで時間設定を遡らせ、前半の人物が芥川龍之介であることが読者に分からないようにした(芥川龍之介であるはずがないと物理的に思わせた)のではなかったか?

 とすれば――実は廣子が考えた自殺というのは、実は生前の芥川龍之介と交わしたことがある心中の約束であったのではなかったか?

 本作「五月と六月」の前半に覆面の相手芥川龍之介を登場させておいて、しかもそこにこの一見無関係に見える文章をさりげなく投げ込んだ廣子の隠蔽の意図は、そこでうっかり安心して自死を匂わせる叙述を挟んで龍之介への秘かな追悼としてしまった結果、逆に龍之介と彼女が以前秘かに自死を語り合ったことがあったのではなかったかという私の疑惑を深くさせる結果となったということなのである。

 最後に。「火あそび」ならぬ、私の「あそび」で筆を措くこととする。

「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の台詞部分をシナリオ風に書き直してみよう。因みに、ト書きの「よろしく」というのは、一部のなまくらな脚本家が現場の監督や俳優に当該部分の演出や演技を丸投げする際に用いる掟破りの業界用語である。 

 

廣子 「死にたがっていらっしゃるのですってね。」

龍之介「ええ。――いえ、死にたがっているというよりも、生きることに飽きているのです。」

(二人、これに類した問答、よろしく。その中で、一緒に死ぬことを約束するシーン、よろしく)。

廣子 「プラトニック・スゥイサイドですね。」

龍之介「ダブル・プラトニック・スゥイサイド。」

(龍之介、こう答えた自身が如何にも平然として落ち着いて笑みさえ浮かべているのを不思議そうに感じている風。)…………

 

 

2014/07/20

芥川龍之介手帳 1-7

《1-7》

 

〇兄と女との關係を depict する scene 朱雀門(?)邊偸盗の集合する光景(女は覆面にて出で 兄と弟はそのまま出す) 兄のそこへ赴くみちより書出す

[やぶちゃん注:「偸盗」の書き出しの案。“depict”は描写する・叙述する。実際の「偸盗」では冒頭のロケーションは「朱雀綾小路」で朱雀門から下がった平安京の中央位置となっており、また主人公の兄太郎は出るがヒロインの沙金は登場せず、彼らの養父猪熊の爺と太郎と弟次郎の三人と淫蕩奔放な小悪魔であると同時に不思議な聖性を持った沙金との複雑で爛れた愛情関係については、猪熊の婆と太郎との掛け合いによってアウトラインが示され、第二章・第三章(特に三章の太郎の一人称の心内表現)明らかになるようになっている。沙金は第四章(「偸盗」は全九章)で始めて登場する。太郎も、その夜の藤判官の押し込みのための「集合」ではなく、真昼日中に猪熊の婆がその段取り確認をするためだけに接触している。押し込みの「集合」は第五章の猪熊の爺と太郎の修羅場未遂の場面を挟んだ第六章で、場所は羅生門(これは第一章に既に予告されてある)であり、沙金は覆面はしていない。]

 

○中に comical scene abstract allegory と入れんとす 前者は狡猾なる neben の人物によりて越され 後者は老人によりて起さる

[やぶちゃん注:「越され」はママ。旧全集は正しく「起され」となっている。

abstract allegory」観念的寓話。

neben」ドイツ語の前置詞で「~の脇に」であるから脇役。

「偸盗」では「狡猾なる neben の人物に」よって起こされる「comical scene」というのは見当たらないが、「neben の人物」では脇役としての猪熊の爺の子を孕んだ阿濃(あこぎ:彼女自身は次郎の子と信じている)の存在は、主たる筋と絡みつつも、一体とはならずに最後まで重要な道化として機能している点ではこの「comical scene」のメタモルフォーゼしたサイド・プロットとは言えるかも知れない。しかし彼女は「狡猾」どころか、イディオ・サパンである。寧ろ、「abstract allegory」として機能しているのは沙金以上に強烈なトリック・スターである猪熊の爺の存在と、彼が語る「親殺し」の自己合理化の論理と、言った傍から総て嘘だとする人を食った虚言癖である。太郎がそれに対して激すればするほど、読者は作品の深刻なイメージ以前に、この猪熊の爺という救い難い奇体な人物に、どこか滑稽なものを見、思わず失笑してしまわないか?(少なくとも私はそうである)私はここで龍之介が分離して考えたキャラクターが融合した存在こそが実は猪熊の爺だったのではないかと感じ始めているのである。]

 

○發端 老人の盜賊 dostoefsky の「虐げられし人々」の發端をみよ

[やぶちゃん注:ドストエフスキイの「虐げられし人々」の発端はこうである。散歩中の主人公の青年イワンが、みすぼらしい怪しげな老人と喫茶店で邂逅するが、その老犬アゾルカがその場で死に、それを放置して出て行く(この直前にその死んだ犬を剥製にすればよいと客が提案する奇体なシーンがある)。イワンがその後を追って家まで連れ帰ろうとするが、老人もその道半ばで斃死してしまう――ここで特に老人が愛犬アゾルカを杖で突っくが既に死んでいることが分かって杖を落す、その杖を拾った上げたドイツ人の男が異様なロシア語で死んだ傍から犬を剥製にしよう頻りに勧める、という如何にもドストエフスキイ好みの粘着的で生理的不快感を催させるシークエンスがあることに気づく。ここで実際の「偸盗」の第一章と比べてみると、これは冒頭近くで、『七月の或日ざかり』のねばつくような炎暑の描写のなまなましい描写と軌を一にするように思われる。

   *

 むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行(はや)る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此處にさへ、その日に乾いた葉を動かさうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださつき通つた牛車(ぎつしや)の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を靑ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、いつか脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないやうになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の濕(しめ)りを點じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。

   *

そしてその後の太郎の猪熊の婆の会話の昼間部に再度、

   *

「お前さんは、不相変疑り深いね。だから、娘にきらわれるのさ。嫉妬(やきもち)にも、程があるよ。」

 老婆は、鼻の先で笑ひながら、杖を上げて、道ばたの蛇の死骸しがいを突ついた。何時の間にかたかつてゐた靑蠅が、むらむらと立っつたかと思ふと、又元のやうに止まつてしまふ。

「そんな事ぢや、しつかりしないと、次郎さんに取られてしまうふよ。取られてもいいが、どうせさうなれば、唯ぢやすまないからね。お爺さんでさへ、それぢや時々、眼の色を變へるんだから、お前さんなら猶さらだらうぢやないか。」

   *

と配し、太郎が猪熊の婆を見送って踵(くびす)を返した第一章末尾に今一度、

   *

 二人の別れたあとには、例の蛇の死骸にたかつた靑蠅が、相變日の光の中に、かすかな羽音を傳へながら、立つかと思ふと、止まつてゐる。…………

   *

と閉じる。

 因みに「偸盗」ではカタストロフ直前のクライマックスに野犬の群れが太郎に純粋至高の兄弟愛を取り戻させる重要な役として登場することと、ドストエフスキイが「虐げられた人々」でこの犬のことを、犬の形をかりたメフィストフェレスみたいなものだと言っている点にも着目しておいてよいかもしれない。龍之介は猪熊の爺に「親殺し」を口走らせるところで明らかに「カラマーゾフの兄弟」を意識してもいる(但し、「偸盗」では「親殺し」は猪熊の爺は死ぬものの「親殺し」は完遂されず、この猥雑な猪熊の爺は、寧ろ、そのトリック・スターの役割からは、親殺しの真犯人であったスメルジャコフのような印象を私は受けることも申し添えておきたい。]

 

○病人及弱者の Egoism を書かんとす

[やぶちゃん注:これは完成形の「偸盗」の自体が叙述するテーマとは、微妙にずれる感じがする(背景としての荒廃した末法の京はまさに『このごろはやる疫病(えやみ)』や貧困に冒されており、この盗賊団も零落した貧者の堕落した変態物ではある)。寧ろ、この初期の頃の龍之介のこれ以外の、「羅生門」を始めとする「鼻」や「芋粥」の複数の王朝物にこそよく共通して顕在化している主題ではある。]

 

[やぶちゃん注:新全集ではここに原底本資料の手帳原本が一枚欠損している旨の注記がある。旧全集ではそこが示されてあるので以下に補っておく。]

 

〇兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點。

[やぶちゃん注:「enmity」憎悪・対立、「その肉親の relation weak なる點」というのは、兄弟という肉親、血がつながっているという関係性故の(それによって他人との関係よりもより顕在的に惹起されてしまう付帯的憎悪・嫉妬・殺意といった人間的に脆弱な脆い部分という謂いで、明らかに「偸盗」の太郎と次郎の実の兄弟の葛藤状況の設定を示している。]

 

〇人身賣買の問題。

 

〇牛頭大王の夢。或人の子が痘死ス。即廟をこはす。

 

〇關帝廟。道士あらかじめ毒酒を與へて無賴に帝廟を罵らしむ。利益分配爭ひよりわかる。

 

〇皆神の無を語る。婆來つて否定す。There is something in the darkness.

[やぶちゃん注:この英文は前にも出て来た。これについて「夢みる風力発電機 ―skycommuの書評・雑記」の「偸盗(There is something in the darkness と 二人の具現者)」で海老井英次氏の論考を援用しながら、この英文と「偸盗」と「羅生門」の関係性を読み解いておられる。非常に説得力があり、先にこの英文に注した私の印象をなどとも絡んでなかなか共感出来る部分がある。海老井氏の見解を解説した幾つかの箇所がこの「There is something in the darkness.」と関わるので以下に引用させて戴く

   《引用開始》

「この「強盗を働きに」「京の町へ」消えていった「下人」のその後の姿を、我々は「偸盗」の中にみることが出来るのである。」①海老井氏はその根拠として偸盗のメモにある( There is something in the darknesssays the elder brother in the Gate of Rasho.)(病人及弱者のEgoismを書かんとす。)という文章や羅生門の草稿に見える主人公の名「交野の平六」と偸盗の盗賊の一味の名「関山の平六(後編で交野の平六と記述される)」の同一をあげている。

   《引用終了》

 引用文中の①などは注記記号。最後に配した。

   《引用開始》

一方、海老井氏は偸盗の執筆動機に「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① をあげ、「「darkness」の中にある「something」とは、他でもなく、「羅生門」に描かれた無明からの〈救済〉を可能にする何か」③ であると説明している。そして不運にも「兄弟の対立を止揚する「something」として〈兄弟愛〉を捉えながら、それを通俗的理解を超えた明確な実体として把握しきらずに、「血のつながり」といわれるようなものと同次元のものとして描くに終わったのである。」① として失敗理由を挙げている。これは実に評価できる画期的な意見だろう。

   《引用終了》

 この海老井氏の最期の「偸盗」失敗の理由は、何と、まさにこの手帳の四項前で芥川龍之介自身が『兄弟の enmity 及その肉親の relation weak なる點』と、既にして予告していたことが分かるのである。

   《引用開始》

太郎も次郎も、猪熊の爺も婆も、それぞれに何かを体現し活躍している。しかし、沙金と阿濃のそれは異常だ。体現しすぎて二人にはリアリティーがないのである、固有の内面がないのである。沙金は徹底的に美しい悪女になり、阿濃は徹底的に愚かなる聖女になった。彼女らは一種の非人間として、主題「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① のために芥川によって造りだされ、存在しているのだ。

   《引用終了》

 二人の聖性に着目する論には、森正人氏の「《偸盗》の構図」(『熊本大学文学部論叢』一九九〇年三月)があり、そこでは、『沙金と阿濃を女夜叉・女菩薩という観点で対照させつつも、阿濃や猪熊の爺に対する沙金のやさしさ・太郎の目に「映る」不思議な円光」等から沙金に聖性を読み取り、阿濃・沙金を一体のものと』(勉誠出版「芥川龍之介全作品事典」須田千里氏記載)している。

   《引用開始》

芥川は羅生門において提示した、darknessの先にあるsomethingを見出そうとし、偸盗を執筆した。無明に落ちた畜生の救済である。芥川はそのsomethingに兄弟愛や白痴ゆえの愛を見出した。どちらも無垢で感覚的な、本能的な愛である。芥川はエゴイズムの世界に、人間本能の導く美しさや希望を見出したのだ。しかし結局、主題をきちんと理解しそれらの愛をまとめきれなかった。偸盗の失敗はここにある。

   《引用終了》

 引用文献の上記引用に出たものだけをリンク先を参照して示しておく。

①海老井英次『「偸盗」への一視角」』(『語文研究』一九七一年十月)

③海老井英次「〈我執〉から〈救済〉へのロマン」(『近代文学考』一九七四年三月)

 「偸盗」は芥川龍之介自身が執筆中から不満を持ち、失敗と断じて、改作の希望を持っていた。

 因みに、私は「偸盗」を「羅生門」より遙かに面白い小説であると思っている。

 以上、引用元の全論考をお読みになられることを強くお薦めする。]

 

〇朱雀門上の炎。

[やぶちゃん注:ここまでが旧全集による。]

 

○魔術 old witch. Hand in the fire.“What is itone asks.What is in the darknessis the reply.

[やぶちゃん注:後年の「魔術」とは無関係。]

 

tale of fathers and sons.

  1 Antipathetic.

 2 Mystic pathetic.

[やぶちゃん注:「Antipathetic」は非感傷主義的で、「Mystic pathetic」は霊的なまでに感傷的。それぞれを父やその子に配した二律背反の父と子の物語という謂いか。特にピンと来る芥川作品は浮かばない。]

 

〇弟は shy.――放免となりて兄をつかまへに來る。

 

Fraternal love explosion.

[やぶちゃん注:「Fraternal love explosion」は兄弟愛の破壊であるから、これはもしかすると「偸盗」の改作若しくは続編のメモかも知れない。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月

本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)

   元禄二年六月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十日

である。【その二】芭蕉はこの羽黒山滞在中に、親しく接した別当代会覚阿闍梨らから羽黒山中興の祖として知られる第五十代別当天宥(てんゆう)法印追悼の句を求められたらしい。一応、ここに配しておく。

 

  羽黑山別当執行不分叟天宥法印は、行法い

  みじききこえ有て、止観円覺の仏智才用、

  人にほどこして、あるは山を穿(うがち)、

  石を刻(きざみ)て、巨靈が力、女媧がた

  くみを盡して、坊舍を築(きづき)、階

  (きざはし)を作れる、靑雲の滴(しづ

  く)をうけて、筧の水とほくめぐらせ、石

  の器(うつはもの)、木の工(たくみ)、此

  山の奇物となれるもの多シ。一山擧て其名

  をしたひ、其德をあふぐ。まことにふたゝ

  び羽山(うざん)開基にひとし。されども

  いかなる天災のなせるにやあらん、いづの

  國八重の汐風に身をたゞよひて、波の露は

  かなきたよりをなむ告侍るとかや。此度、

  下官(やつがれ)、三山順禮の序(ついで)、

  追悼一句奉るべきよし、門徒等しきりに

  すゝめらるゝによりて、をろをろ戲言(け

  げん)一句をつらねて、香の後ニ手向侍

  る。いと憚多(はばかりおほき)事にな

  ん侍る。

 

其(その)玉や羽黑にかへす法(のり)の月

 

  悼遠流(をんる)の天宥法印

その玉を羽黑にかへせ法の月

 

その玉を羽黑へかへせ法の月

 

 

[やぶちゃん注:長い前書を有する第一句目は現存する出羽三山歴史博物館蔵になる真蹟懐紙の句形。末尾に

 

   元祿二年季夏

 

とクレジットする(句の最初は「無」と書いて、それを見せ消ちにして「其」に改めてある)。第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句目は「芭蕉句選」(華雀編・元文四(一七三九)年刊)の句形。

 出羽三山神社(出羽三山という呼称は実は近代以降に使われるようになった語であって、かつては「羽州三山」・「奥三山」・「羽黒三山」(天台宗系)・「湯殿三山」(真言宗系)と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があってこれらを総称して現在は出羽三山神社という。宗教法人としての現在の正式名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」。この注記部分はウィキ出羽三山」に拠る)の公式サイト内の中興の祖・天宥法印に続く歴代別当遺品展によれば、天宥別当は慶長一一(一六〇六)年に山形県西村山郡川土居村吉川(現在は西川町)安仲坊に生れ、二十五歳にして第五十代別当に就いてその類稀な才能を発揮、一山の繁栄を願って様々な施策を講じた。例えば今に見る天然記念物指定の四百本にあまる羽黒山杉並木や羽黒山頂までの二千四百四十六段に及ぶ石段、また、東三十三ヶ国を出羽三山の信仰区域と規定してその受け入れ先としての組織や諸制度を整備するなどの現在ある出羽三山信仰の磐石の基礎を築いた人物であった。しかし、讒言によって伊豆大島へ流罪となり、遂に帰ることなく八十二歳にして遷化したとある。芭蕉らが泊まった宝前院若王寺南谷別院も、芭蕉が詣でた二十余年前にこの天宥が五年をかけて建てた建坪七百坪(約二千三百平方メートル)の壮大ものであったともいう(場所については異説もある。現在の比定地には礎石が残るのみ)。山本胥氏は「奥の細道事典」で、天宥は『なかなかの事業家』で、『当時勢力のあった天海僧正に取り入り、つぎつぎに寺領を拡大』するといった『強引さが、一部の人たちから反感を受けた』とし、『事業欲にはしりすぎた天宥は、芭蕉好みの男ではない』と断ずる(私も同感である。山本氏も指摘するように、この前書で記されたような門徒衆の称揚した天宥の業績に対して本当に芭蕉が好ましく感じたとすれば、それは「奥の細道」に記されねばならない。しかし天宥のことは一言も触れられていないのである)。山本氏は、寧ろ、そうした追悼の句を望んだ会覚や門徒露丸の人柄にこそ惹かれ、その懇望にほだされて「戲言」(ざれごと)と諧謔しつつものしたものが、この句と前書であったのではないかと推理されている。これにも私は諸手を挙げて賛同するものである。

 「其玉」は七月の魂祭(たままつり)、祖霊祭を指していよう。私の好きな第三句ならば――遠島となって流人の島大島で亡くなられた法印天宥さまの御魂を――仏法のあまねき慈悲の光を放つ月よ――今も恋い慕って已まぬ衆徒らのいる、この神々しい羽黒に、還しておくれ――というのである。第一句・第二句では御霊は羽黒に既に還されたこととなるが、句の詠ぜられる際のそこで仮想された句内の時間が当該の魂祭の日であったとすれば、これでもおかしくはない。]]

橋本多佳子句集「紅絲」 祭笛(Ⅲ)

 

連れ立ちて百姓低し天の川

 

七夕や同じ姿に農夫老い

 

潮汲のゆきて夏濤小さくなる

 

夏潮の二つの桶を肩にかけ

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 41 羽黒山 有難や雪をかほらす南谷

本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)

   元禄二年六月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月二十日

である。【その一】この前日に新庄を発った芭蕉は羽黒山へ向かった(途中、本合海(もとあいかい)から古口・清川を経て狩川まで、実に二十九キロメートルに及ぶ最上川の川下りを初めて体験している)。羽黒山では南谷の別院に入り、途中に芭蕉生涯一度の本格登山であった月山(一泊)・湯殿山登頂を挟んで十日に鶴岡に発つまで、七泊八日を過ごした。

 四日の正午頃、本坊に招かれ、天台の高僧別当代会覚(えかく)阿闍梨(京都出身。法名和合院照寂。次の「其玉や」で注するように第五十代別当天宥が伊豆流罪に処せられて後、当「羽黒三山」(天台宗系ではかく呼称した)の別当は本山の東叡山寛永寺が兼務をした。芭蕉参詣当時の別当は東叡山大円覚院公雄であったが、兼務別当は当地には赴かず、その別当(院)代として派遣されていたのが会覚である)に謁して蕎麦切をふるまわれ、その場で本句を発句とした歌仙「有難や」の巻が巻き初められた(但し、この日は初折の表六句までで、翌五日羽黒山山頂(標高四一八メートル)の羽黒権現の参詣の後に初裏十二句で初折まで出来、月山と湯殿山の登頂が無事成就した後の九日に再開、名残の折(表十二句と裏六句)が詠まれて完成したらしいことが「曾良随行日記」の記載から窺える)。

 

有難(ありがた)や雪をかほらす南谷(みなみだに)

 

  此日閑に飽て、翁行脚の折ふし、羽黑山於

  本坊興行の歌仙をひらく、元祿二年六月に

  や

有難や雪をめぐらす風の音

 

  羽黑山本坊おゐて興行

    元祿二、六月四日

有難や雪をかほらす風の音

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。

 第二句目は「花摘」(其角編・元禄二年奥書)の句形で、「南谿集」(みなみだにしゅう・羽州羽黒山連であった松童窟文二編・文政(一八一八)元年刊)にはこの句形で載り、

 

  元祿二年六月四日、於羽黑山本坊

 

という前書と、

 

  おくの細道には、雪をかほらす南谷とあるは、例の後に再案せられしなるべし

 

と丁寧に附記されてある(ここらは底本の岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉句集」の脚注に基づく)。

 第三句目は「曾良俳諧書留」に載る完成した歌仙「有難や」の巻の発句の句形。脇は「奥の細道」にフル・ネームで名が載る芭蕉らをここに案内した、門前町荒町で山伏たちの摺り衣染めを生業とする図司(近藤)左吉、俳号露丸(呂丸とも記す)が、

 

有難や雪をかほらす風の音       芭蕉

  住程(すむほど)人のむすぶ夏草  露丸

 

と付けている。

 以上から本句は、

 

有難や雪をかほらす風の音

 ↓

有難や雪をめぐらす風の音

 ↓

有難や雪をかほらす南谷

 

の推敲過程を経たことが知れる。「かほらす」(仮名遣は正しくは「かをらす」は既にして「風」を匂わせているから決定稿の「南谷」は実際の芭蕉が泊した霊場の地名であり、その「かほり」は霊地の妙香ででもあるのであろうが、それは同時に自ずと「南風」から「風薫る」の意が利くように選ばれたものであるということがこの推敲順列から判然としてくるのである。

 以下、「奥の細道」の羽黒山の段の前段

   *

六月三日羽黑山に登る圖司左吉

と云ものを尋て別當代會覺阿

闍梨に謁ス南谷の別院に舎して

憐愍の情こまやかにあるしせらる

四日本坊於本坊俳諧興行

  有難や雪をかほらす南谷

   *

■やぶちゃんの呟き

 この露丸は三十そこそこの若者であったが、芭蕉は親しく接した別当代会覚に対しては勿論(次に掲げる「其玉や羽黑にかへす法(のり)の月」の私の注を参照)、この俳諧に精進せんとする青年露丸に対しても非常な好感を持ったことが「奥の細道」やその関連諸資料によってはっきりと分かる。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の人名解説「呂丸(近藤)」には『呂丸は『聞書七日草』という書物を残すが、これは羽黒山での芭蕉の教えを記述した書。 芭蕉の俳論「不易流行」が最初に着眼されたのはこの時の呂丸との対話の中といわれている』とあり、また、露丸は後の元禄五年九月には芭蕉庵をも訪問、この時に芭蕉は「三日月日記」の稿本を彼に譲っている。しかしこの露丸、その翌元禄六年二月二日、京都で客死してしまうのである。]

2014/07/19

大和本草卷之十四 水蟲 介類 ネヂ貝

【同】

ネヂ貝 海濱ニ出アリ其殼ノ形顧テ戻レリ味不美

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ねぢ貝 海濱にあり。其れ、殼の形、顧(かへりみ)て戻(もど)れり。味、美からず。

[やぶちゃん注:腹足綱翼舌目イトカケガイ上科イトカケガイ科ネジガイ Gyroscala perplexa 及びその近縁種。二センチ前後で殻質は割合に厚く螺塔も高い。糸状のくっきりとした縦肋が上下連結する(但し、しばしば螺層の間で隙間を作る)。一見してその特徴的形態から判別がつく(大型の近縁種で切手にもなったコレクターに好まれるイトカケガイ科オオイトカケ Epitonium scalare のミニチュア版と言った方が分かり易いかと思われる)。私は食したことはないが、この手の巻貝類は形はいいが、新腹足目ムシロガイ科ムシロガイ Niotha livescens などを筆頭に、往々にして腐肉食の雑食性であるから美味くないとは思う。グーグル画像検索「ネジガイ」をリンクしておく。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 鹽吹貝

【同】

鹽吹貝 殻色淡黑色肉淡紅味不美

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鹽吹貝〔しほふきがひ)〕 殻の色、淡黑色。肉、淡紅。味、美〔(よ)〕からず。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱バカガイ科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis 。殻は中程度の球状三角形を成し、殻幅部が著しく膨らみ、特に殻頂は膨大して突出した印象を与える。殻表面には頂部を除いて輪脈が明瞭で、黄色を帯びた褐色の殻皮があり、また往々にして殻の周縁部分が淡紫色に彩られる。前後の側歯も強大で鋭く、非常に深く嚙み合わさっている。本州以南の潮下帯に棲息し、食用に供せられ、やや柔らかいが味もそう悪くない。但し、砂抜きが必須で食材としては敬遠され、市場ではまず見ることがない。なお、和名のように、採取された際に本種が他の種に比して有意に特異的に水管から勢いよく水を吹き出すようには、私の数少ない採取経験でも特に感じたことはない。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 白貝

【和品】

白貝 形扁淡白色味不佳

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

白貝〔(しろがひ)〕 形、扁く、淡白色。味、佳からず。

[やぶちゃん注:斧足綱マルスダレガイ目ニッコウガイ科サラガイ Megangulus venulosa

白貝とも呼ぶ。殻は大きく長円形を成す。殻質は重厚で扁平、後端に添って走る褶曲部分は僅かに右に曲がる。殻表面前半には輪脈が著しくあるものの後半では弱くなり、全体は白色又は淡褐色を呈し、斑紋を持たず、内側は多く橙黄色を示す。蝶番部には二つ主歯を持ち側歯は小さいものの、靭帯が長大で歯丘はかなり発達する。本州東北部以北の潮下帯の河川の流入の少ない砂泥中に棲息する(データは主に保育社吉良版に拠る)。

「味、佳からず」食用貝類のそれぞれの強い個性的な味や肉の厚さといった観点では確かに引けをとるものの、癖がなく甘みもある貝で、ある意味で洗練されたもので、貝の磯臭さが嫌いな人でも安心して口に入れられる点でもっと食されてよい食材であると私は思う。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 西施舌

【外】

西施舌 泉郡志曰似蛤蜊而長其肉有舌最美又

漳州府志所載最詳○江戸ニ多シ諸州ニアリ佳品ナ

リ蛤ニ似テ少長クヒラシ其舌殼ノ外ニ長ク出ツ紅白

色ナリ味ヨシ淡菜ミルクヒト訓スルハアヤマリ也

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

西施舌(みるくひ) 「泉郡志」に曰く、『蛤蜊(がふり)に似て、長し。其の肉、舌、有り、最も美〔(うま)〕し。』と。又、「漳州府志」に載る所、最も詳し。江戸に多し。諸州にあり。佳品なり。蛤に似て、少し長く、ひらし。其の舌、殼の外に長く出づ。紅色なり。味、よし。「淡菜」を「みるくひ」と訓ずるはあやまりなり。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイ Tresus keenae 。本文にある通り本邦全土の内湾砂泥底に生息し、主な産地としてしては瀬戸内海・三河湾・東京湾などが挙げられるが、現在純国産のミルクイは激減しており、一般に流通しているものは殆んどが韓国産・中国産で、代用食材として広い流通を見せる通称「白みる(白ミル)」と呼ぶナミガイ Panopea japonica やアメリカナミガイ Panopea generosa は形状が酷似するものの孰れもナミガイ科の全くの別種である。参照したウィキルクイ」によれば、あ『ナミガイは千葉県の東京湾や兵庫県の播磨灘や山口県の周防灘や愛知県の三河湾などが主産地で殻付きの活きたものが売られ、アメリカナミガイはカナダなどからの輸入品が回転寿司などの「みる貝」によく利用される。ミルクイはこれら白みる貝と区別する意味で「本ミル」(稀に「黒ミル」)と呼ばれるが、少なくとも20世紀末以降の流通量はナミガイ類(白みる)の方が圧倒的に多い。とは言え、代用品とされる白みる類も大変美味な貝類である』とある。因みに、国立国会図書館蔵の同本には頭書部分に旧蔵本者の手になると思われる手書きの付箋が附き、

ミルクヒ 泥土アル海ニ生ス。砂地ニ不生。本吉郡気仙沼海気仙郡大舟渡ニアリ上品ナリトス

みるくひ 泥土ある海に生ず。砂地に生じず。本吉郡気仙沼の海・気仙郡大舟渡(おほふなと)にあり。上品なりとす。

とある(訓読文は私「なり」は汚れかも知れない)。「本吉郡」「もとよしのこほり」で、現在もある宮城県の郡。令制国下では陸奥国(後に陸前国)に属し、幕末時点では全域が仙台藩領であった。「気仙郡」(「気」はママ)は岩手県南東部に現在もある郡。令制国下で本吉郡に同じ。「大舟渡」現在の大船渡市。かつては本吉郡に含まれた。

「泉郡志」陽思謙撰になる「泉州府志」のことであろう。南宋嘉定年間(一二〇八年~一二二四年)に起筆された泉州(福建省東南部の現在の泉州市)の地誌である。

「蛤蜊」前掲の「蛤蜊」の項を参照されたい。

「漳州府志」既出。清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「西施舌」淡菜の項でも注したが、本邦で「西施舌」は一応、ミルガイの漢字表記とするが、中文サイトを調べてみると少なくとも現代中国では「西施舌」はバカガイ科 Coelomactra 属アリソガイ Coelomactra antiquata を指している。]

橋本多佳子句集「紅絲」 祭笛(Ⅱ)  田辺流燈

  榎本冬一郎氏に誘はれて、その故郷紀州

  田辺に流燈を見る 三句

 

一束の地の迎火に照らさるゝ

 

流燈を灯して抱くかりそめに

 

  近村の人々精霊に捧げし燈籠を集め波打

  際に焚く、焰炎々と幾ケ所にもあがり、

  夜更くるまで続く

 

焰の中蓮燈籠の燃ゆるなり

 

[やぶちゃん注:「榎本冬一郎」(えのもとふゆいちろう 明治四〇(一九〇七)年~昭和五七(一九八二)年)和歌山県生。『馬酔木』(山口誓子選)に投句して誓子に師事、誓子の『馬酔木』離脱とともに「天狼」創刊に同人として参加、別に『群蜂』(ぐんぽう)を創刊、没年まで主宰した。作品を示す。

 

 ぎらぎら青し泥より芦立つ血族婚

 尾てい骨で坐る赤ん坊の星祭

 メーデーの中やうしなふおのれの顔

 根の国の祖(おや)への道のとりかぶと

 凍蝶のいまわのきわの大伽藍

 

以上は引用句も含め、俳句舎の俳人名鑑の記載に拠った。]

出癖   山之口貘

 出癖

 

ぼくは毎日

家を出て行つた

勤めてなんかゐるのではないのだが

ぼくのなかにはいまもつて

むかしのまゝの放浪がゐるのだ

放浪はいつも風を呼び

ぼくのことを誘ひ出しては

紙屑みたいに風ぐるみにするのだ

ぼくはそのたびごとに

女房こどものことを置き去りにして

地球のあちこちをうろつき廻るのだ

ときには女房こどもが

風のけはひに文鎮ぶつて

またかとむかしたりしないでもないが

用あるふりして

出かけるのだ。

 

[やぶちゃん注:恐らくは未発表の一篇で創作は底本解題によれば推定で昭和二八(一九五三)年頃とする(詳細は当該新全集を参照されたい)。バクさんはこの推定年に先立つこと、五年前の昭和二十三年三月に生涯唯一度の定職であった東京の職業安定所勤務を辞し、文筆一本の生活に入っている。当時、バクさんは五十歳、「こども」のミミコ(泉)さんは未だ九つであった。]

杉田久女句集 254 花衣 ⅩⅩⅡ 耕人に雁歩むなり禁獵地

 

  越ケ谷附近御獵地 一句

 

耕人に雁歩むなり禁獵地

 

[やぶちゃん注:「越ケ谷附近御獵地」現在の埼玉県越谷市の地に慶長九(一六〇四)年に徳川家康によって建てられた越ヶ谷御殿の傍の鷹狩のための御猟地のことと思われる。因みにこの越ヶ谷御殿は、江戸の大火で失われた江戸城の建物の代替として明暦三(一六五七)年になって江戸城二の丸に移されるまでの五十三年間、家康・秀忠・家光などが鷹狩で訪れた御殿の跡として現在に知られる(ここは個人サイト「しらこばとNETWORK」の越ヶ谷御殿跡を参照した)。]

杉田久女句集 253 花衣 ⅩⅩⅠ

  悼柳琴 一句

 

莖高くほうけし石蕗にたもとほり

 

[やぶちゃん注:「柳琴」太田柳琴。坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、久女の子らの主治医であった小児科医でクリスチャン、俳句もたしなんだ人物で、夫宇内との不仲に悩んだ久女のメソジスト教会への入信を勧めた一人である。『俳句をたしなみ、小倉の俳句会『二八会』の創設者のひとりで、久女によれば、「物質万能のK市には珍しい様な高い人格者だつた」』(小説「河畔に棲みて」からの引用)とある。彼の没年は調べ得なかったが、角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和六(一九三一)年のパートにある。久女大正一〇(一九二一)年より教会に通い出し、翌大正一一年八月に受洗した。因みに夫も同年十二月に受洗しているが、久女は四年後の大正十五年十一月頃には教会から距離をおき、同時に俳句に専心する決意を固めている。因みに昭和二一(一九四六)年一月二十一日に大宰府県立筑紫保養院にて腎臓病のために亡くなった久女の遺骨は夫宇内の実家の裏山の墓地に葬られている。戒名は無憂院釋久欣妙恆大師である。教会を離れてから五年後であるが、同人に対する敬愛の念は続いていたことが分かる。久女伝説の一つにはこの大田柳琴との醜聞があるが、私は全く採らない、というか、彼女の不倫スキャンダル自体が孰れも怪しいものばかりで私には関心がないのであると述べおくこととする。]

杉田久女句集 252 花衣 ⅩⅩ

 

嚴寒や夜の間に萎えし卓の花

 

如月の雲嚴めしくラヂオ塔

 

ほのゆるゝ閨のとばりは隙間風

 

眉引も四十路となりし初鏡

 

たらちねに送る頭巾を縫ひにけり

 

遊學の旅にゆく娘の布團とぢ

 

かざす手の珠美くしや塗火鉢

 

筆とればわれも王なり塗火鉢

 

ひとり居も淋しからざる火鉢かな

 

銀屛の夕べ明りにひそと居し

 

色褪せしコートなれども好み着る

 

句會にも着つゝなれにし古コート

 

アイロンをあてゝ着なせり古コート

 

身にまとふ黒きショールも古りにけり

 

鶺鴒に障子洗ひのなほ去らず

 

かき馴らす鹽田ひろし夕千鳥

 

首に捲く銀狐は愛し手を垂るゝ

 

牡蠣舟や障子のひまの雨の橋

 

君來るや草家の石蕗も咲き初めて

 

そののちの旅便りよし石蕗日和

 

[やぶちゃん注:「石蕗日和」は「つはびより」で石蕗(つわぶき:キク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ Farfugium japonicum )の花の映える好天をいう。ツワブキは晩秋から初冬にかけて咲くから、小春日和と同義で冬の季語である。]

 

冬ごもる簷端を雨にとはれけり

杉田久女句集 251  花衣 ⅩⅨ 冬凪げる瀨戸の比賣宮ふしをがみ / 初凪げる和布刈の磴に下りたてり

 

冬凪げる瀨戸の比賣宮ふしをがみ

 

[やぶちゃん注:「瀨戸の比賣宮」 福岡県宗像市田島にある全国の弁天の総本宮ともされ、裏伊勢とも称される宗像三女神を祀る宗像大社(むなかたたいしゃ)。「瀨戸」は現在の福岡県宗像市の古称。「比賣宮」は「ひめみや」と読み、比売は宗像三女神を指す。]

 

初凪げる和布刈の磴に下りたてり

 

[やぶちゃん注:「初凪げる和布刈の磴に下りたてり」は「はつなげるめかりのとうにおりたてり」と読む。「和布刈」は福岡県北九州市門司区門司にある和布刈(めかり)神社のこと。ウィキ「和布刈神社に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。「磴」は同神社の階(きざはし)の謂い。私は実は行ったことがないのだが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。]

杉田久女句集 250  花衣 ⅩⅧ 冬濱のすゝ枯れ松を惜みけり

  萬葉企救(きく)の高濱根上り松次第に煤煙に枯るゝ 一句

 

冬濱のすゝ枯れ松を惜みけり

 

[やぶちゃん注:「企救の高濱」は「万葉集」に「企救の濱」「企救の長濱」「企救の高濱」などと詠まれた歌枕で、現在の北九州市小倉北区赤坂附近から戸畑区の洞海湾湾口までの、響灘に面した国道一九九号線沿いの海浜を指す。現在は大方が臨海埋立造成によって全く消失しているが、往古は白砂と美しい根上り松(根の部分が地表から浮き上がっている松をいう)が群生し、太宰府へ行き交う旅人や大里宿へ通じる街道筋の美観として多くの人々の心を慰めたという。小倉の高浜町や長浜町はその地名の名残とされる。以下に「万葉集」の当地の詠歌を総て示す。

 

 豊國の企救の濱辺(はまへ)の眞砂地(まなごつち)眞直(まなほ)にしあらば何か嘆かむ                             (巻 七・一三九三)

 

あなたの私への思いがあの真砂のようにまっさらな清いみ心であたなら、どうしてかくも歎くことがありましょうという女の詠歌。

 

 豊國の企救の濱松ねもころに何しか妹(いも)に相言ひそめけむ (巻十二・三一三〇)

 

「松根」の「ね」に「めもころ」(懇ろ)を掛けた。どうして妻にお前にかくも恋を囁くようになってしまったのだろう、という男の側の恋の苦悶を詠む。『柿本人麻呂歌集に出づ』と後書する。

 

 豊國の企救の長濱行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ    (巻十二・三二一九)

 

 豊國の企救の高濱高高(たかだか)に君待つ夜らはさ夜更けにけり(巻十二・三二二〇)

 

「高高に」は心の高揚感を掛ける。先に続く恋情に燃える同じ男の詠歌。

 

    豐前國(とよのみちのくちのくに)の白水郎(あま)の歌一首

 豊國の企救の池なる菱の末うれを摘むとや妹がみ袖濡れけむ (巻十六・三八七六)

 

菱の実の先を摘もうとしてあなたの恩袖は濡れ遊ばされたろうか、この恋情の相手は上流階級の女性か、と中西進氏(講談社文庫「万葉集」注)は注する。

 坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、久女の草稿には、既に出た、

 

くぐり見る松が根高し春の雪

 

の句とこの句の間に、

 

  この萬葉の根上り松は次第に煤煙と漁夫ら

  のあらすところにあり。今上陛下のよき御

  屛風の小倉赤坂の名所萬葉にうたはれし企

  救の高濱も次第に枯れ今數本あるのみ。お

  しむべし

 

との詞書があるとある(底本引用を恣意的に正字化した。「おしむべし」は底本にママ注記がある)。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(26) その日頃 

 その日頃

 

わが少女捕虜(とりこ)のごとくくゝられて

鞭もて打たれ泣きたしといふ

        西洋の花なる故にダリヤの花

        を好みたる人、その人いまい

        づれにありや

 

眠むたげに尚キスせんと言ふ人の

側へにありて午後の茶を飮む

 

古めきし我が洋館のバルコニに

晝も夢みる人と住みにき

 

かあてんも動かずなりし八月の

午後を我等はキスして居たりき

 

窓あけよ餘り我等が長き日に

空氣も今は重くしづめり

 

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「重くしづめり」の「づ」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「その日頃」歌群の終了を示している。これで大歌群「何處え行く」は終わる。]

耳嚢 巻之八 長壽の人其氣質常に異なる事

 長壽の人其氣質常に異なる事

 

 寶藏院の鎗術を師とせる長尾撫髮は九十六にて物故(もつこ)なせしが、寒中も布子(ぬのこ)又小袖にてもひとつ着し、常住坐臥甚だ氣丈にて、死せる時も子共弟子家内の物と盃事(さかづきごと)いたし相果けるとなり。文化五年未(いまだ)存生(ぞんしやう)の由、松平出羽守家來にて、番頭を勤(つとむ)る荻野喜内は、いかなる譯哉(や)、鳩ケ谷出生の由、異名を鳩ケ谷天狗と唱候由。則(すなはち)文化五年八十八歳にて今以(もつて)丈夫成由。常に物の捨るを嫌ひ、道にぬぎ捨し草履を小者にとらせ右をつくろひ直して用ひける由。右は草(ざう)りに限らず、都(すべ)て捨れるもの不捨(すてず)といふ願の由、一奇人なりと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「寶藏院の鎗術」既注であるが再掲する。奈良興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房胤栄(大永元(一五二一)年~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を用いる槍術の一派。今は伝わらない(現在は宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存しているとウィキ宝蔵院流槍術にはある)。

・「長尾撫髮」「ブハツ」と音読みしておく。長尾資正。底本の鈴木氏注によれば、長宝蔵院尾流の鎗術家で、同流は宝蔵院宗家三代目覚舜坊胤正の門人長尾資政を始祖とし、撫髪は三代目とある。因みに、江戸後期の剣客で天真一刀流の祖である寺田宗有(延享二(一七四五)年~文政八(一八二五)年)はウィキ寺田宗有に槍術をこの長尾撫髪に学んで免許皆伝を得たという記事が載る。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから同時代人で、長尾も本記事執筆(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の直近まで存命であったと考えてよい。例えばこの文化五(一八〇八)年に亡くなったと仮定しても、その九十五年前は正徳二(一七一二)年で、ウィキによれば寺田宗有は十八歳で高崎藩に出仕、剣術を平常無敵流の池田八左衛門成春に入門、以後十二年間に亙る修行の末に谷神伝(こくしんでん)奥義を授けられたとあるから、彼が十八の時は、既に撫髪は五十歳、三十歳以降なら七十二歳超えとなる。

・「常住坐臥」底本には右にママ注記。この後は本当は正しくは「行住坐臥」(仏語で人の起居動作の根本の四威儀を指す)で、別な仏語で永遠不変を表わす「常住」と誤って混用した用法が慣用句化してしまったもの。

・「松平出羽守」松平斉恒(寛政三(一七九一)年~文政五(一八二二)年)。出雲松江藩第八代藩主。但し、文化三(一八〇六)年に家督を父から譲られたばかりで、この文化五(一八〇八)年当時は未だ満十七歳であった。

・「荻野喜内」底本鈴木氏注に、『名は信敏。字は求之、号は鳩谷。三百石。異風を好み高慢なため天狗と呼ばれ、自らも天愚斎と藤した。自ら誇称して、孔子六十五代の後裔孔胤椿の妾が明代に倭寇の捕虜なり、日本に来て出産した者の子孫であるとし、孔平といった(世に天愚孔子平といへど孔平は姓なり。三村翁)。文化九年百五歳であると自称し、同十四年没した。司馬江漢の『春波楼筆記』に、その容貌は乞食が帯刀したのに変らない。千金をたくわえ、漢籍にも通暁し、風流人の跡を弔うことと、自己宣伝を兼ねて、各所の神社仏閣に千社札を貼り歩く。その札に天愚孔平子としるしてあるといっている。千社札の鼻祖とされ、継竿の先に刷毛を付けて貼る仕掛けは、この人の工風であるという』とある。あまりに面白く興味深い注であるので、例外的に全文を引用した。本文の「文化五年八十八歳」が正しいとすると、生年は享保六(一七二一)年、この注の「文化九年百五歳」が正しいとすると、宝永五(一七〇八)年となるが、まあ、前者を採ることと致そう。それでも享年九十七ですから、ご満足でしょう、天愚斎殿?

・「鳩ケ谷」埼玉県鳩ヶ谷市。先の鈴木氏の注から見ても、鳩と自身の蔑称であった天狗とのミス・マッチを、奇人であった当の喜内自身が気に入って自称したものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿の人はその気質に於いて常人と異なる事

 

 宝蔵院の鎗術(そうじゅつ)の師で御座った長尾撫髪(ぶはつ)殿は、九十六歳にて物故(ぶっこ)致いたが、寒中でも布子又は小袖にても、ただ一枚を着すのみにて、行住坐臥、背筋をぴんと伸ばして頭脳明晰、すこぶる気丈にて、死したる際(きわ)も、子供・弟子・家内の者一人ひとりと、別れの盃(さかずき)の儀を、これ、整然と漏るることなく、相い行(おこの)うた後、端然と亡くなられた。

 文化五年の今も、未だ存生(ぞんしょう)なる、松平出羽守殿御家来にて、番頭を勤むる荻野喜内殿は、如何なる訳か、鳩ヶ谷の出生なればとて、異名を御自身、「鳩ヶ谷天狗」と唱しておらるるよし。則ち、文化五年の当年とって、八十八歳にして、今以って丈夫ならるる由。この御仁、何につけても、物を捨つるを嫌い、道にぬぎ捨てられたる使い古しの草履は小者に拾わさせて、これをつくろひ直させて用いておらるると聴く。これは一つ草履に限らず、『総ての世に捨つるものをば、我ら、一切捨てざる』と申す、奇なる願いを立てたればなりと申さるる由。さても、これ、一つの奇人で御座る、とは人の語った話で御座る。

2014/07/18

どゞのつまり   山之口貘

 どゞのつまり

 

みんながそこまで

のがれては来たものゝ

まへは水

うしろが火なのだ

引返すことも出来なければ

飛び込むことも出来なかったのだ

そこでかれらはどゝのつまりを

天に向つて

のがれようとしては

引返すみたいに跳ねかへつたり

天に向つてのがれようとしては

飛び込むみたいに

 落つこちてしまつたのではなからうか

火ぶくれになつて

ころがつてゐえゐる死

水ぶくれになつて

浮いてゐる死。

 

[やぶちゃん注:本詩は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題の考証によれば未発表である可能性が強いとされ、創作は昭和二七(一九五二)年頃とされている(詳細は当該書を参照されたい)。それによればバクさんは本篇を当初は詩集「鮪に鰯」に収録することを考えていたようである。

 「どゞのつまり」は、通常、「とどのつまり」で、いろいろやってみた結果・結局。畢竟の意で、多くはその最終容態が実行者や観察者にとって思わしくなく比較上では悪い状態である場合に用いる語であるが、小学館「日本国語大辞典」では、名詞「とど」の見出しの連語の「とどのつまり」の小見出しの直下に『「どどのつまり」とも』と注記し、最後の同発音の項に『〈なまり〉ドドノツマー・ドドノツマリ・ドンドノツマリ〔鳥取〕ドドンツマリ〔対馬〕』と注記する。因みに語源は『トドは、魚のボラが幼魚の時から順次名を変える最終の呼び名である』ことによると記す。よく知られるように条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus は出世魚で、地域差があるが例えば関東方言では成長の順に、

 オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド

と変化する。詳細は私の電子テクスト寺島良安和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「ぼら なよし 鯔」の私の注を参照されたい。

 戦後の詩であるから、東京大空襲や広島・長崎の原爆被災(特に広島の)を想起させる詩であるが、私には強烈に、俳人富田木歩の死がフラッシュ・バックし(私の評論イコンとしての杖――富田木歩偶感――を是非、参照されたい)、直ちに関東大震災の際の実体験の惨状まで遡ったバクさんの、天災と戦争という人災のカタストロフの、「どゝのつまり」の人間の凄惨な死の様態をつらまえた恐るべきリアルな実感にまで淵源を遡れるもののように思われてならない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 1 函館にて(Ⅰ)

 第十四章 函館及び東京への帰還
M422
図―422
 函館へ帰ってから数回、津軽海峡へ曳網旅行に出かけた。一度は素略しい弁当、バスのエール、その他いろいろなうまい物を持って、一日がかりで出かけた。ある地点で高嶺と私とは、六マイルばかり離れた海角にある古代の貝墟を、歩て見に行く為に上陸した。我々は遠か向うに我々の小さな蒸気船を見ることが出来たが、目的の海角に着かぬ前に疾風が起り、我々が腕の痛くなる程ハンカチーフを振ったにも拘らず、彼等は我々を見出すことが出来なかった。我々は船が我々を十五マイルの遠方に残して函館へ向うのを、空しく見送らねばならぬ、悲惨な状態に陥った。小さな漁村で、我々は船の上にある御馳走のことを考えながら、一塊の水っぽい魚の羹(あつもの)と、貧弱な米の飯とを食った。ここで土着の鞍をつけた駄馬を二頭やとったが、実に我慢出来ぬ鞍なので、時々下りて歩き、夜に入ってから疲れ切って、びっこを引き引き、函館へ着いた。途中、例の噴火山が非常に立派に見えたが、その輪郭は函館から見るのとまったく違う。噴火口の形は明瞭に見わけられ、斜面は淡褐色で、美しく日に輝いていた。図422はその外見を、簡単に写生したものである。
[やぶちゃん注:「バスのエール」原文は“Bass's ale”。底本では直下に石川氏の『〔一種の麦酒〕』と割注する。これは“BASS PALE ALE”(バス・ペール・エール)でイギリスのバス社製のエール、上面発酵のビール。ウィリアム・バス(William Bass) が英国中部で創業した古参のビール会社である。グルメ情報サイトの『明治時代の日本にも輸出されていた「バス」』によれば、ナポレオン・エドガー・アラン・ポーが愛飲、かのタイタニック号の処女航海には五百ケースのバス・ペール・エールが積み込まれていたとあり、『明治時代にバス・ペール・エールを輸入していたという記録が残ってい』るとある。
「六マイル」約九・七キロメートル。
「海角」原文は“point”。岬。突端。
「十五マイル」約二十四キロメートル強。
「例の噴火山」有珠山。識者ならば以上の距離と山容(現在とは異なるが)から見て、モースと高嶺が置き去りされた場所がある程度、特定出来ると思われる。よろしく御教授をお願い申し上げる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 40 新庄 風の香も南に近し最上川

本日二〇一四年七月十八日(陰暦では二〇一四年六月二十二日)

   元禄二年六月 二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月十八日

である。新庄二日目。この日、芭蕉は渋谷風流の兄で問屋業を営む商人で城下一の豪商渋谷九郎兵衛盛信に招かれ、風流宅の斜向いのその豪邸に於いて七吟歌仙「御尋に」の巻と以下の句を発句とする芭蕉主催の三つ物をものした(後者は前日の風流主催のそれへの返礼)。

 

  盛信亭

風の香も南に近し最上川

 

[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。三つ物を示す。

 

  盛信亭

風の香も南に近し最上川  翁

  小家の軒を洗ふ夕立  息 柳風

物もなく麓は霧に埋て  木端

 

主人盛信は俳諧を嗜まなかったので歌仙にも参加していないが、そのホスト代役として盛信の「息」子の柳風(仁兵衛)が脇を、第三を地元の俳人木端(小村善衛門)が付けたものである。

 山本健吉氏は「芭蕉全句」で、『この句の季題は「風薫る」。『増山の井』』(ぞうやまのい:俳書(季寄せ)。北村季吟著。寛文三(一六六三)年刊。)『に「風薫(かおる)」を録して「南薫(なんくん)。六月にふ涼風也。薫風自南来(みなみよりきたる)と古文真宝前集にいへり」と説いている』とある。この「薫風自南来」は寧ろしばしば禅語として目にするもので、そこでは例によって「くんぷうじなんらい」と棒読みする。この語は唐代の文宗が作った「人皆苦炎熱/我愛夏日長」(人 皆 炎熱に苦しむも/我 夏日の長きを愛す)の句に文人柳公権がつけた「薫風自南來/殿閣生微涼」(薫風 南より來たり/殿閣 微涼を生ず)の七絶の転句である。

 山本氏は先の引用部に続けて以下のように本句を評しておられる。

   《引用開始》

「風の香も南」と言って、この南薫を意味している。新庄は、最上川より大分北になるので、芭蕉は南からの風に最上川の水辺の匂いを感じ取ったのである。近々と最上川が感じられることを、盛信への挨拶とした。大国に入っての挨拶句の格をはずしていない。同じ日、盛信亭での歌仙の脇句に、芭蕉は「はじめてかほる風の薫物」と作っていて、「風薫る」の季題にひどく執著している様子が見える。

   《引用終了》

因みに、この七吟歌仙「御尋に」の巻の方の発句は風流の「御尋に我宿せばし破れ蚊や」である。

 以上の山本氏の指摘は例えば、明日示す、この翌日六月四日の句である「奥の細道」にも載るそれが、

 

有難や雪をかほらす南谷(みなみだに)

 

であることからもすこぶる首肯出来る。]

2014/07/17

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 39 新庄にて 水の奥氷室尋ぬる柳哉

本日二〇一四年七月十七日(陰暦では二〇一四年六月二十一日)

   元禄二年六月 一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月十七日

である。この日、芭蕉は大石田を発って新庄に到着、尾花沢で知遇となった豪商渋谷風流(甚兵衛)の邸宅で歓迎の宴が催された。恐らく以下の句以下の「水の奥」を発句とするの「三つ物」(連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を指し、早くからこの三句だけを詠む形式が好まれた。特に近世以降は歳旦の祝いとしてよく詠まれた形式である)はその席上で読まれたものと推定される。

 

  風流亭

水の奥氷室(ひむろ)尋(たづぬ)る柳哉

[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。以下、これを発句とする「三つ物」。

 

 風流亭

水の奥氷室尋る柳哉     翁

  ひるがほかゝる橋のふせ芝  風流

風渡る的の變矢に鳩鳴て     ソラ

 

新庄には翌日も新庄に滞在、その翌六月三日(新暦七月十九日)に現在の山形県新庄市大字本合海(もとあいかい)に向けて発っているが、本「三つ物」がものされたのがこの日に比定出来るのは、芭蕉の発句に詠み込まれた「氷室」に依拠する。この旧暦六月一日は「氷室の節句」「氷の朔日」に当っているからである。これは奈良時代の古えからこの日に前年の冬に氷室に貯蔵しておいた雪氷を食す習慣に基づくもので、庶民の間では高価な氷の代わりに前年十二月の水で製した「凍り餅(氷餅)」や「欠餅(かきもち)」をこの日に食して暑気払いや夏の厄除けとしたのであった。時候を押さえた心憎い挨拶句であるからこそ比定の有力な証左となるのである。因みに曾良の第三の「變矢」は「へんや」で尾羽を彩色などした変わり矢羽根のことか。

 山本健吉氏の指摘するように、実際にそんな氷室が風流亭の奥にあったわけではなく、そのような幽邃な邸を讃える全くの想像吟であったと考えてよかろう(但し、私は実際に氷室の氷が食膳に供された可能性はあると考えている)。なお諸本の指摘にもある、芭蕉が羽州街道を新庄城下に入った際、そこにあった「柳の清水」(昭和初期までは湧水として知られた)で清涼な冷「水」を掬したものと考えてよく、その「柳」をも添えて亭主を含む土地の自然をも言祝いだのだとすれば万全の句とも言えよう。「氷室」には無論、主人の富貴も匂わせてある(そう考えると氷若しくは氷を用いた冷やし物が実際に膳に出ていなければ厭味にもなり、挨拶吟として機能しなくなると私は思うのである)。]

2014/07/16

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 24 室蘭から噴火湾を森へ(Ⅱ) / 第十三章 了

M420

図―420

M421

図―421

 

 図420は、室蘭湾から見たウスヤマの輪郭、図421は継続的に上昇する湯気に、峰をかくされた駒ヶ岳である。この山は函館からよく見える。高さは四千フィートに近く、二十二年前に猛烈な噴火をした。昼飯後駄馬をやとい、矢田部と彼の下男とは駒ヶ岳に登山する為に残り、佐々木、高嶺及び私が前進した。山の支脈や、自然そのままの区域を馬で行くことは、極めて画的であった。山山の峰は霧にかくれ、時々雨が降りそうになった。我々は美しい湖水の横を通ったが、もう二時過ぎで、函館までは三十マイルもあるから、止ることは出来なかった。道路は全距離にわたって修繕中で、我々はしょっ中気をつけている必要があった。森から数マイル行った所で、我々は峠にさしかかった。ここの景色は素晴しかった。ある地点へ来た時、駒ヶ岳のゴツゴツした、円錐形の峰が突如雲を破って聳えた。側面が切り立っているので、峰は高さ十マイルもあるように見えた。しばらく降った雨がやんだので、空気は非常に清澄であった。

[やぶちゃん注:「ウスヤマ」底本では直下に石川氏の『〔有珠山〕』という割注が入る。

「四千フィート」一二一九メートル。現在、有珠山の標高は七三七メートルで、モースが実見して以降の噴火によって、これほど標高が変化する(有意に下がる)とは思われないから、かなり誇張された数字ではなかろうか?

「駒ヶ岳」北海道駒ヶ岳。標高は一一三一メートル。

「二十二年前に猛烈な噴火をした」明治一一(一八七八)年の二十二年前は一八五六年であるが、これは二十五年前の誤り。有珠山の嘉永噴火である。ウィキの「有珠山」によれば、嘉永六(一八五三)年三月六日(旧暦)から鳴動が始まり、十五日に最初の大噴火を起こし、その後は少し小康状態を保っていたが、二十二日に『東部から再度噴火。噴火時には「立岩熱雲」と呼ばれる大規模な火砕流が発生したが、文政噴火を知る住民たちはいち早く避難していた上、火砕流も当時集落のなかった洞爺湖方向へ流下したため、大きな被害はもたらさなかった』とある。噴火は二十七日に終息、『翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。一方、火山学者の田中館秀三は、「大有珠の溶岩ドームそのものは寛文噴火以前から存在したが、その当時は低くて山麓からは見えなかった。嘉永の噴火で急成長し、山麓からも見えるようになった」と推測して』いるとある。

「湖水」彼らが辿ったのは現在の大沼国道五号線かと思われ、まず右手に蓴菜沼、次に左手に大きな小沼が現れる。恐らく後者であろう。もし、駒ケ岳を海岸沿いに廻ったとすればこういう描写にはならないと思われるからである。

「三十マイル」約四八・三キロメートル。

「峠」これは現在の大沼トンネルの直上の、まさに「峠」と通称する場所で、今の西大沼から仁山を結ぶ峠であろう。

「十マイル」一六・一キロメートル。]

 

 間もなく我々は峠の向う側を、調子のいい速歩で下りつつあった。私のすぐ前には佐々木が、固い荷鞍にのって進んだ。私は洋傘のさきを靴にさし込んだら、楽に持ち運び出来るだろうと思って、しきりにさし込もうとしたが、馬が揺れてうまく行かぬ。靴を見るために一方に傾きながら、私はどちらかというと性急に、先端を靴にさし込もうとしたが、どうした訳だか標的を外し、洋傘は馬の腹の下を撲った。馬は即座に側ぎれて、私は頭と肩を打ちながら地面に落ちた。私は只馬の蹄をよけて匐い出し、片足を鐙(あぶみ)から外したこと丈を覚えている。私は馬の右側へ落ち、左の鐙を鞍越しに引きずったのである。目をあけると、佐々木もまた地面にいる。私は彼が私を助けるために、飛び下りたのだと思った。だが、彼の馬もまた側ぎれをやり、彼は荷鞍から投げ出されて、鞍の上にいた時と全く同じく、両膝をついて地面へ落ちたものらしい。まったく馬は、それ程急激に、側ぎれしたのであった。我々の馬は一目散に路を駈け下り、その後から我々もついて行った。若し見失えば、函館まで歩かねばならぬ。だが、間もなく彼等は、谿谷を上って来る馬の一群に出会い、その間へ走り込んだ結果、蹴ったり、鼻を鳴らしたりの大騷動が持上った。それにもかかわらず、我々は馬の中にわけて入り、重い荷にぶつかったり、蹴飛ばされるのを避けたりしながら、ついに我々の二頭をひっ捕えた。佐々木はその後六ケ月間びっこを引き、私は数週間、左側ばかりを下にして寝た。

[やぶちゃん注:「馬は即座に側ぎれて」原文は“He instantly shied”。“shy”という動詞には、馬が何かに驚いて飛びのく、 後ずさりする、の意がある。「側ぎれる」という日本語は私には初見で、読みもよく分からない(「そばぎれる」か?)。しかしこれは恐らく、馬が吃驚して、正常な進行からずれて、片側に激しく跳躍してしまうことを言っているようである。読みも含めて識者の御教授を乞うものである。]

 

 四時、峠を下り切った時には、函館の山々がはっきり見えたが、而も函館へ着いた時は、もう真夜中であった。最後の二マイルを、我々は歩いた。馬が路にあるバラ土の積堆や石の上で、一足ごとにけつまずいたからである。歩く我々も、時々路傍の溝の中にいたり、まだならしてない砂利の砂利の上を、四匐いになっていたりした。

[やぶちゃん注:「二マイル」約三・二キロメートル。

「バラ土」原文は“piles of dirt”。“piles”は堆積、“dirt”は埃の山。所謂、ガレ場のことであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 23 室蘭から噴火湾を森へ(Ⅰ)

M418
図―418

M419

図―419

 

 日曜日の朝、船が四時に出帆するというので、我我は二時半に起きて朝飯を食い、荷ごしらえをした。船は六時迄、埠頭を離れなかったが、我々は日出前に乗込み、山にふち取られた岸を持つ湾の、この上もなく美しい景色を見た。我々の通る路は、高い崖に沿うていたが、見下す谷の深い闇の中には、鉄工所の火が赤々と燃えていた。太陽は雲のすぐ後にあり、水は穏かで、絵画的な日本人の一群が我々と同じ路を歩いて行った。附近唯一の外国人であることは楽しかったが、事実札幌と、途中で逢ったドイツのお医者様とを除いて、外国人には一人も逢わなかった。図418は船から急いで室蘭を写生したものである。我々が乗った小さな蒸汽船は、日本人で一杯だった。見ていて興味の深い彼等の気持のいい礼譲は、岬を廻って噴火湾へ出れば消えて了うと思っていたが、果して一時間も立たぬ内に、船が激しく揺れ出し、彼等はすべて、ひどく船に酔った。図419は室蘭港から出て来た所にある、岬の輪郭図である。この写生図で、岩が水平線のところで切り込まれていることに気がつくであろう。これは土地が隆起した証跡である。全島火山性で、不安定である。私は汽船から、二、三枚の写生をしたが、私自身の状態が、他の船客のそれに近くなって来たことに気がついたので、ちょっと休むために船室へ下りた。我々の上陸地点、森へ近づいた時、機関の火路が一本破裂して、殆ど火を消しかけた為、しばらくの間、我々は風と波との意のままに、ブラブラした。若し暴風雨が起ったら、我々はどうにもこうにもならなかったであろう。風は強く、雨は降り、そして、こんなに陸地に近くいながら、岸へ着けぬというのは、誠に腹立たしかった。最後に我我は動き出し、正午、森へ上陸した。

[やぶちゃん注:前に注した通り、矢田部日誌の八月四日の条には、『五時前稻川丸ト云フ小汽船ニ乘込ム』『十一時森着。午後一時過モールス、佐々木、高嶺ハ函館ニ出發セリ。余並ニ富次郎』『駒ヶ岳ニ登ル』と記す。

「室蘭港から出て来た所にある、岬」絵鞆(えとも)岬か。]

耳嚢 巻之八 細川幽齋狂歌即答の事

 細川幽齋狂歌即答の事

 

 予が許へ來れる正逸といへる導引の賤僧あり。もとより文盲無骨にて、其いふ所取にたらざれど、ある時噺しけるは、太閤秀吉の前に細川幽齋、金森法印今壹人侍座せるに、閤いわく、吹(ふけ)どもふけずすれどもすれずといふ題にて、前をつけ歌詠めとありしに、壹人

 わらわれて珠數うちきつてちからなくするもすられず吹も吹れず

金森法印は、

 笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず

と詠みければ、幽齋いかにとありしに、何れも面白し、我等は一向にらちなき趣向ゆゑ申出(まうしいだ)さんもおこなれど、かくも有べきやと、

 すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず

と詠ぜし由。滑稽の所、幽齋其要を得たりと見ゆ。しかれど此事、軍談の事、古記にも見あたらず、前にいへる賤僧の物語りなれば、其あやまりもあるべけれど、聞まゝを爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。古狂歌譚。

・「細川幽齋」(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)は安土桃山から江戸初期の武将。三淵晴員を父として生まれるが、母は将軍足利義晴の側室(清原宣賢の娘)で実父は義晴ともいう。天文八(一五三九)年、義晴の命で和泉半国守護家の細川元常の養子となり、同十五年には義晴の子義藤(義輝)より諱の一字を貰って藤孝と名乗った。義晴・義藤が京都での戦乱を避けて近江に亡命した際、これに同行した。同二十三年、元常の死により家督を相続。永禄八(一五六五)年に将軍義輝が暗殺されると、義輝の弟一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出して近江甲賀郡へと導き、若狭武田氏・越前朝倉氏らを頼って流浪した。同十一年、織田信長の援助を得て義昭の上洛を成功させ、天正元(一五七三)年に義昭が信長に京都を追われたのちは信長の家臣となり、西岡(長岡)の地を得て長岡姓を称した。同八年に丹後に入国、明智光秀の娘を子忠興の妻とするが、同十年の本能寺の変では光秀の誘いを断わり、剃髪して幽斎玄旨と号し、丹後田辺城に隠居し、同十三年には二位法印となったが、翌年には豊臣秀吉より西岡に三千石を与えられ、九州攻め・小田原攻めに参加、文禄の役では肥前名護屋・薩摩などにも赴いた。慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦いでは家康方につき、七月十八日より田辺城に籠城して敵の兵を引き留めた。この時、三条西実枝に古今伝授を受けていた幽斎が戦死してしまえば、古今和歌集の秘奥が断絶することを後陽成天皇が憂え、開城の勅使を遣わしたこともあって九月十七日に出城した。子の忠興は関ヶ原の戦いに於いて前線で石田三成の軍と戦い、戦後は豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得、その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったと伝えられる。当代屈指の文化人であったが、その素養は母方の清原家で養育された際に培われたものと思われる(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「導引」按摩。

・「金森法印」金森長近(大永四(一五二四)年~慶長一三(一六〇八)年)は安土桃山から江戸初期の武将。飛騨国高山藩藩主。大畑定近の子。初め可近と称し、後に織田信長から諱の一字を貰って長近とし、剃髪して兵部卿法印素玄と号した。信長が加賀・越前を攻めた際、これに従って活躍、越前国大野郡に所領を得、その後、豊臣秀吉の命で天正一三(一五八五)年には飛騨国を平定、翌年、同国をあてがわれた。同十八年には高山の天神山古城に城を築いている。関ケ原の戦いで軍功を立て、新たに美濃国に二万石・河内国に三千石を得た。茶の湯・蹴鞠などに堪能で、茶は養子可重、さらにはその長男宗和に受け継がれ、宗和は茶の湯金森流の祖となった。古田織部との親交もあり、この時代を代表する文化人の一人で、秀吉の御伽衆の一人であったという(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「大閤いわく」の「大」はママ。

・「笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず」底本では下の句の右に『(尊經閣本「すれ共すれず吹もふかれず」)』と傍注する。底本の鈴木氏注に、『『新撰犬筑波集』雑に、「ふくもふかれずするもすられず」の前句に、「われ笛のさらば※になりもせで」[やぶちゃん字注:「※」=「彫」の「周」の上に(たけかんむり)。ささら。]と付け、同じ前句に「山伏の貝われずゞの緒は切れて」、また「硯水うみにほこりのたまりきて」と付けた句がある。また『伊勢誹諧間書集』には、これを宗祇、宗長、守武の三者が付けたことにしている。すでに説話化が始まっているわけで、この狂歌も、そうしたものの改悪と見ることもできるが、むしろこのような連歌の句が秀句化し口承のうちに笑話化したものであろう。卑俗化の跡が甚だしい』と注する。『ずゞ』は数珠。

・「すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず」底本では下の句の右に『(尊經閣本「すりもすられず吹もふかれず」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 細川幽齋が洒落た狂歌を即答した事

 

 私の元へ来たる正逸(しょういつ)と申す按摩を生業(なりわい)と致す賤しき僧が御座る。

 もとより文盲無学の者にして、その言うところ、これ採るに足らざるものなれど、ある時、話のついでに、次のような一譚を物語って御座った。

 

――太閤秀吉の前に細川幽齋と金森法印、それから今一人の者が伺候致いた御座ったところ、太閤殿下の曰く、

「『吹けどもふけずすれどもすれず』という題にて、前を付け、歌を詠め。」

とあったところが、名を失念致いたそのお一人が、

 わらわれて珠數うちきつてちからなくするもすられず吹も吹れず

と詠んだ。

 続いて金森法印は、

 笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず

と詠んだところが、興じた殿下は、

「幽齋、そなたは如何に!」

と仰せられたところ、

「――いや、孰れも面白き歌にて御座る。――我らは一向に埒もなき愚才ゆえ、申し出ださんも愚かなること。――なれど、こういうのは如何で御座ろう?」

と、

 すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず

と詠ぜられた由。

 

 「……この滑稽の勝負、幽齋殿、その要めを得ておると見えまする。」

と正逸の評では御座った。

 

 しかれどもこの事、軍談の中や古記録にも一切見当たらず、先に申し上げた通りの賤しき僧ばらの物語りなれば、往々にして重大な誤りなんどもあろうとは存ずれど、まあ、聴いたままをここに記しおくこととは致す。

橋本多佳子句集「紅絲」 祭笛(Ⅰ)

 祭笛 

 

  戦後はじめて京都祇園祭を観る 

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中

 

われもまたゆきてまぎれん祇園囃子の中

 

髪白く笛息ふかき祭(まつり)びと

 

鉾囃子(ほこばやし)高くくらきに笛吹く群れ

 

祭笛吹くとき男佳(よ)かりける

 

祭笛うしろ姿のひた吹ける

 

[やぶちゃん注:この句について、私の『鈴木しづ子 三十二歳 昭和26(1951)年8月24日附句稿69句から32句及び「樹海」昭和26(1951)年10月号発表句3句』の「遠花火音より早く失せにけり」注の鈴木しづ子の「祭笛」の句二句、

 祭笛吹き了りなば情ささげむ

 

 祭笛ふくとき若さ恥ぢにけり

 

についての私の解釈部分を是非お読み戴きたい。]

 

生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣

 

堪ゆることばかり朝顔日々に紺

 

泣きたけれど朝顔の紺破るべし

 

あさがほが紺折りたゝむひらく前

杉田久女句集 249  花衣 ⅩⅦ 菊 

 

菊花摘む新種の名づけたのまれて

 

菊摘むや廣壽の月といふ新種

 

[やぶちゃん注:「廣壽の月」というもしかすると久女が名づけたかも知れない菊の品種、御存じの方がいたら、是非、お教え下さい。]

 

菊摘むや群れ伏す花をもたげつゝ

 

摘み移る日かげあまねし菊畠

 

添竹をはづし歩むや菊も末

 

菊干すや東籬の菊も摘みそへて

 

菊干すや日和つゞきの菊ケ丘

 

菊干すや何時まで褪せぬ花の色

 

日當りてうす紫の菊筵

 

今日はまた白菊ばかり干しひろげ

 

緣の日のふたたび嬉し菊日和

 

朝な朝な掃き出す塵も菊の屑

 

大輪のかわきおそさよ菊筵

 

今年ゐて菊咲く頃の我家かな

 

門邊より咲き伏す菊の小家かな

 

ひろげ干す菊かんばしく南緣

 

愛藏す東籬の詩あり菊枕

 

ちなみぬふ陶淵明の菊枕

 

白妙の菊の枕をぬひ上げし

 

ぬひあげて菊の枕のかほるなり

 

[やぶちゃん注:私の電子テクスト杉田久女随筆「菊枕」も参照されたい。]

ブログ・アクセス600000突破記念 杉田久女 菊枕

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、8年目、先程、遂に600000アクセスを突破した(左コンテンツのカウンター参照。最近不具合が是正されたようなので配置した)。記念テクストを公開する。

菊枕   杉田久女 

[やぶちゃん注:杉田久女の代表的随筆である。初出は昭和八(一九三三)年十二月二十七日附『九州日報』。底本は立風書房一九八九年刊「杉田久女全集」第二巻を用いたが、恣意的に漢字を正字化してある。踊り字「〱」は正字化した。太字は底本では傍点「ヽ」。引用句の句の字間は詰めた。注は将来、正規サイト版を作成する際に附そうと思っているが、菊枕というもの自体については私自身が実見したことがないので、坂本宮尾氏の評論から引用した附記を最後に附しておいた。本テクストは私のブログ・カテゴリ「杉田久女」に掲載する菊枕の句のため及び本ブログの600000アクセス突破記念のために作成した。【2014年7月16日 藪野直史】]

 

 菊  枕

 

 十二月二十三日の早朝起きいでて、欄から見わたすと、西南の空にピラミッドの如くそびえてゐる帆柱山には、銀白の初雪が、二三すぢ玉だすきをかけた樣にかかつてゐた。

 東南の山の多いぬき山にもうす雪がかがやき渡り、數日の風雨のあともなく、雲まから旭がうらうらとさしてきた。

 天帝の下したまふ初雪の瑞祥は果して、午前八時頃鈴の音いさましく、此の朝六時三十何分皇后陛下御安産。御皇太子殿下御誕生遊ばされた御吉報を拜承して數ならぬ菊が丘の一閑人も心から皇室の御榮え。新皇子樣の御幸ひをことほぎ奉るのであつた。

 丁度この日午後から、德力櫻橋畔に藤井玉欄畫伯をおたづねする用事があつて、魚町からバスを驅る道すがら、市並の商家も刈田の伏屋も、けふの佳き日をお祝ひ申し上げる國旗がいさましくひるがへつてゐた。

 雪のぬき山は白銀の屋根をゆくてにそびえしめ、玉霞がしばしば音たててたばしった。

 玉欄畫伯のおすまひは、古風なさびた簷端に一本の早梅が、わづかに咲きはじめてゐた。

 唐藤に墨繪の鶴をしきりにかいてゐられた玉欄さんは、仙人めいた長い半白のあごひげをたれて、いつもの通り何のかざり氣も微塵もなく快く私を招じ、自らお茶をついでもてなして下さつた。

 一昨日私が伺つて、お願ひしてあつた、鹽瀨羽二重に白菊の繪はろくしやうと、銀泥で美事に、いかにも品よくかき上げられてあつた。

 けふは皇太子殿下の御うまれあそばされた佳い日で、おそれ多い事ながら、ゆかりの菊をかいて頂くのも誠にえんぎがよい、と私は語つて喜んだ。

 玉欄さんもいろいろと菊のはなしをされ、私が持參した菊枕の色紙から、話は陶淵明の東籬の菊の話、菊慈童の話などいろいろ出て私は遂々、いそがしい師走の事も他の用事もわすれて、ゆたかな心地で對座三時間を、畫室の緋毛氈の上にすがすがしく語りあつた。

 舊藩時代からの舊いお家らしいすすびた欄間のなぎなたや陣笠、うすくらいお座敷の床の間の壁は銀箔ではりつめてあつた。その落ち付いた銀光の壁に靜かにかかつた佐久間象山の古幅と、一鉢の蘭と、これもいとものさびた美事な七絃琴とがおかれてある丈の床の間は、何ともいへぬ古雅ななつかしい氣品があつた。さうした部屋の中に、すでに還曆を過ぎた玉欄畫伯と相對して、いろいろと閑談をうかがふのは誠にのびのびして嬉しい事だつた。

 玉欄氏は、火鉢ににかはをかけて自らかきまはしつつ、詩を談じ菊をたたへ、繪筆をとつて、靑銀の落款を、さつきの菊の繪にそへて下さつた。

 朱欒の庭に心をのこしつつ四時過ぎ、畫伯のもとを辭し、町で買ものなどして、漸く日のくれがた菊が丘の草庵に戻つてきたが、るすの間に、白二重の菊の枕もぬひあがつてゐたのを見てけふは何もかも、純白づくめ、菊づくめで玉の皇子樣御誕生日にふさはしい何となく、お目出度い日と心嬉しくて、尚ほも簷端を叩く玉露を靜かにきき入りつつ、私はけふ玉欄氏と語りあつた、淸貧の詩人陶淵明をおもひだしてゐた。

 かへらなんいざ、田園まさに荒れなんとす。

 かう口ずさむと、私は童顏(?)酒ずきの詩人を思ひうかべる。

 故郷の潯陽にかへつて、朝に夕に南山を眺めながら、東離に菊を植ゑ松をそだてて田園にしたしんだかの五柳先生は、時に好物の酒さへなく、菊花をつんでは盃にうかべてのんだ日もあらうし、白衣の貴人が酒壺をさげて訪れ、共にくみかはしながら詩をよみ快談した日もあらう。

 俗塵と斷つて、只菊花の淸節を愛した陶淵明の孤高はとても吾々のまねうる所でもないが、只茅屋にこもつて、菊花を愛し、淸貧と孤りを愛すこころもち丈は、いささか陶淵明の流れを汲むものとも言へようか。

 だが、草庵の菊花は、とても菊と堂々名づけうるものではなく、堺町の舊居にゐた頃は、門べに咲きふし、菊丘の今の草庵の狹庭にも只植ゑばなし咲きばなしで、添竹もなく氣ままに、南緣の下や、籬のもとにくねり亂れ、時雨にも潦(にはたづみ)にも咲きふすいともの寂びたひなびた亂菊の風情を、私はありのまま打めでる丈であつた。

 昔東京目白の實家にゐた頃は父の菊ずきで、ひろい庭の松かげにも白菊が一かたまり。しをり戸のかげにも、植木の込んだ築山のかげにもまた蜀紅の錦が、一むらといふ風に美事な菊が添竹をあふれる樣にわざと自然のままゆたかに咲き亂れるにまかしてあつたのをいつも思ひ出す。はるばる九州へもつて來たその父の遺愛の菊の種の種苗ももう十數年經ていつか絶えてしまつたが、私の菊を愛す心もちは幼い時から父の蘭菊好にはぐくまれたものである。

 さて、さつき一寸書いた菊枕といふのは、陶淵明の東籬の菊にちなみ、恩師虛子先生の延命長壽をいのるため、二三年前、白羽二重の枕に菊花を干してつめてさしあげたものである。

 その時、虛子先生から

  初夢にまにあひにける菊枕  虛 子

といふお句をいただいた。

  愛藏す東籬の詩あり菊枕   久 女

  白妙の菊の枕をぬひあげし  同

 ことしも私はふと菊枕を作らうと思ひついて、外へ出る度に白菊のみを求めてはさげて戻つた。或日は又足立山麓廣壽山のほとりにある七反歩ばかりの菊畠に菊つみにもいつた。碧るりの玉の如く晴れた、雲一つない大空の下で明るい日ざしをあびつつ籠に黄菊白菊をつみうつるのは誠に心樂しい事であつた。

 いく度かにつみとつた大菊は、千何百輪。中小菊六千餘輪。一尺から七八寸位のいろいろな新種の美事な菊が澤山あつた。

 宅へもどつてきて夜長の燈の下にひとり菊花を數へつつ新聞紙の上にひろげてゆく時のたのしさ。

 菊は、六疊の部屋いつぱいにほされ、日和つづきの菊丘の草庵は、緣も座敷も菊の色香にみたされて、或夜は、たうとう布團しく所もなく戸棚の中に私は一人小さくなつてふせつた事もあつた。

 美しい菊花の精は夜ごと訪れて私の夢の扉をうつくしく守つてくれたことであらう。

 夜は菊の香りにつつまれて臥しひるは菊をほしひろげたり、菊の手入れに忙しく、そのひまひまには、手紙を書いたり、遠來の句ともがらをむかへたり、それもこれも、皆此の部屋一ぱいほしひろげた七千餘輪の大菊小菊の中で、一月餘の起き伏しを樂しんだものであつた。

 瑞穗の國の新皇子うまれまして福春を迎ふるうれしさに、萬葉の企救(きく)の高濱近くすむ身は、元祿の園女撰の菊の塵、紫(むらさき)白女の菊の道、長門の菊舍の手折菊四卷、殘菊集二卷についても今少し記して見たいと思つたが、あまり長くなるからここらで、筆をおく。菊が丘の草庵にて

 

[やぶちゃん附記:私は菊枕の実物を見たことがない。見たことがない方も多いと思うので、以下、宮本宮尾氏の「杉田久女」(平成一五(二〇〇三)年富士見書房刊)の『二 「花衣」時代の句』の「菊枕」から一部を引用させて戴く。そこでは因縁の虚子との関係も語られてあって非常に興味深い部分である。橋本多佳子の「久女」なる文章が私の持つ立風書房版全集に所収しないことも引用させて戴く大きな理由ではある。送られた虚子の菊枕の印象記の部分から示す。虚子の引用箇所は発表年代――久女から虚子に菊枕が贈られたのは虚子の返礼句「初夢に」(坂本氏は『みごとな挨拶句』と称賛されているが、如何にも私の嫌いな虚子らしい御目出度い駄句である私は思うことを添えておく)が昭和七年正月の作であるから昭和六年の年末と分かる――から恣意的に漢字を正字化した。踊り字も正字化してある。

   《引用開始》

 「これは去年の暮に私の長壽を祈る爲に菊枕を拵へて送つて遣るから、と云ふ手紙が來てから暫く經つてその菊枕なる物が來た。(中略)實際頭をあてがつて見ると、非常に菊の薫りが高かつたのに驚いた。この句も、枕を拵へ上げて仕舞つて、その強い菊の薰りに衝たれた時に出來た句と思ふ。何の技巧も費してないが、それでゐて此句に一種の力を感ぜしめるものは、菊枕をつくり上げてやれやれと感じた、其深い感じによるのであらう」

   《引用終了》

続いて、坂本氏の解説の一部。

   《引用開始》

 この枕を受け取った虚子の礼状が昌子氏の『私の五十年』に写真版で収録されている。虚子は久女の労をねぎらい、年末に届いた枕を元日に用いたところ、「丁度高さもよろしく又柔らかさもよろしく」との感想を伝え、(初夢の間に合ひにける菊枕)という句を贈った。日付は一月九日で、菊枕とともに贈られた品に対する礼も述べられている。

 菊枕について橋本多佳子は、「久女が見せた菊枕は長さ一尺、幅六、七寸のもので、これを枕の上にかさねて眠るのだと教へた」(「久女」)と記している。久女の菊枕は、生乾きの菊を入れた大きな枕ではなく、一月以上も乾燥させた香り高い菊を詰めた薄い枕であった。菊枕という手間のかかるものは、久女の思いが込められすぎていて、贈られた虚子にはうっとうしかったのではなかったか、と考える向きもあるのだが、それはのちに虚子と久女の関係が悪くなり、虚子が久女をうとましく思っていたことから遡ってなされた推測ではないか。この評や手紙を読むと、虚子は実際に頭を載せてみたりしていることがわかり、このとき有難迷惑と思っている風はない。俳句を作る人間は、このような句の格好の材料になる風流をおもしろがるのではないか、と私は思う。久女は菊枕作りを心から楽しみ、そして珍しい素材を詠んで佳句を得ることができた。虚子もまたみごとな挨拶句をものした(「菊枕をつくり送り來し小倉の久女に」の前書で〈初夢にまにあひにける菊枕〉として虚子の贈答句集に収録されている)。それだけで久女の菊枕作りは意味があったといえる。

   《引用終了》]

2014/07/15

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 38 最上川 五月雨をあつめて早し最上川

本日二〇一四年七月 十五日(陰暦では二〇一四年六月十九日)

   元禄二年五月二十九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 十五日

である。この前日の五月二十八日、山寺を発った芭蕉は午後二時頃、大石田(現在の山形県北村山郡大石田町)に到着、滞在二日目の今日、滞在先の最上川河畔で船問屋を営んでいた高野一栄(本名高野平右衛門)宅の最上川に面した裏座敷に於いて四吟歌仙「さみ堂礼遠(だれを)」の巻を興行、翌日の三十日に続きが催されて満尾した。

 

五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川

 

  大石田、高野平衞門亭ニテ

五月雨を集て涼し最上川

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句目は「曾良俳諧書留」に載る句形でこれが初案である。「さみ堂礼遠」の巻では、脇を亭主一栄が、

 

さみ堂禮遠あつめてすゝしもかミ川  芭蕉

  岸にほたるを繋ぐ舟杭      一榮

 

と付けている。初案は従って最上川を下る前のこの日のものであり、現在知られる「早し」という語を選び変えたのは四日後の六月三日(新暦七月三日)の新庄から五月雨で増水した日本三大急流の一つ最上川を河港の清川(現在の山形県東田川(ひがしたがわ)郡立川町立川地区)へと一気に二十九キロメートル下った経験に基づく実感によったのであった。山本健吉氏は「芭蕉全句」(講談社)で『「集めて早し」とは濁流の量感と速度そのものの即物的、端的な把握である。岸で作った眺望の句が、一字の改訂で、最上川経験の直接の感動の表現に矯(た)め直されたのである』と評しておられる。

 以下、「奥の細道」の大石田と最上川の段。

   *

もかみ川乘らんと大石田と云處に

日和を待爰に古き俳諧のたね

落こほれてわすれぬ花のむかしを

したひ芦角一聲の心をやはらけ此

道にさくりあしゝて新古ふた道に

ふみまよふといへとも道しるへする人し

なけれはとわりなき一卷を殘しぬ

このたひの風流爰にいたれり

最上川はみちのくより出て山形を

水上とすごてんはやふさなと云お

そろしき難所有板敷山の北を

流て果は酒田の海に入左-右山

おほひ茂みの中に船を下ス

      ね

これをいなふと云白糸の瀧は靑葉

の隙々に落て仙人堂岸に臨て立

水みなきつて舟あやうし

  さみたれをあつめて早し最上川

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇俳諧のたね落こほれて → ●俳諧の種、こぼれて

○わりなき一卷を殘しぬ → ●わりなき一卷(ひとまき)殘しぬ

○これをいなふねと云  → ●是に稲つみたるをや、いな船といふならし

■やぶちゃんの呟き

「もがみ川乘らんと」最上川を舟に乗って下ろうと。

「日和を待」「曾良随行日記」を見ても著しい天候の悪化は見られない。これについて安東次男氏は『新月(三日月)を待って羽黒に登ること』がこの時点で既に『予定の事実』としてあったに違いなく、それがこの「日和」の意味であるとされ、『はたせるかな、このあと芭蕉は「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を詠んでいる』と解析されておられる。

「爰に古き俳諧のたね……わりなき一卷を殘しぬ」私はこれは「奥の細道」の中では極めて特異な叙事記載と感ずる。その内容を示すと以下のようになる。

①この土地には、如何なる不可思議な縁によるものか、古い俳諧の風雅が伝えられた。

 これは仙台で出た大淀三千風が全国行脚の折りに当地の人々に談林俳諧を伝授したことを指す。

②①が元となって今もその談林の俳風の持つ風雅を忘れずに、その跡を慕っている。

 「花」は「種」の縁語。

③辺鄙な田舎であるが、まさにその古風な俳諧がその地の人々の心を慰めてきた。

 「芦角一聲」(ろかくいつせい)は「和漢朗詠集」に載る大江朝綱の七律「王昭君」頸

聯、

胡角一聲霜後夢

漢宮萬里月前腸

 胡角(こかく)一聲 霜後の夢

 漢宮萬里 月前の腸(はらわた)

  もの悲しい胡人の角笛の音、それが霜夜の儚い夢を破り、

  故郷漢の都は万里の彼方、冷たい月光の注ぐ辺境に腸が断たれる思いがする。

や、謡曲「猩々」の「蘆の葉の笛を吹き波の鼓どうと打ち」に基づく(後者は富山奏氏の「新潮日本古典集成 芭蕉文集」に拠る)。「芦角」は荒涼とした辺地に響く異民族胡人の角笛(つのぶえ)を、やはり鄙の寂寥を感じさせる蘆笛(あしぶえ)と併せて合成した造語で、辺鄙な田舎といった謂いを大上段に諧謔したものである。

④③のようではあったが、やはり今まさに闇夜を足で探るような感じで、そうした俳諧の古風と新風の、その孰れへと進むべきかと土地の人々は踏み迷っている。

 富山奏氏はこの「さぐり足して」「蹈み迷ふ」もやはり謡曲「猩々」の「足もとはよろよろと」を踏まえての表現とする。「古風」は談林派、「新風」は芭蕉を含めた元禄期の各派の新風を指す。

⑤このような状態にあるにも拘わらず、正しい方向へ導いてくれる人が今のこの地にはいない。

⑥ゆえに、私(芭蕉)は土地の人々からそうした先達となって呉れるようにと熱心に乞われた。

⑦乞われるままに、その熱意にほだされて止むに已まれぬ思いに駆られて遂歌仙一巻を巻いては残し留める仕儀となった。

⑧まさに今回のこの「奥の細道」の旅の風流は、この地のこの熱心な人々の風雅に於いてこそ極まったのであった。

構造上は①から⑥までが栄一に代表される土地の俳人の直接話法で、⑦⑧が芭蕉の実行行為とそれへの感慨となっているのであるが、ここにはそうした宗匠として懇請された芭蕉自身の強い自信が漲っており、ここには既に芭蕉が独自に打ちたてた蕉風への確信に満ちた宣言のようなものが感じられるのである。頴原・尾形訳注の角川文庫版「おくのほそ道」の本文評釈に以下のようにある(下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

 立石寺の宿坊に一宿、二十八日(陽暦七月十四日)に大石田に取って返した一行は、川役高野一栄方に滞在して、二十九日・晦日にかけて最上川歌仙を巻き、六月朔日(陽暦七月十七日)陸路新庄へ赴いて渋谷風流方に宿泊、ここでまた歌仙を巻いて、三日に元合海[やぶちゃん注:現在の山形県新庄市大字本合海(もとあいかい)]から船で最上川を下り、古口[やぶちゃん注:「ふるくち」と読む。現在の山形県最上郡戸沢村。]を経由して清川に上陸、羽黒に向かった。一栄・風流との関係は、尾花沢の清風との縁によるもので、如上の経緯と対比すれば、「大石田といふ所で日和を待つ」と書き、新庄への陸行を省略したのは、最上川中心に記事をまとめるためのフィクションとしなけれはならない[やぶちゃん注:前掲注も参照されたい。]。「新古二道に踏み迷ふ」とは、談林調より漢詩文調を経て元禄の 〝景気の句〟へとめまぐるしく進展しつつあった転換期の俳壇の気運を反映したもので、「このたびの風流ここに至れり」とは、須賀川の俳筵(はいえん)で等躬の風雅をたたえた「風流の初めや」の句に呼応しながら、この土地の人々の素朴で熱心な俳事をたたえたのである。この賛辞の裏には、当時都市俳壇においては前句付けの興隆に伴って、宗匠を中心とする精神共同体的な俳諧の場が失われつつあり、芭蕉のこの旅には、一面において、都市に失われた俳諧の場を地方俳壇に見いだすことの期待が小さくなかったという俳壇史的事情も参照する必要があろう。「五月雨を集めて早し」の句は、もと中七「集めて涼し」の形で、右の大石田での歌仙の発句としてよまれたものだった。芭蕉はこれを紀行文の中で中七を改めることにより、挨拶の句から最上の急流の本意をとらえた句へと転位したのである。歌枕の跡をなぞり『東関紀行』をふまえた前文の、息の短い、畳みかけるような文体も、よく急流の感じに即応している。

   《引用終了》

最後の部分は後注を参照されたい。

「ごてんはやふさ」碁点・隼。最上川の大石田の上流にある難所の呼称。「碁点」は川の中に岩石が点在することから、「隼」は急流に由来する。

「板敷山」、山形県最上郡戸沢村古口と庄内町(旧立川町)肝煎(きもいり)を結ぶ古道の途中のピーク。歌枕。標高六二九・六メートル。

「酒田」現在の山形県酒田市。最上川河口の商港。

「いなぶね」稲船。稲を積んで運搬した細長い平舟。人の運搬にも用いられた。これは「最上川上れば下るいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(「新古今和歌集 巻第二十 大歌所御歌 東歌」の第一〇九二番)を匂わせたものらしい。この歌は「いな」は「否」を掛けたもので上句は序詞。窪田章一郎校注の角川文庫版「古今和歌集」では信仰上の禁忌と推定されているが、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の評釈では『男が女に言い寄ったところ、セックスを拒否するわけではないが、いまちょうど「月」のもの(月経)ゆえに「否」だと断られた、の意。奔放な東歌である』とある。私は後者に賛同する。

「白糸の瀧」は板敷山の対岸にある瀧で、仙人堂と芭蕉が上がった清川とのほぼ中間点にある。歌枕。

「仙人堂」現在の山形県最上郡戸沢村にある。外川神社とも呼ばれ、源義経の家臣常陸坊海尊が鎌倉初期に開いたと伝わる。サイト「山形県の町並みと歴史建築」の仙人堂(外川神社)によれば、常陸坊海尊は『義経が平泉へ下向中この場所へ訪れた時、傷を負っていた為ここに残っ』て生き永らえ、『傷がいえた後で修業を重ね仙人のようになったことから仙人堂と呼ばれるようになり、最上川舟運関係者からは舟の安全、周辺住民からは雨ごいの場所として信仰の対象となっ』たとある。義経好きの芭蕉には欠かせないランド・マークであった。

「水みなぎつて舟あやうし」頴原・尾形校注「おくのほそ道」注に「和漢朗詠集」の「月」の「秋水漲來船去速」(秋水 漲り來りて 船 去ること 速やかなり)や、これを踏まえた「東関紀行」の天龍川の条の「いと危き心ちすれ」とあるのを踏まえるとする(前注の同書からの引用参照)。]

2014/07/14

ろくでなし子を処罰する資格は現政府にはない!

自身の生殖器の3Dデータが猥褻文書になるのであれば当然、国民の憲法を解釈変更する閣議決定なんという猥雑なそれは美事な憲法の「猥褻」化であり、憲法違反である前に猥褻物陳列罪ということだ!――

以上は比喩だと思うか?! いや!

はっきり言っておく!

自身の生殖器の3Dデータが猥褻文書になる――という命題は――偽である――

寸時

人生は行き違いが多過ぎるんだが……

どうも僕が思うよりも残念なことに……

いい人は沢
山いるらしいなぁ……

北條九代記 卷第六 太上法皇嗣御 付 富士淺間御遷宮

      ○太上法皇嗣御 付 富士淺間御遷宮

同二年五月十四日、太上天皇崩御したまふ。壽算四十五歳。是、當今(たうぎん)の御父、持明院宮、守貞親王の御事なり。後、高倉院と諡(おくりな)あり。尊號奉り給ひて後、僅に三ヶ年、榮貴(えいき)の春の花未(ま)だ咲殘りて、盛(さかり)ならぬに、嵐烈しく吹散(ふきちら)すに異らず、惜しかるべき御命かなと、其方樣(かたさま)の人々は歎き給ふも理なり。同六月に、駿河國富士淺間(せんげん)の宮、造替(つくりかへ)遷宮おはしけり。陸奥守義時、是を經營して、關東静謐家運長久を祈りとす。抑(そもそも)この御神と申すは、往昔(いにしへ)、孝靈(かうれい)天皇、即位の五年、近江の湖水、始めて湛へ、富士山、その日、湧出せり。淸和天皇貞觀(ぢやうくわん)五年の秋八月に、白衣(びやくえ)の神女、天下り給ひしより事起り、延曆二十四年に、巫(かんなぎ)に託宣あり、「我は是、淺間(せんげん)大菩薩なり」と、平城帝(ならのみかど)の大同元年に、初てこの社(やしろ)を立てらる。國府(こふ)の淺間(あさま)の宮と申すは、延喜年中に建てられ、大宮の御神を此所に移し奉り、山上の社をば本宮と崇(あが)め、府の宮をば新宮(しんぐう)と名付け奉る。其始を尋ぬるに、三島明神をば、神代(かみよ)の御時には、大祗山神(おほやまつみのかみ)と號し、淺間(あさま)は其御娘、木花開耶姫(このはんさくやひめ)とぞ申しける。守(まもり)は遠く西海に遍(あまね)く、威は偏(ひとへ)に八州に施し給ふ。靈驗のあらたなる事、都鄙(とひ)に渉(わたつ)て隱(かくれ)なく、利生の著(いちぢる)きこと貴賤を擇(えら)ばす明(あきら)けし、朝(あした)に詣でて祈り申し、夕には又、報賽(かへりまうし)す。義時、深く頭(かうべ)を傾(かたぶ)け、國家安穏の所を致し、この遷宮を經營せらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応二(一二二二)年五月十八日、六月二十日の条等に基づく。孰れも短く、引用の必要を感じない。

「尊號奉り給ひて後、僅に三ヶ年」承久の乱の直後に茂仁王を即位させて後堀河天皇とした幕府は、不在となった「治天の君」として、その父であった守貞親王=行助入道親王に太上天皇号を奉り、これを法皇として院政を敷かせた。実際には二年足らずである(「三年」というのは一種の数え年方式であろう)。死因は腫物であった(「吾妻鏡」貞應二(一二二三)年五月十八日の崩御の知らせ(死亡は五月十四日)の条に『依御腫物數月御惱也』(御腫物に依つて數月の御惱なり)とある)。

「其方樣」宮中方。

「駿河國富士淺間の宮」現在の静岡県駿東郡小山町須走にある富士山須走口登山道の起点に鎮座する冨士浅間神社。主祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと:別称、浅間大神(あさまのおおかみ)。)で相殿神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)。木花之佐久夜毘売命は大山祇神の美娘で天孫瓊々杵尊の皇后となった。懐妊の際に貞節を疑われたことから、その証しを立てるために戸のない産屋を建てて周りに火を放って、無事三人の皇子を生んだ故事に因み、安産・子安・水徳の神とされ、他にも火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めた。木花という神名から桜が神木とされることから桜の名所でもある。また、申の日に富士山が「湧出」したという故事から猿を御使いともする(富士山本宮浅間神社公式サイトの「御祭神・御由緒」を参照した。当該サイトはリンク要請をしているのでリンクは貼らない)。

「孝靈天皇」(孝安天皇五一(紀元前三四二)年?~孝霊天皇七六(紀元前二一五年)?)は記紀に記される第七代天皇(在位は孝霊天皇元(紀元前二九〇)年一月十二日~孝霊天皇七六年二月八日とする)。所謂、実在が疑われる欠史八代の一人。「富士本宮浅間社記」によれば、この御代に富士山が大噴火を起こし、周辺住民は離散して荒蕪の状態が長期亙ったのを第十一代垂仁天皇が憂え、その三年(紀元前二十七年)に浅間大神を山足の地に祀って山霊を鎮めたのを当社の起源とする。その後は祭神姫神の水徳によって噴火が鎮静、この神徳によって広く篤い崇敬を集めるようになった。富士山を鎮めるための浅間大神を祭祀したのはこの社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっていると富士山本宮浅間神社公式サイトの「御祭神・御由緒」にはある。

「貞觀五年」西暦八六三年。ここ以降の事蹟は現在の富士山本宮浅間神社公式サイトには何故か載らない。代わりに武家の崇敬とし特に源頼朝・北条義時・武田信玄及び勝頼親子・徳川家康を挙げて、源頼朝は建久四(一一九三)年の富士の巻狩の際にここに流鏑馬を奉納、社殿の修復なども行ったと記す。

「延曆二十四年」西暦八〇五年。ここと次は前の記事より古い記載になっているので注意。

「大同元年」西暦八〇六年。

「延喜年中」西暦九〇一年から九二二年。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 22 雨の室蘭にて

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図―410

 

 翌朝は大雨。湾を越して森へ行く、汽船が出ぬ(森から函館まで、また馬に乗らねばならない)。この機会を利用して、私は家の内外を写生した。床の中央には、家の前部にも後部にも、砂を充たした大きな四角い構がある。これは炉で、あらゆる物をここで料理する。図410はこの旅籠屋の台所を示す。上方には掛架があり、魚はこれにひっかけて燻す。熱い炭火を中心に、こんなに沢山薬鑵がかたまっているのは、個人の住宅では見られぬ所である。図411は、一番立派な部屋の炉を示す。薬鑵をつるす装置は真鍮で出来ていて、ビカビカと磨き上げてあった。熱い湯を充した銅の箱には、酒の瓶を入れてあたためる。日本の、米製の麦酒は、必ず熱くして飲む。火箸は上部を輪で連結させた形をしている。これは一本を失えば、他の一本が役に立たなくなるからである。旅籠の使用人の多くは男で、その全部が頭髪を旧式な方法で結んでいたが、事実、丁髷(ちょんまげ)をつけていない日本人を見ることは稀である。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には矢田部日誌の白老から室蘭の到着した二日の記事の後、三日の記事がなく、次が八月四日の条となって、『五時前稻川丸ト云フ小汽船ニ乘込ム』『十一時森着。午後一時過モールス、佐々木、高嶺ハ函館ニ出發セリ。余並ニ富次郎』『駒ヶ岳ニ登ル』と記す。磯野先生はその後に、『直行組はこの日の深夜、函館に到着。モースはそれから二週間近く連日のように函館周辺でドレッジを試み、腕足類を得て研究に専念した。矢田部と内山が函館に戻ったのは八日』と記しておられる。「森」は噴火湾の室蘭の対岸、北海道駒ヶ岳の北西山麓にある町で現在の北海道渡島総合振興局中部にある茅部郡森町(もりまち)。ウィキの「森町」によれば、『町名の由来はアイヌ語の「オニウシ」(樹木の多くある所の意)の意訳』で、地名薀蓄では知る人ぞ知るなのであるが、『北海道内の町で、唯一、「ちょう」ではなく「まち」と呼ぶ自治体である』。北海道ではここ森町を除いて、すべて「~町」は「~ちょう」なのである。以下の市井の描写はこの雨に降りこめられて停滞した三日の室蘭での描写である。モースはそんな中でも実に種々の観察に精力的である。全く頭が下がる思いがする。

「米製の麦酒」老婆心乍ら「こめせい」で、日本酒のことを指している。]

 

 反対に東京では、丁髷は、農夫、水夫、漁夫、工匠、老人等にあっては一般的だが、若い人々の間では急速に数が減り、ことに学生は全然洋風の頭をしている。

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図―412

 

 図412はお客様に差出す浩澣な書付を、一日中忙しく書いている番頭である。書付の長さには吃驚するが、項目を翻訳して貰うに至って、何が一セント半、何が一セントと十分三と聞いて大きに安心し、最後に晩飯、宿泊、朝飯すべてをひっくるめた合計が二十セント足らずであることを知る人は、文句なしに支払いをする。

[やぶちゃん注:「浩澣」浩瀚に同じい。書物文書の巻数や頁数の多いさま。]

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図―413

 

 図413は、命令を聞きに部屋へ入って来る時の、召使いの態度を示す。これに馴れるには長い時間を要したが、今でも私の前で、誰かがこんな風に彼自身を卑しくするのを見ると、私はいやな気持がする。膝をつく本式のやりようは両手を内側へ向けるのであるが、見ていると、そうしない者もよくある。これは握手するのに、左手を出すようなものである。ある大名のお小姓をしていた高嶺氏が、食物をのせたお盆を持って入る、正式なやり方を示して呉れた。両手で盆を目の高さに捧げ、大名に近づくと共に、膝をついてそれを差上げ、然る後膝をついた儘あとびっしゃりをし、立ち上って後向きに部屋から出て行く。

[やぶちゃん注:「ある大名のお小姓をしていた高嶺氏」同行しているモースの動物学教室の助教で生物学者高嶺秀夫(既注)は旧会津藩士で、藩校日新館で漢学を学び頭角をあらわし、南摩綱紀ととも第九代藩主松平容保(かたもり)の小姓となった。会津戦争では主君とともに籠城の末に降伏した過去を持っている(ウィキの「高嶺秀夫に拠る)。

「あとびっしゃり」後退(あとじさ)り。あとびしょり。]


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図―414

 雨に閉じこめられて家にいた間にした写生の一枚は、家族が食事をしている所である(図414)。これは、町を歩いていながら、何百度と見る光景ではあるが、至って興味がある。そのこと全体が、我々がテーブルに向って椅子に坐り、各々前に皿と、ナイフと、フォークとを置くのとは、非常に異っている。ここでは、彼等は床に坐り、横には飯を入れた木製のバケツを置く。飯は木製の箆(へら)でしゃくい出す。


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図―415


 この小さな室蘭の村に、よく整った消火機関庫がある。図415はその外観をざっと書いたものである。これは道路に面して全部開き、道具はすべて、即座に手がとどくようにしてある。ここに置いてあった物は、布山製バケツ二十七、小さい木製バケツ二十、大きなバケツ六、梯子二、竿六、繩、鎖、鉤、長い竿についた提灯二。

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図―416


 消防隊は必ず、長い竿についた提灯をかつぎ廻る。図416は提灯と鉤であるが、鉤は長い鎖のさきについていて、建物を引き倒すのに使用する。人々は、建物が木造で、薄い杮(こけら)板か萱葺(かやぶき)かの最も燃えやすい屋根があるので、火事に就ては非常に注意する。最近、大きな都会では、都市法によって、かかる可燃性の材料を屋根に使用することを禁じた。室蘭では毎夜きまった時間に、長さの異る三枚の樫の板を後に結びつけた子供が、長い往来を歩く。板は彼の一足ごとに、ぶっかり合って大きな音を立てる。彼が歩くと、カラン、カラン、カランと音がする(図417)。これは住民に、火の用心をし、そして火が消してあることを確めよと教えると同時に、この子が義務を果している証拠になる。

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図―417


[やぶちゃん注:どこであったか忘れたが、古民具の展示品でこうした山葵おろしのような形をした板状のもので腰からぶら下げるタイプの拍子木を見たことがある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 21 室蘭着

 馬で行く内に我々は、二十頭の馬の一群が、路をふさいで進んで行くのに追いついた。我々がそれを追い越す前に、彼等は狭い小径へ曲り込んだ。この方が正規の路よりも、室蘭へは余程近いと聞いて、我々――といっても、仲間より遠かに前進していた矢田部と私とだが――もまた曲り、馬の群に従った。この小径は所々岩が多く、濡れていて、時に非常に急な山の背に達していた。小径は急な崖に沿うており、そしてそれ自身が傾斜している。私は若し馬がすべったら、どんなことになるだろうと考えた。こんな風にして三十分も行くと、我々は樫その他の木の密林をぬけて、尾根の一番高い場所へ出た。日の暮れ方で、気持のいい森の香や手を延して、上から下っている枝で拾えることの出来る奇妙な昆虫や、一列をなしてガラガラ進む変な馬や変な騎手たちによって、私は愉快な一時間をすごし、而もそのどの一分間をも、私は楽しんだ。私が危険に面したのは、只一ケ所であった。矢田部と私とは、いつの間にか馬群の中にまぎれ込んでいたが、片側が傾斜した岩壁で、片側が急な絶壁という場所へ来た時、一頭の馬が、路の内側を通って私を追い越し、そして列のさきの方の、従来自分がいた位置へ行こうとした。騎手は全力を尽して馬を引きとめようとし、また私も、この馬が鞍にすこぶる大きな荷を二つ頼積んでいるのを見て、危険をさとり、馬の鼻さきを力一杯ひっぱたいて、ようやく彼を制御した。小径には一列で馬を進める幅だけしか無かったから、私はさきへ急ぐことは出来なかった。若しこの馬の努力が効を奏すれば、私の馬は崖に押し出されて了ったことであろう。我々は全く暗くなってから、室蘭へ入った。ここは美しい入江に臨んで只一本の長い町通があり、四方に丘陵や低い山が見られる。この日我々は三十マイル以上も旅をした。私はその内十七マイル半を歩き、馬に疾走され、その他いろいろな経験をした結果、疲れ果てて早く床についた。

[やぶちゃん注:当時のルートがどのようなものであったかのか分からないが、これは現在の室蘭街道から、現在の地球岬の方を南下して回らず、現在の輪西町から御崎町辺りを山越えして現在のJR北海道室蘭本線のある室蘭側へと抜けたもののように読める。矢田部日誌で示した通り、白老を午前九時二十分に発ち、室蘭着が午後七時二十分であるから、ちょうど十時間かかっている。

「三十マイル」四八・二八キロメートル。私の推定ルートだとほぼ四八キロメートル弱を地図上で計測出来る。

「十七マイル半」二八キロメートル強。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 20 室蘭へ

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図―409

 室蘭に着く前の景色は実に目をたのしませた。低い山々、海の入江、長い黄色い浜を持つ室蘭湾は、画の主題としては何よりであろう。図409はこの附近の景色を、ざっと画いたものである。室蘭近くに、面白い形の日本家があった。屋根が並外れて高く、その平な屋梁(むね)には、一面に百合や、鳶尾(いちはつ)や、その他の花が咲いていた。屋根は薄く葺いてあり、軒に近い小屋がけみたいな小屋根には、丸い石がのせてあった【*】。

   *『日本の家庭』四一図を見よ。

[やぶちゃん注:私は室蘭に詳しくなく、また明治一一(一八七八)年当時とは海浜部の形状が異なってしまっているため、古写真や現在の画像及びググールのストリート・ビューを見ても、のこの図409が室蘭のどの位置からどっちを向いてスケッチされたものか分からない。識者の御教授を切に乞うものである。

「鳶尾」原文“iris”。花菖蒲。

「『日本の家庭』四一図」モースの“Japanese homes and their surroundings”から当該図に関わる原文をまず引く。

   Anotlier house shown in fig. 41, was seen on the road to Mororan, in Yezo. Here the smoke-outlet was in the form of a low supplementary structure on the ridge. The ridge itself was flat, and upon it grew a luxuriant mass of lilies. This roof was unusually large and capacious.

Jh41_2    FIG. 14 HOUSE  NEAR  MORORANYEZO

 

また、私の所持する八坂書房一九九一年刊の斎藤正二・藤本周一訳になるモースの「日本人のすまい」から図(上図)及び当該箇所の訳部分のみを本書の叙述と比較対照する用に供するためにも掲げさせて戴く(「Mororan」の右にママ注記があるが省略した)。

   《引用開始》

 四一図に示したいま一つの家は、蝦夷の室蘭Mororan に通じる道路沿いにあったものである。この場合、煙ぬきは、棟の中央部に小さな棟を補助的に重ねたかたちになっている。棟自体は平らになっていて、そこにかなりの数の百合が生えている。この屋根は、大きくて広々とした点では稀に見るものであった。

   《引用終了》]

飯田蛇笏自選句集 靈芝 表紙 国立国会図書館蔵

Reisi_2

僕が全電子テクスト化で利用させて戴いた国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「靈芝」から。

いつものように利用許諾を受けるために今朝、申請書を出したところ、直ぐに以下の回答を頂戴した。

   《引用開始》

藪野直史 様
お世話になっております。
国立国会図書館 電子情報部 電子情報流通課 情報流通係です。
ご連絡ありがとうございました。
国立国会図書館では、2014年5月1日からサイトポリシーを改訂 し、当館ウェブサイトに掲載されたコンテンツのうち、保護期間満了であることが明示された画像については、国立国会図書館へのお申込が不要となりました。
詳しくは「サイトポリシー」「ご注意とお願い」をご覧ください。
ご依頼いただいた上記のURLに掲載している画像は、公開範囲に「保護期間満了」と記載しておりますので、国立国会図書館へのお申込は必要ありません。
ウェブページからダウンロードの上、ご使用ください。
(JPEGとPDFの2通りの方法があります。JPEGの場合はJPEG表示のボタンを、PDFの場合はフルスクリーンの表示ボタンの隣の印刷ボタンを押して下さい)
またご使用の際は「国立国会図書館」の出典表示にご協力いただけますと幸いです。
以上でございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

   《引用終了》

なんと素晴らしいことだろう!

TPP参加で70年に著作権保護期間が延びんとしている今、これはまことに我が国の頂点にある図書館として快挙というべき計らいではないか!

国立国会図書館、君の瞳に乾杯!

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 19 石仏

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図―407

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図―408

 

 モロラン〔室蘭〕に近づくにつれて、土地の隆起の証跡が明瞭に見られた。水に近い崖は、図407に示す如く、数フィートの高さに切り込まれていた。土壌は軽石で出来ているらしく思われたが、これは以前火山性の活動があったことを示している。白老からの長い道中、人家は一軒も見ず、人間の証跡とては、所々に粗末な、荒廃し果てた祠がある丈であった。荒廃はしていても、その前面に花が僅か供えてあるのを見ると、とにかくそれに気をつけている人があることが判る。ざっとした枠構えの下の像は、二個の石から成り立っていて、頭を代表する、より小さい石が、より大きな石の上にのっているに過ぎない。頭には長い糸を両側にたれた、布製の帽子がかぶせてあった(図408)。

[やぶちゃん注:「数フィート」一フィートは三〇・四八センチ。「数」一般に二~三、若しくは五~六の少ない数を漠然と示すもので、それだと、

 2~3フィート=60・96~91・44センチメートル

 5~6フィート=152・4~182・88センチメートル

となる。ここでは長い方、後者を採りたい(そもそも2~3の方なら、科学者であるモースはその数字を煩を厭わず示すはずだからである)。以後も私は、

 数フィート=2メートル弱

と読み替えることとする。因みに孰れも既に注してあるが、しばしば出る「数マイル」(1マイルは約1・6キロメートル)はこの換算では、

 数マイル=約3・2~9・6キロメートル

となり、私は常に、

 数マイル=10キロ弱

と読み替えることにしている。同様に「数インチ」(1インチは2・54センチメートル)は、

 数インチ=約8センチメートル弱から15センチメートル強

というところになるから、私は常に、

 数インチ=15センチメートル強

と読み替えてきた。以下、「数インチ」「数フィート」「数マイル」の注は煩瑣なので略すこととする。

「二個の石から成り立っていて、頭を代表する、より小さい石が、より大きな石の上にのっているに過ぎない」風化した地蔵尊のように見受けられる。江戸後期に移植した和人が建立したものであろう。個人サイト「あの頂を越えて」の「北海道の石仏・石塔」によれば『歴史は浅い北海道には道祖神や庚申塚は見かけません。それでもお寺や神社などに石碑や石仏を見付けることができます』として、北海道札幌市中央区伏見の「藻岩山の石仏」の石仏群、北海道札幌市南区簾舞(みすまい)の「空沼岳の龍神地蔵」の写真が見られる。後者の竜神地蔵は特異なものでなかなかよい。]

橋本多佳子句集「紅絲」 草矢

  草矢

 

   農場にて

 

  我等の結婚を記念して九州別府市外高城

  丘陵を開墾して二十年、果樹漸く茂りし

  頃、夫の死にあひ女手に煩はしきこと多

  く漸次衰退に向ふとき戦争となり、終戦

  後農地改革の為めに全農場買上げの運命

  に会ふ。

  東に別府湾燦き、西に鶴見、由布嶽など

  美しき山々重なり思出多き地なりし。

 

燦々とをとめ樹上に枇杷すゝる

 

枝にあるをとめの脚や枇杷をもぐ

 

枇杷を吸ふをとめまぶしき顔をする

 

牛飼のわが友五月来りけり

 

草矢射る山の子草矢射らすは音

 

虹新し田にてをとめの濡れとほる

 

八方へゆきたし青田の中に立つ

 

炎天に松の香はげし斧うつたび

 

炎天の梯子昏きにかつぎ入る

 

薔薇色の雲の峰より郵便夫

 

暑の中に吾をうつさず鏡立つ

 

祭太鼓うちてやめずもやまずあれ

 

踊りゆくどこまでも同じ輪の上を

 

一ところくらきをくゞる踊の輪

 

爪立てども切れたる虹のつながれず

別れた友に  山之口貘

 別れた友に

 

君は詩人の卵で

詩が実にうまかった

君はその後も詩をつゞけてゐるだらうか

ぼくは君の近況や

近作の詩などを知りたくなって

ながい手紙を書いた

手紙はかすかな音を立てゝ

ポストの底に落っこちた

しかし君はいまだに

うんともすんとも返事をくれないが

それはいったいどうしたといふんだらう

ある日ぼくは

郵便屋さん姿を見かけたが

まさか君の消息を

郵便屋さんにきくわけにもいかなかった

もうすぐに

柿の実たちは

空の青に赤い点々を染めるのだが

君の便りは

なかなかなんだろうか。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二六(一九五一)年十月号『中学生の友』(小学館)。ここで語りかけられる友は不詳乍ら、叙述から推測するにバクさんが若き日に沖繩に居た頃に知り合った沖繩の詩人であり、戦中から戦後にかけて一貫して沖繩を本拠地とし(沖縄戦を無事に生き延び)、その間にも(恐らく戦後のある時期)幾つかの詩を発表している事実をバクさんが確認している詩人である。若き日の沖繩とは、バクさんが詩に親しむようになったのが大正六(一九一七)年十四歳の時から、大正八年に山之口サムロのペン・ネームで創刊に参加した文芸同人誌『ほのほ』(仲村渠らと)や『よう樹』(下地恵信らと)に関わり、大正九年頃から『沖繩朝日新聞』『沖繩タイムス』『琉球新報』などに盛んに詩を投稿し始め、これまで見てきたように大正一〇(一九二一)年からは『八重山新報』への詩歌の投稿が頻繁となって翌年秋に上京をするまでの間を指している(上京時は十九歳。これに大正一二年二十歳の時に関東大震災罹災者恩典を受けて帰郷し、明星派の歌人山城正忠が起こした琉球歌人連盟に上里春生らと参加、中山一らと作歌活動をした時期から翌大正十三年に二度目の上京をするまでの時期を加えてもよい)。私はそうした条件に合致しそうなのは、この詩人仲村渠(なかむら かれ)ではなかろうかと感じてはいる。仲村渠(明治三八(一九〇五)年十月三日~昭和二六(一九五一)年十二月四日)は本名仲村渠(なかんだかり)致良。バクさんと同じ那覇生で二歳年下である。北原白秋主宰の『近代風景』に参加して詩作を行い、一九三二年頃には詩人グループ『榕樹派』を結成、戦後は『うるま新報』の記者を勤めたと『琉球新報』公式サイトの沖縄コンパクト事典にある。私が彼こそその「詩人」であると感じるのには――本詩が持っている寂寥感に基づく――それは返事が来ないことへの淋しさを突き抜けた遠い地への郷愁であるが――実はそこにはその「別れた友」である詩人に対する、曰く言い難い、胸掻き毟るような愛憐の思いを感ずるからである――仲村渠の没年をよく見て戴きたい……この詩の発表からほどなくして仲村渠は没しているのである……]

2014/07/13

北條九代記 卷第六 鎌倉天變地妖

      ○鎌倉天變地妖

世の中既に靜謐に屬し、新帝、御位に即(つか)せ給ひ、物騷しき年も暮て、春立つ今日と云ふよりして、京都鎌倉周同(おなじ)く賑ひ、草木の色も新(あらた)に見え、鳥の聲迄も嬉(うれし)げなり。正月七日、若君御弓始あり。同二月六日には南庭に於いて、犬追物有りて、若君殊に御入興(ごじゆきよう)まします。同四月十三日に、承久(しようきう)四年を改(あらため)て、貞應(ぢやうおう)元年とぞ號しける。此比(このころ)鎌倉の前濱、腰越の浦々に死せる鴨鳥(かもとり)いくらともなく、波に搖られて寄來り、八月の初より、戌亥(いぬゐ)の方に、彗星(ほうきぼし)出でて、軸星(ぢくせい)の大さ半月の如く、色白く、光芒、赤し。是等の怪異、只事にあらずとて、前濱にしては、七座(ざ)百怪(け)の祭(まつり)を行はれ、御所に於いては、太山府君(たいざんぶくん)の祭をぞ始(はじめ)られける。されども、異(ことな)る珍事もなく、十一月(しもつき)廿二日には、京都禁裡(きんり)の大嘗會(だいじやうゑ)を無爲(ぶゐ)に遂行(とげおこなは)れ、大外記師季(もろすゑの)朝臣、書札(しよさつ)を以て關東に申下す。除書等(ぢゆしよとう)を相副(あひそへ)て到著(たいちやく)せしめたり、いとゞめでたき御事にて、淳厚(じゆんこう)の世に立歸るべき瑞相(ずゐさう)なりとて、民百姓迄、喜(よろこび)合ひ奉りたり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の承久四(一二二二)年正月七日、二月一日、貞応元(一二二二)年四月二十六日、八月二日・十三日・二十日・十二月二日の天変地異の記事を連ねているが、その実、凶事は出来せず、逆にここでは「淳厚の世に立歸るべき瑞相」と位置づけて叙述しているのが特異である。「吾妻鏡」の重要な部分の記載をほぼ拾っており、特に「吾妻鏡」の引用を必要を感じない。

「新帝、御位に即せ給ひ」後堀河天皇の承久三年七月九日(一二二一年七月二十九日)。

「若君」三寅。藤原頼経。彼は、この後の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日に元服、直後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙されて右近衛権少将に任官、同時に征夷大将軍の宣下が下されて第四代将軍となった(無論、実のない名ばかりの傀儡将軍としてである)。この時、未だ四歳である。犬追物に大喜びするのも無理はない。

「犬追物」「北條九代記 卷第二 問注所を移し立てらる」に既注。

「軸星」この場合は彗星の核となっている星のことを指している。この記録は「吾妻鏡」の八月二日の条で『霽。戌刻。彗星見戌方。軸星大如半月。色白光芒赤。長一丈七尺餘』(霽る。戌の刻、 彗星、戌の方に見る。軸星の大きさ半月の如し。色、白く、光芒、赤し。長さ一丈七尺餘り)とあるもので、「一丈七尺」とは五メートル弱に相当し、視認の長さとしても異様な大きさである。これは恐らく、かのハレー彗星と思われる。

「七座百怪の祭」「七座」は七名の陰陽師によって諸「怪」、魑魅魍魎を鎮め除くための祀り。

「太山府君の祭」泰山府君(たいざんふくんさい)祭(底本の誤植と思われる)。「北條九代記 信濃前司卒去 付 鎌倉失火 竝 五佛堂造立」に既注。

「大嘗會」天皇が即位の礼の後に初めて宮中で行う新嘗祭(にいなめさい:収穫祭に相当するもので、旧暦十一月の二回目の卯の日(現在は十一月二十三日)に天皇が五穀の新穀を天神地祇に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭事。ここはウィキの「新嘗祭」に拠る。しかし当年当月の二度目の卯の日は二十三日であるから「二十二日」に行われたというのは――「吾妻鏡」の同年十二月二日の条に確かに『去月廿二日。大嘗會無爲被遂行』という記載がある――不審である。)のこと。

「大外記師季朝臣」中原師季(師業)。「大外記」の外記は太政官に属した職の一つで少納言の下に置かれ、中務省の内記が作成した詔勅を校勘して太政官から天皇に上げる奏文などを作成した。その中でも平安中期以降、五位に昇進する者を大外記と称した。

「書札」書状。

「除書」除目(じもく)に同じ。京官・外官で新たに任官した者を列記した帳簿を指す。

「淳厚」醇厚。人柄が素朴で人情にあついこと。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 37 立石寺 閑さや岩にしみ入る蟬の聲

本日二〇一四年七月 十三日(陰暦では二〇一四年六月十七日)

   元禄二年五月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 十三日

である。【その二】この日の午後二時過ぎ頃、立石寺(山寺)へ着いた。

 

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の聲

 

涼しさや岩にしみ入る蟬の聲

 

  立石寺

山寺や石(いは)にしみつく蟬の聲

 

さびしさや岩にしみ込(こむ)蟬のこゑ

 

淋しさの岩にしみ込せみの聲

 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間成立)に真蹟にかく上五を変えたものがあるというのを復元した句形(これは底本にはなく、頴原・尾形訳注角川文庫版の注に基づいて復元したものである)。第三句目は「曾良俳諧書留」の、第四句目は「初蟬」(風国編・元禄九年刊)の、第五句目は「芭蕉翁追悼 こがらし」(壺中/芦角編・元禄八年刊)の句形。

 一般には以下のような推敲過程を経たとされる(読み易く書き換えた)。

 

山寺や石(いは)にしみつく蟬の聲

 ↓

さびしさや岩にしみ込む蟬の聲

 ↓

閑かさや岩にしみ入る蟬の聲

 

山本健吉氏によれば、この決定稿は「猿蓑」に撰せられていないことから、「猿蓑」の撰以後、『おそらく「奥の細道」の定稿の成った時である』とされる。現在、「奥の細道」の決定稿は元禄七年初春の頃に成立したと考えられているから実に五年近くの推敲がなされた苦吟であったことが分かる。さればこそ「奥の細道」中、一、二の名吟が生み出されたのであった。

 本句の発想の元は諸家によると、南北朝の梁の詩人王籍の五律「入若耶溪」(若耶溪(じゃくやけい)に入る」の頸聯(書き下しは我流)、

 

蟬噪林逾靜

鳥鳴山更幽

 蟬 噪(さや)ぎて 林 逾々(いよいよ)靜たり

 鳥 鳴きて 山 更に幽たり

 

に基づくとする。しかも安東次男氏は、とかく同じ意になり易い漢詩の対句の弊害を念頭にして、『噪蟬を以て閑情を深めたければ、漢詩より発句の方がまさる、というところに芭蕉の云いたいところ、挨拶がある』とまさに安東節で快刀乱麻の評を附しておられる(「古典を読む おくのほそ道」)。

 推敲は、初案、

   山寺や   石(いは)にしみつく 蟬の聲

は上五が地名で死んでしまって平板な写生に堕し、しかも「しみつく」が小さな「石」の表面にべったりとはりついたような、まさに平板で力のない、いや寧ろ、皮膚感覚に生理的不快感をさえ惹起させるものとなってしまっている。それに対して、改案の、

   さびしさや 岩にしみ込む     蟬の聲

は山寺の寂寥が描き出されて蟬の声もより大いなる「岩」に「さびしさ」として浸潤してゆく。しかしその浸透はまだ十分ではない。そうしてそれは「さびしさ」が勝ち過ぎて、蟬の声を後退させてしまうからである。だからこそ決定稿では、

   閑かさや  岩にしみ入る     蟬の聲

山寺の実景もその寂寥をも併呑する形而上的な「閑かさ」が選び出され、それに従って実相へ直に貫入するところの「しみ入る」が定まったのだと私は思う(そういう解釈で私は教師時代にこの句を教授してきた)。――その決定稿にあっては詠じている芭蕉の姿さえ掻き消えて、無人の山寺全山がゆっくりとクレーン・アップで映し出されるのである。――

 現代の評釈ではこの推敲課程分析の他に、この「蟬」の同定も喧しい(それは私にとっては実にある意味で文字通り「喧しい」ものである。安東次男氏は『蟬がニイニイゼミかアブラゼミか、一匹か複数かというようなことはどうでもよい』とこの不毛な議論を斬って捨てておられる)。ウィキの「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の「論争」の項に以下のようにある(注記[]は「『セミの自然誌』pp.81-84』」とある)。

   《引用開始》

1926年、歌人の斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の9月号[]に書いた「童馬山房漫筆」に発表した。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。1927年、岩波書店の岩波茂雄は、この件について議論すべく、神田にある小料理屋「末花」にて一席を設け、茂吉をはじめ安倍能成、小宮豊隆、中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった文人を集めた。

アブラゼミと主張する茂吉に対し、小宮は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由にこの蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立した。この詳細は1929年の『河北新報』に寄稿されたが、科学的問題も孕んでいたため決着はつかず、持越しとなったが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに1932年6月、誤りを認め、芭蕉が詠んだ詩の蝉はニイニイゼミであったと結論付けた。

ちなみに7月上旬というこの時期、山形に出る可能性のある蝉としては、エゾハルゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミがいる。

   《引用終了》

 私は蟬の羽化は当該年の春から気温変化に大きく作用されるから、以上の「ニイニイゼミ」考証が真に科学的であるかどうかは断定出来ないと思う。確かに「しみつく」「しみ込む」「しみ入る」という本句の雰囲気には「にいにいぜみ」(有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅亜(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ Platypleura kaempferi の通奏音は確かに最も相応しいとは思う。しかし芭蕉らが山寺を巡礼に登ったのは宿坊を借りて後のことで、午後二時半時以降、日の暮れる前の夕景であったから、私個人としてはこの「閑かさ」を演出する蟬は――私の偏愛してやまない――これを聴くと大嫌いな暑い夏を許す気になる――あの――蜩(セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ Tanna japonensis)の声ばかりなのである――


 以下、「奥の細道」。

   *

山形領に立石寺と云山寺有

慈覺大師の開記にして殊淸閑の

地也一見すへきよし人々のすゝむるに

仍て尾花沢よりとつて返し其間

七里計なり日いまた暮す麓の

坊に宿かり置て山上の堂に登ル

岩に巖を重て山とし松栢年ふり

土石老て苔なめらかに岩上の院々

扉を閉て物の音きこへす岸をめくり

岩を這て佛閣を拜し佳景寂莫

としてこゝろすみ行のみ覺ゆ

  閑さや岩にしみ入蟬の聲]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 36 立石寺へ まゆはきを俤にして紅粉の花

本日二〇一四年七月 十三日(陰暦では二〇一四年六月十七日)

   元禄二年五月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 十三日

である。【その一】この日、芭蕉は尾花沢を発って山寺(立石寺)へと向かった。

 

まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

 

行(ゆく)すゑは誰(たが)肌ふれむ紅の花

 

向後(ユクユク)は誰(たが)肌ふれむ紅の花

 

[やぶちゃん注:最初に示した句は「奥の細道」の句。「曾良俳諧書留」に、

 

   立石の道ニテ

まゆはきを俤にして紅ノ花   翁

 

とあって本句が立石寺へ向かう道中吟であったことが判明する。「猿蓑」には、

 

  出羽の最上を過(すぎ)て

 

と前書、真蹟詠草には、

 

  もがみにて紅粉のわたるをみて

 

と詞書を記す。この「わたる」は辺り一面に紅花が咲いていることをいう。

 次の句は「西華集」(さいかしゅう・支考・元禄十二年刊)に載る句であるが、そこには、

 

 此句はいかなる時の作にかあらん、翁の句なるよし人のつたへ申されしが、題知らず。

 

という附記があるが、「俳諧一葉集」(仏兮・湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)では、

 

  淸風亭二句

 

と前書して前の「まゆはきを俤にして紅粉の花」と並べて載せる。

 ところが「芭蕉発句集説」(幹員著・寛政一〇(一七九八)年自序)では、

 

或人加州千代女の句なるよしさも有るべし、翁の調に非ず。

 

と頭書するし、三番目に出した句は「俳諧 反故集」(ほぐしゅう・遊林編・元禄九年自序)に載る二句目のヴァリエーションとも思われるものであるが、そこでも、

 

作者不知

 

とする。底本(中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では明らかに芭蕉の句としているものの、こう並べてみると、「誰肌ふれむ紅の花」の句は、やはりやや疑わしい気がしてくる。

 

 キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ Carthamus tinctorius は、新暦では七月上旬の梅雨の時期から梅雨明けにかけて真黄色の花を咲かせる。まさに芭蕉が尾花沢を訪れたのが新暦七月三日であるから、まさに紅花の花の真っ盛りの野道を芭蕉は山寺へ向かったのであった。尾花沢の滞在中もそしてこの途次の景の中にも紅花摘みの最上乙女の姿があった。最初の句はその鮮やかな紅花の蔭にちらつく乙女らへの極上の挨拶句/恋句である。

 紅花からは染料を製するが特に赤色色素を抽出して陶磁器製の猪口の内側などに刷き乾燥させたものを口紅とした。ウィキの「ベニバナ」によれば、『良質な紅は赤色の反対色である玉虫色の輝きを放ち、江戸時代には小町紅の名で製造販売された』。芭蕉はその一面の紅花と紅花摘みをする可憐な乙女たちからそうした女性の化粧を連想し、さらに紅花の花の形に化粧道具の「眉掃き」(白粉(おしろい)をつけた後に眉を払うのに用いる小さな刷毛(はけ)。眉刷毛(まゆはけ))を艶なる面影に見たのである。

 第二・第三の句は口紅若しくは紅花で染め上げた衣へ思いを馳せてそれが行く末はどんな佳人の唇や肌に触れるのであろう、というのであるが、本作は「誰肌ふれむ」が男性との交合をダイレクトに連想させてしまい、そのエロティシズムが赤裸々となって却って下品な印象を与える。その点でもこの句は存疑とすべきものであろう。]

2014/07/12

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 18 どさんこ

M404
図―404

 

 若し馬の絵を画くことが出来さえすれば、私は我我一行の興味ある写生をすることが出来たのである。図404は矢田部教授の助手を写生したもので、後から馬で行きながら写生した。彼は植物採集箱や包やをウンと身につけていたが、この写生をして間もなく、馬が突然後脚を空中に蹴上げ、助手先生まっさかさまに大地へ墜落し、重い荷鞍や、ブリキの箱や、包がガランガランと音を立てた。彼は立上り、一生懸命にしっかりした上、アイヌの先達(せんだつ)に助けられて、再び馬に乗った。我々が乗った馬のあるものは、不埒きわまる毛物である。昨日私が最後に乗った馬は、私の身体をひどく痛くしたので、今日出発した時、乗馬する迄に私は十七マイル半も歩いた。路は全距離、海岸に沿うていた。

[やぶちゃん注:「矢田部教授の助手」内山富太郎。本章冒頭の私の注で既注。

「十七マイル半」約二八・二キロメートル。矢田部日誌の八月二日の条には『朝九時二十分白老發』で、夜の『七時二十分室蘭着』とあるから、現在の室蘭街道を南下したとすると丁度、登別市幌別辺りで二十八キロメートルに相当する。ここから室蘭までは二十キロメートル程と思われるから、この日の行程の半分以上を歩いたことになり、モースが如何に乗馬を嫌ったかがよく分かる。]

M405

図―405

 

 我々の旅隊は、一人のアイヌによって導かれた。彼は大きな、黒い頰鬚を生やした、毛だらけな男で、頭には直径一フィートの頭髪がある(図405)。頭髪の散るのを除ぐ為、頭に布をまきつけ、着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった。鞍の上に胡坐(あぐら)をかいた彼は、まるで巨人みたいだった。この男は、馬を連れて帰る為に、一行に加った。彼の馬には、標本、衣類等を入れた例の柳行李を二つつけた馬が結びつけられ、更にこの馬には、我々が札幌で贈られた麦酒の箱をつけた馬が、結びつけられた。麦酒は我々が進行するにつれて、ドンドン減って行った。矢田部、彼の助手、高嶺、佐々木、私……これで馬八頭の騎馬行列が出来上った訳である。

[やぶちゃん注:「頭に布をまきつけ」これは恐らく「マタンプ」と呼ばれる男性用の鉢巻で、単に髪を纏め上げるだけではなく、カムイに自分の居場所を知らせると同時に魔除けのためのもので、シマフクロウの目の文様・蜂の針・波など文様一つ一つに重要な意味があり、それを複合的に組み合わせている独特の伝統刺繡である(ここは天川彩氏代表の「オフィスTEN」のサイト内にあるコラム「祈りのマタンプシ」を参考にした)。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のこちらを参照されたい。

「着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった」アイヌの衣服については「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「衣服」を、紋様の総括的概説と画像を見るのなら「北海道デジタル図鑑」内の「アイヌ文様」が、また、紋様の持つ意味については諏訪原貴子氏・鷹司綸子氏共著「アイヌの民族衣服における文様の呪術的要素と地域差」(PDFファイルでダウンロード可能)という論文が詳しい。]

 

 我々はジャガジャガと路を進んだ。全くジャガキャガだったのである。鞦(しりがい)の木の滑子(ローラー)やその他をぶら下げているので、白い、砂地の路を、緩急いろいろに馬をやりながら進む我々は、多分の騒音と挨とを立てた。海岸はどこ迄行っても終らぬように思われた。突如、何等明白な理由なしに、八頭の中の三頭が、列を離れて駈け出し、その三頭の中の一頭には私が乗っていた。我々は止めようとしたが、何の役にも立たなかった。佐々木が先頭に立ち、次が高嶺、最後が私、そして騎馬行列の残部は、間もなく遙か後方に、そして見えなくなって了った。移動出来るものは総て脱落した。先ず帽子、次に紐や革紐が切れてブリキの植物採集箱や、袋や、包荷が一つ一つ落ち、道路にはそれ等の品物が、長い距離にわたって散在したが、これは後から来る仲間が、ひろってくれるものと信じた。

[やぶちゃん注:冒頭部分の原文を示すと“We went rattling along the road, and a rattle it was, for with the wooden rollers on the cruppers and the other things dangling, we made a good deal of noise and dust as we trotted or galloped along the white, sandy road.”で、難渋が英文の一文の長さにもよく出ている。“rattle”は動詞で「ガタガタいわせて走る」「疾走する」、名詞では「ガタガタ・ガラガラ(という音)」というオノマトペイアの変化したものと思われる不可算名詞(例・機関銃の銃声)、可算名としては、幼児をあやすための玩具の「がらがら」や、フットボールのなど観戦中にガタガタ鳴らす道具を指す(因みに動物学では特に、角質で輪状になったガラガラヘビの尾の警告音を出す器官をも指す)。発音は「ラァト」で、寧ろ、確かに機関銃の「タタタ」に近い感じを私は受けた。]

 

 私の乗馬術が如何に上達したかは、私がありとあらゆる物につかまることが出来た事実が証明する。即ち木髄製の日除帽子、色眼鏡、火のついた葉巻をさし込んだ葉巻吸口等は、何ともなかった。馬が奔逸する直前に、高嶺が荷鞍の辛さを軽減する目的で、彼の赤いフランネルの毛布を畳んで、尻の下に敷いた。彼は私のすぐ前にいたが、彼が黒髪を風になびかせながら、ポコンポコンと跳ね上っている間に、毛布が解けて、すこしずつ一方にすべり、ついに路に落ちた。もっと馬の経験があれば、私は必ず馬が吃驚(びっくり)するであろうことを、予期した筈なのである。だが、そんなことをまるで考えぬ私は、高嶺がむき出しの鞍の上でポコンポコンやっているのを、大きに笑っていたのである。と、突然私の馬が、私をもうすこしで大地へ投げつける位烈しく側切れをやった。然しながら、馬の一跳ねごとに、私は僅かずつ、騎座の安定を取り戻した。この無茶苦茶な疾駈は、数マイル続いたあげく、開始の時と同じ様に突然停止した。即ち、路一杯にひろがった馬の一群に追いつくと共に、我々の馬も早速歩き出し、そして彼等の仲間入りをした。我々の馬は彼等と旅行しなれていたので、それ等の臭を認識したのである。

M406

図―406

 

 アイヌの駄馬は、実に不確な動物である。話によると、彼等は世界中のどの馬よりも遅く歩くそうだが、私はこいつら等よりも苦痛多く速歩したり、また勢一杯疾駈する馬があるとは想像出来ない。もうちっと文明の程度の高い馬で稽古することが出来たら、私の乗馬練習の経験は、もっと気持がよかったろうと思う。図406は、荷鞍をつけた典型的な蝦夷の駄馬である。

[やぶちゃん注:中央畜産会公式サイト内の「畜産ZOO館鑑」の「北海道和種馬(ほっかいどうわしゅば)」によれば、『北海道は馬産の後発地域だった』と見出しして、『江戸時代中期、松前藩の藩士たちが蝦夷地(えぞち:今の北海道)に赴任するときに南部馬を連れて行き、内地へ帰るときに原野に放してきたこの馬を、北海道和種馬(体高125―135cm)と呼ぶようになりました』。『北海道和種馬はカラフルな毛色(鹿毛、河原毛、月毛、佐目毛など)の乗馬タイプで、道南の檜山・渡島地方の原野で自然繁殖しているのが原型です。特徴は厳しい自然の中での原始的な生活で鍛えられた丈夫な体質、原野を走り回る強靭な体力です』。『明治以後、北海道は主要な馬産地に指定され、その後地域社会で多彩な活動を展開してきました。そして現在でも北海道の自然に生きる在来馬として、トレッキング、障害者乗馬などの新しい分野での活躍が期待されています』とあり、現状については、『北海道和種馬の2002年の頭数は1722頭、8馬種ある日本在来馬の約75%を占めています(出典:(社)日本馬事協会)。持久力が豊かな北海道和種馬は、今でも地域住民のパートナーとして農民生活を支えているばかりでなく、ホース・トレッキングなど新しいニーズにも積極的に対応し、これまで数回にわたり富士登山を敢行したことは記憶に新しいところです』。モース先生、道産子は捨てたもんじゃなかったんですよ!]




今日の『朝日新聞』の記事だ。

「道産子と日本縦断3000キロ 北大生、在来馬たどる旅」

どんづまり   山之口貘

 どんづまり

 

なにしろぼくも

むかしはひとりなので

お金がなければあつちで食ひ

こちで食ひしても間に合はせたが

おもへばぼくも進歩した

おまではお金がないそのうへに

あちらで食ひもことらで食ひも

出来ないぢやないかといふみたいに

女房子供と顔を見合せた

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年十二月号『文藝春秋』。この詩の原稿も「鮪に鰯」編纂用詩篇の束の中にあるので、収録する予定であった可能性がある(実際には採用していない)。

 発表の前年七月にバクさんは戦中に疎開したまま住み続けていた妻静江さんの茨城の実家から練馬区貫井町の月田家に転居(間借り)している。発表時は長女泉(ミミコ)さんは六歳であった。

飯田蛇笏 靈芝 おくがき / 奥附

       お く が き

 

 この句集のなかの一句に、

 

    靈芝とる童に雲ふかき甌窶かな

 

 といふのがある。この句を集中の第一作と自信したりするが故にそこから靈芝といふ名をとつたといふやうなわけではない。が、靈芝といふのは、自然物において私の愛好するものゝ一つだからである。

 靈芝は、深山幽谷に自生する一種の茸類である。けれども決して食用たり得るものではない。別に、まんねんたけとも名づけられてゐる。全體が木質で、半圓形又は同形の傘と、柱狀の柄とから成つてゐ、傘の表面は、柄とゝもに漆を塗つたやうに赤褐色の光澤を持ち、表面は淡黄色を帶びてゐる。遊學後二十餘年にわたろ山中生活の長い間に、二度ほどこれを深山に發見したことがある。一度は、老樹の下の淸淨と乾いた山土に。一度は、靑苔に蔽はれた巨巖の根のほとりに。

 

 この句集は、總句數千句を收めてゐるのだが、既刊のものから半數を採り、他の半數を現在までに及んで採つてほしいとのことであつたから、その通りにした。即ち、昭和六年までの作品中から五百句、其の後昭和十一年までの作品中から五百句を選出したものである。前期のものにしてもさうであつたが、殊に後期のものは種々な雜誌、新聞等に發表したもので、それを一々しるしておきたい氣持も動かないではないが、列擧する煩に堪えへないので省く。

 

  昭和十二年仲春

            蛇   笏

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。順に上部中央の「版権所有」・下部枠右外下方の製本記載・枠内奥附詳細・枠下部印刷所(底本では右から左表記)の順。]

 

版 権

所 有

 

              (長谷部製本)

 

昭和十二年六月十三日 印 刷

昭和十二年六月十七日 發 行

 

      靈  芝

        定價金壹圓八拾錢

 

  著   者    飯  田  蛇  笏

  發 行 者    山  本  三  生

       東京市芝區新橋七丁目十二番地

  印 刷 者    森  島 金 治 郎

       東京市芝區西應寺町六十一番地

   ―――――――――――――――――

      東京市芝區新橋七丁目十二番地

發  兌    改     造     社

         振替口座東京八四〇二

         電話芝(43)自一一二一番

               至一一二四番

 

     兩友堂 森島印刷所印刷

2014/07/11

沖縄島   山之口貘

 沖縄島

 

累々たる屍を踏んづけたりもしたのだが

死人の罰などはなにひとつも

あたらなかつたとおもつてゐるわけなので

宗教なんてのが影をひそめてゐるのだと

島から来た博士はそのやうに云つて

お寺なんかもなくなつたと云つた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年五月号『人間』(目黒書店発行)で、詩集「鮪に鰯」所収の「桃の木」(初出・昭和二三(一九四八)年二月号『改造』)とあわせて掲載された。この詩の原稿も「鮪に鰯」編纂用詩篇の束の中にあるので、収録する予定であった可能性がある(実際には採用していない)。

「島から来た博士」この人物は沖繩出身者であり、博士号を持ち、占領下の沖縄から戦後に上京した人物でなくてはならないのだが、不詳。識者の御教授を乞う。]

駅へ出る途   山之口貘

 

 駅へ出る途

蜘蛛の巣のうるさい土地なのだ

それで義兄が裏の竹藪から

一本の竹を切り出してくれたのだ

竹はすてっきになって

すてっきはぼくといっしょに

汽車にのるまでの一里の途を歩くのだ

ぼくは途々すてっきを振り廻しながら

めのまへの蜘蛛の巣を払って歩くのだ

かうして毎日の往き復りを

ぼくは竹のすてっきを振り廻して

東京の役所に通ってゐるのだ

ある日その竹のすてっきを

東京に置き忘れて帰って来た

女房に云はれて見てみると

そこに脱ぎ捨てたばかりの鐡兜に

煤色の蜘蛛が一匹

疣みたいにしがみついてゐるのだ。 

 

[やぶちゃん注:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」で初めて公になった詩篇。初出は不明(未発表か)。底本の松下博文氏の解題によれば、昭和二二(一九四七)年六~七月の創作作品と推定されている(根拠の詳細は当該書を参照されたい)、詩集「鮪に鰯」の編纂用原稿の束の中にある原稿から起こされた一篇である。同詩集への収録を予定していた一篇であった可能性があるが、実際には採用されていない。松下氏は『定稿に近いと思われる』とあるので決定稿ではない草稿ではある。これ以降についての漢字表記は底本の「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の通り、新字体とすることとする。理由はこの現存する戦後二番目の未収録詩篇である本詩が新字体で刊行された「鮪に鰯」の準備稿の一篇として選ばれていた可能性が高いからである。ただ、本詩の作品内時間は、明らかに妻静江さんの実家に戦中から戦後にかけて疎開していた(昭和一九(一九四四)年十二月から昭和二十三年七月迄)時期のもので、私は「鉄兜」から敗戦前の戦中のシチュエーションと読むことから、旧字表記も考えたことはここで述べておきたい)。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) ⅩⅤ 「靈芝」全句 了

  獵夫某、古代の塚をあばき、石器陽物を發

  掘してこれを祀る。

 

はなじろむ上古の神や春の風

 

聖日の花廛(はなや)の玻璃に幽らき秋

 

花温室に聖日懶惰なるにもあらず

 

聖日の水甕秋の花浸る

 

掛香や聖日の子の睫毛かげ

 

[やぶちゃん注:「掛香」は普通は本邦の匂い袋をいうが、ここは教会の景で、私はキリスト教会で用いられる鎖にぶら下げて振りたかれる香炉(Thuribulum トゥリブルム:香をたく金属製の小さな炉)や、香炉掛けに掛けられた小船の形をした香入れ(香舟 Navicula:ナビクラ)などがイメージされる。]

 

女醫の君靑猫めづる冬來る

 

兒のケープ雪白にして聖母祭

 

雪かゝる聖樹の窻に驢馬の鈴

 

鬪牛の花蘭ねぶる暮秋かな

 

うす虹をかけて暮秋の港かな

 

花うつる忌の甕水も暮秋かな

 

夜風たつ菊人形のからにしき

 

無花果の馬柵にまつたく黄葉しぬ

 

雨そぼつ柴のほずゑの天蠶繭

 

[やぶちゃん注:「天蠶繭」は「かいこまゆ」と訓じているか。]

 

羽ぐるまをもろに交はして稻すゞめ

 

花八つ手蜂さむざむと飛べるのみ

 

  大菩薩峠 


鷹ゆけり秋霞みして嶽の雪




[やぶちゃん注:以上を以って今年の二月十四日から開始した飯田蛇笏句集「靈芝」の句部分の全電子化を終了した。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) ⅩⅣ

 神と現實

 

※り足る鵯さへづれり山椿

 

[やぶちゃん注:「※」=(上)「求」+(下)「食」。「※り足る」は「あさりたる」と読む。]

 

山びこす稻架の鴉にうす紅葉

 

むさゝびを狩りとる樅の深山雲

 

秋雞が見てゐる陶の卵かな

 

やまびこのゐて立ちさりし猿茸

 

[やぶちゃん注:「猿茸」は「ましらたけ」と読む。:        菌界担子菌門真正担子菌綱(菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae に属するキノコ類の「サルノコシカケ」という総通称の別称。ウィキの「サルノコシカケ科」では『一般に、「猿の腰掛け」の名の通り、樹木の幹に無柄で半月状の子実体を生じるものが多いが、背着生のものや、柄とかさとを備えるものもある。子実体は一般に堅くて丈夫(木質・コルク質・革質など)であるが、一部には柔らかな肉質のものもある。胞子を形成する子実層托は典型的には管孔状をなしているが、迷路状・ひだ状・鋸歯状などをなすこともあり、一つの種の中でも、子実体の生長段階の別、あるいは子実体の発生環境の影響などによって種々に変形することが多い』とし、『サルノコシカケという和名をもつ種は存在しないため、科名をサルノコシカケ科とするのは暫定的な処置である。タイプ種として、アミヒラタケを選択する説とタマチョレイタケを選択する説とがあり、前者の説をとるならアミヒラタケ科、後者の説に準じるのであればタマチョレイタケ科の和名を採用するのが妥当であるが、まだ国際藻類・菌類・植物命名規約上の決着をみていない。この観点から多孔菌科の科名をあてることもある』とあるから種の同定は出来ない(因みにタイプ種説の前者はサルノコシカケ科タマチョレイタケ属アミヒラタケ Polyporus squamosus 、後者はタマチョレイタケ属タマチョレイタケ Polyporus tuberaster である。前者のリンクは当該種のウィキを、後者はグーグル画像検索「Polyporus tuberaster」を配した)。]

 

大樹林獵夫にひくき月盈ちぬ

 

枝槎※と山柿なごりしぐれけり

 

[やぶちゃん注:「※」=「木」+「牙」。「槎※」は「さが」と読み、「槎牙」と同義で用いている(但し、「※」は山の奥深い様子を指す語で、用法としては誤字である)。木の枝が削いだように角張って入り組んでいる様子をいう。「槎」は木を斜めに切る、削ぐの意。]

 

わたもちの鶫燻すべて山の講

 

[やぶちゃん注:「わたもち」は「腸持ち」で内臓を持っているの意から、捌いていない生身(なまみ)の身を指す語。]

 

姥を射て來て爐邊に睡りけり

 

[やぶちゃん注:「山姥」は猟師の具体な狩猟動物の隠語のようにも見えるが、私は取り敢えず蛇笏の鬼趣の句として楽しむ。]

 

空さむく野山のにしき神聳ゆ

 

新藁に厩の神はいぼりたつ

 

[やぶちゃん注:「いぼりたつ」「いぼる」は一般的には「いぼふ」と同義で、灸をすえた跡が爛れるの意で、「日本国語大辞典」には山梨県南巨摩郡採取の方言として、「傷や腫物が化膿する」の意を載せる。しかしどうもそれでは句が解釈出来ない。ここは「厩」とあり、同辞典の「いぼる」の方言欄を見ると「馬が発情する」(愛媛県大三島)・「馬がいななく」(高知県及び壱岐)及び「人が怒る」(群馬県吾妻郡・埼玉県秩父・新潟県刈羽群・壱岐)という例が掲げられている。しかし「厩神」は猿であって馬本体ではないから、この「いぼりた」っているのは発情した馬でも嘶いている馬でもないはずである。古来、厩の柱の上には厩神の祠を設けて実際の猿の頭蓋骨やその手足の骨を御神体として納めていたことはとみに知られるが、ウィキ神」には、『簡易な方法で済ます際には猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼っていた』が、古くは『季節ごとに馬の安全を願う祭礼として、厩の周りで猿を舞わせる風習もあった。大道芸の猿まわしはその名残りである』ともあり、もしかするとこの句は、そうした田舎廻りの猿回しが実際に厩で、歯を剥き出して怒ったようにして踊っているさまを詠んだものかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

 

なにもかも知れる冬夜の厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」は中経出版の「世界宗教用語大事典」によれば、『厠(便所)を守護する神で、中国では五世紀頃から、正月一五日(元宵節)に紫姑神という厠神を迎えて農作・養蚕を占う風がみられる。紫姑は則天武后時代の官僚李景の妾で、本妻に嫉妬されて厠中で殺され、天帝が哀れんで神にしたという。朝鮮にも若い女性の厠神がおり、それは家の守護神ソンジュの配下だといい、便所に行くにはこの神の気を損なわないように咳払いをして告げて入る風がある。日本では男女一対の土人形を祀ったり、便壺の下に紙人形を埋めたりする風があるが、仏教の烏枢沙摩明王』(うすさまみょうおう)『や卜部神道の神を祀る風もある。便所を廃して埋めるときは、梅と葦とをともに埋める所もあり、ウメてヨシ(埋めて良し)にかけているのである。(邦語のカワヤは川の上に掛け造りした家、または、家の側の屋、の意という)』とある。この句、隠される後架なればこそ、まさにその家人の「なにもかも」を「知れる」に違いなき「厠神」を、まさに切れるような寒さの「冬」の「夜」に訪ねてそこで通じをつけている作者の姿が、語彙の諧謔とはうらはらに恐ろしくリアルな感懐を導いていて、すこぶる私の好きな句なのである。]

北條九代記 卷第六  後嵯峨院新帝踐祚 付 能登守秀康誅せらる 承久の乱の終焉――後堀河天皇践祚、藤原秀康及び同弟秀澄、捕縛されて六条河原に梟首となる

      ○後嵯峨院新帝踐祚  登守秀康誅せらる

 懷成(かねなり)親王は、新院の御讓を受けさせ給ひけれ共、御即位の式も調はず、程なくこの亂ありしかば、三院ともに、遠島に移されさせ給へば、關東より計ひ申して、僅に九十餘日にして、御位を下し奉り、九條の廢帝(はいたい)と申して、王代(わうだい)の數の外にぞおはします。後鳥羽上皇の御兒(この)守貞(かみさだ)親王は、後白河院の御心に叶はせ給はずとて、帝位にも即(つ)け奉らず、持明院宮と號して、打込められておはしけるを、義時計ひ申して、御位に即け奉らんとありしかども、入道親王の御事なり、御子茂仁(もちひと)親王を帝位に仰ぎ奉るべしとて、今年十歳に成り給ふを取立參(まゐら)せ、御父の守貞には、太政天皇の尊號を奉り、承久三年七月九日、新帝茂仁踐祚あり。後嵯峨院(ごさがのゐん)と申すはこの君の御事なり。攝政道家公は、鎌倉の將軍賴經の御父なれども、順德院の舅なるに依て、官職を改補(かいふ)して、近衞家實(このゑのいへざね)公を以て攝政にぞ補(ふ)せられける。何事も皆、右京大夫義時が心に任せ、鎌倉より計ひ奉る。武蔵守泰時、相模守時房を京都の守護として、六波羅にぞ居ゑ置きたる。叛逆與黨の沒收(もつしゆ)の領地、凡(すべて)三千餘ヶ所なり。二品禪尼の計(はからひ)として、今度勲功の武士に勸賞(けんじやう)あり。功の淺深(せんじん)に隨ひて、充行(あておこな)はる。自分に於いては、立錐の地もなし。かゝる所に謀叛の張本、能登守秀康、河内判官秀澄は戰場を遁出(のがれい)でて、南都に落下り、深く忍びて居たりけるを、武蔵守泰時、聞出し、相模守時房に言合(いひあは)せて、家人等を遣して搜求(さがしもと)むる所に、件の兩人は跡を暗(くらま)して逐電す。東大、興福の兩寺の内に方人(かたうど)ありて、隱置(かくしおき)きぬらんとて、坊中に亂入して搜しければ、佛具、經論までも取散(とりちら)し、狼藉なる事云ふ計(ばかり)なし。衆徒等、大に怒(いかつ)て夜討強盗(ようちがうたう)ありと、訇(ののし)りける程に、衆徒悉く蜂起して、相模守の使を四方より取圍(とりかこ)み、三十餘人を打殺す。下部(しもべ)一二人、辛(からう)じてにげ歸り、六波羅へ申しければ、在京の武士、二千餘騎を催し、南都にぞ向へられける。衆徒この由を聞きて、大に驚き、木津河の邊に來合ひて、使者を以て愁へ申すやう、「軍兵、只今、南都に討入り候はば、衆徒等(しゆうとら)出合ひて力を盡して防戰(ふせぎたゝか)はん。然らば古(いにしへ)平家の逆臣(ぎやくしん)、既に大伽藍を燒失せしに異ならず。天下國家、騷亂の本なるべし、今度叛逆の張本に於いては、尋出して、此方(こなた)より生捕りて參すべし。軍勢をば引取り給へ」と申しければ、衆徒の申す旨、理(ことわり)ありとて、軍勢をば引取りて歸洛あり。不日(ふじつ)に秀康が郎等を搦捕(からめとつ)て、六波羅にぞ送りける。この者の白狀するに依て、十月十六日、この両人の謀秀康、秀澄両人を河内國より生捕て六波羅にぞ渡しける。抑この亂逆(らんげき)は、この兩人の謀計より起れり。重科(ぢうくわ)の責(せめ)、重かるべしとて、關東へ申され、六條洞原にして、首(かうべ)を刎(は)ね、獄門に梟(か)けられたり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱の終焉――後堀河天皇践祚、藤原秀康及び同弟秀澄、捕縛されて六条河原に梟首となる〉なお、標題の「後嵯峨院新帝踐祚」は誤り。底本頭注に『後嵯峨院―御堀河即位の誤、茂仁は』(本文では「もちひと」とルビを振るが)『「とよひと」と讀む』とある(後注参照)。

「懷成親王」仲恭天皇。

「九條の廢帝と申して、王代の數の外にぞおはします」当時は満三歳。廃位後間もなく母方実家である摂政九條道家(天皇叔父で第四代将軍頼経父)邸に引き渡された。十三後の天福二(一二三四)年、十七歳で薨去した。彼が歴代天皇の一人として認められ、第八十五代仲恭天皇と正式に追号されたのは、それから実に六百三十六年後の明治三(一八七〇)年のことであった(以上はウィキの「仲恭天皇」に拠る)。

「守貞親王」(治承三(一一七九)年~貞応二(一二二三)年)は高倉天皇の第二皇子で後鳥羽天皇の同母兄。母は坊門信隆の女殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄に当たる。持明院基家娘陳子を妃として持明院家所縁の持明院を御所としていたが、皇位の望みもない不遇な運命を嘆いて建暦二(一二一二)年に出家、行助入道親王と号していたが、この承久の乱の戦後処理の中で子の後堀河天皇が即位し、後には彼守貞親王に異例の太上天皇号が贈られ、院政を敷いた。『朝廷内の混乱を収め、公武関係の融和にも努めるなど、実績を残したものの、わずか』二年で『腫物を患って崩御』した。院号を後高倉院という。乳母は平知盛夫人の治部卿局(以上はウィキの「守貞親王」に拠る)。

「入道親王の御事なり、御子茂仁親王を帝位に仰ぎ奉るべし」前のウィキの「守貞親王」に、『鎌倉幕府は仲恭天皇を廃位し、「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」とする方針を決定、非後鳥羽系皇族の擁立を図った。この際、行助の三男・茂仁王より他に出家していない皇族のいないことが判明したため、茂仁王を即位(後堀河天皇)させ、行助入道親王へ太上天皇号を奉って、その院政を敷くことにした。皇位につかず、出家している親王へ太上天皇号を贈ることは全く異例であったが、後鳥羽上皇の院政勢力を駆逐するためにはこれが最適な処置であった』とある。

「茂仁親王」後堀河天皇(建暦二(一二一二)年~天福二(一二三四)年)。当時未だ十歳であった。ウィキの「後堀河天皇によれば、貞永元年二十歳の時、『院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らず』、二十三歳で崩御した。それが中宮竴子(しゅんし/よしこ:九条道家娘。第二皇子を死産後に二十四歳で薨去した。)『の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊』(後鳥羽上皇の隠岐での崩御はこの五年後の延応元(一二三九)年で当時は五十四歳)『のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる』とある。

「後嵯峨院」後堀河天皇の誤り。後嵯峨天皇はこの次の次の第八十八代天皇。この後堀河天皇の第一皇子で皇位を継承したが四条天皇が仁治三(一二四二)年に十二歳で夭折してしまったため、皇位継承問題が再燃、ウィキの「後嵯峨天皇」によれば、『公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため』に、十一日間もの天皇不在という異常事態が発生している。『また、当時の貴族の日記である『平戸記』・『民経記』が邦仁王擁立を非難する記述』『を残すなど、当時の貴族社会に衝撃を与えた』とある。こうした承久の乱に似た幕府絡みの天皇交代劇のスキャンダラスな印象が「北條九代記」の筆者の記憶を齟齬させたものと思われる。肝心の本当の後の後嵯峨天皇即位の記載は「北條九代記」には最早、描かれていない。

「攝政道家公は、鎌倉の將軍賴經の御父なれども、順德院の舅なるに依て、官職を改補して」当時二十八歳であった九条道家は第四代将軍頼経(母は西園寺公経娘倫子)の父であると同時に、承元三(一二〇九)年三月に姉立子が当時の後鳥羽天皇の第三子で後の皇太子(後の土御門天皇)異母弟の守成親王(後の順徳天皇)の中宮であったために、一貫して承久の乱への関与はなかったものの、形の上で連座となって摂政を罷免された(後に関白に復活)。

「近衞家實」(治承三(一一七九)年~仁治三(一二四三)年)は関白近衛基通長男。建永元(一二〇六)年摂政に次いで関白に補任したが、承久の乱で後鳥羽上皇らの挙兵に反対、四月に関白を解任されていた。同年十二月二十日には太政大臣に就任して後堀河天皇の元服加冠の役を務めている。貞応二(一二二三)年の後高倉院崩御以後は名実ともに朝廷の主導者として、幕府に協調したが、安貞二(一二二八)年に西園寺公経(道家の岳父)と組んだ、復権して勢力を拡大した道家の工作によって関白を辞任させられた(これ以後は近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化している)。当時四十二歳。彼の娘の長子(ながこ 建保六(一二一八)年~ 建治元(一二七五)年)は後堀河天皇中宮となった。

「二品禪尼」北条政子。

「自分に於いては、立錐の地もなし」御自分では錐を立てるばかりの小さな領地さえも手にされなかったの意で、主語は総大将北条泰時である。

「能登守秀康」承久の乱の首謀者の一人藤原秀康。既注

「河内判官秀澄」藤原秀澄。藤原秀康の弟。既に「山田次郎重忠」注で詳述したが、承久の乱では大将軍として美濃国と尾張国の国境の尾張川の墨俣に陣を敷いたが、京方は少ない兵力を分散させる愚策を犯していた。尾張の住人山田重忠(かの後鳥羽院を「大臆病」と罵った私の大好きな武士(もののふ)である)は、これに対して兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲う積極策を進言したものの、『怯えた秀澄はこれを取り上げず、結局、京方は大敗を喫し、秀澄は京へ逃げ帰った。『承久記』は秀澄を「天性臆病武者なり」「心のたるんだ武者」と酷評している』とウィキの「藤原秀澄」にはある。

「方人」「かたひと」の音変化で、ここは味方・仲間の意。かとうど。

「古平家の逆臣、既に大伽藍を燒失せし」南都焼討。治承四(一一八一)年十二月二十八日に平清盛の命を受けた五男重衡ら平家軍が東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にした一件。東大寺は金堂(大仏殿)などの主要建物の殆んどを焼失、中心から離れた法華堂・二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰した。参照したウィキの「南都焼討」には当時の右大臣『九条兼実は日記『玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と悲嘆の言葉を綴っている。重衡は29日に帰京し、この時持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀にうち捨てられたという』とある。「北條九代記 卷第一 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」なども参照されたい。

「十月十六日」捕縛は十月六日の誤り。以下の「吾妻鏡」参照。「十六日」というのはその通知が幕府に着いた日付である。なお、践祚や論功行賞の前半部の「吾妻鏡」相当箇所(巻二十五の承久三年七月八日・九日・十一日の条)は既に北條九代記 卷第六  京方式將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(3) 承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わるの注で引用してある。

 

 「吾妻鏡」承久三(一二二一)年十月十二日の藤原秀康・秀澄逃亡及び南都のによる捕進の約契の条。

〇原文

己戌。六波羅飛脚到着云。去月廿五日。今度合戰張本能登守秀康。河内判官秀澄隱居南都之由。依有其聞。爲相州之計。遣家人等。搜求之間。件兩人者逃去訖。衆徒等蜂起。稱夜討人。圍相州使者合戰。其使者依無勢。悉以被殺戮。纔所殘之僮僕兩三輩。馳還六波羅。訴事由。仍相州。武州相談。翌日〔廿六日。〕午刻。相催在京幷近國勇士數千騎。差向南都。衆徒聞之太周章。來合于木津河邊。先以使者。愁云。軍兵入南都者。不異平家燒失大伽藍之時歟。然者搜尋惡黨等。可虜献者。就懇望之旨。成優恕之儀。歸洛畢。今月二日。自南都搦出秀康之後見。當時有沙汰。又三日夜半。殿下及右幕下亭燒亡。前殿下亭同時雖令放火打消。凡叛逆余殃未盡云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日壬戌。六波羅の飛脚到着して云はく、

――去ぬる月廿五日、今度の合戰の張本能登守秀康・河内判官秀澄、南都に隱居するの由、其の聞へ有るに依つて、相州の計らひとして、家人等を遣はし、搜(さぐ)り求むるの間、件の兩人は逃げ去り訖んぬ。衆徒等、蜂起し、夜討人と稱して、相州の使者を圍み、合戰す。其の使者、無勢に依つて、悉く以つて殺戮せられ、纔かに殘る所の僮僕兩三輩、六波羅へ馳せ還り、事の由を訴ふ。仍つて相州、武州に相ひ談じ、翌日〔廿六日。〕午の刻、在京幷びに近國の勇士數千騎を相ひ催して、南都へ差し向く。衆徒、之を聞きて太(はなは)だ周章し、木津河の邊に來り合ふ。先づ以つて使者、愁へて云はく、

「軍兵の南都に入る者、平家が大伽藍を燒失するの時に異ならざらんか。然れば、惡黨等を搜り尋ね、虜(とら)へ献ずべし。」

てへり。懇望の旨に就き、優恕(いうじよ)の儀を成し、歸洛し畢んぬ。――今月二日、南都自り秀康の後見を搦め出だす。當時、沙汰有り。又、三日の夜半、殿下及び右幕下亭、燒亡す。前殿下の亭も、同じ時に放火せしむと雖も打ち消す。凡そ叛逆の余殃(よあう)未だ盡さず――と云々。

・「己戌」は「壬戌」の誤り。

・「優恕の儀」寛大なる心で罪を許す処置。

・「後見」後見人。

・「當時、沙汰有り」即日、自白させた上で処分(恐らく梟首)となったの意であろう。

・「殿下」近衛家実。

・「右幕下」右大将西園寺実氏。

・「前殿下」九条道家。

・「余殃」悪業を重ねた報いとして受けるところの禍い。先祖の悪業の報いとして子孫が受ける災厄。「余慶」の対義語。

 

 次に一つ飛ばして(飛ばした十三日の条は、宮中の警備及び官軍協力者に対する処分についての評議が行われたことと信仰心の篤い北条泰時が早くもこの日、三寅(後の将軍頼経)と北条政息災及び承久の乱の貴賤得脱のために京都に寺を草創を命じたという記事である。ただこの寺、私には不明。識者の御教授を乞うものである)「吾妻鏡」承久三 (一二二一) 年十月十六日の条。

 

○原文

十六日丙寅。六波羅飛脚到着。去六日寅尅。於河内國。虜秀康。秀澄等。是依彼後見白狀也。同八日至六波羅云々。天下乱逆根源起於此兩人謀計。重過之所當。責而有餘歟云々。○やぶちゃんの書き下し文

十六日丙寅。六波羅の飛脚、到着す。去ぬる六日寅の尅、河内國に於いて、秀康・秀澄等を虜(とら)ふ。是れ、彼の後見の白狀に依て也。同じき八日六波羅に至ると云々。天下乱逆の根源は此の兩人の謀計に於て起きる。重過の當る所、責めて餘り有るかと云々。

 

・「寅の尅」午前四時頃。]

2014/07/10

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 17 白老のカタツムリ / アイヌの人々の不思議な挨拶の仕方

 私がアイヌの写生を沢山した白老で、我々は多くの美しい蝸牛が、藪にくっついているのを見た。一つの種を除いて、他はすべて薄く弱々しかった。淡水貝も同様に薄く、そして陸産見のある物は、殆ど無色であった。土壌に石灰がないので貝殻が薄いのだとされている。白老を出発した朝、我々は容易にアイヌの部落から我々を引き離すことが出来なかった。草や灌木で殆ど隠されていることもある小径を歩き廻り、ここかしこに、最も不規則な方法に配置されたアイヌの小舎を見出すことは、この上もなく興味が深かった。戸口に坐る老人達は、両手を頭へ挙げ、それを徐々に下げて、鬚を撫でるような身振で、我々に挨拶する。もっとも、子供も同じ身振をするから、これが鬚に全然関係のないことは判る。女の挨拶は、単に自分の鼻の横を、人差指でゆっくりこする丈にとどまる。

[やぶちゃん注:「他はすべて薄く弱々しかった」とあるが、先に引いたScorpionfly 氏の「円山原始林ブログ」の「札幌の森のカタツムリ」の札幌の種の四種を見るに、殻が圧倒的に薄いのは有肺目モノアラガイ科オカモノアラガイ Radix auricularia japonica である。場所が異なるし、モースは複数いた種の「すべて」が「薄く弱々しかった」とあるから、これ一種のみとは思われないものの、その幾つかの個体はオカモノアラガイ Radix auricularia japonica であったと私には思われる。但し、モースがその理由を「土壌に石灰がないので貝殻が薄いのだとされている」とするのにはちょっと疑問を感じる。識者の御教授を乞うものである。

「挨拶」この仕草の方法と意義ついては探索し得なかった。男や子供のそれも勿論であるが、特に女性特有の「単に自分の鼻の横を、人差指でゆっくりこする」というのは何か特別な呪術的なものを感じる。識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 16 アイヌの家屋(Ⅳ) プウ(倉)/臼/チプ(舟)

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図―400

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図―401

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図―402

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図―403

 

 彼等が乾したり燻したりした魚や魚皮を仕舞っておく納屋は、高さ四、五フィートの柱の上に建ててある。それ等の中のある物には、ニューイングランドの玉蜀黍(とうきび)小屋が、柱の上に置かれたブリキの鑵で、齧歯類の動物をふせぐのと同様に、柱の上にけばけばしい色の木箱がさかさまにのせてあった。かかる納屋の形式は図400・401に見られる。米を搗き砕く大きな木製の臼が家の内や外にある。図402に示したものは長さ三フィート、木の幹からえぐり出し、彫りぬいたものである。木の幹からえぐり出したアイヌの舟は、私が日本で見たどの「刳舟(くりぶね)」とも違った形をしていた。図403に示したものは長さ十四フィート、舳も船尾も同じで、船壁は薄く、彼等の材木細工の多くに於るが如く、至って手奇麗に出来ていた。

[やぶちゃん注:「彼等が乾したり燻したりした魚や魚皮を仕舞っておく納屋」この高倉式の食糧貯蔵庫はアイヌ語で「プー」「プウ」(倉の意)と呼ぶ。ウィキの「チセ」の「付属設備」に、『家の周辺部には付属施設として、ヘペレセッ(檻)、プー(高倉)、アシンル(便所)を設ける。ヘペレセッは春の猟で生け捕りにし、冬のイオマンテで天界に送るためのヘペレ(小熊)を飼うためのもので、丸太を井桁組にした構造である。屋内の主人席からカムイプヤラ越しに様子を伺えるよう、家の東南東に設けられる場合が多い。高床式倉庫であるプーには、穀物や干し肉、干魚を蓄える。害獣の侵入を防ぐため、柱にはエリモホシピレッペ(ねずみ返し)を取り付ける。出入り用のニカラ(刻み梯子)も、普段は外しておく。便所は地面を掘りくぼめて簡単な屋根をかけたもの。アイヌには大小便を肥料とする習慣が無いので、内容物を汲み取ることは無い。穴が一杯になれば埋め、別の場所に新たな便所を作る』とあり(リンク先に画像あり)、ここでモースが「柱の上にけばけばしい色の木箱がさかさまにのせてあ」ると述べているのも、その「シピレッペ(ねずみ返し)」である(但し、ネット上の現在の復元されたそれらの写真では、それらしい装置は見られるものの、「けばけばしい色の木箱」のようなものは見受けられない)。

「四、五フィート」一・二二~一・五二メートル。

「臼」アイヌ語で「ニス」と呼ぶ。北海道沙流郡平取町字二風谷の「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のを参照されたい。そこには『毎日のように臼を使っていた主婦が亡くなると、臼の一部分を欠かしてそのかけらを死体と一緒に埋葬します。それは、神の国で臼の命も復活し、女が道具に不自由しないようにとの願いからでした』ともある。私はこういう信仰をこそ信じたい部類の人間である。

「三フィート」約九十一センチメートル。

「刳舟」アイヌ語で「チプ」(舟の意)と呼ぶ。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のこちらを参照されたい。そこでは舳先にイナウが祀られてあるのを現認出来る。これは昭和四〇(一九六五)年頃に復元製作されたカツラ材によるものであるが、全長六・三四メートル・最大幅六四センチメートル・高さ四二センチメートルとある。

「十四フィート」四・二七メートル。図を見ると幅を“2 feet”と記してあるのが分かる。二フィートは六〇・九六センチメートルであるから、前の復元品の幅とも長さの比から見て最大幅がやや狭くなると思われるから、よく一致すると言えるであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ) 刀剣と矢筒 このフォルム! 好き! 

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図―398

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図―399

 

 小舎の一隅には、「神棒」として知られる、彎曲した鉋屑をぶら下げた棒が、何本かあった。私はその一本を買おうと努力したが、アイヌは金銀の価値をまるで知らず、また事実、最も簡単な算術の知識さえも持っていないので、百万ドル出した所で、それは十セント出したのよりも、一向効果的ではない。小舎の寝台の横には、銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった(図398)。これ等の短刀が、我々が北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造られたのであるかどうかは、聞き洩した。私と一緒にいた日本人は、これ等の刀は非常に古いものだといった。そしてアイヌ達は、これを非常に尊敬しているらしく見えた。小樽にいた老アイヌは、一本の短刀を袋に入れていた。彼はそれを私に見せたが、最も貴重な品とみなしているらしかった。柄はゆるくてガタガタしていたが、それはこの貴重さに一向影響しないらしく思われた。刀をかけた壁と直角をなす壁には、蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている。図399はそれ等を写生したものである。私は箭筒を一つ買おうとした。然し一ドルから五百ドルまで値上をしても、いささかの利き目もなかった。然るに、驚く可し、アイヌは箭筒の一つを壁から外し、矢を一本取出して、注意深く毒を搔き除いた上で、それを私に呉れた。

[やぶちゃん注:「神棒」既出のカムイや先祖と人間の間を取り持つものとされた供物的性格を持った神器イナウである。これらは一体一体がそれぞれの謂れを持つものである。改めてちゃんと複数の原物を見るために北海道白老郡白老町若草町の「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「イナウ[木幣]」をリンクしておく。モース先生、先生のやったことは敬虔なキリスト教信者の自宅を訪れてそこに掲げられた十字架を幾らでも出すから売ってくれって言ってるのと同んなじですよ!

「銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった」これと同型の刀は見出せなかったが、後で掲げられている箭筒(図399)と全く同じの添え飾りであることが図から判然とする。モースが述べるように、「短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている」ものであり、また、同じくモースが後に推測したように、江戸時代後期の和人支配以降に本州人が、アメリカ人が「北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造」ったもので、アイヌの矢筒の形を刀剣用のそれに合わせて模した飾りであることも分かる(次注リンク先画像参照)。これらはアイヌに伝承される儀礼用の刀剣アイヌ刀(蝦夷刀)と思われ、アイヌ語では、イコロ(宝物)又はエムシ(刀・帯刀・太刀)と呼ばれるもので(資料によっては刀の鞘をエムシとするものもある)、男性が儀礼の際に帯びるものであった。「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「アイヌの儀礼具」の「エムシ[儀刀]」(リンク先の少し下にある)も参照されたい(画像あり)。

 

「蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている」この矢筒はアイヌ語で「イカヨプ」という。前に同じく「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「アイヌの儀礼具」の「イカヨプ[矢筒]」(エムシ[儀刀]」のすぐ下にある)を参照されたい(画像あり)。そこの写真で、まさにこの形そのもののそれが見られる。キャプションに『儀礼用の矢筒をいい、本州からの移入品とアイヌ自製のものがあります。移入品は全体に黒漆が塗られ、飾り金具で装飾されています。アイヌ自製のものも移入品の矢筒を模した形態で、表となる片面に彫り文様や金具などの装飾が施されています。材はホウノキなどの割材を多く使用し、桜の皮を巻き付け接合します』とある。また、北海道沙流郡平取町字二風谷の「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のを見ると、原形はやはりアイヌの意匠であることが分かる。個人的にこれらの形態、東宝特撮怪獣映画に出てきそうな自衛隊の殺獣兵器みたようで、すこぶる附きで好きである。欲しい!]

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 14 アイヌの家屋(Ⅱ)

M393

図―393

M394

図―394

M395_m396

図―395[やぶちゃん注:上図。]

図―396[やぶちゃん注:下図。]

M397

図―397

 

 これ等の家産の清楚と一般的な絵画美とは、一歩室内へ足を踏み込むと共に消失して了い、下には固く湿った地面、上には黒くすすけた棰があり、そして強い魚の臭気があらゆる物を犯している。四角な炉の近くには、食事の残りを入れた大きな鉢が置かれてあるが、それは如何なる場合にも、大きな、胸の悪くなるような魚の骨である。彼等の小舎の内で見受けた食物とては、燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物と、子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子とだけである。この家の一本の棒からは、筵でつくつた小鞄と、丸い固菓子と、魚の切身とがつるしてあった(図393)。道具類は大きな漆塗の盃、火にかけた薬鑵、その他若干(すべて日本製)と、アイヌがつくつた木の食事椀とであった。図394は炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と、貝殻に魚油を入れ、割った棒の上にのせた燈火とを示す。図395は真鯵(まあじ)の鰓(えら)蓋と鰭とを示し、図396は別の魚の切りようで、串をさし込んで切口を引きはなす。長い条片に切ることもある。図397は魚の頭二つ、その他、並に魚の鰾(うきぶくろ)である。これ等の最後のものは、火の直上にかけてあった。これ等はすべて、屋内にかけ渡した竿からぶら下っていて、火から出る煙が結構それを乾し燻す。だが、時々新鮮な空気を吸うために、逃げ出さねばならぬ程、煙が濠々と立籠める家に住み、そして眠ることを考えて見給え!

[やぶちゃん注:「燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物」ウィキアイヌ料理の「乾し肉・乾し魚」よれば(注記記号は省略した)、

   《引用開始》

アイヌ語では乾し肉をサッカム(satkam)、乾し魚をサッチェプ(satcep)、ニケルイ(nikeruy)、アタッ(atat)と呼ぶ。

特に秋の鮭は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜くための保存食に加工された。まず頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて燻製にする。夏のイチャニウ(icaniw マス)やトゥクシシ(tuksis アメマス)は蝿の害を防ぐため、開いてから火で炙り、焼き干しに加工する。これら乾し魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った乾し魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す。

腹を開いた際に得られるウプ(up 白子)やチポロ(cipor 筋子)も乾燥して保存し、オハウ(ohaw 汁物)の出汁やサヨ(sayo 粥)に用いられた。

獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて乾し肉に加工される。ユク(yuk 鹿)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。このサッカム(乾し肉)はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする。

   《引用終了》

とある。これからモースが見た乾し魚は概ね鮭であったと思われる。

「子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子」これは「オントゥレプ」とばれるアイヌの保存食である。「トゥレンプ」(又は「トゥレプシト」。「シト」は団子の意)とは単子葉植物綱ユリ目ユリ科ウバユリ属変種オオウバユリCardiocrinum cordatum var. glehnii 及びそのデンプンを多量に含んだ鱗茎をすり潰して団子状にしたものを指し、「オン」は「発酵させた」の意。「トゥレプ」はアイヌの人々にとって植物性食品の中では古くから穀物以上に重要な地位(日常食というよりもイオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他神事やハレの日の供物的性格を持った贅沢品で、滋養強壮や薬膳としても用いられた。以上は主にウィキアイヌ料理に拠る)を占めていたものである。ウィキオオバユリ」によれば、

   《引用開始》

旧暦4月をアイヌ語で「モキウタ」(すこしばかりウバユリを掘る月)、5月を「シキウタ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達はサラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。

1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。

2 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。

3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。

これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉をイタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二蕃粉を団子に丸めて蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。

乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない。

   《引用終了》

オントゥレプの製造法は、

   《引用開始》

トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる。

1 オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(笊)で集める。

2 よく水気を絞ったのち、蕗やヨブスマソウの葉で包んで3~10日ほど寝かせ、醗酵させる。この醗酵作業を「オン」という。

3 オンさせたものを臼に入れ、よく搗き潰す。搗きあがったらこねてドーナツ状に丸め、乾燥させる。

4 紐を通して炉の火棚に吊るして貯蔵する。

食べる際は搗き砕いて水でもどし、団子にしてサヨ(粥)に入れる。

なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。

    《引用終了》

とある。サイト「門別・日高旅行 クチコミガイド」内の個人投稿苫小牧出張旅行静内地方のアイヌ文化の北海道日高郡新ひだか町のシャクシャイン記念館で撮られた、上から十七枚目のものが分かり易い。

「炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と」囲炉裏はアイヌ語で「アペオイ」という。ウィキチセ」によれば、『和人の民家の囲炉裏は家族の座る席が厳重に決められていたが、それはアイヌの住居も同様だった。アイヌ式の囲炉裏は長い薪を焚けるよう、内地の「木尻」に当たる西側の席が土間のままになっている。それを除いた三方に家族が陣取る。北西が主婦の席、北東がチセコロクル(戸主)が座るシソ(主席)、カムイプヤラを背後にした東側は客人が座るロルンソ(上座)、炉の南側はハルキソ(家族席)である。そのうち男子は南東側、女子は南西側に座る。就寝時の寝床も、ほぼこれに順ずる』とある。

「魚油」鰯・秋刀魚などから製した脂肪油。これは燃やさなくても、採取後、時間が経つと独特の生臭い悪臭を発する。

「真鯵」原文は“a horse mackerel”。これは北東大西洋沿岸及び地中海に分布し、本邦には棲息しないスズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属 Trachurus trachurus (流通名ではニシマアジ・ヨーロッパマアジ)を指す。本邦のマアジ属マアジ Trachurus japonicas ととって差し支えないなく、スケッチははそのようにも見える。しかし私はここで唐突にアジが出るのがやや気になるのである。しかもここまでモースは目の前に豊富にある乾し鮭に対して“salmon”という単語を一切使っていないことが甚だ気になるのである。実は驚くべきことに“salmon”という単語は本書の中では終わりから二つ目の「第二十五章 東京に関する覚書」の中に一箇所出るだけなのである(但し、それはアイヌ関連の収集に赴いた永代橋近くの古道具屋と思しい所で「私は鮭の皮でつくったアイヌの靴」を買ったというアイヌ絡みの叙述で出てくるのであるが)。なお因みに、個人ブログ「kiriya」の位置を与える、拾う、纂に、『「秋鰺(あきあじ)」は「ソウ」と発音される漢字の「鯵=鰺(あじ・ソウ)」であるが、「アイヌ語のチュクチェプ=秋食)」の和訳であるらしく、「秋、産卵のために川をのぼる鮭(さけ)の異名」で、北海道・東北地方では「アキあじ(秋鰺)」は「鮭・塩鮭の意」である』とあるのである。モースはもしかするとこの時点ではアイヌの人々が鮭としての「秋鰺」を語り、矢田部らの通訳がそれをそのままに伝えたために、鮭を鰺と誤認していたのではなかろうか? ただ、矢田部らが“salmon”という単語を知らなかったはずもないのだが……にしても全く“salmon”が出現しない原文も異様なんである。識者の御教授を乞うものである。

「鰾」アイヌの人々は本州人と同じように、鮭の鰾から膠を抽出して弓の張り合わせや接合に用いていた。]

橋本多佳子句集「紅絲」 童女抄 Ⅲ

  唐招提寺

 

夏雲の立ちたつ伽藍童女のうた

 

童女のうた伽藍片陰しそめけり

 

日を射よと草矢もつ子をそゝのかす

 

[やぶちゃん注:「草矢」は薄・茅(ちがや)・菅などの葉の太い脈を矢柄としてその両脇を矢羽根形に裂き、葉を指に挟んで投げ矢のように飛ばす遊び。小愚氏のブログ「五七五 大河の一滴」の「草笛や昭和を向いて吹いてみる」に写真がある。……ああ、草矢を最後に飛ばしたのはいつだったか……]

 

日を射つて草矢つぎつぎ失へり

 

  博と同じほどの男の子ひとり野に立てば

 

林檎齧る童子冬日を落しつゝ

 

日の翼冬蝶遊びほゝけたり

 

冬の蝶童女の顔をのぞきては

 

童女より冬蝶のぼるかゞやきて

 

鞦韆を漕ぎはげむ木々枯れつくし

 

童女の眉馥郁として雪を吊る

 

      註。炭のかけらに糸を結びつけて雪を吊る遊び

 

[やぶちゃん注:この遊び、私は知らなかったが、サイト「札幌の自然資料」の「雪つり」に可愛らしい絵とともにその遊びが紹介されてある。]

 

つまづきし如く忘れし手毬歌

 

息かくる一と羽(は)一と羽と羽子蘇(い)きる

 

突き了へて羽子を天より掌に享くる

 

童女走り春星のみな走りゐる

 

麻疹子(はしかご)の竝びて髪の長きが姉

キカンシャ   山之口貘

 キカンシャ

 

オトナノ

キカンシヤ

オオキナ

オカオ ダ

ハコニ

イツパイ

ミンナヲ ノセテ

ツヨイ

チカラ ダ

オトナノ

 キカンシヤ

テツノ

オカオ ダ

オオキナ

オカオ ダ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二二(一九四七)年六月号『こどものまど』。バクさんの現在知られる既刊詩集未収録詩篇の中で戦後最初の詩篇である。この前の二篇が同じ児童詩で、しかもあからさまな戦意高揚詩であったことを考える時、この「ミンナヲ ノセ」て強力に牽引する心強い鉄の塊のエクスタシーのバク進は、ゼロ戦と落下傘を轢き潰し轢き裂く、バクさん自身の解放であると同時に、バクさんの詩人としての孤独な秘かな禊ぎででもあったのかも知れない。

 本詩発掘の経緯については既に二〇一〇年十月二十五日附『琉球新報』記事を〇一四二十六ブログに記して、同記事内の同詩全篇も掲げてあるが、今回、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合(異同なし)した。]

オホゾラノ ハナ   山之口貘

 オホゾラノ ハナ

 

フンワリ

フウワリ

トビオリタ

ビックリ スルナヨ

ワルイ クニドモ

ボクラハ

オホゾラニ サキホコル

ニッポンテイコクノ

オホキナ

ハナ ダ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一八(一九四三)年九月号『コドモノヒカリ (9月20日航空日特輯)』で、前の「アカイ マルイ シルシ」とともにそれぞれ別な子供の絵とともに二篇掲載された。七歳の少年(底本とした思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題には姓名が掲載されているが、個人情報として問題があると思われるので載せない)絵(恐らくは落下傘部隊の)が添えられてあるらしい。旧全集との異同はない。前の「アカイ マルイ シルシ」とともに、バクさんの、現在知られるカタカナ表記の最も古い児童詩の一つであると同時に既刊詩集未収録詩篇中、最後の戦中の発表作でもある。

 両者が典型的な戦意高揚詩(それも少年向けという点で言い逃れの出来ない確信犯のそれ)であることは言を俟たない。但し、私はそれを以ってバクさんを批難する気は毛頭ない(しかし、先の「希望」で掲載誌に書き入れを残していたバクさんにとっては、この二つの紛う方なき戦争協力詩が自身の死後の全詩集に載ることは予期していなかったであろう。恐らくは旧全集が「児童詩」と称して第一巻の全詩集ではなく、第四巻の評論に所収したのにはそのような配慮が働いたからではなかろうか?)。私の『反戦詩』『反戦詩人』という語彙(というよりも戦後の評論家のレッテル)に対する違和感は既にバクさんの応召の詩の注で述べたので参照されたい。なお、この詩を読むと即座に思い出すのは、バクさんの盟友金子光晴の『反戦詩』として名高い落下傘」であろう(昭和一三(一九三八)年六月『中央公論』に発表。リンク先は「詩の出版社ミッドナイトエクスプレス」のアーカイブ同篇全詩が読める)。「落下傘」は確かにいい詩である。しかし私はこの詩に『反戦詩』の名号を奉って香を炷(た)く気には今も昔もさらさらないのである。]

ウォン ウィンツァンさん来たる

昨日、父のフェイスブック仲間でミュージシャンのウォン ウィンツァンさんが拙宅に遊びに来られた。

ウォンさんは思った通りの素敵な方であられた!

私のレベルの低い勝手なジャズ話にも応じて下さり、短い時間でしたが、素敵な時間をありがとう御座いました!


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2014/07/09

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) ⅩⅢ

 

しら雲に鷹まふ嶽の年惜しむ

 

皹の娘のほてる手に觸はられぬ

 

  水郷假泊

 

篦麻の實の眠るより初しぐれ

 

[やぶちゃん注:「篦麻」は「ひま」と読み、トウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ(唐胡麻)Ricinus communis のこと。ウィキトウゴマ」によれば、『種子から得られる油はひまし油(蓖麻子油)として広く使われており、また種にはリシン(ricin)という毒タンパク質がある』。属名の Ricinus 『はラテン語でダニを意味しており、その名のとおり果実は模様と出っ張りのためダニに似ている。トウゴマは栽培品種が多くあり、その植生や形態は個体によって大きく変化し、あるものは多年生で小さな木になるが、あるものは非常に小さく一年生である。葉の形や色も多様であり、育種家によって分類され観葉植物用に栽培されている』。『一属一種。原産は、東アフリカと考えられているが、現在では世界中に分布している。公園などの観葉植物として利用されることも多い』。種子は四〇~六〇%の油分を含み、『主にリシノリンなどのトリグリセリドを多く含む。トウゴマの種は紀元前4000年頃につくられたエジプトの墓所からも見つかっている。ヘロドトスや他のギリシャ人旅行者は、ひまし油を灯りや身体に塗る油として使用していたと記述している。インドでは紀元前2000年頃からひまし油を灯りや便秘薬として使用していたと記録されている。中国でも数世紀にわたって、内用・外用の医薬品として処方されている。日本では、ひまし油は日本薬局方に収録されており、下剤として使われる。ただし、猛毒であるリシンが含まれており、使用の際は十分な注意が必要である。特に妊娠中や生理中の女性は使用してはならない。また、種子そのものを口にする行為はさらに危険であり、子供が誤食して重大事故が発生した例もある』とある。]

アカイ マルイ シルシ   山之口貘

 アカイ マルイ シルシ

 

ミンナ

オコッ

ヒヲ フイタ

「ドチラガ カツカ

キミ シッテルカ。」

「シッテルヨ

アカイ

マルイ シルシノ

アル ハウダ。」

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一八(一九四三)年九月号『コドモノヒカリ (9月20日航空日特輯)』で、次の「オホゾラノ ハナ」とともにそれぞれ別な子供の絵とともに二篇掲載された。八歳の少年(底本とした思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題には姓名が掲載されているが、個人情報として問題があると思われるので載せない)絵(恐らくは日本の戦闘機と敵機の空中戦)が添えられてあるらしい。旧全集との異同はない。バクさんの、現在知られるカタカナ表記の最も古い児童詩の一つであると同時に既刊詩集未収録詩篇中、最後の戦中の発表作でもある。

 九月二十日は現在も「空の日」である。明治四三(一九一〇)年に徳川好敏・日野熊蔵両陸軍大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功したその三十周年及び紀元二千六百年を記念して昭和一五(一九四〇)年九月二十八日に制定された「航空日」にその起源を持つ。平成四(一九九二)年には「空の日」と改称され、また九月二十日から三十日が「空の旬間」とされて現在に至っている。九月二十日という日付に設定されたのには特別な意味はないが、三月十日の陸軍記念日や五月二十七日の海軍記念日が春に行われたために時期をずらして秋とし、その中から晴れの特異日を選んだものである、とウィキ日」にはある。]

希望   山之口貘

 希望

 

先生はいつも

教室を見渡した

そこには未來の學者がゐた

そこには未來の飛行家もゐた

そこには未來の大政治家や未來の船長や未來の軍人や

未來の職工さんや未來の畫家や

または未來の大詩人もゐた

どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ

ある日

先生はいつものやうに

希望に溢れて力のこもつた顏々の景色を見渡すと

洟(はな)をたれた顏がひとつ先生の眼にうつつた

先生はその不精を指さして

希望がよごれてしまひます

洟をかみなさい、とさう言つた。

 

[やぶちゃん注:初出は小学館発行の昭和一六(一九四一)年十一月号『國民六年生』。現在知られている詩群の中で、最も古い、少年誌に掲載された児童詩である。底本(思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」)の松下博文氏の解題によると、『山口家所蔵の掲載誌には』掲載後に『本文を推敲した跡が見られる』として、「未來の軍人や」の削除指示が示されてある、とある。松下氏は『掲載後、当該箇所を削除したいという作者の強い意思が働いていることに留意したい』と述べておられる。それに従って以下に削除したものを再現しておく。

 

 希望

 

先生はいつも

教室を見渡した

そこには未來の學者がゐた

そこには未來の飛行家もゐた

そこには未來の大政治家や未來の船長や

未來の職工さんや未來の畫家や

または未來の大詩人もゐた

どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ

ある日

先生はいつものやうに

希望に溢れて力のこもつた顏々の景色を見渡すと

洟(はな)をたれた顏がひとつ先生の眼にうつつた

先生はその不精を指さして

希望がよごれてしまひます

洟をかみなさい、とさう言つた。

 

ただ、その削除がいつ記されたものなのかは不明である。

 実は思
潮社版旧全集にも「第四巻 評論」の「児童詩」(何故、「第一巻 全詩集」ではなく、この巻に児童詩を配したのかが私には極めて不審である)の冒頭に載るが、そこには六箇所にも及ぶ有意な異同がある。以下に全詩を示す(無論、同様に恣意的に正字化している)。

 

 希望

 
先生はいつも

教室を見渡した

そこには未來の學者がゐた

そこには未來の飛行家もゐた

そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や

未來の職工さんや未來の畫家や

または未來の大詩人もゐた

どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ

ある日

先生はいつものやうに

希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが

洟(はな)をたれた顏がひとつ

先生の眼にうつつたのだ

先生はその不精を指さして

希望がよごれてしまひます

洟をかみなさい、とさう言つた。


 
異同箇所は、

①五行目「そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や」の「あるひは」の挿入
②同五行目「そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や」での「未來の軍人や」の削除
③十一行目「希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが」の「みんな」の挿入
④同十一行目「希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが」の「見渡すと」からの改稿
⑤十二・十三行目「洟(はな)をたれた顏がひとつ/先生の眼にうつつたのだ」の途中改行
⑥十三行目「先生の眼にうつつたのだ」の「のだ」の挿入

である。この激しい異同は何をもとにしたものなのか? しかもそこでは「未來の軍人や」が〈ちゃんと〉削除されている。が、その削除についての注記どころか、それ以外の異同の注記一切が旧全集にはない。初出がそうなっているという風に総ての読者がそう思うという点で旧全集の編集には大いに疑問がある。しかもこう削除したということはまさに新全集解題が示すところの掲載誌の推敲削除を旧全集編者が見て行ったものとしか思われないのである(希望は新全集解題を見ても初出以降の再録データはない)。松下氏もその論文で述べておられるように、旧全集の書誌的な杜撰さや底本の不明瞭さが垣間見れる部分である。]

更衣   山之口貘

 更衣

 

その少年はつねづね

ぼくの頭を撫でまはすやうに

ふらんす語などをしやべつたりして

おとなになつたらすぐにも

ふらんすへゆくんだと夢みてゐた

ところでまもなく

その夢が

すこしばかりの血を染めて

マジノ線から綻びた

そこで

ある日

少年が

おとなみたいな口振をして

ふらんすは案外スフだと云つた

おとなになつたらすぐにも

ふらんすへゆくのではなかつたのかとたづねると

ふらんすなんかごめんだと云つた

どいつへゆくのかとたづねると

どいつへゆくんでもないと云つた

えちおぴやはどうかとたずねると

少年はもじもじしてゐたが

スフのふらんすを脱ぎ棄てたのか

ろしやへゆくんだとそう云つた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一六(一九四一)年九月号『會館藝術』。この雑誌は発行所が大阪市北区中之島の朝日新聞社会事業団とある。創元社公式サイト内の高橋輝次氏の「古書往来」の「33.文化の器(うつわ)としての建物─ 富士映劇と朝日会館と ─」を見ると、この『會館』とは当時、中之島の朝日ビルの西隣りにあった朝日会館で、『大正15年に開館し昭和37年には閉館』したホールで、『常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演されていた』とあり、『會館藝術』はその会館誌であることが分かる。高橋氏によれば、『昭和6年6月に、B5判のアート紙で創刊され、舞台芸術全般の解説、情報や評論、それに小説やエッセイ、詩歌なども載せた内容で、全国的に人気があったという。戦時中はB6判となり、『大阪文化』『厚生文化』と改題し、戦争を挟み、十年位は『デモス』として続刊し、昭和27年11月号から再び『会館芸術』(B5判)に戻っ』て、『昭和30年代の閉館近くまで続いたのだろうか』と記しておられる。リンク先は当時の同誌や会館の活況がよくわかり、必読である。バクさんの詩が沖繩や東京以外の発行所から出された雑誌類に載るのはかなり珍しい。

「マジノ線」(フランス語:Ligne Maginot)は、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線。呼称は当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot)の名に由来する。ナチス・ドイツのフランス侵攻(マンシュタイン計画)によって本詩発表の一年前の一九四〇年五月十日に突破されてしまい、同年六月十四日にはドイツ軍がパリに無血入城した。

「スフ」絹に似せて作った再生繊維レーヨン (rayon)のこと。かつては人絹、ステープル・ファイバー(staple fiber:化学繊維を紡績用に短く切りカールした繊維。特に、ビスコース・レーヨンからつくったものを指す。)からスフとも呼ばれていた。ウィキの「レーヨン」によれば、『ニトロセルロースを揮発性の有機溶媒に溶かしたものをピロキシリンと呼ぶ。ピロキシリンは、その呼び名がギリシア語の pyr(火)とxylon(木)に由来したように燃えやすい化合物であった。ピロキシリンを小さい孔から噴出させると溶媒は瞬時に蒸発し、ピロキシリンの細い光沢ある繊維が得られた。これは最初の化学繊維で、1855年にフランスのイレール・ド・シャルドネ(Hilaire de Chardonnet)により「レーヨン」として特許が取得されているが、きわめて燃えやすく危険で、レーヨンのドレスを着た人間が火だるまになるという事故が続出し、第一次世界大戦前までには生産は中止された。その後燃えにくい繊維が開発され実用化されたので、ピロキシリンは原料として使用されなくなった。現在のレーヨンはセルロースそのものを再配列したもので再生繊維と呼ばれる』。因みにレーヨンは英語の光線(ray)と綿 (cotton) の合成語であるとある。

「えちおぴや」当時のエチオピアはウィキによれば、『1939年9月1日の第二次世界大戦勃発後後、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線(英語版)の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋』、『イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 14 アイヌの家屋(Ⅰ)

 

 壁には非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒、及びその他の狩猟器がかけてあった。小舎の内にあるものは、すべて煙で褐色を呈し、屋根や棰(たるき)は真黒である。床は大地そのままだが、坐る時には藁筵(わらむしろ)を敷く。我々が小舎へ入ると、彼等はきっと上の方の棰から巻いた筵を取り下し、それを地面に敷いて我々を坐らせた。筵には、茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある。

[やぶちゃん注:「非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒」これらの室内の掛物については後に図入りで示されてあるが、まずはウィキチセ」によって間取りを予習をしておこう(注記記号は省略した)。

   《引用開始》

以下、入り口が西側、神窓が東側に設計されたチセを例として内部構造を説明する。

入り口は寒気や風雨の侵入を防ぐため、セムという前室で覆う。このセムは玄関であり、道具の収納場所、雨天時の作業場でもある。家の北側は壁のみで、北東隅に和人地との交易で入手したイコロ(宝物)を納める宝物棚「イヨイキリ」が設けられる。シントコ(漆塗りの桶)、パッチ(木鉢)、オッチケ(膳)、エチュシ(湯桶)などの漆器やエムシ(宝刀)が麗々しく飾られており、その前の床は就寝が禁じられている。東側には前述のカムイプヤラが設けられ、東側から東南にかけての床は客人の就寝場所とされる。

家の南面には、採光用として2つの窓が設けられる。南東側の窓が「イツムンプラヤ」(対応の窓)で、南西側の窓がポンプヤラ(小さい窓)。家の南西隅は女性の席で、炊事もこの付近で行われる。そのため、ポンプヤラには「汚れ水を捨てる窓」という別名もある。

和人の民家の囲炉裏は家族の座る席が厳重に決められていたが、それはアイヌの住居も同様だった。アイヌ式の囲炉裏は長い薪を焚けるよう、内地の「木尻」に当たる西側の席が土間のままになっている。それを除いた三方に家族が陣取る。
北西が主婦の席、北東がチセコロクル(戸主)が座るシソ(主席)、カムイプヤラを背後にした東側は客人が座るロルンソ(上座)、炉の南側はハルキソ(家族席)である。そのうち男子は南東側、女子は南西側に座る。就寝時の寝床も、ほぼこれに順ずる。チセは基本的に一部屋のみだが、白老など道南地方では、年ごろの娘を抱える家庭に限ってトウンプ(娘の部屋)を家の南西側に増築した。これは娘を村の若者たちに公開することで、結婚相手を探し出すための配慮と考えられる。

チセの暖房設備はこの囲炉裏のみだが、一年を通じて焚かれる火の熱が床でもある地面に蓄積されるため、冬季でも案外暖かく過ごせるという。明治時代、開拓使は同化政策の一環として伝統的な日本建築の住宅を建て、アイヌを移住させた。しかし高温多湿の気候に向いた高床式建築で北海道の寒さに耐えられるはずもなく、体調を崩す者が続出。結局、その日本家屋の隣にチセを作り直し、そこで暮らしたという。

   《引用終了》

最後に記されてあるチセの絶妙な暖房効果については、「エコハウス研究会」公式サイトの地熱住宅研究員宇佐美智和子氏のアイヌの伝統民家「チセ」に、そのチセの構造の詳細に加えて、チセ復元による過酷な居住実験から微弱継続薪燃焼によって極寒を凌いでいたアイヌの人々の智慧が明らかにされている。必見!

「床は大地そのままだが、坐る時には藁筵を敷く」とあるが、ウィキチセ」には、『北海道アイヌのチセは、長方形の外郭が基本で、部屋数は一部屋のみである。踏み固めた地面に茅を敷き、さらにその上にキナ(ガマで織ったござ)を引いて床とし、茅で葺いた壁の上にはチタラベ(花ござ)で覆って仕上げている。床の中央部にアペオイ(囲炉裏)が切られ』るとある。

「茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある」「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイト内の花茣蓙を参照されたい。

 

 

M389

 

図―389

 

M390_391

 

図―390[やぶちゃん注:上図。]

 

図―391[やぶちゃん注:下図。]

M392


図―392

 

 アイヌの写生図の多くは、白老でやった。ここには相当大きなアイヌの村がある(図389)。アイヌの家屋は左右同形に出来ていて、畝のある藁屋根は非常に清楚で、このもしくさえある。私はアイヌの村をいくつか通りぬけたが、整頓線の形跡を見た事がなく、往来の場所さえもない。狭い、不規則な小径が小舎から小舎へ、草の間を縫っているが、開けひらいた場所もなければ、子供が遊んだと思われるような、地面を踏み固めた場所もなかった。多くの家の周囲には、家を建てた材料と同じ薹(すげ)、或は蘆を束にした、高い垣根がある。アイヌの家は、六年か七年しかもたぬそうである。部落には家が三、四十軒ある。すくなくとも我々は、この位の人家の村を多く見た。家の多くにはL字形のもの、即ち玄関がついていて、見たところをよくしていた。屋根には、水平の畝をいくつか重ね、別に傾斜の急な棟が一つ、垂直に二フィート近くもつき立った上に丸い棒がのっている物を、構成するような具合に、葺(ふ)いたものがよくある。この棒は棟の底部を横に貫く桁(けた)に、藁繩で結びつけられることによって、その位置を保っているらしい。この種の屋根は、私が日本で見たもののどれとも、全く異っている。図390は特殊な畝屋根を持つアイヌの家、図391は玄関のある別のアイヌ家屋、図392は玄関を大きく描いたものである。上にのっている熊手は、農業に使用するのではなく、海藻をかき集める粗雑な道具である。戸口から入る光線以外には、たった一つの四角い窓を通じて入るもの丈しかない。一軒の家には窓が二つあり、外側に粗末な板の鎧戸がかけてあった。

[やぶちゃん注:「アイヌの家屋」ウィキチセ」から「建築方法」を引いておく(注記号は省略した)。

   《引用開始》

構造材には周辺の山から切り出された木が使われる。プンカウ(ハシドイ)、ヤムニ(クリ)、トゥンニ(カシワ)、ランコ(カツラ)、ピンニ(ヤチダモ)、ケネニ(ハンノキ)などの腐りにくく加工しやすい木が選ばれるが、腐りやすいタッニ(シラカバ)、ヤイニ(ドロノキ)は避けられる。これと別に結合材として、ハッツ(ヤマブドウ)、クッチ(サルナシ)の蔓を大量に集める。

大地の神に建築の許可を得た予定地を地ならしし、原木は皮をはいで簡単に削り、太ければ割って木材に加工する。その上で、まず屋根から組む。地面の上でソペシニ(桁)とウマンギ(梁)を長方形に組んだ上に、2つのケツンニ(三脚)を立てる。ふたつのケツンニの上に横木を渡してキタイオマニ(棟木)とし、それに従って何本ものリカンニ(さす)を立てる。これで屋根の大まかな形が出来上がるので、そこにリカニ(垂木)を掛け、屋根葺き用のサクマ(横木)を張る。その後の行程にさしつかえなければ、ここで屋根を葺いても良い。

別進行で、柱の用意をする。地面を深さ70㎝ほどまで掘り、イクシペ(柱)を立てる。積雪の重みに家が耐えられるよう、先端を家の内側に傾けた「外ふんばり」の形状になるよう留意する。柱の先端はソペシニやウマンギを受け止めるため、Yの字型に窪みを入れておく。天然の股木をそのまま利用してもいい。家の外郭に沿って柱がすべて立てられ、すべての刻み面が水平で一直線であると確認されたら、建築参加者全員で先に組んだ屋根の部分を持ち上げ、柱の上に載せ、蔓で固定する。これで全体的な骨組みは完成する。なお、屋根を別に組んで柱の上に載せる工法は、小家族用の家・つまり人力で持ち上げられる重さの屋根のみに使用される。村長宅や集会場のような大型のチセの場合は、柱や梁を組み、そのうえで屋根を組む。しかし三脚を基本とした屋根の構造は同じである。

次に壁葺き、屋根葺きに入る。屋根は骨組みの上にスダレをかけ、そのうえから茅や笹を下から吹いてゆく。壁は柱の間に何本もサキリ(横木)を渡し、それを手がかりに葺く。

外郭が出来上がった後に、内部を造作する。家の中央に炉を設け、床にキナ(ござ)を敷く。壁もチタラベ(花ござ)で覆って装飾する。

その後に新築祝い(後述)が行われ、完成へといたる。

   《引用終了》

『新築祝い(後述)』とある「チセにかかわる儀礼」も非常に興味深いものなので併せて引用させて戴く。

   《引用開始》

チセを建造するに当たり、チセコッエノミ(地鎮祭)を執り行う。まず新しいスス(ヤナギ)を伐って三脚を作り、新居の囲炉裏となる部分に立てる。この三脚に炉鉤を吊るし、その下に薪の燃えさしを3本置く。この燃えさしは、戸主、建て主の旧居の炉から、アペフチ(火の女神)の許しを得ていただいて来たものである。分家を立てるなど、全くの新築である場合は一族の長老の家から燃えさしをもらう。
近隣にヌササン(幣場)を設け、大地の神、森の神、先祖の神にイナウを捧げると共に、家の建設と材料の譲渡を願って祈る。この三脚やヌササンはそのまま一週間ほど放置する。その間に何もなければそのまま建築に取り掛かるが、土砂崩れや洪水、火災に遭う夢を見た場合はその地での建築を諦め、別の場所で同じ儀礼を執り行う。

土地を選ぶことができない場合は、厄払いの儀式を行う。2人の長老がそれぞれ手にエンジュの木で作ったシュトイナウ(棒状のイナウ)を持ち、新居の神窓に当たる部分から出発し、家の外郭を一周する。

家が完成した後は、チセイノミ(新築祝い)を執り行う。炉に長老が火を入れてイナウを捧げ、神に家の安寧を祈る。その後に関係者や村人総出で酒宴を開き、祝う。儀式の最中、悪魔祓いとして屋根裏に矢を射掛ける。この矢がそのまま突き立てば、吉兆としてそのままにしておく。

老人、特に老女が死んだ折は、遺体を墓地に土葬したのちに故人の持ち物を家ごと焚き上げる。これをチセウフイカ(家焼き)、カシオマンテ(小屋送り)という。「女一人では、あの世で家を建てられないから」との考えで、家を来世に送るのである。この家焼きの儀式は火災の危険を案じた松前藩や明治政府によって何度も禁止令が出されたが、家の模型とともに故人の遺物を焼いたり、解体した家の残骸を類焼の心配が無い場所に運んで焚き上げることは昭和初期になっても行われていた。

   《引用終了》

「薹」この字は一般には「薹(とう)が立つ」で知られる野菜類で茎が伸びた状態を指したり、アブラナ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ Brassica rapa  変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera )の別名として用いられるが、それとは別にやはり古くから、菅笠の材として知られる単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属カサスゲ Carex dispalata のことをも指す。因みに 「跡見群芳譜」の「野草譜」のげ(によれば、植物学上は「スゲ」と呼ばれる植物種はなく、汎称としてカヤツリグサ科 Cyperaceae(莎草科)のうち、狭義にはスゲ属 Carex(薹草屬)の植物の総称、広義にはスゲ属 Carex(薹草屬)・ヒゲハリスゲ属 Kobresia(嵩草屬)・Schoenoxiphium 属・Uncinia 属の植物の総称であるとある。

「L字形のもの、即ち玄関」ウィキチセ」に、『入り口は寒気や風雨の侵入を防ぐため、セムという前室で覆う。このセムは玄関であり、道具の収納場所、雨天時の作業場でもある』とある。

「二フィート」約六十一センチメートル。

「丸い棒」先の引用の中のキタイオマニ(棟木)である。

「たった一つの四角い窓」ウィキチセ」によれば、『家の最深部の壁には、神聖な窓「カムイプヤラ」が設けられる。このカムイプヤラは神聖とされる東、あるいは山側、川の上流部が覗けるよう穿たれている。入り口はこの反対側に作られるため、チセの立地は地形の制約が無ければ東西、あるいは川の流路に平行である場合が多い』。『なお、カムイプヤラはカムイ(神)のみが出入りを許された窓であり、イオマンテなどの儀式の祭具もこの窓から出し入れする。この窓から他人の家を覗き見するのは、賠償を取られても仕方が無いほど無礼な行いとされた』とある。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 35 尾花沢 Ⅱ 這出よかひやか下のひきの聲

本日二〇一四年七月  九日(陰暦では二〇一四年六月十三日)

   元禄二年五月二十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月  九日

である。十泊した尾花沢の滞在七日目。本句は尾花沢滞在中の清風宅での印象をもとにものされた一句と見られるので、初日に次いで清風宅に招かれ饗応を受けて泊まった第一回目のこの日に配しておく。

 

這出(はひいで)よかひやか下のひきの聲

 

這出よ飼屋が下の蟇(ひきがへる)

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目「四季千句」(挙白編・元禄二年奥書)の句形で、後者が初案と思われる。なお、柿衛(かきもり)本「奥の細道」では、

 

這出てかひやか下のひきの聲

 

とするが、これは私には誤写としか思えない。

 「かひや」は「飼ひ屋」で、養蚕のために蚕を飼う小屋。蚕室。

 本句は既に述べた通り、「万葉集」の「巻十 秋相聞」にある作者未詳の第二二六五番歌、

 

 朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)に鳴く河蝦(かはづ)聲だに聞かばわれ戀ひめやも

 

や、同「巻十六 由縁ある雑歌」にある河村王(かわむらのおおきみ:伝未詳。)の第三八一八番歌、

 

 朝霞鹿火屋が下の鳴く川津(かはづ)偲ひつつありと告げむ兒(こ)もがも

   右の歌二首は、河村王の宴居(うたげ)

   の時に、琴を彈きて即ち先づ此の歌を

   誦(よ)み、以ちて常の行(わざ)と

   爲(せ)り。

 

をインスパイアしたものである。但し、この両歌の上五は語の続き方に未詳(講談社文庫版「万葉集」中西進氏)の部分があり、この「朝霞鹿火屋」は中西氏によれば、『朝霞のように山すそにたなび』く煙で、それは鹿火屋(作物を荒らす鹿や猪を追い払うために火を焚く番小屋から出るもの)、その小屋の下で鳴く蛙、その声のように、とする(他に『稲の先(かび)』(「牙」で植物の芽を意味する)。『を収める小屋の節もある』とあるが、他にも諸本「蚊火屋」「香火屋」等ともする。孰れにせよ、実はこれは芭蕉が用いた蚕室としての「かひや」の意ではないことが分かる。芭蕉はその不詳性を承知の上で俳諧に転ずるに措定されていた鹿を小さき蚕に、河鹿を大きな蟇蛙に転じたものであろうか。安東次男氏によれば(「古典を読む おくのほそ道」)、蚕が脱皮や蛹化の前に桑の葉も摂らず凝としていることを指す「蚕のねむり」という季語(春)があり、『蚕が上で眠に入れば蟇は下で目ざめる(片や繭ごもり片や冬ごもりから出る)、ということを目付とした句』とし、『無言で這い出した姿が夏の風物詩となる』とする。問題は蚕や蟇の声が春を想起させる語であることだが、安東氏はこれを「蟇の聲」が季語なのではなく、春にはあんなに鳴いていた蟇よ、この初夏に今一度鳴けと呼びかけたのが、改案決定稿になったとする。蓋し、名推理であろう。

 諸家は紅花摘みに加えて養蚕の時期で何かと忙しくする清風宅にあって、何の役にも立たぬ自身を、若しくは客でありながらふっと忘れ去られたような感じの己れを見出し、それを蟇に投影したものと採る。それも一理はあろう。

 しかし私は寧ろ、本句の元とした二つの和歌が孰れも、

……下で小さな声で鳴く蛙(かわづ)の声ように、その秘かなあなたの声さえ耳にすることが出来たなら、こんなにもならぬ恋に苦しむことはなかっただろうに――(二二六五)

……下でひっそりと鳴く蛙(かわづ)の声ように、「秘かにそっと慕っておりまする」と私に告げて呉れる娘がいたらよいのだがなぁ――(三八一八)

という焦れる恋を詠ったものであることにこそ着目すべきであると思う。即ち、この一句は次に出る、

 

まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花

 

の強く恋を連想させる艶句を引き出すために配されてある、配されねばならなかった「聲」であったのだと私には思われてならないのである。]

2014/07/08

神樂坂にて   山之口貘

 神樂坂にて

 

ばくさん

と呼びかけられてふりかへつた

すぐには思ひ出せないひとりの婦人が

子供をおぶつて立つてゐた

しかしまたすぐにわかつた

あるビルディングの空室でるんぺん生活にくるまつてゐた頃の

あのビルの交換手なのであつた

でつぷり肥つてゐた娘だが

背中の子供に割けたのであらう

あの頃のあのでつぷりさや娘さなんかはなくなつて

婦人になつてそこに立つてゐた

びつくりしましたよ

あさちやん と云ふと

婦人はいかにもうれしさうに背中の物を僕に振り向けた

あゝ

もうすぐにうちにもこんなかたまりが出來るんだ

僕はさう思ひながら

坊やをのぞいてやつたりした

しかしその婦人はなにをそんなにいそいだのであらう

いまにおやぢになるといふ

このばくさんに就てのことなんかはそのまゝここに置き忘れて

たゞのひとこともふれて來なかつた

婦人はまるで用でも濟んだみたいに

 中の物を振り振り

坂の上へと消え去つた。

 

[やぶちゃん注:終わりから二行目の一字空きはママ。これは初出の「背中」の「背」の脱字ではあるまいか?

 初出は昭和一六(一九四一)年七月号『文藝』。松下博文氏の解題によれば、この詩は「鮪に鰯」の編纂用の原稿用紙詩篇群の一つに原稿が含まれていることから、同詩集に『収録する予定であったか。しかし結果的には採用しなかったようだ』と記しておられる。

 この年の六月にバクさんには長男の重也君が生まれている。詩の言いっぷりからして、この詩は前年末辺りから同年五月以前の創作と考えられ、バクさんにしてはかなり早く、推敲が終了した部類の詩のように思われる(重也君はしかし翌昭和十七年七月に亡くなってしまう)。また、「あるビルディングの空室でるんぺん生活にくるまつてゐた頃」というのは以前に引用した「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』掲載)に、『もう二十年余りも前なのだが』、『両国駅のすぐ際に、両国ビルディングというのがあって、その中に住んでいた。住んでいたとはいっても、そのビルの倉庫とか、空室から安室へと転々としてその日その日を過ごしていたのである』というビルのこと、この『ビルとの関係は、昭和の四年か五年ごろからのことで、最初は就職のことからそこに住むようになったのであって、両国ビル二階のお灸と鍼の研究所に通信事務員の名目で、住み込みとして働くことになってからである。この研究所は後になってしんきゅうの学校になった』とあるビルのことであるから、この電話交換手との再会からは十一、二年の隔たりがある。発表当時、バクさんは満三十七歳である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 13 白老のアイヌの人々(Ⅱ)

M388

図―388

 

 彼等の小舎は非常に暗く、そしてまた非常にきたならしい。我々が入ると、彼等は我々が周囲を見ることが出来るように、樺の皮を播いた物に火をつけるが、この照明があっても、細部を見きわめるには、小舎の内はあまりに暗い。図388で私は内部にある色色な品物が、概してどんな風に排列されているかを示そうと試みた。品物といえば、実際数え切れぬ程沢山あった――包、乾魚をまるめた物、乾すためにつるした大きな魚の鰭(ひれ)数枚、弓、箭筒……。火の上には燻製するために、魚の身がひっかけてあった。寝る場所は部屋の一方を僅か高めた壇で、この壇の上に短い四本の脚のある、蓋つきの丸い漆群があった。これ等の箱は、日本人がアイヌ向きにつくつたらしく、どの小舎にもいくつかがあった【*】。これ等の中にアイヌは宝物を仕舞っておく。

 

 * ピーボディ博物館にはこの箱が三個ある。私は老若の著名な日本人に、これを何に使用すると思うかと質ねたら、返事は皆違っていたが、多数は文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱だろうと考えた。

 

[やぶちゃん注:「彼等の小舎」アイヌの伝統民家はアイヌ語で「チセ」と呼ぶ。続く文章で詳述される。

「乾すためにつるした大きな魚の鰭」鮭の鰭。「マルハニチロ」の公式サイト内の「サーモンミュージアム」の
アイヌ鮭」によれば、『乾燥鮭を切ったときに出るひれの部分はとっておいて、カムイノミ(神々への祈り)のときにきざんで火に燃やし、神のところに帰してやる』という神事に用いる一方、生の鮭の内臓や鰭は『桶や一斗缶などに入れて塩をしておき、冬期間にチタタプにして食べる』ともある(「チタタプ」とは『たたきのようなもの』を指すアイヌ語)。リンク先、非常に素晴らしいサイトである。必読。

「ピーボディ博物館」底本では直下に石川氏による『〔セーラム〕』と言う割注がある。ウィキピーボディ・エセックス博物館によれば、“Peabody Essex Museum”はマサチューセッツ州セイラムにある博物館。一七九九年にピーボディ博物館として『船長や船荷監督人たちよって東インド海員協会として設立された。その協会の会員は憲章によって喜望峰やホーン岬より先の地域で「天然および人工物の珍品」の収集を行うことが義務付けられた』。一九九二年に『ピーボディ博物館はエセックス研究所と合併してピーボディ・エセックス博物館となった』とある。モースは晩年館長及び名誉会長を務めた。現在でも主要な収蔵物の一つとして本邦の美術品がある。

「文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱」貝合わせ(正式なものは陰暦の一年の日数に擬えた左右一対三百六十組の彩色した蛤からなる)用の貝を入れる貝桶(グーグル画像検索「桶」)、ウィキ貝合には『明治維新前までは貝桶が上流社会の嫁入り道具の一であったという』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 13 白老のアイヌの人々(Ⅰ)

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図―383

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図―384

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図―385

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図―386

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図―387

 苫小牧からは、タルマエと呼ばれる、奇妙な山が見える。図383はそれをザッと写生したものであるが、これによっても蝦夷の不思議な形をした山の観念は得られる。ここにはアイヌの小舎が何軒かあったが、我々はそれを調べるだけの時間を持たず、その上次の夜の宿泊地はアイヌの村だと聞いていたのでシラオイへ向って進んだ。路は今や砂浜に沿うており、路それ自身が白くて砂地で、一方には絶間なく打ちよせる波が轟く広々した太平洋、他方には恐らくすべて火山性であろう所の奇異な形をした山々が見える。青色の眼鏡をかけていたにも拘らず、白い砂に反射する太陽はギラギラと目に痛く、数マイル行った時には、馬に乗っていることも単調になって来た。所々にアイヌの家が数軒かたまっていた。ある場所では一人のアイヌが、小さな女の子と男の子と、犬二匹とを連れているのを追い越した。子供達は全裸体で、女の子は頭帯によって包みを背中に負い、男は彼女の手を握って先に立っていた。男がノロノロしていて、女と女の子がすべての仕事をしているのは不思議に思われる。女は皆、見た所どっちかといえば粗野だが、親切で気がよく、態度は極端に遠慮深い。私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた。上述したように、彼らの口辺は必ず黒い区域で縁どられ、中には腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある。彼等がこの着色に使用する材料たるや、鍋の底の煤に過ぎぬことを、私はハッキリと知った。子供達は大きな眼と気持のいい顔を持っていて、欧洲人の子供に非常によく似ているが、極めて臆病で、はにかみやである。見知らぬ人がいると、女は習慣的に手を口に当てる。これは口の周囲の絵具を隠そうとするのだと思って見もするが、彼等にかかるこまかい気持があるとは信じられず、殊に子供迄がこの身振りをするに於ておやである。図384は頭帯で荷物を運ぶ女、図385はアイヌ女二人、図386は子供で、赤い布製の耳飾と、奇妙な形の垂前髪とを示し、図387は三人の子供が坐っている所である。彼等は暗い小舎にいて、我々がいた間、石像のようにじっとしていた。太い黒い毛を頭の周囲で真直に梳(くしけず)り、頸部で短く切り、耳の上に長く垂らし、前髪を大きく下げる。アイヌのある者の間には、絵に画かれることを恐怖する迷信があるので、私は彼等を写生するのに多くの困難を感じた。それで彼等を写生する時には何か別のことに興味を持っているような真似をし、彼等の注意が他方に向けられている時、チョイチョイ盗見をした。

[やぶちゃん注:モースが白老に到着したのは八月一日の午後六時で、翌二日の朝九時二十分に室蘭へむけて発っているが、この短時間の中で、実に二段組の底本で十ページになんなんとする(一六六~一七六頁)貴重な記録と多くの稀有のスケッチを残して呉れている。

「タルマエ」底本では直下に石川氏の『〔樽前〕』という割注が入る。樽前山(たるまえさん)。北海道南西部にある支笏湖の南側の苫小牧市と千歳市に跨る活火山。現在の標高は最高点の樽前ドームで一〇四一メートル。風不死岳(ふっぷしだけ)・恵庭岳とともに支笏三山の一つ。モースがスケッチした三十一年後の明治四二(一九〇九)年の噴火で山頂には巨大な溶岩ドーム(樽前山熔岩円頂丘)が出来たために現在の頂上及びそこから南西に延びる山容(図では左方向)は著しく異なってしまった。ウィキの「樽前山」に拠れば、『山名の由来は、アイヌ語で「タオロマイ taor-oma-i」(川岸の高いところ・〈そこに〉ある・もの)。一般的にアイヌは山に山そのものを指す名前を付けず「これこれという川の上流(水源)の山」という名づけ方をすることが多いので、この言葉は現在の樽前山そのものを指すのではなく、樽前山の南側を下る現在の樽前川を指した言葉である可能性が高く、その水源として樽前山という名になったと思われる』とある(現在の支笏湖湖畔からの同ウィキの写真はこちらで、その反対位置のモースが見たものに近い白老からの写真はこちら)。

「シラオイ」底本では直下に石川氏の『〔白老〕』という割注が入る。現在の胆振総合振興局白老郡白老町(しらおいちょう)。町名はアイヌ語の「シラウオイ」(アブの多い所)に由来する。『この地には日本人が入植するはるか以前から、アイヌコタン(アイヌの大集落)があった。 古文書にもいくつかのコタン名が記載されており、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいる』。幕末の安政三(一八五六)年には『仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設した』が、『戊辰戦争勃発により仙台藩は撤退、その後明治政府により陣屋は解体され、代わりに開拓史出張所がおかれた。 戦前は単なる一寒村で産業にも乏しかった』と参照したウィキの「白老町」にある。

「頭帯」アイヌ語で「タ」と呼ぶ背負い繩。詳細と原物の写真を「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイトのこちらで参照されたい。

「私が見たアイヌ女の殆ど全部は、子供が耻しがる時にするように、頑固に手を口に当てた」「女は習慣的に手を口に当てる」全くの直感だが、これはアイヌの女性や子供(図385はまさにその仕草を写している)に特有の(モースは書いていないが男性はこの仕草をしないと考えられる)、何か口に纏わる霊的な一種の呪(まじな)いなのではなかろうか? アイヌの信仰や習俗にお詳しい方の御教授を是非とも乞うものである。

「腕に、腕環みたいな環を連続的に描いたのもある」浅川嘉富氏のサイトの「アイヌと琉球人の源流」のページが画像・解説ともに面白い(但し、同氏はムー大陸の存在を肯定する立場に立った独特の論展開をなさっているので、そこに免疫のない方はアイヌの手(腕だけでなく手の甲・指にも彫られた)の刺青部分の写真を見るだけに止めておいた方が無難とは思われる)。この『女性の腕や指にかけての刺青は』七~八歳『になる頃から母親同伴で彫師の元に通いながら婚礼までに少しずつ彫り進めてゆく習慣があった。女性の手指の刺青は家事や裁縫などが上手になって無事に立派な家庭を持つ事が出来るよう、嫁に出す側の親の願いが込められた婚礼道具のような性質のものであった』とウィキアイヌ文化」の「刺青」にあり、そこにはまた『衣服に隠れる身体にも、美しく神聖な蛇の表皮の模様が施されていたが他人には見せてはならぬものとされた。腕から指にかけての刺青は他人も見ることができた』ともある。

「絵に画かれることを恐怖する迷信がある」写真を撮られると魂が抜き取られるといった、しばしば見られるところの類感呪術的理由であろう。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 烏稔 (イガイ科類)

 

烏稔 淡菜ニ似テ小ナル貝ナリ又沙箭ト名ツク福州

ニテ烏稔ト云閩書ニ出タリ又漳州府志ニ引通志曰

狀如淡菜而絶小生石上曰烏粘コレモ閩書ニイヘル

烏稔ト一物ナリ本邦海邊石ノ間ニ生ス小ニシテ不可食

○やぶちゃんの書き下し文

烏稔〔(からすがひ)〕 淡菜に似て小なる貝なり。又、沙箭〔(させん)〕と名づく。福州にて烏稔と云ふ。「閩書〔(びんしよ)〕」に出でたり。又、「漳州府志〔(しやうしふふし)〕」に「通志」を引きて曰く、『狀〔(かた)〕ち、淡菜のごときにして絶(はなは)だ小なり。石上〔(せきしやう)〕に生ず。烏粘〔(うねん)〕と曰ふ。』と。これも「閩書」にいへる烏稔と一物なり。本邦海邊の石の間に生ず。小にして食ふべからず。

[やぶちゃん注:前項のイガイ Mytilus coruscus は和名異名として「カラスガイ」の別称を持つが、甚だ小さく食うに足らないという叙述、海辺の石の間(潮下線下ととれる)を棲息域とするなどから、私は少なくとも益軒の言うのは、イガイと一見形状が似ているが、遙かに小さい別種、例えばイガイ科 Septifer 属クジャクガイSeptifer bilocularis 、同属ミノクジャクガイ Septifer bilocularis pilosus 、同属ムラサキインコ Septifer virgatu 、イガイ科ヒバリガイ亜科ヒバリガイ Modiolus nipponicus 、イガイ科 Trichomya 属ケガイ Trichomya hirsuta などを指していると推定する。因みに、これらは身を食うには足らないが(食おうと思えば食える)、出し汁などを採るには十分に利用価値がある(但し、これらは勿論、イガイ類は食用種を含めて全般に有意に重金属が生物濃縮されていたり、麻痺性貝毒を持っているので食用にするには極めて注意を要する)。なお、本邦の在来種にはイガイとは別に、イガイよりやや小振りの北海道太平洋岸のみに分布する(世界的には北緯四五度以北)北方系種であるキタノムラサキイガイ Mytilus trossulus 、逆にイガイより大型の東北から北海道にかけて分布する同じく北方系のエゾイガイMytilus ( Crenomytilus ) grayanusがある。近年我々が盛んに食するようになった私も好きなムール貝、地中海原産のムラサキイガイ Mytilus galloprovincialis は北海道南部以南に広く生息するようになったが、これは本来は本邦に棲息していなかった(益軒の時代にはいない)外来侵入種で、近代になってバラスト水に含まれる浮遊幼生や船底・船荷などに付着していた個体などによって世界中の温帯域に拡散してしまったものと考えられている(一部、ウィキイガイ属」を参考にした)。因みに、国立国会図書館蔵の同本には頭書部分に旧蔵本者の手になると思われる手書きで、

淡菜ノ五六分アルモノニシテ岩面ニヒシトスキマナク付生ス 俗マリコト云※(クハ)ヲ以テヘギトリクサラカシテ田ノ糞(コヘ)トス烏稔ハ疑クハ此ヲサスカ

とある。「※」は(へん)は「金」であるが(つくり)が判読出来ない。「マリコ」という異名は現認出来ない。

「烏稔」この表記は未詳であるが、「雀、海中に入って蛤となる」といった中国古来の化生説にあるように、これは「烏」が海に入って烏貝に「稔」(な)るという意味ではあるまいか?

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「漳州府志」清の乾隆帝に成った魏荔彤(ぎれいとう)によって書かれた福建省の地誌。

「通志」南宋の福建出身の鄭樵(ていしょう)の撰になる歴史書。]

2014/07/07

大和本草卷之十四 水蟲 介類  淡菜(イガイ)

 

淡菜 海中ニアリ延喜式ニ貽貝ト云是ナルヘシ東海及筑

紫ノ海ニ多シ※カヅキテトル本草ニ一名東海夫人ト云ソ

ノ形ヲ以名ツクトイヘリ日華曰雖形狀不典ト云ニヨク

[やぶちゃん字注:「※」は「蜑」の上下を左右(虫偏)とした字体。書き下し文では「蜑」を用いた。]

合ヘリ嫏嬛記ニ余皇日疏ヲ引テ文囓似女陰味頗

可也文囓ハ即淡菜トイヘリ本草ニ先煮熟シテ後毛

ヲ去テ再タイコン紫蘓冬瓜ナト加ヘテ食ストイヘリ

味ヨク性ヨシ乾シテ食スルモヨシミルクヒト訓スルハ非ナリ

ミルクヒハ西施舌ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

淡菜(いがい) 海中にあり。「延喜式」に『貽(い)貝』と云ふ、是れなるべし。東海及び筑紫の海に多し。蜑(あま)、かづきてとる。「本草」に『一名、東海夫人と云ふ。その形を以つて名づく。』といへり。日華が曰く、『形狀、不典〔(ふてん)〕なりと雖も』と云ふに、よく合へり。「嫏嬛記〔(ろうけんき)〕」に「余皇日疏」を引きて、『文囓〔(ぶんげつ)〕は女陰〔(ぢよいん)〕に似、味、頗る可なり。』と。『文囓』は即ち、淡菜といへり。「本草」に先づ、煮熟して後、毛を去りて再びだいこん・紫蘓・冬瓜〔(とうがん)〕など加へて食すといへり。味、よく、性、よし。乾して食するもよし。『みるくひ』と訓ずるは非なり。『みるくひ』は西施舌なり。

 

[やぶちゃん注:斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイMytilus coruscus 。属名“Mytilus”(ミティルス)は同属のヨーロッパ産のムール貝(ムラサキイガイ Mytilus galloprovincialis )を意味するギリシャ語“mitylos”に由来。因みに英語の“mussel”はギリシャ語の鼠を意味する“mys”を語源とする。参照した荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」の「イガイ」の記載によれば、『殻の形や色が鼠を思わせるためか』とある(なお、“mussel”はイガイ科 Mytilidae の(ムラサキ)イガイ類を指す以外に、別にイシガイ科 Unionidae の淡水産二枚貝の総称でもあるので注意が必要。私の日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 8 札幌にて(Ⅴ)を参照されたい)。因みに、国立国会図書館蔵の同本には頭書部分に旧蔵本者の手になると思われる手書きで、

下品也

と記されてある。

「淡菜」は淡白なおかずの謂いであろう。こういう字が当てられていること自体、本種が「延喜式」にさえ載るように古くから広く食用に供されていたことを示す。

「貽貝」「爾雅」の「釈魚」に『玄貝、貽貝』(玄貝は、貽貝)とあるように、中国では古えより広く黒色の貝を示す語であった。

「かづきて」「潜(かづ)く」で水中に潜って、の意。

「東海夫人と云ふ。その形を以つて名づく」イガイは外套膜から殼頂附近で多くの足糸を出して自分の体を岩などへ固定するが、これが陰毛に似ており、また衰弱個体が貝を開いて外套膜や肌色の内臓を覗かせたりした全体の状態が人の女性生殖器によく似ていることからかく呼んだ(実際によく似ていると私も思う。初めて見たのは高校二年の遠足で行った石川県の松島水族館の小さな貝類標本室であった。無論、その時の私は比喩対象されるその元を見知ってはいなかったが、「ニタリガイ」と手書きの解説が附されていて、誰も見に来ないその部屋でドキドキしながら観察したのでよ~く覚えているのである)。本邦でも「ニタリ」「ニタリガイ」「ヒメガイ」「オマンコガイ」「オメコガイ」「ボボガイ」「ソックリガイ」「ツボ」「ヨシワラガイ」などの超弩級に猥褻な異名を多数持つ貝である。

「日華」北宋の大明の撰になる「日中華子諸家本草」。散逸したが、その内容は後の「本草綱目」等の本草書に引かれて残る。

「不典」不作法。ここはイガイの形状が猥雑なことをいう。

「嫏嬛記」元の伊世珍撰の小説。瑯嬛記とも書くようである。

「余皇日疏」不詳。

「文囓」中文辞書サイトに『淡菜的』とある。何故、この字を当てるのか、ちょっと興味がある。貝殻の成長線を「文」=紋とし、足糸で固着する習性を「囓(か)む」としたものか。

「紫蘓」紫蘇。

「冬瓜」は古くは「とうぐわ(とうが)」と発音した。

「『みるくひ』は西施舌なり」異歯亜綱バカガイ超科バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイTresus keenae 。漢字表記では「海松食」「水松食」で所謂、通称のミルガイのこと。「西施舌」は一応、その漢字表記とする(但し、今回中文サイトを調べてみると少なくとも現代中国では「西施舌」はバカガイ科 Coelomactra 属アリソガイCoelomactra antiquata を指している)。益軒先生、またしても大正解!]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 二 解剖上の別 (2)

 蛙も魚類と同じく體外受精をするものであるが、産卵の際に雄が雌に固く抱き附いて居るから、恰も交尾して居るかの如くに見える。しかしてかく抱き附くのは一種の反射作用であつて、産卵期に雄の腹の皮膚を撫でると、何物にでも抱き附くのみならず、一旦抱き附いたものは、腦髓を切り去つても決して離さぬ。俗に「蛙の合戰」と名づけるのは産卵のために多數の蛙の集まつたのであるが、かゝる際には雄の蛙に固く締められて死ぬものが澤山に出來る位である。雄が長く抱き締めて居る中に雌は必ず産卵するが、それと同時に雄は精蟲を出し、しかる後に腕を緩め雌を離して、また自由に生活する。されば卵と精蟲との出會ふのは親の體外であるが、兩親が密接して同時に生殖細胞を出すから、卵が受精せぬ虞は少しもない。「ゐもり」も水中で産卵するが、この類では受精は雌の體内で行はれる。但し精蟲が雄の體から直に雌の體へ移されるのではなく、雄がまづ水底に精蟲の一塊を産み落とすと、雌が後からこれを肛門で銜へ、自身の體内へとり入れる。「ゐもり」は卵を一粒づつ遠く離して、水草などに産みつけるが、體内で受精が濟んで居るから、かゝることが隨意に出來る。もし蛙のやうに雄が始終抱き附いて居たら、これは到底出來ぬことであらう。

 

 鳥類は他の陸上動物と同じく、受精はすべて雌の體内で行はれる。生まれた卵は已に受精後何時間かを經たものである。水中と違うて、精蟲は雄の體から必ず直接に雌の體に移されねばならぬが、普通の鳥類の雄には精蟲を雌に移し入れるための特別な器官もなく、また雌にこれを受けるための裝置もない。それ故精蟲を移し入れるに當つては、雌雄はたゞ生殖器の出口なる肛門を少しく開いて、暫時互に壓し合すに過ぎぬ。その狀は恰も肛門で接吻する如くであるが、かくすれば蛙や「ゐもり」の場合と違ひ、精蟲は少しも外界に觸れず、無駄なしに全部親の體から體へと移り得る便がある。

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 12 二種類の犬のこと

 この地方の犬は、二種類にわかれている。その一種は、形も色もエスキモーの犬に似ているが、他の種類は色、形、動作、房々した尻尾等が、殆ど全く狐みたいである。若し狐と犬との混血児をつくることが出来るものならば、この種の動物には確かに狐の血が入っている。どの部落にも一群の犬がいる。夜になると彼等は、猫に似て、猫よりも一層地獄を思わせるような音を立て、甚だ騒々しい。彼等は唸ったり号泣したりするが、決して吠えぬ。ダーウインは彼の飼馴動物の研究に於て、薫育された状態から半野生の状態に堕落した犬は、吠えることを失い、再び唸るようになると観察した。犬と関係のある野生動物は決して吠えず、唸るだけである。

[やぶちゃん注:「この地方の犬は、二種類にわかれている」最初の「形も色もエスキモーの犬に似ている」というのは東北地方から近世近代に移入された秋田犬の原種と目される「秋田マタギ」と呼ばれるマタギ犬(山岳狩猟犬)、後者の「色、形、動作、房々した尻尾等が、殆ど全く狐みたい」な犬というのは、そのマタギ犬の祖形である縄文犬が縄文初期の古い時代に縄文人によって東北地方から北海道へ渡る際に同伴されて移入されて(異説もある。リンク先を参照されたい)独自に変異した北海道犬のことを指しているように思われる。アイヌは古くからこの後者の北海道犬を「セタ」と呼び、ヒグマやエゾシカの獣猟に用いてきたとウィキ北海道犬」にあるから、モースの「どの部落にも一群の犬がいる」という叙述と合致し、「決して吠えぬ」というのが、吠えない訳ではないものの北海道犬の特徴として無駄啼きをしないという特徴とも一致するように思われる。また、同ウィキの写真の体毛の色や特徴として挙げてある『三角形の小さな「立ち耳」』『目尻が吊り上がった、三角形の小さな目』『背中の上に巻いた「巻き尾」、あるいは半円状の「差し尾」』というのは遠目に見た場合、狐に似ていると言えなくもないように私には思われる。

「ダーウインは彼の飼馴動物の研究に於て、薫育された状態から半野生の状態に堕落した犬は、吠えることを失い、再び唸るようになると観察した」これはダーウィンの“The Expression of the Emotions in Man and Animals” (一八七二年刊・「人及び動物の表情について」)に拠る記載と思われるが、私の持つ邦訳書(一九三一年岩波文庫刊・浜中浜太郎訳)を管見した限りでは、今のところ、ぴったり一致する箇所を見出せないでいる。かなり近い叙述は「第四章 動物の表情手段」の冒頭近くに出る以下の箇所である。

   《引用開始》

中には、憤激した時、其威力と残虐とによつて敵を畏怖させようと努めるものもある。ライオンの咆哮、犬の唸りの如きがそれである。私の推察では、彼等の目的は畏怖せしめるにある。何故かといへば、ライオンはそれと同時に鬣(たてがみ)を立て、犬は背部に沿うた毛を逆立て、かくして出来る丈自分の身體を大きく且つ恐ろしく見せるからである。敵同士の牡は聲(こゑ)によつて互に相手を負かし、挑まうとし、之がために猛烈な鬪爭となる。斯様にして、聲は、それが如何やうに起されるにしても、その使用は憤怒の情緒に聯合して了ふのである。吾々は又、烈しき苦痛も亦激怒のやうに猛烈な怒號を惹き起し、叫喊することそれ自身が何程かの救苦と成ることを見たが、かくして音聲の使用は如何なる種類の苦痛とも聯合して了ふのである。

 色々な情緒や感覺の下にさまざまな音聲が發せられる原因は、甚だ不明な論題である。又種々の音聲には何等か著しい相違があるといふ法則は常に必ずしも妥當しない。例へば、犬の場合に、憤怒の吠聲と喜びのそれとは、區別は出来るが餘り違はない。そこで、種々な心の狀態に於けるそれぞれの特殊の聲の原因若くは源泉を精密に説明することは到底出來さうもない。動物の中には、飼馴らされた後、彼等にとつて自然でない音(おん)を發する習慣を収得したものゝあることを吾々は知つてゐる[やぶちゃん注:底本ではここの右に原注記号が入るが省略する。]。飼養された犬や馴らされたジャッカルさへも、吠えることを習得したのは其例である。吠聲は犬屬の如何なる種にも固有しない音であるが、但し北アメリカのカニス・ラトランス(訳者註、吠える犬の意)は例外で、吠えるといはれる。飼鳩の中でも或種族は新しい全く特異の鳴き聲を收得している。

   《引用終了》

(訳注は底本ではポイント落ちの二行割注)。「カニス・ラトランス」は食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科イヌ属コヨーテ Canis latrans のことである(コヨーテの声は“Coyote soundsで。……普通聴くことが出来ないものだが……いや、なかなかですな)。ここを熟読すると、モースが述べているように、ダーウィンは犬は本来、野生状態では所謂、「ワンワンワォー」とは吠えずに「ウーッ」と唸るのが正常であるということ、それが「薫育された状態」になるとお馴染みの「ワンワン」という吠え方を「收得」するのだと考えていたことが分かり、そこから「ところが半野生の状態に堕落した犬は、吠えることを失い、再び唸るようになる」という観察(これは私の推定であるが)を引き出すことも出来るように思われる。向後ぴったりの箇所を発見したら、この注はリライトする。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 11 苫小牧の魚見台と船の巻き揚げ機

M381
図―381

M382

図―382 

 沿岸いたる所、間をおいては(というよりも、小さな部落の各々に)、高い竿の上に建てられた、一種の粗末な見張場がある。これは漁夫が遠くの魚群を見たり、夜燈火を燃やしたりするのに使用する。図381は苫小牧にあるこれ等の見張場の一つを示している。一番上の粗雑な小屋がけは、難破船の破片あるいは、海岸に打ち上げられた他の不揃いな材木で、つくったらしく思われる。海岸で見受けるもう一つの特徴ある造営物は、水から舟を引き上げる為の巨大な捲揚機(まきあげき)である(図382)。

[やぶちゃん注:「見張場」魚見小屋・魚見台と呼ばれる建物である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 10 和船

M378_379


図―378[やぶちゃん注:上図。]

図―379[やぶちゃん注:下図。]

M380

図―380 

 海岸には戎克(ジャンク)の型をとって造った、長さ二十五フィートの日本の漁船が一艇あった。生地そのままの木材は、清潔なことこの上なく、舳と船尾とに黒色の装飾的意匠がすこしついている。この型の船の奇妙な特徴は、船尾にある舵のための大きな空所で、これは日本の戎克すべてに共通な特異点である。前にもいったが、櫂架(かいかけ)はなく、単に短い繩の環が舷から下り、これに捧をさし通す。舳(へさき)のすぐ内側には、鉋屑を束にしたものが下っている。これは危険を避け、或は好運を保証する効果を持つと考えられる物であるが、恐らくアイヌの鉋屑の「神棒」から来たのであろう。神道の御幣は「神棒」から出来たものとされている。この舟はまるで荷物細工みたいに出来ていた。合目(あわせめ)は実に完全で、私が注意深く写生せざるを得ぬ程清潔で奇麗であった。図378は船尾から舟を見た所、図379は横から船尾を見た所、図380は舳である。舟には大きな捕魚網が積まれ、潮が満ちて来て浮き上るのを待っている。

[やぶちゃん注:「二十五フィート」七・六二メートル。

「櫂架」底本では「櫂」が「擢」であるが、この字には「櫂」の意味はない。誤植と断じて、訂した。

「鉋屑を束にしたもの」削り掛け。ヤナギやニワトコなど白い木の肌を薄く細長く削り垂らしたもの。紙が普及する以前は御幣として広く用いられた。

『アイヌの鉋屑の「神棒」』既注のイナウ。イナウは北方民族に広く見られる神器(供物)と思われ、私は黒沢明の「デルス・ウザーラ」で先住民ゴリド(現ロシア名:ナナイ)族の猟師デルス・ウザーラが全くそっくりなものを創るのを見て思わず膝を打ったものだった。]

橋本多佳子句集「紅絲」 童女抄 Ⅱ

  父逝きし洋子よ博よ

 

帰りゆく人のみ子等と蝸牛

 

[やぶちゃん注:「洋子」「博」多佳子の孫(長女敦子の?)と思われ、年譜上の記載からはある程度の推測は可能であるが、不詳としておく。]

 

後ろ髪涼しき子かな母へかへす

 

寝冷子の大きな瞳に見送られ

 

日焼童子洗ふやうらがへしうらがへし

 

啼きひゞく蟬を裸子(はだかご)より受けとる

 

裸子いかに抱かむ泣きわめくを

 

女童泣き男童抱く虹の下

世紀   山之口貘


 世紀

 

まはれ右の出來ない

血眼の世紀よ

なにをその眼で見たいのか

背にはいくつもの重い荷を負ひ

世紀よ

おまへは血眼で

前へ

前へとつんのめつた。

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年十二月号『文藝』。バクさんはこの二ヶ月前の八月、国文学雑誌『むらさき』の編集長小笹功氏の斡旋でむらさき出版部より処女詩集「思辨の苑」を刊行している。バクさん三十五歳。]

秋の常盤樹  山之口貘

 秋の常盤樹

 

私がなんにも言はないうちに

みんなが言ひました

 

冬は

さむい と言ひました

春は

あつたかい と言ひました

夏は

あつい と言ひました

秋は

すゞしい と言ひました

 

あゝ

私が

着のみ着のまゝでゐるうちに

もはや

みんな

紅葉です

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一二(一九三七)年十月号『むらさき』。。この十月、バクさんは安田静江さんと見合いをして、同年十二月に結婚した。バクさん、三十四歳の秋であった。

東の家と西の家   山之口貘

 東の家と西の家

 

貸した畠はそのまゝ貸しっ放しで

地主のものでなくする仕組みなのだと

農地法の改正をひそかに

西の家では憎まずにはいられなかった

借りた畠はこのまゝ借りつ放しで

小作のものにする仕組みなのだと

農地法の改正をひそかに

東の家ではよろこばずにはいられなかった

 

ある日 神にそゝのかされて

どちらもじっとしていられなかった

西の家ではたとえ法が

どのように改正されたにしても

貸したものは貸したものなので

畠を返してもらいたいのだとかけ合った

東の家ではたとえ義理が

どのようになったにしても

法は法なので勝手に

畠を返すわけにはまいらぬと出たのだ

そこで話はもつれたのだが

神に消しかけられて

たがいに腹を立てたのか

この恩知らずめがとのしかゝれば

なにをこのばかやろと立ちあがって

もみ合い離れたり

なぐり合ったりなのだ

 

しかし軍配はどちらにもあがらなかった

東の家は頭の瘤をおさえたり

西の家はびっこをひいたりして

畠のまわりにうろついた

 

ところがまたしてもある日

ふたりは神にそゝのかされたのか

東の家では借りたその畠を

返すと言って申し出たのだが

西の家では貸したその畠を

返すには及ばぬと言い出したのだ

東の家ではそこでまた

法が法なのでこの間はつい

失礼なことをしでかしてしまったのだが

考えてみると借りは借りなので

畠はお返ししたいと出たわけなのだ

西の家でもそこでまた

貸しは貸しなのでこの間はつい

やむを得ないことをしてしまったのだが

考えてみると法が法なので

畠は返すに及ばぬと出たわけなのだ

いかにも事体は一変してしまい

いまはたがいにゆずり合って

なんともなごやかに見えることは見えるのだが

まったく意地のわるい神もあるものだ

畠はほしくてもいまにその畠に

かゝつてくる筈の税金に恐れをなして

どちらもひそかにその畠を

如何に手放すかを争っているからなのだ

 

[やぶちゃん注:本詩は詩集「鮪に鰯」には所収せず、旧全集にも所収しない。以下に示す初出以外では、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」で初めて公に活字として読むことが可能となった詩篇である(既に画像では沖繩県立図書館公式サイトの「山之口貘文庫」の「東の家と西の家」[山之口貘自筆原稿] A-Cで視認することは出来た)。ここでは同新全集の清書用原稿による本文を底本とした(将来的にはリンク先の原稿の視認電子化も行いたいと考えている)。同新全集では編者の松下博文氏に考証によって「事故」「がじまるの木」の間に配されてある。考証の詳細は同新全集解題を参照されたい。

 初出は昭和二八(一九五三)年六月号『新潮』である。

 因みに詩集「鮪に鰯」には内容の異なった、しかし、同一の描写対象を素材としたと判断し得る、題名も相似した西家」(初出。昭和二七(一九五二)年三月一日発行の三月特別号『群像』)と家」(初出・昭和二三(一九四八)年七月号『改造』)とが載っている。松下氏の解題には本詩が未収録となった『委細は不明』とある。可能性としては本詩「東の家と西の家」が発表された際にこの東西の家の孰れかの関係者が当該の詩を当事者の誰かに伝え、バクさんが直接間接に文句を言われたか、若しくは一見、あまりに露骨な個人への皮肉と中傷が含まれているように見えるところから、妻の静江さん辺りから注意されたかして、最終的にバクさん自身が掲載を取りやめたものかも知れないが、だとすればそうした皮肉をやはり個別に強く含んでいる「西の家」も「東の家」も外すとも思われ、確かに松下氏のおっしゃるように詩集未収録の真意は藪の中と言える。

 この詩は沖縄県立図書館の「山之口貘文庫」の「東の家と西のの山之口貘自筆原稿群の解説によって、昭和一九(一九四四)年から昭和二十三年までの四年間バクさん『一家は空襲の激しくなる東京を離れて茨城の妻の実家に疎開し』、戦後も暫くそこで過ごしたが、『この作品はそのときの見聞をもとにした作品で』あることが判明する。リンク先は実に二百二十一枚に及ぶこの草稿なのであるが、松下博文氏は『戦後すぐに実施された農地改革に伴う〈地主〉(西の家)と〈小作農〉(東の家)の土地所有をめぐる争いを、〈法〉〈恩〉〈義理〉〈税金〉をキーワードにシリアスに描いています。改革の目的は、農業に従事していない大地主から土地を強制的に買い上げ、それを小作農に売り渡し、小作農が自らの農地で自活できるよう、地主と小作農の格差を埋めることでした。小作農は土地を貰い、地主は強制的に土地を取られるのですから、地主は納得できません。〈西の家〉の地主は〈恩〉と〈義理〉を持ち出し〈東の家〉の小作農を説得します。そしてついに、小作農は地主の説得に折れ、土地の返却を申し出ることになりました。しかし今度は、地主は返却には及ばないと申し出を断ります。〈法〉によって土地に〈税金〉が課税されることを知ってしまったからです』と非常に分かり易く纏めておられる。同解説には『この作品は遺稿集『鮪に鰯』に収録される予定でした。現存する『鮪に鰯』編纂用清書原稿の中に作品が収められていることからも明らかです。しかし詩集編集作業の折、何かの手違いで収録から漏れてしまいました。願わくは、当作品を収載した本来の形で『鮪に鰯』を読み直してほしいと思います』とあり、この解説で松下氏が、採用しなかったとは言わずに、わざわざ『何かの手違いで収録から漏れてしま』ったと述べておられるのは非常に意味深長である。リンク先、膨大な量の草稿ながら必見である。

 

 ともかくも私は「西の家」「東の家」よりも遙かに優れたバクさん節のよく利いた佳品と思う。三詩を是非、併読比較してみて戴きたい。]

祝電   山之口貘

 祝電

 

あの日のことだつたよ

食べやう といふのであつたがそのくせに 僕が食べをはつたそのときまで食べやうともしないあなたであつた

 

銀座へ出てみたが銀座をみてゐなかつた 降る雨ばかりをみに來たやうに銀座を歩いたあなたであつた

 

あつちこつちと歩いても まるで引き摺り歩いてゐるやうに實に重たい姿のあなたであつた

 

さういふあなたであつたそのあなたが それを言ふなと言ひさうなあの日のあなたの落第姿の重たさよ

 

お蔭でこのやうに 好きでもないろまんちすとになつたわけなんだが 今日のあなたを迎へるうれしさが 現實すぎて仕方もないのだよ

 

ガフカクヲシユクス

 

[やぶちゃん注:底本では詩句が二行目に亙る場合は一字下げとなっている。第一連二行目の「をはつた」はママ。初出は昭和九(一九三四)年十二月号『詩人時代』。この詩に詠まれた対象者「あなた」は誰であるか不詳。バクさん、三十一歳。……私は個人的にこの詩を異様に愛おしく感じる部類の人間である。……銀座を歩くしょぼくれた二人の後を、田舎染みた私が身に二人のしょぼくれた気持ちに全く同感しながら一緒に歩いている気持ちになるからである。……]

最高裁は違憲立法審査権の発動の準備をせよ

集団的自衛権の行使容認から法整備のための各種法の「改正」が行われた場合、最高裁がそれら総てについて違憲立法審査権を発動する義務があると私は考える。それが行われないとすれば、まさに司法の独立さえも烏有に帰すということになるからである。

私が言っているのは「反対」でも「批判」でも「指弾」でもない。小学生でも分かる至って論理的且つ至極まっとうな「当たり前の理屈」として言っているのである。


【9:50追記】憲法と国際法を専攻している教え子から回答を得た。すこぶる納得した。

   《引用開始》

集団的自衛権反対派はよく「9条違反を司法で問え!」と言っているようですが、それは不可能です。

違憲立法審査権は、個人が憲法に規定された自由あるいは権利が具体的に侵害されたという争訟がないと行使できません。

憲法9条は国民に権利を与えるものでも国民の自由を保障する規定でもありません。したがって、国民が憲法9条に依拠して司法的解決を求めることは制度上出来ません。

違憲立法審査権の範囲を拡大すると、実質的に最高裁が国会を飛び越えて法律を改廃することになり、三権分立の大前提を失わせます。

※ただし、憲法13条や19条の射程に入る場合は、司法審査が及びます。

しかし、一般市民が考える「9条違反で」云々は出来ないのです。

   《引用終了》

2014/07/06

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅻ

 

かたぶきて陽のさす楢の宿雪かな

 

[やぶちゃん注:「宿雪」は「ねゆき」(根雪)と読ませていよう。]

 

積雪に夕空碧み雲の風

 

樺の雪幽らめて樅の巨陽いづ

 

[やぶちゃん注:「幽らめて」は「くらめて」と読んでいよう。]

 

凍花映ゆ鏡の罅(ひゞ)に年惜しむ

 

[やぶちゃん注:「凍花」は「いてばな」と読んでいよう。]

 

温室べなる水の凍光苣枯るゝ

 

[やぶちゃん注:「苣」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa 。ちさ。レタス。]

 

月中の怪に射かけたる獵夫かな

 

夕濕める田廬の冬灯滿ち足りぬ

 

聖樹灯り水のごとくに月夜かな

 

凍揚羽翅のちぎれては梢より

 

手どりたる寒の大鯉光りさす

 

しろたへの鞠のごとくに竈猫

 

荒神は瞬きたまひ竈猫

 

   註。荒神は金神のなまり。

 

[やぶちゃん注:「金神」は「こんじん」と読み、方位神の一つであるが「荒神」でも分かる通り、荒ぶる神である。金神(荒神)信仰は西日本に多いが、甲府にも荒神堂が確認出来る。ウィキ荒神」によれば、『不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから、しだいに俗間で信仰されるようになったものである』とあるから、これは厨に祀られた荒神で、しかもそこにある荒神棚の実際の華燭などの「瞬き」というよりも、竈にもぐりこんだ猫の仕草や表情などに感じたイメージとしての「瞬き」で、蛇笏得意の鬼趣の句と私は読む。]

 

好色の書に深窻の冬來る

 

冬薔薇に土の香たかくなりにけり

 

毛糸編む牀に愛猫ゆめうつゝ

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(25) あさくさ 

 あさくさ

 

     暖秋小春日の午後

     淺草公園の雜鬧を歩く時

     ほど心たのしきものはあらぢ

やるせなき心抱きて淺草に

來れる我も玉乘りを見る

 

[やぶちゃん注:前書の「あらぢ」はママ。前書中の「雜鬧」は「ざつたふ(ざっとう)」と読み、「雑踏」「雑沓」に同じい。「鬧」は本来は音は「ダウ(ドウ)」で騒ぐ・騒がしくする・騒がしい・賑やかという意である。]

 

南無大悲大慈大悲の觀世音

わが思ふこととゞかせ給へ

 

何時までも觀音堂の廻廊に

柳散るを眺めて居たりき

 

かの巡査いつも立ちて居り境内の

手洗鉢(みたらし)の屋根の柳散るころ

 

柳散る觀音堂のきざはしに

不門品(ふもんぼん)を誦して居たる男よ

 

[やぶちゃん注:「不門品」のルビは原本では「ふもんぽん」。誤字と断じて訂した。無論、校訂本文もそう訂する。]

 

淺草の十二いろはの三階の

色硝子より見たる町の灯

 

われ母の影にかくれて餌をやりし

その鳩を思ひ淺草に行く

 

やる瀨なき心抱きて淺草に

來れる我も玉乘りを見る

 

[やぶちゃん注:ママ。本歌群「あさくさ」の冒頭の一首の重出。]

 

あはれかの淺草の人と物音の

中を歩くも心痛めり

 

公園のベンチに來りモスリンの

灯の見ゆるまで座りて居たりき

 

[やぶちゃん注:「モスリン」(英語:muslin)は綿や羊毛などの単糸で平織りした薄地の織物。ウィキの「モスリン」によれば『日本では、モスリンは薄手の平織り羊毛生地を指すのが普通で、綿生地を綿モスリン、羊毛生地を本モスリンと呼んで区別することがある』。『別名、メリンス(スペイン語に由来)、唐縮緬(とうちりめん)』。『絹のモスリンはシフォンと呼ばれる』。『薄地で柔らかくあたたかいウール衣料素材で、日本では戦前の普段着の着物、冬物の襦袢、半纏の表、軍服(夏服・夏衣)などに用いられていたが、近年では東北地方北海道の一部以外ではほとんど流通しておらず、目にする機会は少なくなっている』とある。ここは最後が直接体験過去の「き」であるから、「モスリン」を着た人物の換喩であるが、これは朔太郎自身であろう。なお、校訂本文は「座」を「坐」と訂する。]

 

一人にて酒をのみ居れる憐れなる

となりの男なにを思ふらん

              (神谷バアにて)

 

淺草の活動寫眞の人ごみの

中にまぢりて一人かなしむ

 

はらからもわが淺草に行くことの

深きこゝろを知らぬかなしさ

橋本多佳子句集「紅絲」 童女抄 Ⅰ

 童女抄

 

乳母車夏の怒濤によこむきに

 

[やぶちゃん注:この句、発表当時から毀誉褒貶半ばする句である。童女虐待を匂わせるような背徳味に生理的嫌悪を示す男の大家――孫をあやす祖母の中に突き放すような一瞬の鋭利な女の視線を探す女性評者――孰れも私の本句の「写真」ではない。一読、なるほどこれはそれでも腑に落ちると思わせるのは、底本全集の年譜を担当している多佳子の弟子堀内薫氏の『俳句研究』(昭和三七(一九六二)年七月号・橋本多佳子追悼)に載る以下の評であろうか(北川光春氏のサイト「俳句の雑学小事典」のの『「乳母車夏の怒濤によこむきに」の句鑑賞』から孫引き)。

   《引用開始》

これは単なる自然観照の句ではない。実は反対に強烈な我の句なのである。これは小田原にある御子さんの家で、家の前にすぐ海である。祖母として乳母車の内の愛する孫へ切なる思いをこめて詠っている。この孫はいくつになるも頭がしっかりと落ち着かないのである。祖母としてその孫の悲惨な運命を思い、自然のなすまま手の下しようのないことの悲しみが、是非なんとかしてほしいという祈願が鬱積し狂わんばかりに沸騰している。これは主観と客観とが融合して一体となり、強固な結晶体となっている。

   《引用終了》

 私はこの句、嫌いではない。否、寧ろ好きだ。私に言わせれば冒頭掲げた両評などは見当違いも甚だしいと言わざるを得ない。俳句は辛気臭い道徳の教材なんぞではないし、熟女の「女」への回帰なんぞというどろどろの情念をどこをどう剖検したら出てくるのか?

 堀内氏の評は『強烈な我の句』『鬱積し狂わんばかりに沸騰』する詩想、『主観と客観とが融合して一体となり、強固な結晶体』となった句という評言の選び抜かれた語彙にはかなり共感を覚える。しかし、そこに具体的に示された内容は、作句状況の客観的事実を説明するには十分条件だが、それは作品として独立した句である一句に対峙して一読し、そこから受けるある強い感銘を裏打ちするに欠かせぬ必要条件では――ない。

 この句の私の映像には乳母車の子の母はいない。というより、ここには祖母だかに比定する多佳子はいないし、多佳子のある具体的な欲求や願望を核とするような一人称視線でもないのだ。私は寧ろ、引用元の北川光春氏の『夏の繰り返す荒波の浜辺に横向きに置かれている乳母車』という『みごとなまでの客観的な事物の配置であり、映画の一シーンにありそうな場面』だという評言部分(但し、以降の『論乳母車のなかには幼い赤ちゃんがおり、当然それを見守る多佳子おばあちゃまがい』て、『さらにこの句からは、妙なリアリティーが感じられ、多佳子おばあちゃまの冷静なまでの眼差しが感じられる』という部分を除いて、である)にこそ強い共感を覚えるのである。

 これはエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のショックを微かに匂わせた、対立するモンタージュの純粋な美学的陶酔にこそ句の核心はあると読む。少なくとも多佳子の眼目はそこにあったと私は信じて疑わないのである。それは続く後の二句を見れば明々白々であるとしか私には思われない。句から読み取ることは出来ない文芸外の具体的なプライベートな事実を文字解説されて貼り付けられて、これが句の言いたかったことで御座い、なんどとまことしやかに宣明された日には、これら三句からは最早、初読時の慄っとするほど素敵なあの痺れるような感動は、決して再び体験することが出来なくなってしまうと声を大にして言っておきたいのである。]

 

雲の峰たちてのぞける乳母車

 

夏氷童女の掌にてとけやまず

發聲   山之口貘

 發聲

 

『とつくに引越して行つたんです』と言つてゐ

 る。

どこへ越して行つたんだか! このやうに僕が

 泊り込みに來るからなんだらう。二三日前逢

 つたばかりなのに、僕へは知らん顏でゐるの

 かあの顏のある心理の方へ越して行つたんだ

 らう。

 かやうに方々で戸締りが初まる。僕は宿泊所

 を失ふんだらう。つくり笑ひをして友情達の

 横丁から僕が出て來る。

うす暗い喫茶店の中で、血の氣のない戀愛に照

 らされてゐる。金がないから夫婦感だけで暮

 らしてゐる。

『コーヒー呉れんか』と言つてゐる。

『お待ち遠さま』と言つてゐる。

日本のお茶に砂糖をかきまぜたんですとはまさ

 か言へますまい。

こちらも知らん振りでのんでゐる。

『お喫ひなさい』と言ついてゐる。

店の灰皿から拾ひ集めた吸殼ですとは言へます

 まい。

こちらも知らん振りで喫つてゐる。

かやうな心勞ばかりを手に持つて、女はその眼

 をまるくする。

なんだつてまるくするんだ! と言へるもんか。

 このやうに僕が、食欲の蓋を開けつ放しに、

 例のカレーライスのやうな眼をするからなん

 だらう。飯も食はずに、戀愛の中から僕が出

 て來る。僕はつくり笑ひをしてしまふ。

死なうか! と思つたら、死も人生のどこかに

 位置してゐるものなのか、まるで生きようと

 思つたかのやうに、死なうとするにも積極性

 のやうな生活道具が要るんだらう。

 死んだりなんかしてまでも、死なうとは思は

 ない理になつたんだらうよ。人生觀の中から

 僕が出て來る。

『人間ではない』と人間達が言つてゐる。

『獸ではない』と動物分類學が言つてゐる。

僕の兩側には醜聲の惡臭があるんだらう。鼻を

 つまんで、世評の奧から僕は出て來てしまふ。

僕!

僕が歩いてゐるんだらうか!

僕が歩いてゐるだけなんだらうか!

僕が歩けなくなつてしまふんだらうか!

僕が垂直するまゝに地球に腰をおろしてしまふ

 んだらうか!

僕が手振らで人生の眼前にゐる。僕には生活の

 答案がないんだらう。

『僕だからね』と吐息を落してしまふ。

その吐息のやうに、僕が生活の底に落ちて來た

 んだらうか

『自活してゐないからだよ』と音がする。

『あなたはいつまでもぐづぐつしてゐるつもり

 なの!』と音がする。

つくり笑ひをしさうになるんだが

『屑』と音がするんだらう

つくり笑ひをしさうになるんだが

『どうだひとつ仕事をみつける氣はないか』と

 音がするんだらう

この加速度的に來る生活の音波に僕が壓力され

 てしまふんだらう。

遠い生活の面を目ざして、アブクのやうな發聲

 が上昇するらしい。――僕は、仕事を、

『みつけてみるよ』

 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和六(一九三一)年四月号『改造』で、掲載誌の目次は総題を「夢の後」とし、処女詩集『思辨の苑』に所収する「夢の後」と二篇が掲載された。本詩は同詩集には採られていない。例によって特殊な字下げが行なわれているので、以上のような改行を採った。同時掲載の後」や同詩集の「挨拶」の詩想や構成と酷似している。既に述べたが、私はこれは直接話法を含む詩に対してバクさんが好んで用いる傾向が強い、一種のシナリオのト書き的な特殊な形式であるように感じている。若しくは、三部からなるベケット不条理劇の台本のようだといってもよい。ただ狙ったような観念用語の投げ込みと感嘆符の連打が、後」以上にぎくしゃくした読む行為の阻害を引き起こす。実際に朗読してみると、やはり最も夢幻的でありながら素敵に慄然とするのは群を抜いて「挨拶」であり、そうした異常な感動がかなり盛り下がって後」、それがそこからも遙かに減衰してしまった印象が本詩である。しかしこれら三篇を並べて読むとそれなりに完結した不思議に一貫した麻薬的疎外感を感ずることが出来る。その場合、①番目に本「發聲」、②番目に「「夢の後」、③番目に「挨拶」の順がお薦めである。騙されたと思ってお試しあれ。

  最後に、他の二篇で試みたようにやや読み難い特殊字下げを無視した形のものを掲げておく。

 

 發聲

 

『とつくに引越して行つたんです』と言つてゐる。

どこへ越して行つたんだか! このやうに僕が泊り込みに來るからなんだらう。二三日前逢つたばかりなのに、僕へは知らん顏でゐるのかあの顏のある心理の方へ越して行つたんだらう。

かやうに方々で戸締りが初まる。僕は宿泊所を失ふんだらう。つくり笑ひをして友情達の横丁から僕が出て來る。

うす暗い喫茶店の中で、血の氣のない戀愛に照らされてゐる。金がないから夫婦感だけで暮らしてゐる。

『コーヒー呉れんか』と言つてゐる。

『お待ち遠さま』と言つてゐる。

日本のお茶に砂糖をかきまぜたんですとはまさか言へますまい。

こちらも知らん振りでのんでゐる。

『お喫ひなさい』と言ついてゐる。

店の灰皿から拾ひ集めた吸殼ですとは言へますまい。

こちらも知らん振りで喫つてゐる。

かやうな心勞ばかりを手に持つて、女はその眼をまるくする。

なんだつてまるくするんだ! と言へるもんか。このやうに僕が、食欲の蓋を開けつ放しに、例のカレーライスのやうな眼をするからなんだらう。飯も食はずに、戀愛の中から僕が出て來る。僕はつくり笑ひをしてしまふ。

死なうか! と思つたら、死も人生のどこかに位置してゐるものなのか、まるで生きようと思つたかのやうに、死なうとするにも積極性のやうな生活道具が要るんだらう。

死んだりなんかしてまでも、死なうとは思はない理になつたんだらうよ。人生觀の中から僕が出て來る。

『人間ではない』と人間達が言つてゐる。

『獸ではない』と動物分類學が言つてゐる。

僕の兩側には醜聲の惡臭があるんだらう。鼻をつまんで、世評の奧から僕は出て來てしまふ。

僕!

僕が歩いてゐるんだらうか!

僕が歩いてゐるだけなんだらうか!

僕が歩けなくなつてしまふんだらうか!

僕が垂直するまゝに地球に腰をおろしてしまふんだらうか!

僕が手振らで人生の眼前にゐる。僕には生活の答案がないんだらう。

『僕だからね』と吐息を落してしまふ。

その吐息のやうに、僕が生活の底に落ちて來たんだらうか

『自活してゐないからだよ』と音がする。

『あなたはいつまでもぐづぐつしてゐるつもりなの!』と音がする。

つくり笑ひをしさうになるんだが

『屑』と音がするんだらう

つくり笑ひをしさうになるんだが

『どうだひとつ仕事をみつける氣はないか』と音がするんだらう

この加速度的に來る生活の音波に僕が壓力されてしまふんだらう。

遠い生活の面を目ざして、アブクのやうな發聲が上昇するらしい。――僕は、仕事を、

『みつけてみるよ』

 

 個人的に「僕には生活の答案がない」というフレーズを私は偏愛するものである。]

耳嚢 巻之八 奇子を産する事


 奇子を產する事

 文化五年の夏原田翁語りけるは、麹町邊の由、町人の女房、血(けつ)くわいを煩ふて暫くなやみけるが、或日頻りに腹痛いたし苦しみける。夥敷(おびただしき)血を通じ、右血は綿の如く玉の如くかたまりし。其數多通じける内、何かうごきてはひ出るものありしを、夜伽なる老女、其婦人の驚かんを恐れて、いそがしきに紛(まぎれ)、服紗(ふくさ)やうのものに包みて、ふとんの下に押入(おしいれ)て、さて婦人を介抱して病氣は快(こころよ)かりしに、醫師の來りけるとき別間にて其容體を聞ける時、彼(かの)老女右怪物を產(うみ)しを語り、扨よく洗ひて見しに僅に二寸許りの物なりけるが、人體聊(いささか)かわる事なく、五體そなわらざる處なし。誠に奇成(きなり)とて、右の醫師是をもらひて、人にも見せける。其人の名もしれけれど、隱してかたらざりしが、右の譯森見隆の弟子某療治なし、德田長伯も右出生の品見候由、見隆の語りしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:奇形児(但し、この場合は血塊の中から超未熟児ながら五体を完全に保持した胎児が見つかっているから所謂、「ブラック・ジャック」のピノコのような奇形嚢腫(teratoma テラトーマ)とはちょっと違う感じがする)出産の事実譚と見てよいが、世間では一種の妖怪や怪異として捉えていたから(ウィキの「血塊」を参照)、可哀そうな話であるが、怪異譚としての連関的な猟奇的興味で根岸は記載しているようには思われる。

・「血くわい」血塊。岩波版長谷川氏注に、蘆川桂洲(あしがわけいしゅう)著「病名彙解」(貞享三(一六八六)年序)に『婦人ノ瘀(ヲ)血結聚シテ塊トナルコト也』とある。「瘀血」は漢方でいう鬱血や血行障害を指し、特に夫人の場合は「血の道」、月経不順を指す。

・「文化五年の夏」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、まさに直近の出来事である。

・「原田翁」実は後掲される「巻之九 棺中出生の子の事」の底本の鈴木注に、『種芳(タネカ)。安永七年(四十八歳)家督、廩米二百俵。天明元年小十人頭より御広敷番頭に転ず。根岸鎮衛にくらべれば役職の点ではずっと低いが、年長であるので、大事にしている様子が見える。年齢のみならずこの人の人柄もよかったのであろう』と記されてある人物である。

・「二寸許り」六・〇六センチメートル。

・「森見隆」医師であるが不詳。

・「德田長伯」医師不であるが詳。


■やぶちゃん現代語訳


 奇怪な子を出産した事

 文化五年の夏、原田翁が語ったことである。

 麹町辺りの出来事とという。

 町人の女房が、血塊(けっかい)に罹って、永く患っていた。

 ある日、激しい連続した腹痛を訴え出し、ひどく苦しみ出した。

 すると暫くして、夥しい出血が起こったが、その出血は綿の如く、玉の如くに固まった状態となった。

 その出血量は相当なもので、一つの塊を成すまでに持続したが、夜の看病に雇われて付き添っていた老女が、その血塊をふと見てみると、その中に、奇体にも何か、動いて這い出そうとするものがあるのを認めた。

 老女は病人が驚くことを恐れ、また、婦人があまりに苦痛を訴えるゆえに、介抱の忙しさもあって、婦人の眼に触れぬよう、素知らぬ振りをしながら、そばにあった服紗(ふくさ)のようなものにさっと包んで、布団の下へと急いで押し入れたという。

 さて、そのまま普通に婦人を介抱し続けてみると、病態はみるみる快方へと向かった。

 そこで呼ばれた医師が往診に参った際、病室と隔てた別間にて、婦人の容態を医師が訊ねた折りのこと、この老女はかの怪物を産んだことを小声で語り、既に蒲団の下から引き出しておいたかの「もの」を医師に見せた。

 医師が受け取って、こびりついた汚血などよく洗い流し、観察してみたところが、僅かに二寸ほどの大きさではあったものの、これ、人体と聊かも変わったところのないもので、五体も具わっていない部分は全くない。

 その医師、まことに奇なる出産と胎児であるとして――無論、老女には当の婦人や家人にも一切その事実を告げぬように命じた上で――これを貰い受け、人にも見せたとのことである。

 かの医師は、その奇体なる子を産んだ婦人の名も無論知っているのであったが、秘して語らなかったという。

 この話に出る療治を担当した医師というのはかの知られた医師森見隆(もりけんりゅう)の弟子の某(なにがし)で、やはり名医として名高い徳田長伯(とくだちょうはく)も、その異常出生によって生まれた胎児の実物を某から見せられたと師見隆が語って御座った、とのことである。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 9 千歳から苫小牧へ

M375
図―375

M376

図―376

M377

図―377

 

 この夜の宿泊地であるチトセに着いた我我は、そこに横浜から同じ船で来た、我々の友人たる、ドイツの医師がいたのを発見した。彼は今や蝦夷島横断雄行中である。私は麦酒の入った箱の一つをあけて、彼に六本やった。彼が如何によろこんだかは、想像出来るであろう。まったく彼は、いくらお礼をいっても、いい足らぬという有様であった。図375は千歳に於る旅館を示す。これはかつて、西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家である。今やその部屋は、稀に来る客以外に、誰も使用しない。屋根の上に並んだ水桶は、煙筒みたいに見えるが、日本家には煙筒は無い。翌朝一行は早く起きた。この日は一回馬をかえて、三十マイル行くのである。私は馬を注意し、伸陽駈足をさせる事にばかり夢中になっていたので、駅から駅の間に何があったか殆どまるで覚えていないが、只正午近くなって、路がより平坦になり、そして砂が多くなって来たので、我々は東海岸に近づいたことを知った。正午我々はトモコマイと呼ぶ所で海を見た。ここで我々は、歩くことを選んだ佐々木と下男の一人とを待って、長いこと休んだ。私は彼等を浦山(うらやま)しく思い、あるいは全行程を歩いたかも知れぬが、とにかく乗馬をならうにはこの上もない好機会なので、乗らざるを得なかった。図376は苫小牧にある古い旅館で、その屋根には、我々が見る多くの家と同様、草が生えている。屋根に西洋鋸草(のこぎりそう)その他の雑草や野生の植物が、いい勢で繁茂しているのは、不思議な光景である。海岸で私はアイヌの小屋二、三と眺望とを写生した(図377)。ここではアイヌの漁夫が数名、網をつくり、魚を乾物にしていた。路中いたる所で、我々が逢ったアイヌは、日本人に使われていたが、殊に彼等の馬の世話をしていた。アイヌは馬に乗るのに、胡座(あぐら)をかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた。

[やぶちゃん注:矢田部日誌の八月二日の条に『朝七時千歳發』『六時シラオイニ達ス』とある。「シラオイ」は現在の胆振総合振興局管内の白老郡白老町。

「チトセ」底本では直下に石川氏の『〔千歳〕』という割注が入る。

「西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家」ウィキ千歳郡の「歴史」によれば、『江戸時代の千歳郡域は東蝦夷地に属し、島松川流域には石狩十三場所のひとつであるシュママップ場所』(再注する。この「場所」とは江戸時代の蝦夷地(北海道・樺太・千島列島)で松前氏が敷いた藩制の一つで松前氏家臣が現地蝦夷(アイヌ)と交易を行う知行地のことをいう。ここはウィキ場所に拠った)『が松前藩によって開かれた。その範囲には現在の恵庭市に相当する地域も含んでおり、幕末ころまで存在した。一方、現在の千歳市に相当する地域にはシコツ場所が開かれていたが、こちらは後に南に隣接するユウフツ場所に編入されている。また、江戸時代初期の万治元年には千歳神社の起源である弁天堂が建立された』。『江戸時代後期、国防のため』寛政一一(一七九九)年に『千歳郡域は天領とされ、文化年間には勇払から千歳に至る千歳越が開削されている。』文政四(一八二一)年『には一旦松前藩領に復したものの』安政二(一八五五)年には『再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。安政4年には銭函から千歳に至る札幌越新道(千歳新道)が開削されている。天領時代に開削された千歳越や札幌越新道は札幌本道や国道36号の前身にあたる。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の』明治二(一八六九)年、『大宝律令の国郡里制を踏襲して千歳郡が置かれた』。郡発足以降は同年中に『北海道で国郡里制が施行され、胆振国および千歳郡が設置され』て『開拓使が管轄』したものの、その直後に北海道の分領支配によって『高知藩の管轄とな』っている。その後、明治四(一八七一)年に『廃藩置県により再び開拓使の管轄とな』ったとあって複雑な支配経緯を辿っていることが分かるが、ここもこの旅館を松前藩や高知藩の藩主がやってきて利用したとは思われないから、それぞれの藩の担当奉行の一行か、開拓使の入植開拓団の一行のそれではなかろうか?

「ドイツの医師」注で前に記した東京大学医学部製薬学教授ジョージ・マーチンであるが、磯野先生もこう表記しておられるものの、ドイツ人というところで疑問が生じた。の「東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー」の東京大学総合研究博物館の神谷敏郎氏の幕末から明治初期における医学教育の「3 医学部発足当時の教授陣と教科目」に『製薬学=マルチン(Georg Martin)』とあるのが彼でやはりドイツ人と記されてある(発足当時の医学部本科のお雇い外国人は総てドイツ人とある)から、これは正しくは「ゲオルグ・マルティン」と表記するべきであろう。

「三十マイル」約四八・三キロメートル。距離からこれは千歳―白老間であることが分かる。

「トモコマイ」底本では直下に石川氏の『〔苫小牧〕』という割注が入る。

「西洋鋸草」原文“Yarrow”。キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属セイヨウノコギリソウ Achillea millefolium ウィキセイヨウノコギリソウによれば、『イギリスをはじめ、ヨーロッパ各地の空地、道端などに自生しているのが見かけられる。ヤローという英名は、アングロ・サクソン名“gearwe”、オランダ語“yerw”の訛り』。『アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアに帰化している。日本には明治時代に渡来する。繁殖力が強く、本州と北海道の一部で野生化している』とあるが、モースが来道した頃にはこれほどまでに繁殖していたのであろうか。『その生命力の強さは、堆肥用の生ゴミに一枚の葉を入れるだけで急速にゴミを分解』するほどで、『根から出る分泌液は、そばに生えている植物の病気を治し害虫から守る力があり、コンパニオンプランツのひとつといわれている』とある。「コンパニオンプランツ」とはウィの「コンパニオンプランツ」によれば、『共栄作物とも呼ぶ農学、園芸学上の概念。近傍に栽培することで互いの成長によい影響を与え共栄しあうとされる植物のことを指す』とある。

「アイヌは馬に乗るのに、胡座をかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた」不思議な乗り方である。但し、ネット上の記載を管見すると、北海道には江戸時代に和人が持ち込むまで馬がいなかったともある。アイヌと馬の関係についてお詳しい方の御教授を乞うものである。]

ブログ開設9周年記念 八木重吉処女詩集「秋の瞳」〈初版復刻サイト一括版〉

ブログ「鬼火~日々の迷走」開設9周年記念として八木重吉処女詩集「秋の瞳」〈初版復刻サイト一括版〉を「心朽窩 新館」に公開した。

2005年7月5日の「ナナの死」より今日現在本記事までで投稿全件数は9002件。
但し、2005年9月に「伊東靜雄全詩集」のサイト一括公開した際にカテゴリ「伊東靜雄」で、単発で公開していたそれらの詩の殆どを削除していたり(今考えるとこれは時間も手間もかかったものであり、残しておくべきであったと思っている)、他でも同様のストイックな削除や酩酊して書いたものを消したり、逆に酩酊して不快になった自身の過去記事を削除したりということを有意に繰り返して来たから、恐らくは実際には限りなく10000件に近い投稿数はあったと思う。

ともかくも向後ともブログ「鬼火~日々の迷走」を御贔屓に――

2014/07/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 8 札幌にて(Ⅴ)…… “mussel”はイガイではないというイガイな事実を今更知った……

 翌朝、我々の駄馬と鞍馬とが入口まで来た。一頭にはラーガア麦酒が二筋頼まれ、他の一頭には標本を入れた、大きな四角い柳行李が二個つけてあった。長官が親切にも、我々が函館へ着く迄の期間、西洋式の鞍を二つ貸してくれた。私のための馬は大きな奴で、それに跨って動き出すと、前日の馬乗の結果たる身体の痛さが、彼の反鎚式跳反と剛直とを余計著しくして、私は完全に、かつ文字通り、たたき壊されたように感じた。それでも、しばらく私は頑張ったが、ついに絶望して思い切り、そして下馬して、再び乗る勇気が起る迄、数マイルを歩いた。大きな小屋組の橋を渡る時、私はその全長に対して、巨大な足代がかけてあるのに気がついた。何の為にこんな物があるのか、不思議に思って開くと、橋にべンキを塗るのだとのことであった。ある種の事柄にかけて、日本人は著しく間がぬけている。我国であれば、梯子を持った一人の男が、足代をかける時間内に、こんな仕事はすっかり仕上げて了う。

[やぶちゃん注:「翌朝」七月三十一日。矢田部日誌によれば、『朝八時頃札幌發、室蘭ニ向フ。札幌ニテ長官ノ用ニ供スル馬ヲ貸セリ』午後『六時過千歳ニ着ス』とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、ここで貸借された『長官の馬は途中の島松』(現在の恵庭市島松)『までで、それ以後函館に帰着するまではアイヌの馬を乗り継いだ』とある(本文を見る限りでは鞍は最後までということであろうか)。

「彼の反鎚式跳反」原文は“his triphammer bouncing”。“triphammer”は巨大な動力ハンマー、脱穀用の水車などを利用した大きな杵のようなものを指す語、“bouncing”は縦揺れ、垂直方向の振動をいう。「跳反」は前に馬の『跳反(はずみ)』(原文は“bounce”)とルビが振られてある。

「大きな小屋組の橋」原文“a large truss bridge”細長い部材を両端で三角形に繋いだものを繰り返して桁を構成させた桁橋の一種トラス橋のこと。

「巨大な足代」原文“a ponderous staging”。やけに仰々しい足場。]

 

 要するに、馬に乗って、路傍の低い灌木越しに、向うの沼沢地や森林を見ながら進むことは、一種の贅沢である。我々は十五マイル行って馬を代えた。今度の馬は杖で撲(なぐ)る度ごとに、蹴ったり竿立(さおだち)になったりする毛物(けもの)で、大部せき立ててやっと伸暢駈足(ギャロップ)を始めたが、それがまた偉い勢で飛んで行くのである。馬に関する知識の無い私にとって、伸暢駈足を敢てしたのはこれが最初であるが、驚いたことには、これは他のいずれの方法よりも、遙に楽である。私はその後十マイルの間に、二十回も鞍を離れた。これは研究材料にする蝸牛を捕える為であった。この地方にいる大きな蝸牛の習性は、我国の同様な物とは全く異る。ここのは小灌木の葉を食って生きているらしく、人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する。途中、我々は淡水イガイ類の標本を二種得た。見た所真珠イガイ即カワシンシュガイと、Unio complanatus とに似たものである。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約二十四キロメートル。

「毛物」原文は“a beast”。獣・四足獣・家畜の牛馬などの意であるが、ここは文字通りの困らせられるじゃじゃ馬であるから「畜生」といった蔑視を込めたニュアンスであろう。

「伸暢駈足(ギャロップ)」“gallop”は馬を一歩毎に足四本全部を地上から離して走らせる最も速い馬術走法。襲歩(しゅうほ)。駆歩(くほ)。伸暢駈歩。「伸暢」は「伸長」と同じで読みも通常は「しんちょう」と読み、長さや力などが伸びること。また、伸ばすことを意味する。馬のギャロップでは四足が総てよく伸ばされることがウィキの「歩法(馬術)」の「襲歩」の動画を見るとよく分かる。個人サイト「常識でみる桶狭間合戦」の「行軍を考える」の注11によれば、旧陸軍では伸暢駆足歩(襲歩)で分速四二〇メートル・時速二五・二キロメートルと規定していたとある。

「十マイル」約一六・一キロメートル。

「この地方にいる大きな蝸牛」 Scorpionfly 氏の「円山原始林ブログ」の「札幌の森のカタツムリ」によれば、札幌の森で見られる主なカタツムリは有肺目真有肺亜目柄眼(マイマイ)下目マイマイ超科オナジマイマイ科エゾマイマイ Ezohelix gainesi・北海道固有亜種のオナジマイマイ科サッポロマイマイ Euhadra brandtii sapporo ・北海道固有種オナジマイマイ科ヒメマイマイ Ainohelix editha ・有肺目モノアラガイ科オカモノアラガイ Radix auricularia japonica の四種とある。リンク先では画像とそれぞれの特徴が解説されている。必見。確かにアメリカのどころか、本州のカタツムリとは色も大きさも模様も大分異なる(但し、モースの採集は札幌から千歳に至る間であるから上記四種以外のものも含まれている可能性はある)。

「人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する」ネットを管見しても出てこないが、これは当時カタツムリが食用にされていた貴重な記録ではあるまいか。

「淡水イガイ類」原文は“fresh-water mussel”。数少ないが斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科 Mytilidae の淡水産イガイはおり、現在、北海道にも淡水産イガイの一種 Sinomytilus sp. が棲息してはいる。但し、モースが採取したそれがその淡水産イガイではない。何故ならやっと国内の淡水産イガイを探し当てたのは、「北海道外来種データベース」の「淡水産イガイの一種」ページであったが、そこには一九九六年代に侵入したもので(原産地は中国の可能性が高く、輸入シジミガイに附着した形で侵入したとある)、初報告は二〇〇三年とあるからである。そこで私は、モースは単に形状から淡水産の古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科 Unionidae などの仲間の生育初期の小型個体をイガイの一種と誤認したか若しくはそう呼んでいるのではないかと始め考えた。そこで海外サイトで原文の“fresh-water mussel”の文字列の検索をかけると、ずばり、イシガイ類の記載にこれが引っ掛かってくるのであった(例えばFreshwater mussels: California floater (Anodonta californiensis)とうページ。この“Anodonta”とはイシガイ科ドブガイ属を指す。ドブガイ属ヌマガイの学名は Sinanodonta lauta であるが、これは現在ヌマガイドブガイA Anodonta woodiana type A とシノニムである)。ところがそのイシガイ類のヒット数が異様に多い。更に調べてみると、何のことはない、これ実は訳者の石川氏の語訳であることが分かった。私もすっかり大好きなムール貝とばかり思い込んでいた“mussel”にはイガイ科 Mytilidae の(ムラサキ)イガイ類を指す以外に、別にまさにイシガイ科 Unionidae の淡水産二枚貝の総称でもあることが辞書にちゃんと載っていたのであった。ここは「淡水産イシガイ」が正しいという訳である。

「真珠イガイ即カワシンシュガイ」さて前の注考証を含め、再度、ここでこの最後の部分の原文を見てみたい。

On this ride we got two specimens of fresh-water mussel, apparently like the pearl mussel, Margaritana, and the common New England Unio complanatus.

ここでこの石川氏の訳は本来なら「真珠イシガイ〔カワシンシュガイ〕」とすべきであったことが分かるのである。そうしてこう訳された石川氏は、実はここでまさに「イガイ」が「イシガイ」の語訳であったことに気づけたはずだったのである。何故ならカワシンシュガイとはイシガイ目カワシンジュガイ科カワシンジュガイ Margaritifera laevis であるからなのである。如何にも惜しい。カワシンジュガイは成貝は殼長約十三センチメートル・殻幅約四センチメートル・厚さ約六センチメートルに達するやや分厚い長楕円形を呈する。殻表面は黒褐色や黒色で内面はややピンク色いろがかった強く美しい真珠光沢を持つ。貝類学のバイブルである吉良哲明先生の「原色日本貝類図鑑」(保育社昭和三四(一九五九)年改訂刊)には『近時北海道の一部では真珠養殖の母貝として美玉を産出するという』と附言されてある。形態記載にはサイト「いわて環境学習館」内の「カワシンジュガイをみつけよう!」をも参考にさせて頂いた。ここは子供向けに作られていながら、非常に優れたサイトである。必見。

Unio complanatus」底本では直下に石川氏による『〔烏貝の一種〕という割注が入る。Unio”はイシガイ属。イシガイの一種であるが、本邦では古生物標本のデータに登場し、国内の現生種ではない。割注は「烏貝」とするが、狭義にはイシガイ科カラスガイ Cristaria plicata は別種ながら、一般ではイシガイ科の貝類をこうも呼称するから正しい。即ち、ここで石川氏がかく正しく割注していることがまたしても痛恨なのである。ただ先の「イガイ」の誤訳が混乱を起こしていただけなのだが、読者へのサーヴィスのつもりの先の『真珠イガイ即カワシンシュガイ』で、私のような素人でも首を傾げざるを得ないダメ押しの奇怪が生じてしまったのであった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 7 札幌にて(Ⅲ) モース先生、間一髪!

 翌朝は、馬に乗ったお影で節節が痛んでいたが、枯葉の下の陸生貝を発見したい望を持って、数マイル離れた森まで、照りつける太陽の下を歩いて行った。椈(ぶな)と樫の森は、蝸牛(かたつむり)をさがすには理想的である。私はかつて、ニューイングランドで発見したものと、同種であるらしく思われる「種」をいくつか見つけた。これ等の動物をさがす人は四つばいになり、濡(しめ)った木葉や樹木の片をひっくり返しながら、匐(は)い廻らねばならぬ。しばらくの間このようにして、この小さな動物をさがしていた私の耳に、警告するような叫び声がいくつか聞えた。顔をあげて見ると、五十フィートか七十フィートか向うに、数人の鬚だらけなアイヌが一列にならんで、私に向って叫びながら、身振をしている。私は彼等の声が聞えたことの信号として手を振り、彼等はすべて多少日本語を解するので、日本語で「ヨロシイ」と叫び返した。すると彼等の身振は益益猛烈になり、中にも一人のアイヌは、どうも脅迫するような様子で、弓と矢とを連続的に、ぎこちなく振り廻した。突然私は、彼等が私を目して、殺人を敢てしてまで守る彼等の墳墓を探っているものと考えていると思いついた。そして鏃の致死的な毒を思い浮べて、私は渋々立ち上り、歩き去った。私は矢田部教授と一緒に彼等の敵意に充ちた示威運動の意味を質問し、そして私が単に木葉の下の、小さな蝸牛をさがしていたのであることを説明する可く、これ等の人々がやって来た部落を訪れた。すると彼等は、数日前仲間の一人が熊に殺されて喰われたので、大きな毒矢のある熊罠(わな)をしかけたから、私がそこを立ち去らぬと射られるかも知れぬと思って、警告を与えたのだと説明した。彼等自身も、どこに矢を射出す糸があるのか、はっきり知らなかったので、近づくことを恐れたのだという。私は、私を射る準備をととのえた罠の近くを、熊のように四足で匐い廻っていたのであった!

[やぶちゃん注:この段、私は一読、実際にこの場にいたような錯覚を覚えたほど、強烈な印象を与えるシークエンスである。モース先生自身にとっては間一髪の崖っぷちだったわけだけれど、先生には失礼ながら、その実景が不思議に髣髴としてくるに及んで……まさにクマとも見紛う巨体のモース先生がちっちゃな蝸牛をはいずり回って探すシーン……その側の草叢に仕掛けられたトリカブトをたっぷり鏃に塗った毒矢の仕掛けのアップ……向こうからアイヌの人々が大声を揚げている……「ヨロシイ!」と笑って叫ぶモース先生……しかし本物の弓矢で射んとするポーズをとるアイヌの一人……アップしたモース先生の顔に恐怖が過ぎる……なんだか笑ってしまいます、ごめんなさい、モース先生。

「翌朝」札幌に着いた翌朝。
七月三十日。従って前の段のブルックス教授との墳丘発掘の前の出来事である。

「数マイル」一マイルは約一・六一キロメートル。

「五十フィートか七十フィート」一五・二四~二一・三四メートル。

「大きな毒矢のある熊罠」個人ブログ「絵入り漫筆」の「奥地紀行61 毒矢・仕掛け矢 その秘密にある金田一京助他編著「アイヌ芸術」にある「仕掛け矢」の図。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 6 札幌にて(Ⅱ)

M372_373_374
図―374[やぶちゃん注:一番上。]

図―375[やぶちゃん注:中央。]

図―376[やぶちゃん注:最下部。]

 札幌から見える山々は、高くはないが、デコボコしている。図372は北方に見える山を示す。これ等の峰の中で一番高いのは三千フィートばかりある。また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える(図373)。ブルックス教授は、学校の近くにあるいくつかの低い塚に、私の注意を向けた。その最大のものは直径二十フィートで、高さは二フィート半である。我我はその二つを掘り、地面のもとの水準に達したが、陶器は一つも見出せず、骨の破片が僅かあった丈である。それ等は概して図374のように見えた。

[やぶちゃん注:矢田部日誌に、札幌に着いた翌日の七月三十日の条に『農學校先ナル畦畔ノ古丘ヲ發ケリ』とある。この「畦畔」は「ケイハン」と読み、所謂、畦(あぜ)のこと。

「三千フィート」九一四・四メートル。これは方角と標高及び図374の山形から考えて札幌の北北東五十五キロメートルに位置(現在の日高支庁様似郡様似町(さまにちょう))にある標高九五八メートルのピンネシリと思われる。ピンネシリ投稿写真の稜線とかなり一致している。

「また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える」図375の特異な山形から見てこれは支笏湖の北西畔の活火山恵庭岳(標高一三二〇メートル)を描いたものと思われる。気象庁の北海道の活火山の公式データによれば現在も山頂東側の爆裂火口で噴気が認められるとある。

「いくつかの低い塚」これは現在、北海道式古墳と呼ばれているものと思われる。北海道式古墳とは北海道の擦文(さつもん)時代前期(約八世紀から九世紀。擦文時代とは七世紀頃から十三世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半に相当)にかけて北海道を中心とする地域で栄えた文化の呼称で、土器表面を整えるための箆(へら)で擦ってつけた特徴的な刷毛目に由来し、これは本州の土師器の影響を受けたものと考えられている。後に土器は衰退して煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。ここはウィキの「擦文時代に拠った)に作られた墓の一種。円形若しくは馬蹄形の溝に囲まれた区域内に楕円形若しくは長方形の埋葬施設が一基若しくは数基見られるもので、それらは人工的な盛り土で出来た小さな墳丘によって覆われている。埋葬区域内には副葬品(太刀や擦文土器)が発見されている。以上は北海道大学 埋蔵文化財調査ニュースレタ第十四〇一発行(リンク先はPDFファイル)の「特集 北海道式古墳」に拠ったが、そこには現在の北海道大学構内で発掘された北海道式古墳についての解説があり、このモースの叙述部分についても触れてまさに今、発掘されたそれがモースの描いたものの一つだったのかも知れないとある。矢田部日誌の『農學校先ナル畦畔ノ古丘ヲ發ケリ』が同定のヒントになるはずである。リンク先では発掘画像や造墓方法なども図入りで解説されてあり、必読である。

「直径二十フィート、高さは二フィート半」約直径六・一メートル、高さ七六・二センチメートル。]

橋本多佳子句集 藪野直史選 及び 鬼城句集 IE限定縦書版

僕がグーグル・クロームに乗り換えたことと、IEのシステム改変で以下の二種のテクストは縦書版を作製していなかったが、やはり、淋しいし、縦書でないと俳句は落ち着かぬ。先程、配した。

橋本多佳子句集 藪野直史選 IE限定縦書版

鬼城句集 IE限定縦書版

まひる   山之口貘

 まひる

 

乾燥した城址の裏路の日向

クロバイの汚みた白い服があらはれ

苦熱のまんなかにあらはれ

サーベルの音が蠟のやうに溶け

私のまつげには

輕蔑と憎惡(にくし)みとがぶらさがり

 

さて――

嗜眠性腦炎に侵された太陽の看護には

とろ とろ 飽いて

横走る蟹のやうに

四辻の

交番にばつたり突きあたつたのが

足の太い

年増の女だ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一四(一九二五)年九月号『沖繩教育』(同誌は沖繩縣教育事務所発行)で、掲載誌の目次は「詩二篇」とあって前の「人生と食後」とともに掲載されている。ペン・ネームは山之口貘。推定するにこの二篇が二度目の上京前後のこの時期の現存する沖繩のメディアへの最後の投稿詩であると思われる。バクさん、二十二歳。

「嗜眠性腦炎」嗜眠(意識障害の内でも最も強い昏睡に次ぐ状態)を主症状とする脳炎。エコノモ型脳炎とも呼ぶ。第一次大戦後ウィーンに流行して日本にも一時的に局地的流行をきたしたが、その後みられない。エコノモ脳炎(Encephalitis lethargica)、A型脳炎とも呼ぶと平凡社「マイペディア」にはある。ウィルス性脳炎の一種ともされるが、現在は症例が極めて稀だとする不思議な病気である(ウィルス自体が変異若しくは何らかの理由で壊滅的に減少したか。以下に見るようにパーキンソン症候群などの病態の特徴的一例をとして今は示されてある。ある種の部分の免疫力低下による本来は殆んど無害なウィルスによる発症なのか)。それでもそう診断告知レノブログがあるから、もしもウィルスならば当該のそれは必ずしも絶滅しているとは言えない。その方の医師による告知記載によれば(改行の一部を省略し、記号を一部追加した)、『精神障害(興奮・強迫症)・睡眠障害(不眠・傾眠傾向)・錐体外路運動障害(不随運動・パーキンソニズム)』(パーキンソン病及び同様の病態を指す語)『を起こす脳炎』で、『欧米では小児を中心に報告されている』が、『日本では報告が無い』。『不随意運動、睡眠障害・意識障害』を主症状とするが、『嗜眠性脳炎という名前からはひたすら眠り続けるようなイメージを抱かせるが不随意運動が中心となる dyskinetictype』(主訴を運動障害とするタイプ)『の報告もある』。『意識障害(開眼しているけれど反応が無い)抗NMDA-R抗体(N-methyl-D-aspartate receptor)陽性例が多い。これは若年女性に見られる卵巣奇形種に伴う脳炎の原因となる抗体。陽性例では、不随意運動、興奮、痙攣、不眠が多い。陰性例では、パーキンソニズム、傾眠傾向が多い。治療は、免疫療法が考えられるが、このタイプには概して効きにくいようだ。予後は、成人では急性期にどんなに重症でも後遺症をほとんど残さずに治癒することがあると言われているが、小児例は予後はよくないようだ。小児の20例を報告』(中略)『抗N-メチル-Dアスパラギン酸受容体(NMDAR)脳炎は2007年に daimau らによって提唱された卵巣奇形種関連傍腫瘍性脳炎であり、グルタミン酸(GLu)受容体の一つであるNMDARのNR1/NR2ヘテロマーに対する抗体(抗NMDAR抗体)を介して生じる自己免疫性脳炎である。Dalmauらの研究グループは、この脳炎を複数報告し、若年女性に好発し、精神症状、痙攣、記憶障害、蔓延性意識障害、顔や手の不随意運動、自律神経障害を呈する特徴があると述べている。2009年』に『小児の20例の嗜眠性脳炎』が報告されているが、『そのうち半数が抗NMDAR抗体陽性であることを、確認した』とある。『症状の特徴は、不随意運動(急性期:ヒョレア・ジストニア・バリズム・常同運動・口唇ジスキネジア・oculogytic crises:眼球の上方回転発作。)・(慢性期パーキンソニズム)と睡眠障害(不眠と睡眠逆転が主で傾眠傾向は少ない)・意識障害で、その半数は痙攣もみられ』るとある(これらから見るとウィルスではなく遺伝的な特異な感受性が疑われる。しかしだとすると「第一次大戦後ウィーンに流行して日本にも一時的に局地的流行をきたした」という公的な辞書の記載は極めて奇異に感じられ、同様の病態を引き起こす全く別の感染性脳炎疾患であった可能性が疑われるように私には思われる)。最後にレノ氏の快癒を心より祈るものである。]

2014/07/04

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅺ

 

花温室に漁具ものめきて寒の内

 

白樺に霜晴れの空膚を觸る

 

寒潮の濤の水玉まろびけり

 

  苦吟又苦吟

 

冬風にとびちる詩稿惜しからぬ

 

雪山を匐ひまはりゐる谺かな

 

[やぶちゃん注:飯田蛇笏畢生の名吟である。私は個人的に蛇笏と言えば、「芋の露連山影を正うす」とこの句を即座に思い出す。北国と山を知る人間だけに――この句の真意が――分かる。]

人生と食後   山之口貘

 人生と食後

 

氣まづい金借り勞働と

勇敢な食事勞働と

おもたい溜息の勞働とは

人生の理論となり

 

食後の

瞬間

亂暴人と盜人との人生觀が消え

未練もなくとろんと消え

 

天井からは

無欲がおつこちて

五月蠅ひねくれ病が癒え

はては豚のごとゐねむり

私は

人肉を喰つた鬼の休息!

 

ふと氣づきますると

つめたい

つめたい後生がやつて來て

部屋の眞中の

火鉢が

縮む。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一四(一九二五)年九月号『沖繩教育』(同誌は沖繩縣教育事務所発行)で、掲載誌の目次は「詩二篇」とあって次の「まひる」とともに掲載されている。ペン・ネームは山之口貘。推定するにこの二篇が二度目の上京前後のこの時期の現存する沖繩のメディアへの最後の投稿詩であると思われる。バクさん、二十二歳。]

耳嚢 巻之八 幽魂其證を留めし事

 幽魂其證を留めし事

 

 白川の藩中と人の咄しけるが、しかと其實はしらず。何れ奧州の在邊に、壹人の貧醫ありしが、夫婦の中に姉妹の娘を得、姉妹共に絶世の美人といふ内、妹の方分(わけ)て冷艷なりしゆゑ郡中の(評判)あふ方ならず。姉は右容儀能(よき)を以て家中侍以上の人の妻となりぬ。しかるに是も同家中にて番頭(ばんがしら)なせし者、其妻を失ひしに、繪(ゑか)く事好みて是をなぐさみとして日を暮しけるに、心安きをの子ありて物語りして、若き身すがら獨寢せんも如何なり、後妻なりと側妻なりと求め給へなどきこえしに、彼男聞て、左(さう)もせんずれど相應のものもあらばといひしが、聞(きき)も及給(およびたま)はん、在郷なれどしかじかの醫師の娘あり、是を呼びむかへんや、先(まづ)其女見給へとて野行(のゆき)に托して、兩人打連れて彼醫師のもとを中宿(なかやど)りとして見せけるに、實(げ)にも絶世の美人なれば男もしきりにのぞみしかば、媒(なかだち)せる人より彼醫師にかたりしに、心安く承知せしが、藩中にもれきれきたる身分ゆゑ同役へ談じけるが、田舍醫師の娘とありては不都合なれば、是非とならば、まづ夫(それ)となく追(おつ)て妻にも極(きはめ)あれといひしゆゑ、其譯媒より醫者へ語りければ、歴々の妻たらんは、なる程我身を里にしてはいかゞならん、當分は側室ともなして過て妻とせんは、其身の仕合なればと得心して嫁し行ぬ。しかるに、彼姉の嫁したるおのこ派振(さま)よく勤てあつぱれの立身なしければ、一族傍輩寄りつどひて祝しけるに、其あくる年又立身して重き役儀になりしを、何れもまた打寄りて酒に興じて、此亭主はかく年毎に出世し、あやかりものなり、げにも才力ありて手柄なる事なりと稱しけるに、客の内壹人、我は羨しからず、此亭主の妻なる妹は、當家の番頭なせる何某が妻にて、彼是の内緣取持ゆゑに立身もせしと聞くと、醉興の儘申けるも、左ありけるかなど云者も有しを、物蔭にて亭主聞て、其座席は事もなく酒も濟て各祝ひ述て歸りしが、其夜亭主妻にむかひて、汝も聞つらん、御身の妹むこ今權勢の職にある故我ら立身せしと、雜談せる人あり、定めて家中に斯(かく)評判すればなり、我何ぞ緣者によつて昇進をせん、何分一分難立(なにぶんいちぶんたちがたし)、御身にあやまりもなく、飽(あき)もあかれもせざれども、外聞には難代間(かへがたきあひだ)、離別なすべし、若(もし)其趣意立(たつ)事あらば歸緣もなすべしとありければ、妻も尤の道理に伏して、彼(かの)在醫の方へ立歸りぬ。父其子細を尋(たづぬ)るに、かくかくの事なりと述(のべ)ければ、是を聞て、かゝる事もあるべき事なり、妹は側妻の姿なれど、追て妻にも表向申立(まうしたつ)る約束なれ、我行(ゆき)て取計(とりはからふ)事ありと、仲人の彌一(やいち)誘ひて彼番頭なる方へ至り、さて妹娘(いもうとむすめ)は追て表立(おもてだちて)妻になさんとの約定(やくぢやう)なりしが、出生(しゆつしやう)までありて最早一年をかさねぬ、依之(これにより)早々右の願ひ差出(さしだ)し給ふか、左もなくは離緣なし給へ、右には難立(たちがたき)譯ありと語りければ、番頭せる男も、右は子細なき事にて、子まで有中(あるなか)なれど、急に今願(ねがは)んやうもなしとて仲人ともども利害のべけれど、彼醫師何分義理難立迚せつに申ける故、妻もいさい親の物語きゝてせんかたもなく、仲人うち連(つれ)て宿へかえり、扨姉の夫の方へ妹は離緣して取戻しぬると申(まうし)ければ、しかれば元より子細なしとて歸緣なしけるが、しかるに彼醫者の妻は後妻にて、二人の娘も繼子なるが、心よからぬ繼母なるに、素より淸貧の醫者なれば、彼妹娘はうつうつと煩出しけるとなり。しかるに彼番頭なるおのこ、小兒を見又彼妻の事思ひつゞけ日をふるに、さるにても不便(ふびん)の事なり、しかれども未練にも彼醫師のもとへ尋んもうるさければ只うつうつと不樂(たのしまず)。ある時に座敷の窓のもとに兼て好める繪を書(かき)て、さるにてもあかで別れし妻はいかゞなしけるや、不便の事なりと、燈下に手を組(くみ)て夢を結ぶと思ひしが、窓の障子さらさらと明けて顏を出すを見れば、別れし妻のかわらぬ姿にて夫の手を取りつくづくと見ければ、夫も流石に武夫(ぶふ)にて又かれが腕を捕へしげしげと見しに、女はもの云事もなし。男いへるは、汝女の身として夜分一人何故に來りしや、全夜狐(まつたくやこ)の我心鬱(わがしんうつ)を見こみ來るならん、世にはさる事あれ、我何ぞ狐狸の爲に誑(たぶらかさ)れんや、若(もし)誠我(わが)別れし妻なれば何ぞしるし持來(もちきた)れと云て、手を放しければ消失(うせ)ぬ。其後四五日過(すぎ)て、又候(さふらふ)先(さき)の窓のもとにありしが、例の如く障子を明(あけ)て内へ入る者あり。いかなる者と見れば彼離別の妻なり。此度は先にかわりて髮も亂れ色靑ざめ、此代(このよ)の人とも思はれぬ體にて、胴のあたりはた脇腹のあたり血しほしたゝりて、見るも哀れなるが、懷より我子の小袖ひとつ出して、是は我等里へ戻る時、御身の物、和子の物は殘し置、我身の品のみ持歸(もちかへ)りしが、外(ほか)包の内へ此品まぎれ入(いり)たり、印をとのたまふゆゑ持來れりと、我身のはかなき事物語りて消失ぬるを、繪がける事にくわしかりければ、其姿を丹靑にいろどりて書寫(かきうつし)ぬ。さて有(ある)にあらざれば彼菩提所尋ねて和尚にしかじかの亡者來りしやと尋(たづねし)に、成程送り來れり、變死なるや、又病死成哉(なるや)を尋ねしに、夫(それ)は知らず、變死とも思はれぬ由をいゝしゆゑ、今は何をか包(つつつま)ん、かくかくの事なりと、厚く追善供養して給はれと、布施物あたへけるに、此事はゆるし給はるべし、我等も此施主と旦緣ありて懇意なる故厚く弔ひしが、我未熟の法力にてはうかまれ(ね)ばこそ、かゝる奇談も聞(きく)。爰より何程の道を隔(へだ)て道德の僧有れば、是を賴み給へと差圖(さしず)し、彼寺において法會修行なせしとなり。かの寫せし繪を、右兩寺の家内其外見たる者は、いづれも熱病を煩ひし由。しかれども藥をあたへて、何れも快全せし由。其跡のはなしは不聞(きかざる)故、何故熱病を煩しといふ譯もしれねど、聞(きく)まゝを爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、先の先祖墳墓の発見がやや超自然の怪異を匂わせていたものが、寺や叙述の背後に透き見える墳墓、そうして久々の本格怪談物という部分で不思議に連続性を感じさせる仕立てとはなっている。但し、このやや長い怪異譚は何とも構成上の不首尾を持っている。例えば、妹娘の離縁を語る前半は姉娘の幽魂の出現という後半の核心部を引き出すに必要条件とはなっていない。寧ろ、妹の話は伏線としても機能していないのみならず、読み終えた後に怪異性にしみじみする前に妹の話は何だったのかと首を傾げざるを得ないという逆効果を齎してしまうからである。事実だから仕方がない、というのであれば、相応のリアリズムとは言えようが、だとしてもだらだらした前半はもっと端折ってよかろう。この噂話、私は、前半の姉と妹の話は事実としてあったもの、後半の怪異譚は全く別な幽霊画伝承の話柄がここに強引にカップリングされてしまったもの、という風に私は読む。特に後半に唐突に出現する「心よからぬ儘母」が昔話の古形そのままの〈継子いじめのモチーフ〉そして〈兄弟兄妹の末子のみが過酷な若しくは数奇な運命を背負うというモチーフ〉を話柄に乱暴に投げ込んでしまっているからである。そもそもがこの継母は話柄の初めに登場していなくてはおかしいのである。そうして「二人の娘も儘子」である以上、短い間であっても話柄の前半で出戻った姉に対するいじめがあったに違いない(この妹の死はその死霊の様態から見て明らかに変死であり、それは間接どころか直接に継母から受けた虐待によるものを強く感じさせるように描かれているから、姉にもむごたらしいいじめがあったと考えぬ訳にはいかない)のにそれが描かれない(どころか継母の存在自体が語られない)のはどう考えてみてもおかしい(現代語訳ではその違和感を払拭するために一部に手を加えた。悪しからず)しかも話柄の後半にはあんなに苦労して語った姉の存在が一切必要なくなってしまうというのも著しい違和感を覚えさせるのである。恐らくはこの話を結合した好事の張本人にはホラーを創作するだけの才能が致命的に欠けており(彼の前半への加筆は恐らく「妹の方分て冷艷なりし」と「繪く事好みて是をなぐさみとして日を暮しけるに」の二箇所の伏線ぐらいなものである)、そこに後半、無理矢理古形の昔話伝承のモチーフを押し込んだため、リアリズムのも糞もなくなってしまい、おまけにホラーとしても凡作に堕したというのが真相なのではあるまいか? また、最後の部分に妙にリアルな祟りの熱病と施薬の記事が唐突に出るのも気になる。この後半部の原話では実はここでその処方をしたのが、その父医師であり、その名も記されてあったのではあるまいか? 謂わば、それは元、この医師伝家の秘薬の販売を宣伝するものででもあったのかも知れない――などと勘繰ってしまう。ともかくも電子化していても各所にぎくしゃくした違和感が付き纏い、訳す前から、逐語的には何の問題もないものの、どうも訳しづらい、と感じた話柄である。さすれば全体に一貫性を持たせるための部分的な翻案部を追加してあるので注意されたい。

・「白川の藩」陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した白河藩。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏で、当時の第三代藩主はかの松平定信であった。

・「郡中の(評判)あふ方ならず」底本では本文「(評判)」は右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注があり、さらに「あふ方」の右には『(大方)』と傍注する。

・「番頭」ウィキの「番頭」の「諸藩の番頭」から引いておく。諸藩に於ける番頭は、『平時は警備部門の内で最高の地位にあるものを指し、戦時には備の指揮官となることが多い。また、警備部門(番方)の家臣が、藩主に具申したいことがある場合、藩主に取り次ぎをすることもあった。この職権を持つ家臣は、番頭ではなく侍頭・組頭と呼称される藩もあった。組頭と番頭の二つの役職が存在する藩にあっては、どちらが格上かは一義的に断定はできないが、番頭のほうが格上なことが多い。しかし、組頭が侍大将であり、騎馬組などの馬上の武士団を預けられている場合は、番頭より格上なこともある』。『江戸時代中期の赤穂藩、浅野家のように組頭の奥野定良(松の廊下刃傷事件のとき、数え55歳)が、父が家老職であったとはいえ、並みの家老より格段に石高が多く、城代家老・筆頭家老の大石良雄の1500石に次ぐ、藩内二番目の1000石を給付されていた。奥野定良については、番頭とする分限帳も存在するため、同藩では番頭と組頭は同じ意味で使用されていたものと思われる』。『番頭の実質的な藩内の力を見極めるには、番頭の家禄・役高のほか、番頭が番方からの藩主に対する取次権や人事の具申権を持っているか否かが重要である。番頭の諸藩における地位は、厳密にはまちまちであり、家老、年寄・中老に次ぐ重職であることもあれば、用人より格下のこともある。しかし、藩内における番頭の序列に一定の傾向が存在することは明らかである。小さな藩や職制が簡素な藩では、家老に次ぐ重臣が用人となる。小藩では用人が家老の全般を補佐するので、番頭よりも用人の身分が高くなる。他方、大きな藩では、家老と用人の中間に年寄・中老をはじめ、さまざまな家老を補佐する役職があるので、用人の役目は相対的に低くなり、特命事項や庶務的なものとなるので、用人は番頭より格下となることもある。小さな藩では、番頭・江戸留守居役、及び公用人がおおむね同格の藩もあれば、番頭のほうが格上の藩もある。番頭より江戸留守居役、公用人のほうが格上ということは少ない。大きな藩では、江戸留守居役、及び公用人より番頭のほうが格上である。番頭は、物頭(者頭)、給人より格上であることは諸藩に共通である』。『しかしながら藩主への取次や具申という役割では用人と変わらないためか、財政難が進む江戸時代後期になると番頭が用人を兼務する藩も登場し、なかには熊本藩細川氏家中や岡山藩池田氏家中、姫路藩酒井氏家中のように「番頭用人」というひとつの役職として江戸武鑑に掲載される場合もある』。『幕府の役職に相当する小姓組番頭や書院番頭は、諸藩にあっては番頭よりやや格下であり、小姓組組頭・書院組頭と呼称されることが多く、小さな藩にあっては、番頭がこれらの役目を兼帯していた。大雑把に言って、諸藩にあって番頭は「上の中クラス」以上の家格の者から選ばれている』。『太平の世では、家柄が重んじられて任命された。泰平の世では、一般論として、能力がなく家柄が高い武家を、番頭をはじめとする番方の幹部にしたとする指摘もある。しかし越後長岡藩のように一部の藩では奉行・用人などの功労者の中で、一定の筋目を持つ有能な士を名誉職的な意味合いで、番頭に抜擢することもあった』とある(但し、最後の部分は要出典要請がかかっている)。ともかくも本文にある通り、姉が嫁いだ「侍以上」の「藩士」などとは比較にならないほどの、「藩中にもれきれきたる身分」の者であったことが分かる。

・「中宿り」旅や外出時の一時の休息所。

・「派振(さま)よく」は底本のルビ。

・「仲人の彌一(やいち)」「やいち」は私の推定読み。このように唐突に不要な固有名詞が出る辺り、前半部の話柄が事実譚を原形にしているからだと私は思う。

・「右は子細なき事にて、子まで有中なれど、急に今願んやうもなし」という番頭なる夫の弁解はよく意味が分からぬ。所謂、相当の家格の家と一度、この妹娘を養子縁組するというような仕儀が上手くいかず、困っている最中ででもあったのかも知れない。そう現代語訳では敷衍訳して自然な感じにしておいた。

・「夜狐」底本では「夜」の右に『(野)』と訂正注を附す。

・「うかまれ(ね)ばこそ」底本では本文「(ね)」の右には『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽魂がその証(しるし)を留(とど)めおいた事

 

 白河藩の中でのこととして、人の話したことで御座ったが、これ、確かな事実かどうかは定かではない。

 ともかくも、奧州の田舎に一人の貧しい医師があったが、その夫婦、姉妹の娘を得て、またその姉妹ともに絶世の美女で御座って、分けても、妹の方(かた)はこれ、ぞっとするような艶っぽさであったによって、郡中での評判も、これ、大方ならぬもので御座った。

 この姉妹の母は、その後(のち)、ふとした病いで他界したと聞く。

 さても姉の方は年上なればこそ、かくも容姿もよきを以って、御家中の侍以上の御仁の妻となって御座った。

 さて、ここに同御家中の者にて番頭(ばんがしら)を勤むる者が御座ったが、その男、若妻を病にて失って御座った。

 絵を描くことを好んだによって、ただただ、これをのみ慰みとして日々暮しておったが、心安くしておる友の来たって物語りするに、

「――若き身にて、かくも独り寝せんも如何なものか? 一つ、後妻なりと妾(めかけ)なりと求めなさるがよかろうぞ……」

などと慫慂致いたところが、かの男もそれを聞くと、

「……そうしようかとも思うてはおるが。……まあ、相応の者もあらばのぅ……」

と口を濁したによって、

「いや! それ、聴き及んでもおられよう。在郷の者なれど、しかじかの美人の誉れ高き医師の娘子(むすめご)が御座る! これを一つ、呼び迎えては如何じゃ? まずはその女人を垣間見せん!」

と、直ぐに物見遊山にかこつけ、両人うち連れて、かの医師のもとを休み所としてそれとのぅ、かの鰥夫(やもめ)に家内におる妹娘(いもうとむすめ)を見せた。

 さればこれ、実に絶世の美人にてあればこそ、男もすっかり気に入って、しきりに縁組みを望んだによって、媒(なかだち)を頼んだ弥一(やいち)という者より、かの医師に語ったところが、医師は二つ返事で請けがった。

 ところが、この鰥夫は藩中にても番頭として歴々たる身分の者で御座ったによって、同僚に相談致いたところが、

「……貧乏田舍医師の娘とあっては……これは……やはり不都合なことじゃのぅ……まあ、是非貰い受けんとならば……そうさ、まずはそれとなく、家中に奉公させる形をとり……側室となし……追ってよき頃を見計ろうて……どこぞの家格の養女にも成すなど致いて……正妻として迎えると決せらるるが、よろしかろうぞ。」

との助言を得たによって、そうした事情を媒の弥一より医師へと相談致いたところが、父医師も娘に向かい、

「……御歴々の妻たらんとするは、なるほど、我が身の如き貧家を実家と致すこと、これ、不都合にて御座ろうほどに。当分の間は奉公人から側室ともなして戴き、しばらく経って後、相応の御処置を以って正妻として下さるとのことじゃ。これ、そなたの身にとっても、幸せなことにて御座ろうと思うが?」

と語り、娘も得心致いて嫁して行った。

 嫁してじきに子も産まれた。

 ところが、それから一年ほど後のことで御座る。

 かの姉の嫁したる藩士、これ、なかなかに人望や才覚もあり、精勤致いて、大した立身出世をなしたによって、一族朋輩、寄り集(つど)って祝った。

 さても、その翌年も、これまた昇進致いて重き役儀に就いたによって、孰れの者もまたうち寄って酒に興じ、

「いや! ここの亭主はかくも年毎(ごと)に出世致す! 我らもあやかりたい幸せ者じゃ! まっこと! これ! その確かなる才力の手柄と申すものじゃて!」

と口々に賞賛致いて御座った。

 ところがその客内の一人の酔客が、それを聴くと、

「……我らは別に羨しいとは思わぬゎ……ここの亭主の妻なる者の妹子(いもうとご)は、当家の番頭をなさっておらるる〇〇殿の妻にて御座って、の……そうした内輪の人脈の取り持ちが御座るゆえに、立身、出世もなさるという訳じゃ……」

と酔うた勢いで思わず口を滑らせたところが、

「……そういうこと……か……」

などと得心して、頻りに首(こうべ)を縦に振る酔客などもあった。

 これを、物蔭にて亭主が聴いて御座った。

 ともかくも、その日その席は、亭主も終始、快活に振る舞い、ことものぅ、酒も済んで、各々は改めて祝いの言葉を述べ、散会致いた。

 ところが、その夜のこと、亭主は妻に向い、

「……そなたも聴いたであろう。……御身の妹婿は、今、権勢の番頭の職にあらるる。……『ゆえに我らは立身した』と、今日の昼つ方、祝いの席にて雑談致いておった者の言のあったを。……あの口振りは……定めて既に、御家中にては、かく広く秘かに評判しておるからに相違ない。……さすればじゃ!……我ら! どうして縁者なんどのお蔭にて昇進など致そうものかッ!……されど、そのような風聞の已にして広まりつつあると申すは……何分……武士の一分(いちぶん)、これ立ち難し!……御身には、これ、誤りもなく……また……飽きも飽かざれもせざれど……外聞には代え難きによって……我ら、そなたに離別を命ずる!……もし、この我らが趣意の雪(すす)がるる時が来たったならば、きっと再縁も致そうぞ。……」

との仰せのあったによって、妻も、

「……尤もなる道理に……御座いまする……」

と命に服して、翌朝、かの在郷の父医師方へと立ち帰った。

 父がその離縁の子細を訊ねたところ、かくかくのことにてと姉娘(あねむすめ)の述べたを聴くと、

「……そのような仕儀も、これ、あって当然のことじゃ。……妹は側女(そばめ)の形をとってはおれど、追って正妻にも公(おおやけ)に申し立つるとの約束であったればこそ!……我ら、行きて掛け合ってみよう!」

と、かの仲人の弥一を誘うと、直ぐにかの番頭なる方へと至り、

「――さて、我ら妹娘(いもうとむすめ)儀、追って表立って妻になさんとの約定(やくじょう)にて御座ったが、孫の出生(しゅっしょう)までもあって、最早、一年を重ねて御座れば――これによって、早々に、かの願いを公に差し出し下さらぬか?――もし、それが出来ざるとならば、遺憾ながら――娘とは離縁なし給え。これをせずんば、立ち行きがたき仔細が御座ればこそ……」

と、切に乞うたところが、番頭せる男も、

「……その儀は……これ……未だ仕方のなきことなれば……子まである仲なれど……急に今……願い出んようも……これ……少々……養子縁組の儀をとある御方に頼んだものの……不首尾に終わって御座ったればのぅ……」

と、曇り顔に弁解致いた。

 仲人ともども件(くだん)の姉娘の一件につき、縷々告げ、その利害をも懇切に訴えたが、番頭からは一向に、はかばかしい答えも貰えずに御座った。

 されば、かの父医師、

「……されど何分にも義理の立ち難きことなれば!……」

と、切に訴えたによって、その場に呼び出されて御座った妻――妹娘――もまた、親の物語りの委細をじかに聴き、詮方ものぅ、仲人ともどもうち連れて、実家へと還ることとはなった。

 さすれば、その日のうちに、姉の夫の方へは、

「妹娘は離縁なして取り戻して御座る。」

と申し伝えたによって、姉婿は、

「しからば元より離縁の子細は御座らぬ。」

とて復縁致いたと申す。

 しかるに――言い忘れて御座ったが――かの父医師は丁度その頃には既に後妻を迎えて御座った。言うまでもなく、かの二人の姉妹はこの継子に当たる訳であったが、その後妻、これ、如何にも心悪しき継母にて、もとより清貧の医師なればこそ、生計(たつき)も火の車のところに、かの妹娘が出戻ったによって、継母の仕打ちは、これ、尋常ではない。陰に陽に酷いいじめを受け、遂には妹子、鬱々として気の病いを患いだしたと申す。

 しかるに、かの優柔不断なる番頭なる男は、頑是ない我が児(こ)を見るにつけ、また、かの妻のことを思い悩んで日を経るに、

「……それにても……妻は不憫のことじゃ……しかれども、未練がましぅかの父医師のもとへ訪ねて、またこちらの言い訳を致いて復縁を乞うも、これ……面倒にして、また叶うこともなかろう。……」

なんどと、ただただ、こちらも鬱々として晴れぬので御座った。

 そんなある日のこと、番頭は自邸の座敷の窓の傍らにて、かねてより好んでおった絵なんどを描きつつ、いつものように、

『……それにしても……飽きた訳でもなくして別れた妻は、如何なして御座ろう……まっこと、不憫なことじゃ……』

と思いつつ、燈下に手を組んで……うつら……うつら……致いては……何か……夢を見た――と思うた

……と……

……そこは

……まさにその窓辺で御座って

……現(うつつ)に

……確かに窓の障子を

――さらさらと

……開ける。……

……そこに顏を出だいた者があった。……

……それを見ると

……これ

……確かに別れたる妻の

……変わらぬ姿にて

……窓の外より手を伸ばし、彼の手をとって、つくづくと見つめておるので御座った。……

 彼も流石に武勇の士なれば、かの妻の姿形をした妖しいものの、その腕をぐいと捕え、その顔を凝っと見つめた。

 しかし、女はものを言う気配もない。

 彼は言った。

「――汝、女の身として、夜分、一人何故(なにゆえ)に来ったか?! 全く野狐(やこ)の、我が心の鬱々たらんを知りおおせて来たったるものでもあろう! 世にはこのようなことがあることは知っておる。我ら、どうして狐狸のために誑(たぶらか)されようか!……もしも、まっこと、我が別れたる妻なれば、何ぞ、その確かな証(しる)しを持ち来たれッ!」

と喝破し、手を放したところが……

――ふっと

……消え失せたのであった。……

 それから四、五日が過ぎた夜のこと、また先におったる窓の下(もと)にて座って御座ったところが……

……例の如く

……障子を開けて

……そこから

――すうっと

……内へ入って参る者があった。……

「何者かッ!」

と、見れば、やはり、かの離別せる妻である。……

……しかし

……この度は

……先とうって変わって

――髪も乱れ

――色青ざめ

――およそこの世の者とも思われぬ体(てい)にて

――胴のあたり

――さらにまた

――脇腹のあたり

――血潮の滴って

――これ見るも哀れ、無惨なる姿の妻であった。……

 その妻が

――懐(ふところ)より、我が子の小袖一つ出だいて、

「……これは……妾(わらわ)……里へ戻る折り……御身の物……吾子(わこ)の物は……これ……残し置き……妾(わ)が身の品のみ……持ち帰えりましたが……外に……つい……包の内へ……この品の紛れ入って……おりました……あなたさまが……『印を』と……仰せられましたによって……かく……持ち参りましたれば……」

と、我が身の儚きことどもを物語るや

――ふっと

……消え失せて御座った。……

 この時、男は――絵にて描くことに達者で御座ったによって――その折りの凄愴なる妻の姿形を仔細に描き写し、それに彩色をも施した。

 さても――凡そありそうもなき――あり得ぬことなれども――番頭はひどく気に掛かって、かの医師の菩提所を訪ねて、そこの和尚を呼ぶと、かの医師の家の墓まで同道の上、

「……かの医師の娘の葬(ほう)りが御座ったか?」

と訊ねた。

「――なるほど。その娘の儀なれば――確かに葬送致いて御座る。」

との答え。

 されば男は、

「……その骸(むくろ)で御座るが……これ……何ぞ、その……変死を物語るようなものにては御座らなんだか?……はたまた、病死という体(てい)のものにて、御座ったか?……」

と急いて訊ねたが、

「……そ、それは分かりませぬなぁ……まあ、見た目はこれ、変死なんどとは思はれぬ御遺体では御座いましたが……」

の由、訝し気に答えたによって、男は僧と本堂へと返し、役僧らも交えた中で次のように語った。

「……今は何をか、つつみ隠し申そう。……実は、かの娘は我が妻なれど、訳あって互いの意志に違(たご)うて離縁致いたるもの。……それが先日の夜……かくかくの……無惨なる体(てい)にて……我らが眼前に現わるるという怪異の……これ、御座った。……」

と具体に語って聴かせた。僧らはその霊の出現の下りを聴ても半信半疑な様子で御座ったが、男がおもむろに見せた、子の小袖の切れ端と、その霊を写した彩色画を見た途端に、皆、真っ青になった。

 その後、

「……さればこそ、どうか、妻のこと、手厚く追善供養致いて下されよ。……」

と、男が布施を施そうとしたところが、住持は、それを押し戻して、

「……い、いや……そ、その儀はお許し下さいませ。……我らも、この墓の施主の医師とは、古き檀家としての縁の御座って、懇意にしておりまするゆえに、この度も手厚く弔(とむろ)うて御座いましたが……が……か、かくも無惨な形相(けいそう)をなして現わるると申す奇談を拝聴致しますにつけ……これ、拙僧の未熟なる法力(ほうりき)にては……とてものことに……成仏致すとも、思われませぬ。……この寺よりこれこれの道を暫くお行きになられた先、少し隔たったところでは御座いまするが、△△寺と申す寺にかくかくと申す僧の御座れば……その御方を頼みとなさるるが、これ、宜しゅう御座いまする。……」

と語って御座った。

 そこで、番頭はその足でその教えられた寺へと赴き、その徳あるとされた僧に面会し、仔細を告げ、小袖と幽霊画を見せたところ、僧は寺僧をことごとく呼び出だし、即座に壮大なる法会と修法(ずほう)を修して呉れたとのことで御座る。

 

 なお、かの亡霊を写した絵を、かの二つの寺の寺内や、その他の機会に垣間見た者は、これ、孰れの者も必ず、ひどい熱病を患ったという。

 しかし、相応の××丸(がん)と申す、かの父医師の家に伝われる秘薬を処方せば、何れもたちどころに全快致いた、とも聞いて御座る。

 

 その後、霊の出現はどうなったか――これは聞いて御座らぬ。

 加えて、幽霊画を見た者が何故(なにゆえ)にことごとく熱病を患ったか――という訳も存ぜぬ。

 何とも話柄総てに、それこそ、怪しい箇所がふんだんに御座るが、ともかくも、聴いたままをここに記しおくことと致す。

2014/07/03

腑に落ちる

「腑に落ちる」という「腑」とは何かを僕らは真剣に考えねばならぬ時にきているようだ――

浅川マキの著作権継承者とは……

浅川マキの著作権継承者は――誰なんだろう?……そんなことを好きな彼女のことを思いながら「皮肉に」考えた……その人に逢ってみたい。そしてその人が継承者として「どんな」人なのかを是非知りたいね……なに……文句を言いたいんじゃない……知りたいだけさ……50年(いいや、もしかすると70年もだ)もあのマキの歌の遺産で生きようと言う御仁の顔を是非とも拝みたいもんじゃあ、ないか…………

橋本多佳子句集「紅絲」 虫たち (Ⅱ)

 

日盛りや脚老い立てる一羽鶴

 

篁に啞蟬迷ひ入りなほ迷ふ

 

甲虫しゆうしゆう啼くをもてあそぶ

 

[やぶちゃん注:非昆虫少年であった私はカブトムシが発情期に五月蠅いほど鳴くという事実を全く知らなかった。こちらの動画で本日只今、初めて聴いた。……情けなや……]

 

拾いたる空蟬指にすがりつく

 

炎天や雀降りくる貌昏く

 

けさよりいくたび秋蝶通る崖の傷

 

隠れ了ふせしと思ひゐるや瑠璃蜥蜴

 

[やぶちゃん注:「隠れ了ふせしと思ひゐるや」これは「かくれしまふ/せしとおもひゐるや」と私は読んだ。上五で――まんまと隠れてしまった――という蜥蜴の内心を代わって詠み、中七で作者の視点から――(そんな風に)隠れおおせたとでもあなたは思っているの? すっかり私にはお見通しなのに――瑠璃蜥蜴さん――。大方の御批判を俟つ。なお、老婆心乍ら附言しておくと、「瑠璃蜥蜴」(るりとかげ)とはそういう和名の種がいるわけではない。有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目トカゲ科トカゲ属ニホントカゲ Plestiodon japonicas の幼体及び成熟した♀の一部で幼体の色彩を残した個体を指す語である。ウィキの「ニホントカゲ」によれば、『幼体は体色が黒や暗褐色で5本の明色の縦縞が入る。尾は青い。オスの成体は褐色で、体側面に茶褐色の太い縦縞が入る。繁殖期のオスは側頭部から喉、腹部が赤みを帯びる。メスは幼体の色彩を残したまま成熟することが多い』とある。]

 

一夜経て朝蛾行方を失へり

 

秋の蝶沼の上にて逢ふものなし

 

いなづまの野より帰りし猫を抱く

 

蚕蛾生(あ)れて白妙いまだ雄に触れず

 

微動しつゝ二つの蚕蛾のまだ触れず

 

野分の家蝶ゐて薄暮過ぎにけり

 

蟇(ひき)をりて吾が溜息を聴かれたり

 

はたはた飛ぶ地を離るゝは愉しからむ

 

[やぶちゃん注:「はたはた」はバッタ。秋の季語である。直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目に属するバッタ上科Acridoidea・ヒシバッタ上科 Tetrigoidea・ノミバッタ上科Tridactyloidea のバッタ類の総称であるが、ここは有意に飛ぶ様からバッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属 Acrida cinerea やバッタ科トノサマバッタ Locusta migratoria また、バッタ亜目イナゴ科イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に属するイナゴ類をイメージした方がよいかとも思われる(本邦産のバッタ類は四十種を超える。但し、ウィキの「バッタ」によれば、バッタには『イナゴ(蝗)も含まれるが、地域などによってはバッタとイナゴを明確に区別する』とあるのでイナゴは除外しておいた方が無難かも知れない)。]

 

寒蟬の一つの聲す死なざりしか

 

ゆきあひて眼も合さずよ野分蝶

 

蟷螂のおのが枯色飛びて知る

 

暮れて鳴く百舌鳥よ汝は何告げたき

 

友蜂の歎きもなくて蜂は死す

 

洗髪同じ日向に蜂死して

 

冬日の蜂身を舐めあかず羽づくらふ

杉田久女句集 248  花衣 ⅩⅥ 門弟をつれて 二句

  門弟をつれて 二句

 

邸内の木の實の宮に歩みつれ

 

木の實降るほとりの宮に君とあり

 

[やぶちゃん注:本句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では『〈昭和四年――昭和十年〉(創作年月未詳)』のパートにあり、同定のヒントもないが、わざわざ「邸内」と言い、その屋敷内に個人的な「宮」(祠)が存在するということになると、私はあの広大な櫓山荘を直ちに想起してしまう。当時の櫓山荘にそうしたお社が存在したかどうかは分からないが、現在の櫓山荘跡の写真を見る限り、「木の實」降るような鬱蒼とした木々の叢の中の社があっても何らおかしくない印象を受ける(寧ろ、幕藩時代の堺鼻、小倉藩の見張番所跡という地形から見ても、海神などを祀るに相応しい所であるように私には思われる)。但し、「門弟をつれて」と前書きしてその門弟の「邸内」というのはやや奇異な印象を受けるものではある。私の誤釈かも知れない。なお、少なくとも二句目の「木の實」は底本の索引から「このみ」ではなく「きのみ」と読んでいることが分かる。]

寄稿(短歌三十二首)   山之口貘

 寄稿(短歌三十二首)

 

山暗み灰色の雲ひくう垂れて心おもたき八重山の旅。

 

吾が舟を波のまにまに浮ぶれば水底(めなそこ)暗くものおぢのする。

 

海士の子等貝とたはむる渚邊に音もなく寄す白き泡かな。

 

嶋がくり白帆見えじな南の空ほがらなり海ひろごりぬ。

 

 

年まさる友は今なほ山房に古服を着て彫刻(ほりもの)すらん。

 

この山の古(ふり)の曲玉ぬすみなば大蛇出で來て魂を捕ふと。

 

樹の繁み烏はばたきあゝと鳴くこころものうき山行きの午後。

 

來ては去り去りてはまた來し雨雲に心おちつかぬ八重山の旅。

 

吾が旅におそろしき隱謀(たくらみ)するごとく船を追ひくる大魚の群。

 

鰹節製造人の色黑き群に交れる日のさびしかな。

 

腕太き船人達の傍觀もよろしと思ひし日等もありしが。

 

つかつかとわが立ち寄れば肩と肩餘りに差あり勞働者なりき。

 

しまらくは父と共に働けと云はれし日なりがやぶきの家。

 

しまらくは戀も止めますと皮肉言ひて濱邊の夜を唄歌ひゆく。

 

接しても見ぬ人達の生活(くらし)にはかれこれ文句を言ふまじと思ふ。

 

朝な朝な嫉妬の心いらだちぬ名あげしゑかきは永吉なりき。

 

ゑかき等の名あげしうはさも聞くまじと今は思へり家事にいそしむ。

 

初戀の女なりしが銀行員と共に我を嘲(はら)へる夢さめし朝。

 

八重山の町のはづれをくろ焦げし福木並立てり牛の聲する。

 

人等みな素足(はだし)にて歩(ゆ)く大道をかげろひやまず白砂つづけり。

 

さすらひの感傷の癖も忘れかぬる大いなる歌と思ひし日かな。

 

金のため生くるともなく藝術のために生くるともなく家事にいそしむ。

 

借金の催促者なりき顏高く空を仰ぎぬ唾吐きてゆく。

 

常になく我に力の自信ありて凝つて睨みぬ眼と眼うごかす。

 

あはれこれもさすらひ人のうつつなり朝のねざめにふと思ふ女。

 

戀せよと告げし人等をかなしめり生活(くらし)の隅より錆の出づる日。

 

あはれ女飯(いひ)のごとくになれよかし戀の痛みの多き我かな。

 

灰雨にも正秋にもかくれ來し旅の夕べは風面に吹く。

 

灰雨靑年と會えば何時も泣きごとの歌人達を共に卑しめ

 

友の多くはふるさとにあり靑白きさびしみを知る濱に照る月。

 

ふるさともなき心地なり我が性をさびしみ給え故里の友

 

友多く持てるがかなし旅立ちぬ濱にゆきしがあをめる月のみ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。表記通り「灰雨靑年と」及び「ふるさとも」の末には他に打たれている句点がない。初出は大正一三(一九二四)年七月二十一日附『八重山新報』。標題「山原行吟の歌」。掲載紙の標題は「寄稿」とあるのみで、ペン・ネームは「山口三路」。底本はタイトルを「短歌三十二首 八重山放浪時代」とする。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題で松下博文氏は本歌群の創作を沖繩産業銀行八重山支店支店長として石垣島にいた父重珍の元へと赴いた(大正十二年十二月)には後と推定されておられる。全体の歌柄からも頷ける。なお、創作時のバクさんの動向については前の「短歌十三首 山原吟行の歌」の私の注を参照されたい。

「吾が舟を」の「水底(めなそこ)」「水底」を「めなそこ」と読む例や方言などは管見する限り、見出し得なかった。このルビは初出紙編者による「みなそこ」の誤読である可能性が高い。崩した仮名の「み」と「め」は一見似ているからである。

「朝な朝な」に出る「ゑかきは永吉」について、現在ならばただ名のみで特定出来得る画家は画家で作家の山里永吉(やまざとえいきち 明治三五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)である。日本美術学校中退で田河水泡や村山知義と交わって『マヴォ』同人となり、昭和二(一九二七)年には郷里沖縄へ戻って脚本や新聞小説を書いた。戦後は琉球博物館長・琉球芸能連盟会長(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。但し、バクさんより一つ年上(当時永吉は二十二歳)なだけであるし、細かい事蹟も分からないので彼に完全に比定することは出来ない。

「初戀の女なりしが」の「嘲(はら)へる」のルビは単なる古語風に表記したバクさん自体の誤り(国語学上、語頭音の「わ」は「は」に直さない)ともとれるが、実は仮名の崩し字の「は」と「わ」も非常によく似ているものがあり、これも初出紙編者による誤読である可能性が疑われる。「初戀の女」バクさんの随筆「ぼくの半生記」の中に、既に何度か知るしたバクさんの熱烈な初恋の相手であった(彼女の一方的婚約破棄やその後の復縁慫慂、バクさんの拒否など複雑な経過を辿った相手でもあった)呉勢(ごせい)についての最後の下りがあり、そこには『まもなくゴセイが、ある銀行員と婚約を結んだことが町の話題となったのである』とある。これは「ぼくの半生記」の前後の記載から大正十二年中のことであることが分かる。

「八重山の」の「福木」とは常緑高木のキントラノオ目フクギ科フクギ Garcinia subelliptica のこと。以下、ウィキの「フクギ」によれば、樹高は十~二十メートルで、『葉は対生で、長楕円形または卵状楕円形で長さ』八~十四センチメートル、『雌雄異株で、花期は』五~六月。一・五センチメートル『ほどのクリーム色の5弁花を葉の付け根に咲かせる。果実は直径』三センチメートルほどで、三~四個の『種子を含む液果で黄色く熟し、クビワオオコウモリ等のオオコウモリ類の餌となる』。『フィリピンに分布』するが、『日本では沖縄県や奄美群島等で防風林・防潮林として植栽されている。日本のものは帰化(移入)とされている』が、『八重山諸島(石垣島、西表島、与那国島)には自生個体もあるという見解もある』とある。『フクギは並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林となる。沖縄県の本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」(「チュラ」は「美しい」、「清らか」の意味)などが有名である。奄美方言の地方名では「火事場木」を意味するクヮジバギといい、緑の壁のように植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされる』。

「金のため」の「家事」は文字通り、普通日常の家事と思われる。当時の状況はまさに先に旧全集年譜から引いた如く『るんぺんのような生活』であったからである。

「あはれこれも」の「朝のねざめにふと思ふ女」(及び以下の短歌に出る女)とは時系列から見て「ぼくの半生記」の中に出る、呉勢(ぐじー)の件が片付いた後、またしても悩んだ恋の相手(呉勢に出逢う前の小学生時代からの憧れであった)『M子』(最終的には縁談を申しこんで既に相手があるとして断られたとある)のことであろうと思われる。

「灰雨」は次の一首冒頭の「灰雨靑年」という呼称から、下の「正秋」とともに人名である。孰れも「かいう」「せいしゆう(せいしゅう)」と音読みであろう。前者は國吉灰雨、後者は石川正秋である。この二人、バクさんの随筆「酒友列伝」の一節で以下のように連続して並んで語られているバクさんの盟友であった(底本は旧全集。)。

   《引用開始》

 ぼくは、上京した翌年の九月一日の関東大震災が機会になって、一応、沖縄へ帰ることが出来た。ところが、途端に父の事業が失敗して家を失ったり、恋愛に失敗したりで、云わば放浪生活の基礎が出来たのである。そのころの友人達はみんな酒につよかった。詩人の国吉灰雨、上里春生、伊波文雄、桃原思石、歌人の石川正秋、仲浜星想その他で、ぼくらは「琉球歌人連盟」を組織し、歌会を催してはよく飲んだ。その雰囲気は、先ず酒の点で牧水の歌に直結し、若さの点で、啄木の歌に直結していて、酔っぱらっては牧水や啄木を朗詠しながら夜の街を歩いた。なかでも、石川正秋の朗詠はみんなを感心させるものであったが、かれの作にも酒の歌が多く、「酔いしれる父に孕みて産みし子のその酒好きを憂い給うや」などと、母に捧げる歌もあった。酔っぱらってうたうと、おなかが空いてくるらしく、正秋はよくそば屋にはいった。そばを食べるときっと、帯をほどいてそれを金の代りにしてそば屋において、前をはだけたまま家に帰るのも、かれの癖の一つみたいであった。かれが酔って帰ると、おふくろさんや妹さんが、必ず水を枕もとに置いた。水は、二升入りほどの手桶になみなみと入れてある。翌日眼を醒ましたときに、かれはその水を呑んでは吐き出し、呑んでは吐き出すのであるが、かれ自身の解説によると、「胃袋を洗っている。」とのことであった。

 酒の席から中座する癖のあるのは、詩人の灰雨であった。かれと飲んだことのある人なら、誰もが知っていたのである。かれは年齢的にも、詩人としても、ぼくの先輩で、ぼくは殆ど毎日かれを訪ねて、色々と迷惑ばかりかけていた。そういうかれが、ある日の朝、珍らしく、はじめてぼくを訪ねて来た。しかしかれは、折角訪ねて来たのに、上れと云っても上らず、垣根のところに立ったままで、いま警察から出て来たところだと云った。事件は、ぼくらと飲んだ夜のことで、灰雨は例によってみんなに気づかれないように中座はしたものの気分がわるくなって来たので、一休みさせてもらうつもりで途中のしるこ屋に立ち寄ったが、店には誰もいないのでそのまま片隅のテーブルにうつ伏せになってしまったとのことだった。そこへまもなく、サーベルの音と靴の音がしたので、ふと灰雨は顔をあげてみたのだが、かれは立ち上って、いきなりその警官の横面をなぐりつけてしまって、とうとう警察へ引っ張られたとのことだった。

 ぼくはその日、灰雨から頼まれた伝言を持って、かれの家に届けた。

「灰雨は四、五日国頭へ旅行すると云ってましたから、今日か明日は帰って来る筈です。」

 そこで、灰雨の行方がわかったわけで、かれのおふくろさんは安心した様子であったが、灰雨は、留置場での汚れを洗い落してから、国頭旅行からの帰りみたいな顔をして家に帰ったらしいのである。

 

  神はマリアを淫(おか)した如く

  すべての

  処女も淫(おか)している

  青年は

  神から

  処女をも奪還しなくてはならない

 

 この詩は、灰雨の作で「不良少年の歌」と題する詩の一節なのであるが、こうして現在でも記憶しているはど、ぼくはかれの詩を愛読していたのである。

   《引用終了》

「ふるさとも」「さびしみ給え」の「給え」はママ。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 34 尾花沢 Ⅰ 涼しさを我宿にしてねまる也

本日二〇一四年七月 三日(陰暦では二〇一四年六月七日)

   元禄二年五月十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 三日

である。この日、芭蕉は尾花沢に着き、土地の豪商で紅花問屋であった鈴木清風(島田屋)の饗応を受け、五月二十七日(グレゴリオ暦七月十三日)に山寺へ発つまで、十泊して英気を養った。

 

涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也

 

[やぶちゃん注:紅花の収穫期に当たったため、清風は芭蕉と曾良の宿所として村外れの閑静な天台宗の弘誓山(ぐせいざん)養泉寺をそれに当てた。句自体は五月二十一日と二十三日の両日の清風宅で行われた饗応の席の孰れかで巻かれた歌仙「すゞしさを」の巻の発句で、

 

すゞしさを我がやどにしてねまる也      芭蕉

   つねのかやりに草の葉を燒(たく)   淸風

 

なお、別に清風を発句とする歌仙「おきふしの」の巻も巻かれており、そこでは

 

おきふしの麻にあらはす小家かな       淸風

   狗ほえかゝるゆふたちの蓑       芭蕉

と芭蕉が脇を付けている。

 事実としては清風宅へ招待されて通されたまさに清風、涼風(すずかぜ)吹く座敷での寛ぎを詠じた事実に基づく挨拶句(「曾良随行日記」によれば初日の五月十七日とこの両日は清風宅に泊まってはいる)乍ら、寧ろ心尽くしで既に提供されてある養泉寺で、義経・西行所縁の一つの目標点であり、しかも最北到達点でもあった平泉の嘱目を終え、長く困難であった仙台以降の旅の疲れが、この静謐な尾花沢の山寺ですっかり癒されたことを言祝ぐ一種の祝祭の意を底に含む句のように私は詠む。ここに必要なのは立派な座敷ではなく、無人の板敷の寺の本堂であり、そこの「涼しさ」の中に独り心地よさそうに文字通り「ねまる」芭蕉の姿を見てこそ句の真意は知れるというものだ。私のこの句から受けるイメージは以下のような諸家の読み解く標準レンズの構図には一向に収まりきらない(以下のような解釈だけならば、解釈の必要がない。「奥の細道」の前書本文がそう述べてしまっているではないか)のである。

「ねまる」寛いで休む。無論、他にも寝る・臥すの意も持つ。安東次男や山本健吉はこれを訪問の折りに清風若しくはその家人が用いた芭蕉への労いの言葉であったと捉え(山本は「ねまる」を『うちくつろいで坐ることの出羽方言』とする)、それを『当意即妙に』(山本)『裁ち入れて返したところに俳諧がある』とする。

 以下に「尾花沢の段」を総て示しておく。

   *

尾花沢にて淸風と云ものを尋ぬ

かれは冨るものなれとも心さしさす

かにいやしからす都にも折々かよひて

旅の情をもしりたれは日比とゝめて

長途のいたはりさまさまともてなし侍る

  涼しさを我宿にしてねまる也

  這出よかひやか下のひきのこゑ

  まゆはきを俤にして紅粉の花

  子飼する人は古代のすかた哉  曾良

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇かれは冨るものなれども、心ざしさすがにいやしからず

 ↓

●かれは富るものなれども、志いやしからず

 

○都にも折々かよひて、旅の情をもしりたれば

 ↓

●都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば

[やぶちゃん注:個人的にこの「さすがに」の改稿はまさに文章の彫琢を知る者にのみに出来る推敲であるという気がする。

■やぶちゃんの呟き

 残りの句は以下、尾花沢滞在に合わせてゆるゆると分割して掲げようと思う。因みに「まゆはきを俤にして紅粉の花」は尾花沢ではなく、立石寺へ赴く途次の紅花に触発された艶なる吟である。ゆっくらと参ろう――「奥の細道」の旅は、急いては、孤高の詩人の心を、遂に見逃すこととなる――

「子飼する人は古代のすがた哉」この曾良の句はここでの嘱目吟ではない。「曾良俳諧書留」の高久宿の「時鳥」の句の後、須賀川の相楽等躬宅での歌仙「風流や」の前の部分に、

落くるやたかくの宿(しゆく)の時鳥   翁

木の間をのぞく短夜の雨   曾良

    元祿二年孟夏


蠶する姿に残る古代哉          曾良


  奥州岩瀨郡之内須か川

    相樂伊左衞門ニテ

風流の初やおくの田植歌         翁[やぶちゃん注:以下略。]

という酷似した句形で出るからで、実際には白河前後の嘱目吟と推定される。先の芭蕉の「這出よかひやか下のひきのこゑ」が「万葉集」の「巻十 秋相聞」にある作者未詳の第二二六五番歌、

 朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下に鳴く河蝦(かはづ)聲だに聞かばわれ戀ひめやも

や、同「巻十六 由縁ある雑歌」にある河村王(かわむらのおおきみ:伝未詳。)の第三八一八番歌、

 朝霞鹿火屋が下の鳴く川津(かはづ)偲ひつつありと告げむ兒(こ)もがも

に基づくもので(詳細は後掲)、そのインスパイアされた時代を遙かに遡った実景を、さらに読者の眼前に重ねさせるために、この時代詠染みた句が敢えてここに配されたものと見てよい。]

2014/07/02

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(24) 酒場の一隅より(Ⅳ)

 

わが隱袋(かくし)かの色文とピストルと

爭ひつゝも七日共棲む

 

[やぶちゃん注:「隱袋」は原本は「隱衣」。誤字と断じて、校訂本文と同じく「隱袋」とした。]

 

きちがひになりたくなりて爪屑を

火鉢にくべて見て居たるかな

 

[やぶちゃん注:爪を焼く香りは火葬場の臭いとはよくいう(当然である)が、個人サイト「鰹乃國の万談義」のこちらの「おぢやん おばやんの言い伝え」の記事の中に土佐では「爪を燃やすと貧乏になる」「爪を燃やすと気がふれる」ともいうらしい。]

 

わがために二二ンが五たるそのことの

ある日を思ひ生くる愚かさ

 

[やぶちゃん注:「思ひ生くる愚かさ」は原本は「思ひ生ぐる禺かさ」。孰れも誤字と断じて校訂本文を採った。]

 

横町のぼんくら安も人竝み

我を説かんと日をおきて來る

 

我が髮をわれとむしれる習慣(なはらし)の

久しくなれば櫛も通らず

 

[やぶちゃん注:私ことながら、この一首、タイプしながら、私が小学校三年生の頃、一時、眉毛を引き毟る神経症的な癖が起こり、遂に右眉が半分位なくなってしまい、母が眉描きで描いて呉れたのを思い出した。]

 

EGOIST われも酒場によこたはり

將棊に負けしことを悲しむ

 

[やぶちゃん注:「將棊」の「棊」は「棋」の異体字。]

 

 新思想と國體

新しき此の國の人犬のごと

口籠(くちご)せられて生くるはかなさ

 

わが酒場かの黨員と日毎きて

カルタきるより樂しきはなし

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「樂しきはなし」の「樂」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「酒場の一隅より」歌群の終了を示している。]

橋本多佳子句集「紅絲」 虫たち (Ⅰ)

 虫たち

 

こがね虫朝は殺さず嘆きけり

 

翡翠(かはせみ)の飛ばねばものに執しをり

 

夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 

くらがりに捨てし髪切虫が啼く

 

髪切虫押へ啼かしめ悲しくなる

 

うつむきてゐるは髪切虫と遊ぶ

 

わがそばに夜蟬を猫が啼かし啼かし

 

青みどろ蛇ゆきし跡さらになし

 

蟻地獄孤独地獄のつゞきけり

 

断崖へ来てひたのぼる螢火は

 

螢籠昏ければ揺り炎えたゝす

 

水鶏笛吹けばくひなの想ひ切

 

[やぶちゃん注:「水鶏笛」は「くひなぶえ(くいなぶえ」と読み、クイナを誘い出す(食用で串焼きなどにした)ためにその鳴き声に似せて作った笛。伊賀市観光公式サイト「いがぶら」のくひな笛に画像がある。吹くのにはかなりコツがいるらしい。音源を探してみたが見つからなかった。これ、欲しい。]

 

おはぐろ蝶雨すぐ止んですぐ降つて

 

[やぶちゃん注:「おはぐろ蝶」チョウ目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属クロアゲハ Papilio protenor 若しくはその近縁種を指すか。]

 

蟻走りとゞまり走り蟻に会ふ

 

隠るゝもの青蛇の尾のなほ余る

 

人来るひとり蜈蚣を押へゐれば

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「蜈蚣」は「むかで」と読む。]

 

さかしまにゐて蟷螂よこのまゝ暮るゝか

 

毛虫焼く焰が触るゝものを焼く

 

いなびかり毛ものゝ背に手触れゐて

 

愛されずして油虫ひかり翔つ

 

熱砂ばかりもし青蜥蜴失なはゞ

 

[やぶちゃん注:この句、妙に惹かれる。]

杉田久女句集 247  花衣 ⅩⅤ

 

星の竹北斗へなびきかはりけり

 

うち曇る空のいづこに星の戀

 

板の如き帶にさゝれぬ秋扇

 

わが描きし秋の扇に句をしるす

 

蟲をきく月の衣手ほのしめり

 

籠の蟲夜半の豪雨に鳴きすめり

 

蟲籠をしめし歩みぬ萩の露

 

放されて高音の蟲や園の闇

 

草むらに放ちし蟲の高音かな

 

鳴き出でてくつわは忙し籬かげ

 

椅子涼し衣(そ)通る月に身じろがず

 

月涼しいそしみ綴る蜘蛛の糸

 

流れ越す水田の月に涼みゐし

 

大波のうねりも去りぬ鯊(ふるせ)釣る

 

[やぶちゃん注:「鯊(ふるせ)」はスズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に属する広汎なハゼ類(ウィキのゼ」によれば現在発見されているものだけで二一〇〇種類を超えるとある)を指す「ハゼ」の別名である。因みに釣師の間ではハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科マハゼ Acanthogobius flavimanus のうち、特に二年越しの大型の個体を指していうらしい。]

 

鯊釣る和布刈の礁へ下りたてり

 

[やぶちゃん注:「和布刈」は福岡県北九州市門司区門司にある和布刈(めかり)神社のこと。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っている。

「礁」は水面下に隠れる暗礁を指し、「かくれいわ」「いくり」などと訓ずるが、ここは音数律から見ると音の「セウ(ショウ)」の方がしっくりくるように私には思われる。]

 

野菊むらかゞめば風の強からず

 

八十の母手まめさよ萩束ね

 

[やぶちゃん注:年譜上の久女の母のさよの久女出生時の年齢(三十六歳)及び後掲される類型句「八十の母手まめさよ雛つくり」が角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」配されているパートから昭和一〇(一九三五)年の句であることが分かる。]

 

山萩にふれつゝ來れば座禪石

 

塀外へあふれ咲く枝や萩の宿

 

門とざしてあさる佛書や萩の雨

 

唐もろこしの實の入る頃の秋涼し

 

唐黍を焼く子の喧嘩きくもいや

 

不知火の見えぬ芒にうづくまり

 

戻り來て植ゑし萱草未だ咲かず

 

佇ちつくすみ幸のあとは草紅葉

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年の秋、『大伴旅人、山上憶良、観音寺別当の沙弥満誓(さみまんぜい)』(生没年不詳。万葉歌人。俗名を笠(かさの)朝臣麻呂(まろ)。和銅年間に美濃守として優れた国司振りを見せ、また木曾道を開いたりし、尾張守を兼ね、養老年間には尾張・三河・信濃の三国の按察使(あぜち)も兼務、右大弁として中央政界に復帰するが、元明上皇病臥に際して自ら申し出て出家、養老七(七二三)年には造筑紫観世音寺別当として西下して大宰帥大伴旅人らと交わった。人間味豊かな短歌七首を「万葉集」に所収する。ここは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)『などが集った筑紫万葉歌壇の舞台、大宰府、都府楼趾を訪れた』折りの句である(引用部は坂本宮尾「杉田久女」より)。「み幸」とは行幸伝承のある天智天皇のことを指すか。]

 

大なつめ落す竿なく見上げゐし

 

人やがて木に登りもぐ棗かな

 

なつめ盛る古き藍繪のよき小鉢

 

[やぶちゃん注:「藍繪」は「あゐゑ(あいえ)」と読み、陶磁器の呉須(ごす:磁器の染め付けに用いる藍色の顔料。主成分は酸化コバルトで他に鉄・マンガンなどを含む。天然には青緑色を帯びた黒色の粘土(呉須土)として産出する)の染め付け模様のこと。]

 

銀杏の熟れ落つひゞき嵐くるらし

 

銀杏をひろひ集めぬ黄葉をふみて

 

旅たのし葉つき橘籠(こ)にみてり

 

蜜柑もぐ心動きて下りたちぬ

 

掃きよりて木の實拾ひや尉と姥

 

わけ入りて孤りがたのし椎拾ふ

 

邸内に祀る祖先や椋拾ふ

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:「椋」マンサク亜綱イラクサ目ニレ科エノキ亜科ムクノキ Aphananthe aspera 。春に開花した後に直径七~十二ミリメートルの緑色球状の果実(核果)をつけ、十月頃になると黒紫色に熟し、果肉は甘く食べられる。干し柿に似た味がするとされる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 33 尿前 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと

本日二〇一四年七月 二日(陰暦では二〇一四年六月六日)

   元禄二年五月十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 二日

である。この日の前日、芭蕉は尿前の関を越えた。

 

蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと

 

蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと

 

蚤虱馬のばりこくまくらもと

 

蚤虱馬の尿(ばり)つく枕もと

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は曾良本「おくのほそ道」の、第三句目は「泊船集」の、第四句目は「俳諧古今抄」(支考編・享保一五(一七三〇)年跋)のそれぞれの句形。私は永らく響きからも「馬の尿(しと)する枕もと」が断然よいと感じ続けてきたが、この別稿や以下の自筆本を見ると芭蕉は当初は一貫して「ばり」と読んでいたことが分かる。なお、「広辞苑」などで「しと」は人の尿で、「ばり」は特に動物の小便であるとする説もあるが「すばりする」という動詞の近世の用法から考えるとそれを以って「ばり」とするのは必ずしも唯一正統なる結論であるとは思われない。それはそれとして、私は今は、実はこれは――「ばり」――こそ芭蕉の描きたかった俳諧の音楽であったのだと感じている。仙台の方言に小便をするを「ばりつく」とあることが「日本国語大辞典」にも載る。則ちこれは芭蕉が実際に現地で聴いた生(ナマ)の言葉であったのだ。およそ歌語とは極北の「尿」を奇異な地名として新歌枕に詠み込み、しかもそうした土地の民族語彙としての「馬のばりついた!」という新鮮な響きに拘ったのが一貫した初期形に表われているのだと思うのである。結果的にその強烈さが、「奥の細道」前後や全体の風雅の推敲過程でやはり雅びに着せ替えさせられてしまい、句を「尿とする」の「とする」とした瞬間、芭蕉は「ばり」の響きも「しと」と変ずる思いを許さざるをおえなかったのかも知れない。それでもしかし、芭蕉の耳には――「ばり!」――が奥の細道のまさに極北の強烈なシンボリックな響きとして残響しているのだと私は思うのである。

 以下、「奥の細道」の「尿前の関」の段。

   *

南部道はるかにみやりて岩手の

里に泊る小黑崎水の小嶋を過て

なるこの湯より尿(シト)前の關にかゝ

りて出羽の國に越むとす此道

旅人稀なる處なれは關守に

あやしめられて漸にして關を

こす大山をのほつて日既暮け

れは封-人の家を見かけて舍

を求三日風-雨あれてよし

なき山中に逗留す

  蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと

あるしの云これより出羽の國に

大山を隔て道さたかならされは

道しるへの人賴て越へきよしを

申さらはと云て人を賴侍れは

-竟の若者脇指をよこたへ樫の

杖を携て我々か先に立て行

けふこそ必あやうきめにもあふへき

日なれと辛きおもひをなして

後について行あるしの云にたかはす

高山森々として一鳥聲きかす木

の下闇茂りあひて夜行かことし

雲端に土ふる心地して篠の中蹈分

蹈分水をわたり岩につまついて

肌(ハタヘ)につめたき汗を流して最上の

庄に出かの案内せしおのこの云やう

この道必不用の事有つゝかなう送り

まいらせて仕合したりとよろこひて

わかれぬ跡に聞てさへ胸とゝろく

のみ也

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇漸にして → ●漸(やうやう)として

○脇指   → ●反脇指(そりわきざし)

■やぶちゃんの呟き

「南部道はるかにみやりて」南部藩の領地(現在の盛岡市を中心とした一帯)へと通ずる街道。「奥の細道」の北限は当初より平泉定まっていたが、放浪詩人芭蕉の心情としては極北への思いがいやさかに昂まっていたことは想像に難くない。

「岩手の里」「いはでのさと」と読む。現在の宮城県大崎市岩出山。

「小黑崎」「水の小嶋」現在の宮城県大崎市鳴子にあった歌枕。

「なるごの湯」現在の宮城県大崎市鳴子(なるこ)温泉。鳴子は東北弁では「なるご」と濁り、「奥の細道」でも現在、「なるご」と濁って読まれている。

「尿(シト)前の關」わたなべあきら氏のサイト「おじさんジャーナル」の「『おくの細道』をよむ」の「尿前の関」によれば、『尿前という地名はもともとアイヌ語地名で「山裾=シュツ・根もとの意・にあるところ=オマイ」に由来すると、山田秀三はのべている。尿前の関址はたしかに山裾の林の中にある』。『アイヌ語で尿前とおなじ意味をもつ地名が津軽半島にある。十三湊(市浦村)から小泊港へいく道を途中から左に折れ、権現崎(小泊岬)の山裾に降りていくと、南に面した下前(したまえ)という漁業部落がある。私も幾度か立ち寄ったことがあるが、ある年の秋晴れの日に、日本海をへだてて下前から見た岩木山の光景は今も忘れがたい』。『このアイヌ地名に、後になって和人が漢字を宛てた。尿前はいかにも異様であり、命名者はわからないが、その地名はわたしたちを捉えて離さない』とされ、最後に『国文学者の久富哲雄氏は「尿」をしとと読んでいますが、谷川氏の「ばり」との読み方はいかにも馬の小便のようで、私はふさわしい読み方だと感じます』と述べておられる。今こそ私は確かにそう感じているのである。

「出羽の國」現在の山形県と北東部除いた秋田県。

「關守にあやしめられて漸(やうやく)にして關をこす」「あやしめられて」はマ行下二段活用の動詞「怪しむ」の未然形に受身の助動詞「らる」で「あやしまれて」と同じい。「曾良随行日記」を見ると(一部の字下げを無視した)、

一 十五日 小雨ス。右ノ道遠ク、難所有ㇾ之由故、道ヲカヘテ、二リ、宮。○壱リ半、かぢは澤。此邊ハ眞坂ヨリ小藏ト云カヽリテ、此宿ヘ出タル、各別近シ。

○此間、小黑埼・水ノ小島有。名生貞(ミヤウサダ)ト云村ヲ黑崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小嶋也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。

壹リ半尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。澤子ノ御湯成ト云。仙臺ノ説也。關所有。斷六ケ敷也。出手形ノ用意可ㇾ有ㇾ之也。壹リ半 、中山。

○堺田(村山郡小田嶋庄小國之内)。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五六丁先ニ堺杭有。

○十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿(和泉庄や、新右衞門兄也)。

とあって、難所と聞いて事前に想定していた街道を変更した結果、尿前の関所の通行手形がなかったために、実際に関所で足止めを喰らい、往生した事実がこれで分かる。

「大山」は一般名詞で奥羽山脈の尿前の裏山から中山峠を越える山塊を指している。

「封-人の家を見かけて舍を求」の「封人」の「封」は国境で、そこを管理守備する役人の意。前に示した「随行日記」に見える、新庄と伊達の国境の新庄藩側の守備管理を命ぜられていた堺田村(現在の山形県最上郡最上町堺田)の庄屋有路家(ありじや)新右衛門のこと。実際には「よしなき山中」(止むを得ずかくも山深い土地)ではあったものの、相応に大きな屋敷であった(現在復元されてある)。難儀を演出する芭蕉の常套手段であり、さればこそ「蚤虱」の句を頗る効果的に際立たせるのである。

「樫の杖」これは杖というよりもいざという時の棍棒であって、前の脇差とともにこのシークエンスのスリリングさを、弥が上にも昂める効果を確信犯で狙って、「けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと辛きおもひをな」して、びくついている芭蕉と曾良をフレーム・アップするのである。

「高山森々として一鳥聲きかず」山中独座の隠逸詩である王安石の七絶「鐘山即事」の結句「一鳥不啼山更幽」(一鳥啼かず山更に幽なり)に基づく。

「雲端(うんたん)に土ふる心地して」杜甫の七律「鄭駙馬宅宴洞中」(鄭鮒馬が宅にて洞中に宴す)の一節「已入風磴霾雲端」(已に風磴(ふうとう)に入れば雲端に霾(つちふ)る)――もうすでに、涼しい風のよく抜けてゆく石段の路に入れば、雲の端の方から何ともかえって匂うような土埃が吹き降ろしてくるのである――をインスパイアしたもの。この二箇所の引用を見ただけでも、表面上の難路を謂いながらもその実、その自然と一体になって秘かに楽しんでいる風狂人芭蕉の姿が垣間見える。

「最上の庄」現在の山形県北村山地方一帯。

「不用(ぶよう)の事」不用心な出来事。山賊などの害をいう。]

2014/07/01

感懐その六 打止

私ハ――私ガ喰ラハフト思ツテヰタすあまガ既ニシテ黴テヰタヤウニ――私(わたくし)ノ公私ノ世界ソノモノガ已ニシテ黴テヰタコトヲ哀シク思フノデス――

感懐その五

その男は余程の馬鹿である。「誤解」しているのはお前自身であることが分かっていないからである。そうしてそういう男を為政者にした我々が遙かに誤解であった――

感懐その四

今日の夕方、アリスを散歩させていたら、杖をついたおばあさんが道に迷っていた。聞くと、そこから一キロ弱のところに家があるという。風呂を沸かしていたのが気になったが、アリスと一緒に家の前まで送っていった。でぶ犬アリスは思わぬ一時間半の散歩にゼイゼイとなったが――「まあ、いいよ。滅多にない、いいこと、したな、ありす」――

感懐その三

「橋本環奈、天使すぎるノーバン始球式」という見出しを見、私は「橋本環奈」なる人物を知らないが、スポーツ嫌いに加えて老眼の哀しさで「ノーパン」と勘違いし、思わず記事をクリックしてしまったんである――

感懐その二

私ハ今上天皇ニオ聴キシタイ――サウシテ勅命(それは保守派にとっては願ってもないことであろう)ヲオ下シ戴クコトヲ切ノゾム――「私はそれを恐ろしく思います」――ト云フ帝御自身ノ御叡慮ヲ――

感懐

大好キナすあまヲ喰ハフト思ツタ時ニハ黴ビテヰタ――

杉田久女句集 246  花衣 ⅩⅣ

 

上げ潮にまぶしき芥花楝(あふち)

 

[やぶちゃん注:「楝」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の別名。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから別名で「花おうち」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。]

 

籐椅子に看とり疲れや濃紫陽花

 

窓明けて見渡す山もむら若葉

 

歸り來て天地明るし四方若葉

 

新樹濃し日は午に迫る鐘の聲

 

欄涼し鎔炉明りのかの樹立

 

[やぶちゃん注:「鎔炉」の「炉」は迷ったが底本の用字を用いた。電子化している私が「鎔爐」では熔鉱炉を想起出来ないからである。]

 

葉櫻や流れ釣なる瀨戸の舟

 

降り歇まぬ雨雲低し枇杷熟れる

 

わがもいで愛づる初枇杷葉敷けり

 

わがもいで贈る初枇杷葉敷けり

 

手折らんとすれば萱吊ぬけて來し

 

稻妻に水田はひろく湛えたる

 

書肆の灯にそゞろ讀む書も秋めけり

 

語りゆく雨月の雨の親子かな

 

ジム紅茶すゝり冷えたる夜長かな

 

[やぶちゃん注:「ジム紅茶」タイ・シルクのブランドで知られるジム・トンプソンの紅茶のことか。]

 

領布(ひれ)振れば隔たる船や秋曇

 

[やぶちゃん注:「領布」上代や中古、主に女性が首に掛けて両肩から垂らした細長い白い布。羅(薄絹)や紗(しゃ)などで作られ、本来は呪具として呪(まじな)い・神事・護身のために用いられたが、後には装飾品ともなった。領巾・肩巾・比礼とも書く。]

 

掘りかけし土に秋雨降りにけり

 

ヨットの帆しづかに動く秋の湖

 

[やぶちゃん注:「ヨット」の拗音表記はママ。]

 

走馬燈灯して賣れりわれも買ふ

 

燈を入れて今宵もたのし走馬燈

 

走馬燈いつか消えゐて軒ふけし

 

ころぶして語るも久し走馬燈

 

[やぶちゃん注:「ころぶして」の「ころぶす」とはサ行四段活用の動詞「自伏(ころぶ)す」で、「ころ」は自分独りの意。自分独りは横になって、の意。相手は娘たちであろう。]

 

一人居の岐阜提灯も灯さざり

山原行吟の歌(短歌十三首)   山之口貘

 山原行吟の歌(短歌十三首)

 

獰猛と呼ばれし友は何時となく山村に住みて言葉おとなし。

 

旅にゆく心なつかしあかつちの丘のあいまを途はうねるも。

 

山々はむらさき色に變りゆく夕暮の里はものさびしかな。

 

山國の旅はかなしも吾が心夜更けて宿にものおもひする。

 

酒をのむ部屋のちくらく山村の友は失戀のものがたりする。

 

北海に瀨底の嶋は舟のごと浮かべる背より四方(よも)の潮見ゆ。

 

月冴えて瀨底の嶋のぐるりには海鳴りの音ものさびしかな。

 

さむみゆく瀨底の島の沖あひに伊江島の影は淡く見ゆるも。

 

見にゆかん麗はしの乙女伊江島の燈台守りてあるときゝしを。

 

燈台守りの娘うるはしと噂きく吾等の旅路つかれおぼえず。

 

ゆきあふ人等かへりかへりて吾等が旅路ぼろ馬車はゆく。

 

吾が心慰めるごと今宵この酒をもて來し友に涙す。

 

來て見ればさすが山原は歌の國かへる日を見ず旅重ねゆく。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一三(一九二四)年二月十一日附『八重山新報』。標題「山原行吟の歌」でペン・ネームは「山口三路」。言わずもがな乍ら、前年(バクさん二十歳)、関東大震災の被災者特典によって沖繩那覇に帰郷後の、沖繩本島本島北部山原地方を彷徨した折りの詠歌。但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、バクさんはこの大正十二年十二月には、当時、石垣島の沖繩産業銀行八重山支店支店長の職にあった父重珍のもとに向かっており、歌稿の投稿自体はそれ以降(恐らくは大正十三年に入ってから)のものと推定されている。旧全集年譜は文芸活動以外のこうした具体的事実記載が記していない代わりに、同年の条には『山城正忠(明星派歌人)主唱の琉球歌人連盟』に入り、『上里春生らとともに幹事となる。中山一の提案で泊汐渡橋』(こういう橋は現在の那覇にはない。思うにこれは那覇市の西の泊港の湾奧にある潮渡橋(しおわたりはし)のことと思われる。泊高橋(とまりたかはし)というのが直近にあるが、この「泊汐渡橋」は港の名を冠したものであろう)『附近に民家を借りて事務所とし、貝かに洗濯屋を開業してそこに起居する。地方にいる歌人とも交流する一方、丹青協会や二葉会』(恐らくは孰れも当時の沖繩県内の美術会派と思われる)『に静物や自画像などのリアルな作品を出品したりするが、間もなく琉球歌人連盟は自然消滅、二度目の恋愛にも破れ、るんぺんのような生活を始める』(「るんぺん」はママ)という記載がある。

「瀨底の嶋」瀬底島(せそこじま)。現在の沖縄県国頭郡本部町に属し、本部(もとぶ)半島の西方沖約六百メートルの東シナ海上にある。島全域は本部町の大字である「瀬底」に属す。沖繩方言で「瀬底」は「しーく」また「しすく」と呼ばれる(以上はウィキ瀬底島に拠る。その他の地名は私には分かるので注を施さない。悪しからず)。

「ゆきあふ人等」の「かへりかへり」後半は底本では踊り字「〱」。

「酒をのむ」「部屋のちくらく」の「のち」は「部屋の内・中」で、格助詞「の」に名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化した万葉以来の古語の連語「ぬち」の転訛したものと思われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 神武寺

    ●神武寺

沼間の神之嶽にあり醫王山之口貘來迎院(ゐわうざんらいかうゐん)と號す、天台宗、鎌倉寶戒寺末境内(けいない)總て石山なり、其山間を穿ち平けて堂宇を建つ、山麓に總門あり、本堂に至る迄凡五町、其道屈曲して甚嶮なり、寺地古は櫻山村に屬すといふ、行基の開基する所。

[やぶちゃん注:「五町」約五四六メートル。

以下の縁起は底本では全体が一字下げポイント落ち。活字が擦れて判読の自身がない字には直下に(?)を附した。]

緣起曰、神龜元年甲子正月中の二日の夜腹の帝の御夢に縱へば晴明なる東の空を叡覽御座に妙なる雲の中に金色の寶塔あり、薰風頻りに自ら御扉開きなり、内より靑き衣着たる童女數多出で玉の簾を褰げられ、醫王善逝の御影あらたかに拜せ御座す、佛御聲を出し告て曰、我いまた衆生濟度の緣扶桑に盡されば法性に還らず、畝火山の御陵を府の嶽に移しすまむ山は夫熊野三ツの峰に同じとて御夢は覺めぬ最恠敷とて叡慮寛かならず、行基沙門に御尋ねましますに、沙門敬而答て云ふ、御陵は世にしろしめさるゝ所なり、至れるかな神武の皇我六合忠(?)穗原の都に大殿造りし五日の風靜かに十日の雨露の惠み、黎民安く御眸に洩るゝなし、天業傳へて千有余年久遠無種の方便併藥師如來にて御座すやと答申されければ則ち勸請あるべきよし宣下ましますにより急き沙門此山に分け入て先づひとつの草宇を結び大誓願を起して云々(下畧)

[やぶちゃん注:略された部分を補おうと思ったが、この縁起はネット上になく、「新編相模国風土記稿」にも載せないため、断念した。情報をお持ちの方はお教え願えると幸いである。

「神龜元年」西暦七二四年。

「帝」聖武天皇。

「醫王善逝」薬師如来の別称。

「寛か」「くつろか」と読み、ゆったりとくつろいで、穏やかなさま。

「六合忠(?)穗原の都」「六合」は「りくがふ」(若しくは「くにうち」と訓じているかも知れない)で天下・本邦、「忠(?)穗原の都」は奈良を指すと思われるがこの文字列は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

斯して一時廢頽せしも文德天皇御宇天安年中慈覺大師中興せしより法燈連綿たり。

[やぶちゃん注:以下、寺内名跡は底本では総て一字下げ。それぞれ行空けして読み易くした。]

 

岩窟 窟中彌勒の像を置く、寺傳に正應三年從二位中原光氏當山に籠て罪障消滅を藥師に祈りしに、此地に在て三會の曉を待つべしとの告ありしかは、偏に菩提心を發し、窟中に入定せしといふ。

[やぶちゃん注:「中原光氏」(建保六(一二一八)年~正応三(一二九〇)年)は鎌倉時代の伶人。以下、主にhouteki氏のブログ『雅楽研究所「研楽庵」』の「中原光氏」に基づいて記す(但し、一部記載に誤りがあったので原記載の検証は改めて行った)。父(又は祖父)は京の伶人中原景康。天福元(一二三三)年、第四代将軍藤原頼経の命により狛近真(こまのちかざね 興福寺所属の伶人)の猶子となる(鶴岡八幡宮での左舞伝承のためかと推測される)。「吾妻鏡」によれば、文永二(一二六五)年四月三日、『御所の鞠(まり)の御壺(おんつぼ)において昨(きのふ)の鶴岡八幡宮での法會の舞樂を引き移』(本来、そこで行われるべきものをこの場に移して執行されたの謂いか)してここで童舞の御覧があったが、その最後で『右近將監中原光氏賀殿(がでん)』(雅楽舞楽の曲名)『を奏するの間、祿物〔五衣。〕を給はる』とあり、また、文永三(一二六六)年九月二十九日、弁財天座像が鶴岡八幡宮舞楽院に奉納されているが、その右脚の裏に『文永三年丙寅九月廿九日/始造立之奉安置舞樂院/從五位下行左近衛將監中原朝臣光氏』という刻銘があって、光氏が弁才天坐像造立の願主であったことが分かる(当時四十九歳。以上は「鶴岡八幡宮」公式サイトの「宝物」の木造弁財天坐像の解説頁に拠った)。当神武寺の弥勒菩薩石像の銘には「大唐高麗舞師/本朝神樂博士/從五位上行/左近衞將監/中原光氏行年七十三/正應三年庚寅/九月五日」houteki氏は、彼は左方の舞及び右方の舞を兼ね、また神楽歌も伝えていたことを示していると附言しておられる。]

 

弘法大師胡麻壇石  山の中腹にあり 方三間許の黑き石なり。

 

女人禁制の碑 奥の院を女人禁制の山と定掟て、堂の北方に碑文を建(たて)らる其文に曰く

[やぶちゃん注:橋本氏の「鎌倉のかくれ里 池子・沼間編」(PDFファイル)によれば現存する(リンク先に画像あり)。

 以下、碑文は底本では全体が半角(全体では一字と半角分)下げのポイント落ち。活字が擦れて判読の自身がない字には直下に(?)を附した。]

抑諸佛文慈悲雖無偏頗十二願王之求長壽得長壽利益尤超世兼又脇士日光月光照晝夜昏暗濟一切群類十二神將七千夜刃者往古(?)深仰之大士也隱法性肌現忿怒形飛行大千界時々除災難刻々令給無數逆類破魔軍依報正報何不得其利誰不遂彼益開山顯(?)一峰高云々

[やぶちゃん注:「夜刃」はママ(但し、最後の第三画は一画の初めから始まり、一画の右縦を貫いて右下に出る。しかしその異体字でも「刃」である)。これは「夜叉」の誤字である。私は原物を見ていないので誤植か否かは不明である。]

 

天狗腰掛松 圍一丈許

[やぶちゃん注:「一丈」三・〇三メートル。]

 

久明親王廟 山上の洞中に五輪塔あり、文字漫滅す、庶人猥らに此に至れは祟りありといふ、鬼簿に親王嘉曆三年十月十四日五十五歳にて薨すと見ゆ

[やぶちゃん注:現存するが拝観不可。失礼乍ら、この程度の事蹟では御霊となるとは思われない。この「祟り」というのは何か怪しい気がする。

「久明親王」(建治二(一二七六)年~嘉暦三(一三二八)年)鎌倉幕府代八代征夷大将軍。後深草天皇第六皇子。正応二(一二八九)年九月に従兄の前(さき)将軍惟康親王が京に送還されたことに伴い、征夷大将軍に就任した。子の守邦親王に代わるまで特に業績もなく、延慶元(一三〇八)年八月に北条氏によって将軍職を解任され、京に送還させられて出家した。冷泉為相の娘との間に子息久良親王がいる。将軍といっても実権を持たない名目的存在で幕政の実権は得宗の北条貞時が一貫して握っており、将軍在任中には内管領平頼綱の誅殺や連署北条時村らの誅殺などが相次いで起こっているが、久明親王はこれらの事件の圏外に置かれていた(以上はウィキの「久明親王」及び「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

 以下は底本では一字下げ(全体では二字下げ)。但し、ポイントは一緒である。]

鎌倉武將執權記を按するに、親王は正應二年十月二十五日鎌倉に下向、十一月九日將軍となる、延慶元年七月十九日歳三十二にして上洛、嘉曆三円十月十四日薨すと見ゆ然れは此地の廟は遺骸を收めし所にあらず、想ふに御子守邦親王なと造立せられしならん。

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