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2014/07/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 8 札幌にて(Ⅴ)…… “mussel”はイガイではないというイガイな事実を今更知った……

 翌朝、我々の駄馬と鞍馬とが入口まで来た。一頭にはラーガア麦酒が二筋頼まれ、他の一頭には標本を入れた、大きな四角い柳行李が二個つけてあった。長官が親切にも、我々が函館へ着く迄の期間、西洋式の鞍を二つ貸してくれた。私のための馬は大きな奴で、それに跨って動き出すと、前日の馬乗の結果たる身体の痛さが、彼の反鎚式跳反と剛直とを余計著しくして、私は完全に、かつ文字通り、たたき壊されたように感じた。それでも、しばらく私は頑張ったが、ついに絶望して思い切り、そして下馬して、再び乗る勇気が起る迄、数マイルを歩いた。大きな小屋組の橋を渡る時、私はその全長に対して、巨大な足代がかけてあるのに気がついた。何の為にこんな物があるのか、不思議に思って開くと、橋にべンキを塗るのだとのことであった。ある種の事柄にかけて、日本人は著しく間がぬけている。我国であれば、梯子を持った一人の男が、足代をかける時間内に、こんな仕事はすっかり仕上げて了う。

[やぶちゃん注:「翌朝」七月三十一日。矢田部日誌によれば、『朝八時頃札幌發、室蘭ニ向フ。札幌ニテ長官ノ用ニ供スル馬ヲ貸セリ』午後『六時過千歳ニ着ス』とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、ここで貸借された『長官の馬は途中の島松』(現在の恵庭市島松)『までで、それ以後函館に帰着するまではアイヌの馬を乗り継いだ』とある(本文を見る限りでは鞍は最後までということであろうか)。

「彼の反鎚式跳反」原文は“his triphammer bouncing”。“triphammer”は巨大な動力ハンマー、脱穀用の水車などを利用した大きな杵のようなものを指す語、“bouncing”は縦揺れ、垂直方向の振動をいう。「跳反」は前に馬の『跳反(はずみ)』(原文は“bounce”)とルビが振られてある。

「大きな小屋組の橋」原文“a large truss bridge”細長い部材を両端で三角形に繋いだものを繰り返して桁を構成させた桁橋の一種トラス橋のこと。

「巨大な足代」原文“a ponderous staging”。やけに仰々しい足場。]

 

 要するに、馬に乗って、路傍の低い灌木越しに、向うの沼沢地や森林を見ながら進むことは、一種の贅沢である。我々は十五マイル行って馬を代えた。今度の馬は杖で撲(なぐ)る度ごとに、蹴ったり竿立(さおだち)になったりする毛物(けもの)で、大部せき立ててやっと伸暢駈足(ギャロップ)を始めたが、それがまた偉い勢で飛んで行くのである。馬に関する知識の無い私にとって、伸暢駈足を敢てしたのはこれが最初であるが、驚いたことには、これは他のいずれの方法よりも、遙に楽である。私はその後十マイルの間に、二十回も鞍を離れた。これは研究材料にする蝸牛を捕える為であった。この地方にいる大きな蝸牛の習性は、我国の同様な物とは全く異る。ここのは小灌木の葉を食って生きているらしく、人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する。途中、我々は淡水イガイ類の標本を二種得た。見た所真珠イガイ即カワシンシュガイと、Unio complanatus とに似たものである。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約二十四キロメートル。

「毛物」原文は“a beast”。獣・四足獣・家畜の牛馬などの意であるが、ここは文字通りの困らせられるじゃじゃ馬であるから「畜生」といった蔑視を込めたニュアンスであろう。

「伸暢駈足(ギャロップ)」“gallop”は馬を一歩毎に足四本全部を地上から離して走らせる最も速い馬術走法。襲歩(しゅうほ)。駆歩(くほ)。伸暢駈歩。「伸暢」は「伸長」と同じで読みも通常は「しんちょう」と読み、長さや力などが伸びること。また、伸ばすことを意味する。馬のギャロップでは四足が総てよく伸ばされることがウィキの「歩法(馬術)」の「襲歩」の動画を見るとよく分かる。個人サイト「常識でみる桶狭間合戦」の「行軍を考える」の注11によれば、旧陸軍では伸暢駆足歩(襲歩)で分速四二〇メートル・時速二五・二キロメートルと規定していたとある。

「十マイル」約一六・一キロメートル。

「この地方にいる大きな蝸牛」 Scorpionfly 氏の「円山原始林ブログ」の「札幌の森のカタツムリ」によれば、札幌の森で見られる主なカタツムリは有肺目真有肺亜目柄眼(マイマイ)下目マイマイ超科オナジマイマイ科エゾマイマイ Ezohelix gainesi・北海道固有亜種のオナジマイマイ科サッポロマイマイ Euhadra brandtii sapporo ・北海道固有種オナジマイマイ科ヒメマイマイ Ainohelix editha ・有肺目モノアラガイ科オカモノアラガイ Radix auricularia japonica の四種とある。リンク先では画像とそれぞれの特徴が解説されている。必見。確かにアメリカのどころか、本州のカタツムリとは色も大きさも模様も大分異なる(但し、モースの採集は札幌から千歳に至る間であるから上記四種以外のものも含まれている可能性はある)。

「人は熟した果実を摘むような具合にして、それ等を採集する」ネットを管見しても出てこないが、これは当時カタツムリが食用にされていた貴重な記録ではあるまいか。

「淡水イガイ類」原文は“fresh-water mussel”。数少ないが斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科 Mytilidae の淡水産イガイはおり、現在、北海道にも淡水産イガイの一種 Sinomytilus sp. が棲息してはいる。但し、モースが採取したそれがその淡水産イガイではない。何故ならやっと国内の淡水産イガイを探し当てたのは、「北海道外来種データベース」の「淡水産イガイの一種」ページであったが、そこには一九九六年代に侵入したもので(原産地は中国の可能性が高く、輸入シジミガイに附着した形で侵入したとある)、初報告は二〇〇三年とあるからである。そこで私は、モースは単に形状から淡水産の古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科 Unionidae などの仲間の生育初期の小型個体をイガイの一種と誤認したか若しくはそう呼んでいるのではないかと始め考えた。そこで海外サイトで原文の“fresh-water mussel”の文字列の検索をかけると、ずばり、イシガイ類の記載にこれが引っ掛かってくるのであった(例えばFreshwater mussels: California floater (Anodonta californiensis)とうページ。この“Anodonta”とはイシガイ科ドブガイ属を指す。ドブガイ属ヌマガイの学名は Sinanodonta lauta であるが、これは現在ヌマガイドブガイA Anodonta woodiana type A とシノニムである)。ところがそのイシガイ類のヒット数が異様に多い。更に調べてみると、何のことはない、これ実は訳者の石川氏の語訳であることが分かった。私もすっかり大好きなムール貝とばかり思い込んでいた“mussel”にはイガイ科 Mytilidae の(ムラサキ)イガイ類を指す以外に、別にまさにイシガイ科 Unionidae の淡水産二枚貝の総称でもあることが辞書にちゃんと載っていたのであった。ここは「淡水産イシガイ」が正しいという訳である。

「真珠イガイ即カワシンシュガイ」さて前の注考証を含め、再度、ここでこの最後の部分の原文を見てみたい。

On this ride we got two specimens of fresh-water mussel, apparently like the pearl mussel, Margaritana, and the common New England Unio complanatus.

ここでこの石川氏の訳は本来なら「真珠イシガイ〔カワシンシュガイ〕」とすべきであったことが分かるのである。そうしてこう訳された石川氏は、実はここでまさに「イガイ」が「イシガイ」の語訳であったことに気づけたはずだったのである。何故ならカワシンシュガイとはイシガイ目カワシンジュガイ科カワシンジュガイ Margaritifera laevis であるからなのである。如何にも惜しい。カワシンジュガイは成貝は殼長約十三センチメートル・殻幅約四センチメートル・厚さ約六センチメートルに達するやや分厚い長楕円形を呈する。殻表面は黒褐色や黒色で内面はややピンク色いろがかった強く美しい真珠光沢を持つ。貝類学のバイブルである吉良哲明先生の「原色日本貝類図鑑」(保育社昭和三四(一九五九)年改訂刊)には『近時北海道の一部では真珠養殖の母貝として美玉を産出するという』と附言されてある。形態記載にはサイト「いわて環境学習館」内の「カワシンジュガイをみつけよう!」をも参考にさせて頂いた。ここは子供向けに作られていながら、非常に優れたサイトである。必見。

Unio complanatus」底本では直下に石川氏による『〔烏貝の一種〕という割注が入る。Unio”はイシガイ属。イシガイの一種であるが、本邦では古生物標本のデータに登場し、国内の現生種ではない。割注は「烏貝」とするが、狭義にはイシガイ科カラスガイ Cristaria plicata は別種ながら、一般ではイシガイ科の貝類をこうも呼称するから正しい。即ち、ここで石川氏がかく正しく割注していることがまたしても痛恨なのである。ただ先の「イガイ」の誤訳が混乱を起こしていただけなのだが、読者へのサーヴィスのつもりの先の『真珠イガイ即カワシンシュガイ』で、私のような素人でも首を傾げざるを得ないダメ押しの奇怪が生じてしまったのであった。]

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