日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 10 東北スケッチⅣ……推理の最後のツメでこけた! クソ!……(やぶちゃんの呟き)
河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた。この時はもう暗くなりかけていた。我々は、非常に多数の人々が村からやってて来るのに出会ったが、これ等の殆ど全部が酒に酔って多少陽気になっていた。私は従来、これ程多くの人が、こんな状態になっているのに逢ったことがない。彼等は十数名ずつかたまって、喋舌ったり、笑ったり、歌ったりして来たが、中にはヒョロヒョロしているのもあった。路の平坦な場所は極めて狭いので、多くの場合、我我は彼等の間を歩かねばならなかった。彼等にとっては外国人を見ることは大きに珍しいので、絶間なく私を凝視した。村に着いた時我々は、相撲の演技が行われていたことを知った。群衆がいたのは、その為である。私がこの事を書くのは、天恵多き我国のいずくに於てか、人種の異る外国人が、多少酒の影響を受け、而も相撲というような心を踊らせる演技を見たばかりの群衆の間を、何かしら侮蔑するような言葉なり、身振りなりを受けずに、通りぬけ得るやが、質問したいからである。
[やぶちゃん注:「河を渡船で越し、道路に横たわる恐るべき崩壊の跡を数個所歩いたあげく、我々は一つの村へ近づいた」「この時はもう暗くなりかけていた」という叙述から、私はこれは青森を経った三日目の七月二十日午後六時二十分に到着した渋民村(現在の岩手県盛岡市玉山区渋民)ではなかろうかと推理している(翌日の発時刻も矢田部日誌が四時二十分とし、次段でモースが四時発とするのと一致するのである)。
そこで調べてみると、旧盛岡藩は相撲が盛んであったこと、現在でも各地で奉納相撲大会が行われていることが分かった。
次に渋民村で相撲場を持ち、奉納相撲が行われていたであろう渋民村村民から厚く信仰されていた古い神社を調べるてみると、火伏せの守護神とされる岩手県盛岡市玉山区渋民字愛宕の愛宕神社に相撲場を確認出来た(安倍冨士男氏のサイト「奥州街道探訪の旅」の同神社のこちらの写真)。個人ブログ「石田道場」の「愛宕神社(盛岡市玉山区渋民)」の上から九枚目も同じものと思われる土俵跡が確認出来る。「石田道場」氏の記事は同神社の入口にある説明版の写真がある。電子化する。
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愛宕の森
この森の上に、愛宕神社が祀られている
総本社京都の愛宕神社の支社として、およそ
三百年前に建立された。防火の守護神として
村人に信仰され、毎年旧暦の六月と八月の
二十四日に例祭が催される。
啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで
散策しては詩想を練った。この森の下に、
啄木が代用教員として教鞭をとった、渋民尋
常小学校があった。
昭和四十八年三月
玉 山 村
玉山村観光協会
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ここで奉納相撲が行われたのであれば、これは私の好きな啄木所縁でもあり、思わず小躍りしたくなるところなのであるが、実はそうは上手くいかない。問題なのは祭日で、モースが到着した明治一一(一八七八)年八月二十日は旧暦の七月二十二日で合致しないのである。非力な私ではここまで、である。別な神社か? そもそも渋民ではないのか?
まことに残念であるが、ともかくも調べただけのことは記しておきたい。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]
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