北條九代記 卷第六 優曇花の説 付 下部女房三子を生む
○優曇花の説 付 下部女房三子を生む
同七月に、鎌倉藥師堂の谷(やつ)の邊(ほとり)に、淨密法師とて、獨り住みける僧あり。庵の前に、優曇花(うどんげ)の咲きたりとて、遠近に風聞す、謙倉中は申すに及ばす。近國の在々所々聞流(ききつた)へ聞流へ、貴賤男女群集して是を見ること夥し。二位禪尼この由を聞き給ひ、「優曇花とやらんは、世に希なる事に喩へて侍るよし、この比如何なる謂(いはれ)に依て、咲くべしとも思はれず」とて、近弘(こんぐ)上人を召して、優曇花の事を尋ねらる。上人、申されけるは、「抑(そもそも)優曇花と申すは、この世界の人の壽(いのち)、八萬歳の時に當りて轉輪聖王(てんりんしゃうわう)とて、須彌(しゆみ)の四洲を領じ給ふ威德不思議の大王、世に出給ふ。一千人の皇子(わうじ)を持ち給ひ、七寶を身に帶し、不足なる事一つもなし。國、豐に、民、賑ひ、風、枝を鳴(なら)さず、雨、塊(つちくれ)を破らず、五穀は耕作せざるに、自(おのづから)地より生じて、糠糟なし。衣裳は樹(うゑき)の枝に現れて、裁縫(たちぬふ)といこともなし。輪王、即ち車に召されて、須彌の四洲を廻り給ふに、大海の渚、黄金の沙(いさご)の上に、三千年催して、優曇花の開(ひらき)出でて、盛(さかり)はいとゞ久しからず。干潮(ひしほ)に咲きて、滿潮(みつしほ)に散り候。かゝる子細は、此比(このごろ)の生學匠(なまがくしやう)は知る事にても候はず、然るに、只今、乞丐(こつがい)法師が庵の前なんどに咲くべき花にては候はず。只賣僧(まいす)の結構なり」と、傍若無人にいひ散らされたり。二位禪尼は「誠にかゝる子細は始て聞き候。さて其優曇華は如何なる花の形(なり)にて候らん。木にて候か、草にて候か」と問(とは)れしに、上人、屹(きつ)となりて「其までは覺ず候」とて御前を立て歸られけり。當座にありける人々、さて麁末(そまつ)なる學者かなと笑(わらひ)合ひ給ひけり。二位禪尼は遠藤左近將監を召(めさ)れ、「善く見屆(みとどけ)て參れ」とて遣さる。歸(かへり)參りて申しけるは、「さしもなき事にて候、芭蕉の花の咲きたるにて、今は大方、散果(ちりはて)たり」とぞ言上しける。「昔より今に至る迄芭蕉の花は咲く事、希(まれ)なれば、世の人、是を優曇華の花と云習(いひならは)す。貴賤群集して見に來るも理(ことわり)なり」とて、何の御沙汰もなかりけり。同九月五日、大倉谷(おほくらがやつ)の横町(よこまち)に、ある下部(しもべ)の女房一度に三子を産みたり。兩子(ふたご)は世にあれども、三子(し)まで生む事は希有の例(ためし)なり。然れ共、先規(せんき)あればにや、三子を産めるには、官倉(くわんさう)の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり。其期(ご)九十日なりと、有職(いうそく)の人、申すに依て、二位禪尼より雜色(ざふしき)三人を彼(か)の家に付けて、養育すべき由、仰含(おほせふく)められ、子母(しぼ)の衣食を賜りける所に、三子ながら夭殤(えうしやう)すとぞ聞えし。是も鎌倉の珍事なりと人々、申し合はれけり。
[やぶちゃん注:優曇華の花の話は「吾妻鏡」巻二十六の貞応二(一二二三)年七月九日の条、三つ子誕生の話は同巻同二年九月五日・六日の記事に基づくが、特に前者は元は優曇華の花が咲いたと騒いでいるので、遠藤為俊に見に行かせたところ、芭蕉の花であったという単なる事実記載のみであるのに対して、こちらは遙かにシチュエーションを膨らましてあり、話柄として楽しめるように創られてある。因みに、政子による三つ子の養育は五日に即刻命ぜられたが、翌六日には三人とも亡くなったと「吾妻鏡」にはある(後掲)。
「優曇花」仏教経典で三千年に一度花が咲くという伝説上の花で、本文で近弘上人が述べる如く、その際に金輪王(転輪王の一人で金の宝輪を感得して須弥山の四州を統治する王。金輪聖王)が現世に顕現するという。本文では「八萬年」と異なる。
「藥師堂の谷」大倉薬師堂(現在の覚園寺)のある谷戸。
「近弘上人」不詳。鎌倉時代史をいろいろ学んできたが、聴いたことがない。筆者が仮想した、それこそ自身が「生學匠」でしかなかったピエロ的人物と思われる。
「糠糟なし」米糠や酒粕を貪るような貧窮の生活に喘ぐことがなくなる。
「乞丐法師」乞食坊主。「丐」も物乞いするの意。
「生學匠」有名無実の浅学の僧侶。
「芭蕉の花」は優曇華の花に擬せられ、そう呼ばれることがあった。
「三子を産めるには、官倉の衣食を賜ひて、養育すといふ事、國史に載せられたり」律令の令に記されてある。
以下、「吾妻鏡」の貞應二
(一二二三) 年七月九日の記事。
○原文
九日庚戌。藥師堂谷邊有獨住僧。號淨密。於件坊前庭。優曇花開敷之由風聞。鎌倉中男女爲觀之成群。自二品遣遠藤左近將監爲俊。被見之處。芭蕉花歟之由申之云々。
○やぶちゃんの書き下し文
九日庚戌。藥師堂が谷(やつ)の邊りに獨住せる僧有り。淨密と號す。件(くだん)の坊の前庭に於いて、優曇花開敷(かいふ)するの由、風聞す。鎌倉中の男女、之を觀んが爲に群を成す。二品より遠藤左近將監爲俊を遣はして、見らるるの處、芭蕉の花か、の由、之を申すと云々。
次に同九月五日及び六日の条。
○原文
五日甲辰。天晴。横町邊下女生三子云々。女人生三子。自官庫賜衣食。養育。是被載國史之由。有識申之。仍二品差國雜色三人。各可養育之旨被仰含。其上。母衣食同可被下行云々。」午刻。和賀江邊有火。」今日可被行御祈禱之由。於奥州御方。内々有其沙汰。藤内所兼佐爲奉行。是近日連夜天變出現之故也。
六日乙巳。下女所生三子皆殤死。
○やぶちゃんの書き下し文
五日甲辰。天、晴る。横町の邊りの下女、三子を生むと云々。
女人、三子を生めば、官庫より衣食を賜はりて、養育す。是れ、國史に載せらるるの由、有識(いうそく)、之を申す。仍つて二品、國の雜色(ざうしき)三人を差し、各々養育すべきの旨、仰せ含めらる。其の上、母の衣食、同じく下行(げぎやう)せらるべしと云々。」
午の刻。和賀江邊に火有り。」
今日、御祈禱を行らるべきの由、奥州の御方に於いて、内々に其の沙汰有り。藤内所兼佐(とうないところのかねすけ)、奉行たり。是れ、近日、連夜、天變出現するが故なり。
六日乙巳。下女生む所の三子、皆、殤死(しようし)す。
・「奥州の御方」北条義時。
・「藤内所」本来は藤原氏から任ぜられた内舎人(うどねり:供奉雑使・駕行時の護衛と天皇の身辺警護を担当)を藤内と呼称するが、これはその中務省に属する内舎人「所」の単なる勤務経験者を指していよう。
・「殤死」「殤」は若死にの意で、二十未満で死ぬ場合をいう。]
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