神樂坂にて 山之口貘
神樂坂にて
ばくさん
と呼びかけられてふりかへつた
すぐには思ひ出せないひとりの婦人が
子供をおぶつて立つてゐた
しかしまたすぐにわかつた
あるビルディングの空室でるんぺん生活にくるまつてゐた頃の
あのビルの交換手なのであつた
でつぷり肥つてゐた娘だが
背中の子供に割けたのであらう
あの頃のあのでつぷりさや娘さなんかはなくなつて
婦人になつてそこに立つてゐた
びつくりしましたよ
あさちやん と云ふと
婦人はいかにもうれしさうに背中の物を僕に振り向けた
あゝ
もうすぐにうちにもこんなかたまりが出來るんだ
僕はさう思ひながら
坊やをのぞいてやつたりした
しかしその婦人はなにをそんなにいそいだのであらう
いまにおやぢになるといふ
このばくさんに就てのことなんかはそのまゝここに置き忘れて
たゞのひとこともふれて來なかつた
婦人はまるで用でも濟んだみたいに
中の物を振り振り
坂の上へと消え去つた。
[やぶちゃん注:終わりから二行目の一字空きはママ。これは初出の「背中」の「背」の脱字ではあるまいか?
初出は昭和一六(一九四一)年七月号『文藝』。松下博文氏の解題によれば、この詩は「鮪に鰯」の編纂用の原稿用紙詩篇群の一つに原稿が含まれていることから、同詩集に『収録する予定であったか。しかし結果的には採用しなかったようだ』と記しておられる。
この年の六月にバクさんには長男の重也君が生まれている。詩の言いっぷりからして、この詩は前年末辺りから同年五月以前の創作と考えられ、バクさんにしてはかなり早く、推敲が終了した部類の詩のように思われる(重也君はしかし翌昭和十七年七月に亡くなってしまう)。また、「あるビルディングの空室でるんぺん生活にくるまつてゐた頃」というのは以前に引用した「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』掲載)に、『もう二十年余りも前なのだが』、『両国駅のすぐ際に、両国ビルディングというのがあって、その中に住んでいた。住んでいたとはいっても、そのビルの倉庫とか、空室から安室へと転々としてその日その日を過ごしていたのである』というビルのこと、この『ビルとの関係は、昭和の四年か五年ごろからのことで、最初は就職のことからそこに住むようになったのであって、両国ビル二階のお灸と鍼の研究所に通信事務員の名目で、住み込みとして働くことになってからである。この研究所は後になってしんきゅうの学校になった』とあるビルのことであるから、この電話交換手との再会からは十一、二年の隔たりがある。発表当時、バクさんは満三十七歳である。]
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