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2014/07/09

更衣   山之口貘

 更衣

 

その少年はつねづね

ぼくの頭を撫でまはすやうに

ふらんす語などをしやべつたりして

おとなになつたらすぐにも

ふらんすへゆくんだと夢みてゐた

ところでまもなく

その夢が

すこしばかりの血を染めて

マジノ線から綻びた

そこで

ある日

少年が

おとなみたいな口振をして

ふらんすは案外スフだと云つた

おとなになつたらすぐにも

ふらんすへゆくのではなかつたのかとたづねると

ふらんすなんかごめんだと云つた

どいつへゆくのかとたづねると

どいつへゆくんでもないと云つた

えちおぴやはどうかとたずねると

少年はもじもじしてゐたが

スフのふらんすを脱ぎ棄てたのか

ろしやへゆくんだとそう云つた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一六(一九四一)年九月号『會館藝術』。この雑誌は発行所が大阪市北区中之島の朝日新聞社会事業団とある。創元社公式サイト内の高橋輝次氏の「古書往来」の「33.文化の器(うつわ)としての建物─ 富士映劇と朝日会館と ─」を見ると、この『會館』とは当時、中之島の朝日ビルの西隣りにあった朝日会館で、『大正15年に開館し昭和37年には閉館』したホールで、『常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演されていた』とあり、『會館藝術』はその会館誌であることが分かる。高橋氏によれば、『昭和6年6月に、B5判のアート紙で創刊され、舞台芸術全般の解説、情報や評論、それに小説やエッセイ、詩歌なども載せた内容で、全国的に人気があったという。戦時中はB6判となり、『大阪文化』『厚生文化』と改題し、戦争を挟み、十年位は『デモス』として続刊し、昭和27年11月号から再び『会館芸術』(B5判)に戻っ』て、『昭和30年代の閉館近くまで続いたのだろうか』と記しておられる。リンク先は当時の同誌や会館の活況がよくわかり、必読である。バクさんの詩が沖繩や東京以外の発行所から出された雑誌類に載るのはかなり珍しい。

「マジノ線」(フランス語:Ligne Maginot)は、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線。呼称は当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot)の名に由来する。ナチス・ドイツのフランス侵攻(マンシュタイン計画)によって本詩発表の一年前の一九四〇年五月十日に突破されてしまい、同年六月十四日にはドイツ軍がパリに無血入城した。

「スフ」絹に似せて作った再生繊維レーヨン (rayon)のこと。かつては人絹、ステープル・ファイバー(staple fiber:化学繊維を紡績用に短く切りカールした繊維。特に、ビスコース・レーヨンからつくったものを指す。)からスフとも呼ばれていた。ウィキの「レーヨン」によれば、『ニトロセルロースを揮発性の有機溶媒に溶かしたものをピロキシリンと呼ぶ。ピロキシリンは、その呼び名がギリシア語の pyr(火)とxylon(木)に由来したように燃えやすい化合物であった。ピロキシリンを小さい孔から噴出させると溶媒は瞬時に蒸発し、ピロキシリンの細い光沢ある繊維が得られた。これは最初の化学繊維で、1855年にフランスのイレール・ド・シャルドネ(Hilaire de Chardonnet)により「レーヨン」として特許が取得されているが、きわめて燃えやすく危険で、レーヨンのドレスを着た人間が火だるまになるという事故が続出し、第一次世界大戦前までには生産は中止された。その後燃えにくい繊維が開発され実用化されたので、ピロキシリンは原料として使用されなくなった。現在のレーヨンはセルロースそのものを再配列したもので再生繊維と呼ばれる』。因みにレーヨンは英語の光線(ray)と綿 (cotton) の合成語であるとある。

「えちおぴや」当時のエチオピアはウィキによれば、『1939年9月1日の第二次世界大戦勃発後後、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線(英語版)の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋』、『イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した』とある。]

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