日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 13 白老のアイヌの人々(Ⅱ)
図―388
彼等の小舎は非常に暗く、そしてまた非常にきたならしい。我々が入ると、彼等は我々が周囲を見ることが出来るように、樺の皮を播いた物に火をつけるが、この照明があっても、細部を見きわめるには、小舎の内はあまりに暗い。図388で私は内部にある色色な品物が、概してどんな風に排列されているかを示そうと試みた。品物といえば、実際数え切れぬ程沢山あった――包、乾魚をまるめた物、乾すためにつるした大きな魚の鰭(ひれ)数枚、弓、箭筒……。火の上には燻製するために、魚の身がひっかけてあった。寝る場所は部屋の一方を僅か高めた壇で、この壇の上に短い四本の脚のある、蓋つきの丸い漆群があった。これ等の箱は、日本人がアイヌ向きにつくつたらしく、どの小舎にもいくつかがあった【*】。これ等の中にアイヌは宝物を仕舞っておく。
* ピーボディ博物館にはこの箱が三個ある。私は老若の著名な日本人に、これを何に使用すると思うかと質ねたら、返事は皆違っていたが、多数は文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱だろうと考えた。
[やぶちゃん注:「彼等の小舎」アイヌの伝統民家はアイヌ語で「チセ」と呼ぶ。続く文章で詳述される。
「乾すためにつるした大きな魚の鰭」鮭の鰭。「マルハニチロ」の公式サイト内の「サーモンミュージアム」の「アイヌと鮭」によれば、『乾燥鮭を切ったときに出るひれの部分はとっておいて、カムイノミ(神々への祈り)のときにきざんで火に燃やし、神のところに帰してやる』という神事に用いる一方、生の鮭の内臓や鰭は『桶や一斗缶などに入れて塩をしておき、冬期間にチタタプにして食べる』ともある(「チタタプ」とは『たたきのようなもの』を指すアイヌ語)。リンク先、非常に素晴らしいサイトである。必読。
「ピーボディ博物館」底本では直下に石川氏による『〔セーラム〕』と言う割注がある。ウィキの「ピーボディ・エセックス博物館」によれば、“Peabody Essex Museum”はマサチューセッツ州セイラムにある博物館。一七九九年にピーボディ博物館として『船長や船荷監督人たちよって東インド海員協会として設立された。その協会の会員は憲章によって喜望峰やホーン岬より先の地域で「天然および人工物の珍品」の収集を行うことが義務付けられた』。一九九二年に『ピーボディ博物館はエセックス研究所と合併してピーボディ・エセックス博物館となった』とある。モースは晩年館長及び名誉会長を務めた。現在でも主要な収蔵物の一つとして本邦の美術品がある。
「文学的な遊戯に使用する貝殻を入れる箱」貝合わせ(正式なものは陰暦の一年の日数に擬えた左右一対三百六十組の彩色した蛤からなる)用の貝を入れる貝桶(グーグル画像検索「貝桶」)、ウィキの「貝合わせ」には『明治維新前までは貝桶が上流社会の嫁入り道具の一であったという』とある。]
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