日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 24 室蘭から噴火湾を森へ(Ⅱ) / 第十三章 了
図―420
図―421
図420は、室蘭湾から見たウスヤマの輪郭、図421は継続的に上昇する湯気に、峰をかくされた駒ヶ岳である。この山は函館からよく見える。高さは四千フィートに近く、二十二年前に猛烈な噴火をした。昼飯後駄馬をやとい、矢田部と彼の下男とは駒ヶ岳に登山する為に残り、佐々木、高嶺及び私が前進した。山の支脈や、自然そのままの区域を馬で行くことは、極めて画的であった。山山の峰は霧にかくれ、時々雨が降りそうになった。我々は美しい湖水の横を通ったが、もう二時過ぎで、函館までは三十マイルもあるから、止ることは出来なかった。道路は全距離にわたって修繕中で、我々はしょっ中気をつけている必要があった。森から数マイル行った所で、我々は峠にさしかかった。ここの景色は素晴しかった。ある地点へ来た時、駒ヶ岳のゴツゴツした、円錐形の峰が突如雲を破って聳えた。側面が切り立っているので、峰は高さ十マイルもあるように見えた。しばらく降った雨がやんだので、空気は非常に清澄であった。
[やぶちゃん注:「ウスヤマ」底本では直下に石川氏の『〔有珠山〕』という割注が入る。
「四千フィート」一二一九メートル。現在、有珠山の標高は七三七メートルで、モースが実見して以降の噴火によって、これほど標高が変化する(有意に下がる)とは思われないから、かなり誇張された数字ではなかろうか?
「駒ヶ岳」北海道駒ヶ岳。標高は一一三一メートル。
「二十二年前に猛烈な噴火をした」明治一一(一八七八)年の二十二年前は一八五六年であるが、これは二十五年前の誤り。有珠山の嘉永噴火である。ウィキの「有珠山」によれば、嘉永六(一八五三)年三月六日(旧暦)から鳴動が始まり、十五日に最初の大噴火を起こし、その後は少し小康状態を保っていたが、二十二日に『東部から再度噴火。噴火時には「立岩熱雲」と呼ばれる大規模な火砕流が発生したが、文政噴火を知る住民たちはいち早く避難していた上、火砕流も当時集落のなかった洞爺湖方向へ流下したため、大きな被害はもたらさなかった』とある。噴火は二十七日に終息、『翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。一方、火山学者の田中館秀三は、「大有珠の溶岩ドームそのものは寛文噴火以前から存在したが、その当時は低くて山麓からは見えなかった。嘉永の噴火で急成長し、山麓からも見えるようになった」と推測して』いるとある。
「湖水」彼らが辿ったのは現在の大沼国道五号線かと思われ、まず右手に蓴菜沼、次に左手に大きな小沼が現れる。恐らく後者であろう。もし、駒ケ岳を海岸沿いに廻ったとすればこういう描写にはならないと思われるからである。
「三十マイル」約四八・三キロメートル。
「峠」これは現在の大沼トンネルの直上の、まさに「峠」と通称する場所で、今の西大沼から仁山を結ぶ峠であろう。
「十マイル」一六・一キロメートル。]
間もなく我々は峠の向う側を、調子のいい速歩で下りつつあった。私のすぐ前には佐々木が、固い荷鞍にのって進んだ。私は洋傘のさきを靴にさし込んだら、楽に持ち運び出来るだろうと思って、しきりにさし込もうとしたが、馬が揺れてうまく行かぬ。靴を見るために一方に傾きながら、私はどちらかというと性急に、先端を靴にさし込もうとしたが、どうした訳だか標的を外し、洋傘は馬の腹の下を撲った。馬は即座に側ぎれて、私は頭と肩を打ちながら地面に落ちた。私は只馬の蹄をよけて匐い出し、片足を鐙(あぶみ)から外したこと丈を覚えている。私は馬の右側へ落ち、左の鐙を鞍越しに引きずったのである。目をあけると、佐々木もまた地面にいる。私は彼が私を助けるために、飛び下りたのだと思った。だが、彼の馬もまた側ぎれをやり、彼は荷鞍から投げ出されて、鞍の上にいた時と全く同じく、両膝をついて地面へ落ちたものらしい。まったく馬は、それ程急激に、側ぎれしたのであった。我々の馬は一目散に路を駈け下り、その後から我々もついて行った。若し見失えば、函館まで歩かねばならぬ。だが、間もなく彼等は、谿谷を上って来る馬の一群に出会い、その間へ走り込んだ結果、蹴ったり、鼻を鳴らしたりの大騷動が持上った。それにもかかわらず、我々は馬の中にわけて入り、重い荷にぶつかったり、蹴飛ばされるのを避けたりしながら、ついに我々の二頭をひっ捕えた。佐々木はその後六ケ月間びっこを引き、私は数週間、左側ばかりを下にして寝た。
[やぶちゃん注:「馬は即座に側ぎれて」原文は“He instantly shied”。“shy”という動詞には、馬が何かに驚いて飛びのく、
後ずさりする、の意がある。「側ぎれる」という日本語は私には初見で、読みもよく分からない(「そばぎれる」か?)。しかしこれは恐らく、馬が吃驚して、正常な進行からずれて、片側に激しく跳躍してしまうことを言っているようである。読みも含めて識者の御教授を乞うものである。]
四時、峠を下り切った時には、函館の山々がはっきり見えたが、而も函館へ着いた時は、もう真夜中であった。最後の二マイルを、我々は歩いた。馬が路にあるバラ土の積堆や石の上で、一足ごとにけつまずいたからである。歩く我々も、時々路傍の溝の中にいたり、まだならしてない砂利の砂利の上を、四匐いになっていたりした。
[やぶちゃん注:「二マイル」約三・二キロメートル。
「バラ土」原文は“piles of dirt”。“piles”は堆積、“dirt”は埃の山。所謂、ガレ場のことであろう。]
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