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2014/07/14

北條九代記 卷第六 太上法皇嗣御 付 富士淺間御遷宮

      ○太上法皇嗣御 付 富士淺間御遷宮

同二年五月十四日、太上天皇崩御したまふ。壽算四十五歳。是、當今(たうぎん)の御父、持明院宮、守貞親王の御事なり。後、高倉院と諡(おくりな)あり。尊號奉り給ひて後、僅に三ヶ年、榮貴(えいき)の春の花未(ま)だ咲殘りて、盛(さかり)ならぬに、嵐烈しく吹散(ふきちら)すに異らず、惜しかるべき御命かなと、其方樣(かたさま)の人々は歎き給ふも理なり。同六月に、駿河國富士淺間(せんげん)の宮、造替(つくりかへ)遷宮おはしけり。陸奥守義時、是を經營して、關東静謐家運長久を祈りとす。抑(そもそも)この御神と申すは、往昔(いにしへ)、孝靈(かうれい)天皇、即位の五年、近江の湖水、始めて湛へ、富士山、その日、湧出せり。淸和天皇貞觀(ぢやうくわん)五年の秋八月に、白衣(びやくえ)の神女、天下り給ひしより事起り、延曆二十四年に、巫(かんなぎ)に託宣あり、「我は是、淺間(せんげん)大菩薩なり」と、平城帝(ならのみかど)の大同元年に、初てこの社(やしろ)を立てらる。國府(こふ)の淺間(あさま)の宮と申すは、延喜年中に建てられ、大宮の御神を此所に移し奉り、山上の社をば本宮と崇(あが)め、府の宮をば新宮(しんぐう)と名付け奉る。其始を尋ぬるに、三島明神をば、神代(かみよ)の御時には、大祗山神(おほやまつみのかみ)と號し、淺間(あさま)は其御娘、木花開耶姫(このはんさくやひめ)とぞ申しける。守(まもり)は遠く西海に遍(あまね)く、威は偏(ひとへ)に八州に施し給ふ。靈驗のあらたなる事、都鄙(とひ)に渉(わたつ)て隱(かくれ)なく、利生の著(いちぢる)きこと貴賤を擇(えら)ばす明(あきら)けし、朝(あした)に詣でて祈り申し、夕には又、報賽(かへりまうし)す。義時、深く頭(かうべ)を傾(かたぶ)け、國家安穏の所を致し、この遷宮を經營せらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応二(一二二二)年五月十八日、六月二十日の条等に基づく。孰れも短く、引用の必要を感じない。

「尊號奉り給ひて後、僅に三ヶ年」承久の乱の直後に茂仁王を即位させて後堀河天皇とした幕府は、不在となった「治天の君」として、その父であった守貞親王=行助入道親王に太上天皇号を奉り、これを法皇として院政を敷かせた。実際には二年足らずである(「三年」というのは一種の数え年方式であろう)。死因は腫物であった(「吾妻鏡」貞應二(一二二三)年五月十八日の崩御の知らせ(死亡は五月十四日)の条に『依御腫物數月御惱也』(御腫物に依つて數月の御惱なり)とある)。

「其方樣」宮中方。

「駿河國富士淺間の宮」現在の静岡県駿東郡小山町須走にある富士山須走口登山道の起点に鎮座する冨士浅間神社。主祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと:別称、浅間大神(あさまのおおかみ)。)で相殿神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)。木花之佐久夜毘売命は大山祇神の美娘で天孫瓊々杵尊の皇后となった。懐妊の際に貞節を疑われたことから、その証しを立てるために戸のない産屋を建てて周りに火を放って、無事三人の皇子を生んだ故事に因み、安産・子安・水徳の神とされ、他にも火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めた。木花という神名から桜が神木とされることから桜の名所でもある。また、申の日に富士山が「湧出」したという故事から猿を御使いともする(富士山本宮浅間神社公式サイトの「御祭神・御由緒」を参照した。当該サイトはリンク要請をしているのでリンクは貼らない)。

「孝靈天皇」(孝安天皇五一(紀元前三四二)年?~孝霊天皇七六(紀元前二一五年)?)は記紀に記される第七代天皇(在位は孝霊天皇元(紀元前二九〇)年一月十二日~孝霊天皇七六年二月八日とする)。所謂、実在が疑われる欠史八代の一人。「富士本宮浅間社記」によれば、この御代に富士山が大噴火を起こし、周辺住民は離散して荒蕪の状態が長期亙ったのを第十一代垂仁天皇が憂え、その三年(紀元前二十七年)に浅間大神を山足の地に祀って山霊を鎮めたのを当社の起源とする。その後は祭神姫神の水徳によって噴火が鎮静、この神徳によって広く篤い崇敬を集めるようになった。富士山を鎮めるための浅間大神を祭祀したのはこの社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっていると富士山本宮浅間神社公式サイトの「御祭神・御由緒」にはある。

「貞觀五年」西暦八六三年。ここ以降の事蹟は現在の富士山本宮浅間神社公式サイトには何故か載らない。代わりに武家の崇敬とし特に源頼朝・北条義時・武田信玄及び勝頼親子・徳川家康を挙げて、源頼朝は建久四(一一九三)年の富士の巻狩の際にここに流鏑馬を奉納、社殿の修復なども行ったと記す。

「延曆二十四年」西暦八〇五年。ここと次は前の記事より古い記載になっているので注意。

「大同元年」西暦八〇六年。

「延喜年中」西暦九〇一年から九二二年。]

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