希望 山之口貘
希望
先生はいつも
教室を見渡した
そこには未來の學者がゐた
そこには未來の飛行家もゐた
そこには未來の大政治家や未來の船長や未來の軍人や
未來の職工さんや未來の畫家や
または未來の大詩人もゐた
どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ
ある日
先生はいつものやうに
希望に溢れて力のこもつた顏々の景色を見渡すと
洟(はな)をたれた顏がひとつ先生の眼にうつつた
先生はその不精を指さして
希望がよごれてしまひます
洟をかみなさい、とさう言つた。
[やぶちゃん注:初出は小学館発行の昭和一六(一九四一)年十一月号『國民六年生』。現在知られている詩群の中で、最も古い、少年誌に掲載された児童詩である。底本(思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」)の松下博文氏の解題によると、『山口家所蔵の掲載誌には』掲載後に『本文を推敲した跡が見られる』として、「未來の軍人や」の削除指示が示されてある、とある。松下氏は『掲載後、当該箇所を削除したいという作者の強い意思が働いていることに留意したい』と述べておられる。それに従って以下に削除したものを再現しておく。
希望
先生はいつも
教室を見渡した
そこには未來の學者がゐた
そこには未來の飛行家もゐた
そこには未來の大政治家や未來の船長や
未來の職工さんや未來の畫家や
または未來の大詩人もゐた
どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ
ある日
先生はいつものやうに
希望に溢れて力のこもつた顏々の景色を見渡すと
洟(はな)をたれた顏がひとつ先生の眼にうつつた
先生はその不精を指さして
希望がよごれてしまひます
洟をかみなさい、とさう言つた。
ただ、その削除がいつ記されたものなのかは不明である。
実は思潮社版旧全集にも「第四巻 評論」の「児童詩」(何故、「第一巻 全詩集」ではなく、この巻に児童詩を配したのかが私には極めて不審である)の冒頭に載るが、そこには六箇所にも及ぶ有意な異同がある。以下に全詩を示す(無論、同様に恣意的に正字化している)。
希望
先生はいつも
教室を見渡した
そこには未來の學者がゐた
そこには未來の飛行家もゐた
そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や
未來の職工さんや未來の畫家や
または未來の大詩人もゐた
どの顏みてもどの顏みても希望に溢れた顏の景色だ
ある日
先生はいつものやうに
希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが
洟(はな)をたれた顏がひとつ
先生の眼にうつつたのだ
先生はその不精を指さして
希望がよごれてしまひます
洟をかみなさい、とさう言つた。
異同箇所は、
①五行目「そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や」の「あるひは」の挿入
②同五行目「そこには未來の大政治家やあるひは未來の船長や」での「未來の軍人や」の削除
③十一行目「希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが」の「みんな」の挿入
④同十一行目「希望に溢れて力のこもつたみんなの顏々の景色を見渡したが」の「見渡すと」からの改稿
⑤十二・十三行目「洟(はな)をたれた顏がひとつ/先生の眼にうつつたのだ」の途中改行
⑥十三行目「先生の眼にうつつたのだ」の「のだ」の挿入
である。この激しい異同は何をもとにしたものなのか? しかもそこでは「未來の軍人や」が〈ちゃんと〉削除されている。が、その削除についての注記どころか、それ以外の異同の注記一切が旧全集にはない。初出がそうなっているという風に総ての読者がそう思うという点で旧全集の編集には大いに疑問がある。しかもこう削除したということはまさに新全集解題が示すところの掲載誌の推敲削除を旧全集編者が見て行ったものとしか思われないのである(希望は新全集解題を見ても初出以降の再録データはない)。松下氏もその論文で述べておられるように、旧全集の書誌的な杜撰さや底本の不明瞭さが垣間見れる部分である。]