飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 秋
〈昭和十二年・秋〉
山川は鳴り禽たけく胡桃(くるみ)熟る
露の瀬にかゝりて螻蛄(けら)のながれけり
露さむや娘がほそ腰の力業
藷堀りの小童(こわつぱ)のせて片畚
[やぶちゃん注:「片畚」は恐らくは「かたもつこ(かたもっこ)」と訓じていよう。「畚」は通常は「ふご」と読み、竹・藁・縄などを網状に編んで四隅に吊り紐を附けた物や土砂などを入れて運ぶ用具のことであろう。これはこれから芋掘りに向かおうという農夫が天秤棒の先にもっこを提げそこにその子を乗せて悠々と行く景と私は採った。]
落穗簸(ひ)る身重の妻女歳老けぬ
[やぶちゃん注:「簸る」は、箕(み)で穀物を煽って籾殻や塵芥を除き去るの意。]
野みちゆく秋の跫音したがへり
零餘子おつ土の香日々にひそまりぬ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「零餘子」は「むかご」である。]
霧さぶくこずゑに禽はあらざりき
蔬菜園矮鷄(ちやぼ)鳴く霧に日ざしけり
黍熟れて刈敷(かりしき)の萱穗にいでぬ
[やぶちゃん注:「刈敷」は伝統的な施肥法の一つで、春先から初夏にかけて山林から刈り取った柴草・雑木の若葉・若芽や稲藁・麦藁などを水田に敷き込むことをいう。ここは来年のそれになる「萱」(かや)が「穗」となって出初めたというのであろう。]
露の香にしんじつ赤き曼珠沙華
草川のそよりともせぬ曼珠沙華
初栗に山土の香もすこしほど
蘡蔓(えびづる)のここだく踏まれ荼毘の徑
[やぶちゃん注:「蘡蔓」はバラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。蔓(つる)性落葉木本で雌雄異株。古名は ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiaeとともに「葡萄蔓」(エビカズラ)と呼んだ。「ここだく」は「幾許」で「ここだ」とも読み、副詞で程度の甚だしいさま。]
歸燕とび雲ゆく大嶺秋花滿つ
牧婦織り歸燕すずろになきにけり
甲府郊外朝氣
菩薩嶺は獄(ごく)はるかにて歸燕ゆく
[やぶちゃん注:「菩薩嶺」大菩薩峠。]
郡内吉田宿
天澄みて火祭畢へぬ秋つばめ
[やぶちゃん注:「吉田宿」現在の山梨県富士吉田市。富士山の山仕舞の時期に当たる八月下旬に催される日本三奇祭の一つ、「吉田の火祭」で知られる。]
乳牛鳴き秋燕は迅く花卉越えぬ
卵とる人影かこつ秋の雞
秋果つむ荷船の景もときあげぬ
雌は噎(む)せて粟はみたてる軍雞の雄
軍雞乳むみぎりの荏の香ながれけり
[やぶちゃん注:「乳む」は本文ルビ既出で「つるむ」。「荏」はエゴマ。既注。ここは「ごま」と訓じているか。]
芙蓉咲き風邪ひく山羊の風情かな
秋の苑花卉日月をはるかにす
鑛山のひぐらし遠くなりにけり
屍室の扉梧(きり)の蜩ひびきけり
[やぶちゃん注:単なる直感だが、鉱山附属の病院の霊安室か。]