今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 38 最上川 五月雨をあつめて早し最上川
本日二〇一四年七月 十五日(陰暦では二〇一四年六月十九日)
元禄二年五月二十九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月 十五日
である。この前日の五月二十八日、山寺を発った芭蕉は午後二時頃、大石田(現在の山形県北村山郡大石田町)に到着、滞在二日目の今日、滞在先の最上川河畔で船問屋を営んでいた高野一栄(本名高野平右衛門)宅の最上川に面した裏座敷に於いて四吟歌仙「さみ堂礼遠(だれを)」の巻を興行、翌日の三十日に続きが催されて満尾した。
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川
大石田、高野平衞門亭ニテ
五月雨を集て涼し最上川
[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句目は「曾良俳諧書留」に載る句形でこれが初案である。「さみ堂礼遠」の巻では、脇を亭主一栄が、
さみ堂禮遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭 一榮
と付けている。初案は従って最上川を下る前のこの日のものであり、現在知られる「早し」という語を選び変えたのは四日後の六月三日(新暦七月三日)の新庄から五月雨で増水した日本三大急流の一つ最上川を河港の清川(現在の山形県東田川(ひがしたがわ)郡立川町立川地区)へと一気に二十九キロメートル下った経験に基づく実感によったのであった。山本健吉氏は「芭蕉全句」(講談社)で『「集めて早し」とは濁流の量感と速度そのものの即物的、端的な把握である。岸で作った眺望の句が、一字の改訂で、最上川経験の直接の感動の表現に矯(た)め直されたのである』と評しておられる。
以下、「奥の細道」の大石田と最上川の段。
*
もかみ川乘らんと大石田と云處に
日和を待爰に古き俳諧のたね
落こほれてわすれぬ花のむかしを
したひ芦角一聲の心をやはらけ此
道にさくりあしゝて新古ふた道に
ふみまよふといへとも道しるへする人し
なけれはとわりなき一卷を殘しぬ
このたひの風流爰にいたれり
最上川はみちのくより出て山形を
水上とすごてんはやふさなと云お
そろしき難所有板敷山の北を
流て果は酒田の海に入左-右山
おほひ茂みの中に船を下ス
ね
これをいなふと云白糸の瀧は靑葉
の隙々に落て仙人堂岸に臨て立
水みなきつて舟あやうし
さみたれをあつめて早し最上川
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇俳諧のたね落こほれて → ●俳諧の種、こぼれて
○わりなき一卷を殘しぬ → ●わりなき一卷(ひとまき)殘しぬ
○これをいなふねと云 → ●是に稲つみたるをや、いな船といふならし
■やぶちゃんの呟き
「もがみ川乘らんと」最上川を舟に乗って下ろうと。
「日和を待」「曾良随行日記」を見ても著しい天候の悪化は見られない。これについて安東次男氏は『新月(三日月)を待って羽黒に登ること』がこの時点で既に『予定の事実』としてあったに違いなく、それがこの「日和」の意味であるとされ、『はたせるかな、このあと芭蕉は「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を詠んでいる』と解析されておられる。
「爰に古き俳諧のたね……わりなき一卷を殘しぬ」私はこれは「奥の細道」の中では極めて特異な叙事記載と感ずる。その内容を示すと以下のようになる。
①この土地には、如何なる不可思議な縁によるものか、古い俳諧の風雅が伝えられた。
これは仙台で出た大淀三千風が全国行脚の折りに当地の人々に談林俳諧を伝授したことを指す。
②①が元となって今もその談林の俳風の持つ風雅を忘れずに、その跡を慕っている。
「花」は「種」の縁語。
③辺鄙な田舎であるが、まさにその古風な俳諧がその地の人々の心を慰めてきた。
「芦角一聲」(ろかくいつせい)は「和漢朗詠集」に載る大江朝綱の七律「王昭君」頸
聯、
胡角一聲霜後夢
漢宮萬里月前腸
胡角(こかく)一聲 霜後の夢
漢宮萬里 月前の腸(はらわた)
もの悲しい胡人の角笛の音、それが霜夜の儚い夢を破り、
故郷漢の都は万里の彼方、冷たい月光の注ぐ辺境に腸が断たれる思いがする。
や、謡曲「猩々」の「蘆の葉の笛を吹き波の鼓どうと打ち」に基づく(後者は富山奏氏の「新潮日本古典集成 芭蕉文集」に拠る)。「芦角」は荒涼とした辺地に響く異民族胡人の角笛(つのぶえ)を、やはり鄙の寂寥を感じさせる蘆笛(あしぶえ)と併せて合成した造語で、辺鄙な田舎といった謂いを大上段に諧謔したものである。
④③のようではあったが、やはり今まさに闇夜を足で探るような感じで、そうした俳諧の古風と新風の、その孰れへと進むべきかと土地の人々は踏み迷っている。
富山奏氏はこの「さぐり足して」「蹈み迷ふ」もやはり謡曲「猩々」の「足もとはよろよろと」を踏まえての表現とする。「古風」は談林派、「新風」は芭蕉を含めた元禄期の各派の新風を指す。
⑤このような状態にあるにも拘わらず、正しい方向へ導いてくれる人が今のこの地にはいない。
⑥ゆえに、私(芭蕉)は土地の人々からそうした先達となって呉れるようにと熱心に乞われた。
⑦乞われるままに、その熱意にほだされて止むに已まれぬ思いに駆られて遂歌仙一巻を巻いては残し留める仕儀となった。
⑧まさに今回のこの「奥の細道」の旅の風流は、この地のこの熱心な人々の風雅に於いてこそ極まったのであった。
構造上は①から⑥までが栄一に代表される土地の俳人の直接話法で、⑦⑧が芭蕉の実行行為とそれへの感慨となっているのであるが、ここにはそうした宗匠として懇請された芭蕉自身の強い自信が漲っており、ここには既に芭蕉が独自に打ちたてた蕉風への確信に満ちた宣言のようなものが感じられるのである。頴原・尾形訳注の角川文庫版「おくのほそ道」の本文評釈に以下のようにある(下線はやぶちゃん)。
《引用開始》
立石寺の宿坊に一宿、二十八日(陽暦七月十四日)に大石田に取って返した一行は、川役高野一栄方に滞在して、二十九日・晦日にかけて最上川歌仙を巻き、六月朔日(陽暦七月十七日)陸路新庄へ赴いて渋谷風流方に宿泊、ここでまた歌仙を巻いて、三日に元合海[やぶちゃん注:現在の山形県新庄市大字本合海(もとあいかい)]から船で最上川を下り、古口[やぶちゃん注:「ふるくち」と読む。現在の山形県最上郡戸沢村。]を経由して清川に上陸、羽黒に向かった。一栄・風流との関係は、尾花沢の清風との縁によるもので、如上の経緯と対比すれば、「大石田といふ所で日和を待つ」と書き、新庄への陸行を省略したのは、最上川中心に記事をまとめるためのフィクションとしなけれはならない[やぶちゃん注:前掲注も参照されたい。]。「新古二道に踏み迷ふ」とは、談林調より漢詩文調を経て元禄の 〝景気の句〟へとめまぐるしく進展しつつあった転換期の俳壇の気運を反映したもので、「このたびの風流ここに至れり」とは、須賀川の俳筵(はいえん)で等躬の風雅をたたえた「風流の初めや」の句に呼応しながら、この土地の人々の素朴で熱心な俳事をたたえたのである。この賛辞の裏には、当時都市俳壇においては前句付けの興隆に伴って、宗匠を中心とする精神共同体的な俳諧の場が失われつつあり、芭蕉のこの旅には、一面において、都市に失われた俳諧の場を地方俳壇に見いだすことの期待が小さくなかったという俳壇史的事情も参照する必要があろう。「五月雨を集めて早し」の句は、もと中七「集めて涼し」の形で、右の大石田での歌仙の発句としてよまれたものだった。芭蕉はこれを紀行文の中で中七を改めることにより、挨拶の句から最上の急流の本意をとらえた句へと転位したのである。歌枕の跡をなぞり『東関紀行』をふまえた前文の、息の短い、畳みかけるような文体も、よく急流の感じに即応している。
《引用終了》
最後の部分は後注を参照されたい。
「ごてんはやふさ」碁点・隼。最上川の大石田の上流にある難所の呼称。「碁点」は川の中に岩石が点在することから、「隼」は急流に由来する。
「板敷山」、山形県最上郡戸沢村古口と庄内町(旧立川町)肝煎(きもいり)を結ぶ古道の途中のピーク。歌枕。標高六二九・六メートル。
「酒田」現在の山形県酒田市。最上川河口の商港。
「いなぶね」稲船。稲を積んで運搬した細長い平舟。人の運搬にも用いられた。これは「最上川上れば下るいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(「新古今和歌集 巻第二十 大歌所御歌 東歌」の第一〇九二番)を匂わせたものらしい。この歌は「いな」は「否」を掛けたもので上句は序詞。窪田章一郎校注の角川文庫版「古今和歌集」では信仰上の禁忌と推定されているが、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の同段の評釈では『男が女に言い寄ったところ、セックスを拒否するわけではないが、いまちょうど「月」のもの(月経)ゆえに「否」だと断られた、の意。奔放な東歌である』とある。私は後者に賛同する。
「白糸の瀧」は板敷山の対岸にある瀧で、仙人堂と芭蕉が上がった清川とのほぼ中間点にある。歌枕。
「仙人堂」現在の山形県最上郡戸沢村にある。外川神社とも呼ばれ、源義経の家臣常陸坊海尊が鎌倉初期に開いたと伝わる。サイト「山形県の町並みと歴史建築」の「仙人堂(外川神社)」によれば、常陸坊海尊は『義経が平泉へ下向中この場所へ訪れた時、傷を負っていた為ここに残っ』て生き永らえ、『傷がいえた後で修業を重ね仙人のようになったことから仙人堂と呼ばれるようになり、最上川舟運関係者からは舟の安全、周辺住民からは雨ごいの場所として信仰の対象となっ』たとある。義経好きの芭蕉には欠かせないランド・マークであった。
「水みなぎつて舟あやうし」頴原・尾形校注「おくのほそ道」注に「和漢朗詠集」の「月」の「秋水漲來船去速」(秋水 漲り來りて 船 去ること 速やかなり)や、これを踏まえた「東関紀行」の天龍川の条の「いと危き心ちすれ」とあるのを踏まえるとする(前注の同書からの引用参照)。]
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