橋本多佳子句集「紅絲」 童女抄 Ⅰ
童女抄
乳母車夏の怒濤によこむきに
[やぶちゃん注:この句、発表当時から毀誉褒貶半ばする句である。童女虐待を匂わせるような背徳味に生理的嫌悪を示す男の大家――孫をあやす祖母の中に突き放すような一瞬の鋭利な女の視線を探す女性評者――孰れも私の本句の「写真」ではない。一読、なるほどこれはそれでも腑に落ちると思わせるのは、底本全集の年譜を担当している多佳子の弟子堀内薫氏の『俳句研究』(昭和三七(一九六二)年七月号・橋本多佳子追悼)に載る以下の評であろうか(北川光春氏のサイト「俳句の雑学小事典」のこちらの頁の『「乳母車夏の怒濤によこむきに」の句鑑賞』から孫引き)。
《引用開始》
これは単なる自然観照の句ではない。実は反対に強烈な我の句なのである。これは小田原にある御子さんの家で、家の前にすぐ海である。祖母として乳母車の内の愛する孫へ切なる思いをこめて詠っている。この孫はいくつになるも頭がしっかりと落ち着かないのである。祖母としてその孫の悲惨な運命を思い、自然のなすまま手の下しようのないことの悲しみが、是非なんとかしてほしいという祈願が鬱積し狂わんばかりに沸騰している。これは主観と客観とが融合して一体となり、強固な結晶体となっている。
《引用終了》
私はこの句、嫌いではない。否、寧ろ好きだ。私に言わせれば冒頭掲げた両評などは見当違いも甚だしいと言わざるを得ない。俳句は辛気臭い道徳の教材なんぞではないし、熟女の「女」への回帰なんぞというどろどろの情念をどこをどう剖検したら出てくるのか?
堀内氏の評は『強烈な我の句』『鬱積し狂わんばかりに沸騰』する詩想、『主観と客観とが融合して一体となり、強固な結晶体』となった句という評言の選び抜かれた語彙にはかなり共感を覚える。しかし、そこに具体的に示された内容は、作句状況の客観的事実を説明するには十分条件だが、それは作品として独立した句である一句に対峙して一読し、そこから受けるある強い感銘を裏打ちするに欠かせぬ必要条件では――ない。
この句の私の映像には乳母車の子の母はいない。というより、ここには祖母だかに比定する多佳子はいないし、多佳子のある具体的な欲求や願望を核とするような一人称視線でもないのだ。私は寧ろ、引用元の北川光春氏の『夏の繰り返す荒波の浜辺に横向きに置かれている乳母車』という『みごとなまでの客観的な事物の配置であり、映画の一シーンにありそうな場面』だという評言部分(但し、以降の『論乳母車のなかには幼い赤ちゃんがおり、当然それを見守る多佳子おばあちゃまがい』て、『さらにこの句からは、妙なリアリティーが感じられ、多佳子おばあちゃまの冷静なまでの眼差しが感じられる』という部分を除いて、である)にこそ強い共感を覚えるのである。
これはエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のショックを微かに匂わせた、対立するモンタージュの純粋な美学的陶酔にこそ句の核心はあると読む。少なくとも多佳子の眼目はそこにあったと私は信じて疑わないのである。それは続く後の二句を見れば明々白々であるとしか私には思われない。句から読み取ることは出来ない文芸外の具体的なプライベートな事実を文字解説されて貼り付けられて、これが句の言いたかったことで御座い、なんどとまことしやかに宣明された日には、これら三句からは最早、初読時の慄っとするほど素敵なあの痺れるような感動は、決して再び体験することが出来なくなってしまうと声を大にして言っておきたいのである。]
雲の峰たちてのぞける乳母車
夏氷童女の掌にてとけやまず