杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句
英彦(えひこ)山 六句
谺して山ほととぎすほしいまゝ
[やぶちゃん注:大阪毎日新聞社及び東京日日新聞社共主催になる「日本新名勝俳句」の「山岳の部英彦山」で帝国風景院賞(金賞)に選ばれた久女の代表作とされる名吟である(同受賞作は全二十句)。久女三十歳。
「英彦山」は通常「ひこさん」と読み、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。耶馬日田英彦山国定公園の一部を成す。ウィキの「英彦山」によれば、『日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる』。古くは「彦山」という表記であったが、享保一四(一七二九)年、霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。『英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという』とある。坂本宮尾氏の「杉田久女」には、『江戸時代には英彦山参りの講が組織されて多くの参拝者があったが、明治維新の神仏分離令や修験道廃止令で霊山の参拝は衰退し、山伏の多くは還俗した。最盛期には三千八百あった宿坊も百ほどになっていた、と久女の日記にある』とある。山の中腹五百メートルほどの位置に英彦山神宮(ひこさんじんぐう:通称、彦山権現。現在の福岡県田川郡添田町内)があり、ウィキの「英彦山神宮」によれば、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ:高天原でのアマテラスとスサノオとの神生み比べの誓約の際にスサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の一柱。葦原中国平定の折りには天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるも、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。後、タケミカヅチらによって大国主から国譲りがなされ、再びオシホミミに降臨の命が下ったが、オシホミミは息子のニニギに行かせるように進言し、ニニギが天下ることとなるという、天孫降臨でも重要な役柄を担っている。オシホミミは「忍穂耳」で生命力に満ちた稲穂の神の意で、後、稲穂の神、農業神として信仰されるようになる。ここはウィキの「オシホミミ」に拠った)を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する』。『英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する』とある。
試みに、本句を、総て現代仮名遣でローマ字化してみる。
Kodama site yamahototogisu hosiimama
十七音中、“a”音が六音(その内、子音の“ma”音が四音を占める)、“o”五音(その内、子音の“ho”音が二音、“to”音が二音を占める)で、この優勢音が、まさに、不如帰の音(ね)の木霊となって、霊性に満ちた幽邃な英彦山全山を領しつつ、その絶対の静謐と広角景観を余すところなく響かせ、映し出している。句柄は豪放にして磊落、自然の持つ神秘の力を伝える男性的な霊力を孕むものの、以上の音律の与えるものは極めて女性的で限りなく優しい。寧ろそれは、私には、老子の称した玄牝やユングの原母(グレート・マザー)に通じるもののさえ感じられ、それがまた、久女という熱情の詩人に相応しいとも感ずるのである。]
橡(とち)の實のつぶて颪や豐前坊
[やぶちゃん注:同じく「日本新名勝俳句」で帝国風景院銀賞に選ばれた句。
「豐前坊」はこの時は既に前注に示した明治の廃仏毀釈によって英彦山神宮摂社高住(たかすみ)神社となっていた。英彦山神宮銅の鳥居から更に約五キロメートル東へ入った英彦山北東中腹に鎮座する(前句の注も参照されたい)。ウィキの「英彦山」によれば、『彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた』とあり、まさにこの「橡の實のつぶて颪」はそうした天狗の石礫(いしつぶて:主に江戸時代以降、明治期まで記録されている怪異の一つ。凡そ自然現象や人為とは思われない、石や当該物質などが存在しない場所(屋内を含む)に、どこから飛んで来たのか分からない物が投げ込まれる(若しくは投げつける・投げ落とす音のみがして投げた対象物体が存在しない)怪奇現象を言う。ウィキの「天狗礫」(てんぐつぶて)によれば、『天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。天狗が人々に素行の悪さを悔い改めさせようとしているともいい、狐狸の仕業ともいわれる』とある。)を直ちに想起させる久女としてはちょっと珍しい、おかしみの諧謔をも含ませた益荒男振りの句である。]
六助のさび鐵砲や秋の宮
[やぶちゃん注:「六助のさび鐵砲」戦国期の、ここの近くの毛谷村出身(現在の大分県中津市山国町(やまのくにまち)槻木(つきのき)。「毛谷村神社」と神社名に旧村名が残っているのが判る)の怪力無双の義人毛谷村六助(木田孫兵衛)に纏わるとされる錆びた鉄砲が同神社にはあったものか。福岡県添田町公式サイト内の「毛谷村六助伝説」から引用させて戴く。
《引用開始》
英彦山高住神社から東へ行き、野峠から大分県側に四キロほど下った東側山中に槻の木の人家があり、その中に「木田孫兵衛墓」と彫った石塔があって、毛谷村六助の墓だといわれる。六助の父は広島の人で佐竹勘兵衛といい、九州の緒方氏を討つために京都郡今井にやって来て、そこで知り合った園部与兵衛の娘との間に生まれたのが六助だという。当時浪人は人家には住めなかったので、犬ヶ岳に登りケヤキのほら穴で夜を明かし、それから六四町下った現在地に村を開いた。毛谷村の名はケヤキからついたといわれる。
六助は正直で親孝行な男で、きこりをし薪を背負って小倉の町(彦山の町だともいう。)に売りに行った。大変な力持ちで馬の四本足を両手で持って差しあげたという。その力は彦山権現に祈願してさずかり、彦山豊前坊の窟で天狗から剣術を授けられたといわれる。
そのころ、広島藩の剣術師範に微塵流の京極内匠という者がいて、同じ藩の師範八重垣流の達人吉岡一味斎の娘お園に思いを寄せていた。ところが、お園も一味斎も受けつけないので、内匠は一味斎をやみ討ちして豊前へ逃げた。
内匠は小倉藩に仕官するために、藩主の前で試合をすることになるが、その前に相手である六助をたずね「老いた母への孝養のために勝たせてもらえまいか」と頼んだ。六助は、その親を思う気持に感激して内匠に勝をゆずった。後になって六助はそれがまったくの偽りであると知り、烈火のごとく怒った。
ちょうどそのとき、お園は母親と彦山に参詣に来て、六助の家に立ち寄り、あだ討ちの助太刀を頼むので、六助は承諾した。その後、小倉城下でめざす相手の内匠を見つけ、首尾よくかたき討ちを果たせることができた。これが縁で六助はお園と結婚した。
上津野の高木神社より今川のずっと上流にお園の妹お菊の墓というのがある。父のあだを討つために六助を頼って毛谷村に行く途中、かたきによって殺された。むら人はその悲運をあわれみ、墓石をたてて供養したといわれる。側に大きな松があって、この松に提灯をかけて姉のお園を待ったというので提灯掛の松といわれたが、残念なことに今は枯れてないし、その跡もわからなくなっている。
六助は後に、豊臣秀吉の前で相撲をとり、三五人に勝ったが、三六人目の木村又蔵に負けたので(三六人抜きしたという話もある。)加藤清正の家臣になり、木田孫兵衛と名乗り、秀吉の朝鮮出兵に従軍して戦死したといわれる。また無事帰国して六二歳で没したという話もある。
《引用終了》
以下を示すと引用許容を越えるので、要約させて戴くと、この六助の仇討ちは江戸時代の軍記物「豊臣鎮西軍記」(成立年代未詳・作者未詳)に天正十四(一五八六)年の事実と記されてあるが、天明六(一七八六)年に大阪道頓堀で人形浄瑠璃として上演された「彦山権現誓助劔」(ひこさんごんげんちかいのすけだち:梅野下風・近松保蔵作)が大当りとなったのが巷間流布の元とされる(但し、浄瑠璃の特性で原話からの有意な改変が行われてある)。その後、寛政二(一七九〇)年には大坂で歌舞伎化され、人形浄瑠璃とともに人気狂言として上演されることで、六助伝承は大いに広まることとなったとある。二〇一一年の大阪松竹座公演「通し狂言 彦山権現誓助劔」のパンフレットによれば『六助は、英彦山麓の毛谷村、いまの大分県中津市の山中に住んでいたが、六助の墓が土地に伝わり、福岡県側の英彦山神社には六助が使ったという刀、鉄砲が残っている。郷土の英雄ということだ』とある(やま爺氏の「お気楽庵」の「二月大歌舞伎 松竹座 行ってきました。」から孫引きさせて戴いた)。また、毛谷村六助と同一人物として載せるウィキの「貴田孫兵衛」には、『貴田孫兵衛(きだ まごべえ、生没年不詳)は、 戦国時代の武将で、加藤清正の家臣。実名は「統治」ともされるが不詳』。『俗に「加藤十六将」の一人とされる。九百余石を知行していたといい、文禄・慶長の役には鉄炮衆四十名を率いて従軍した。『清正記』は加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に討死したとしているが、その後も清正の書状に貴田孫兵衛の名があるためこれは誤伝らしい。その最期は不明であるが、孫兵衛の一族は、加藤家改易後細川藩士となっている。後述するように、孫兵衛は毛谷村六助の名で有名であるが、史実と伝説との区別が必要である』とし、『江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に1960年代に韓国の民間伝承論介伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたが、もちろん史実ではない。大分県中津市には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓なるものがあり地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えているが、歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もある』とある。因みに、この「論介」(?~一五九三年)とは朝鮮李朝時代の妓生(キーセン)で、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の義妓として知られる人物。全羅道長水生まれ。一五九三年六月に慶尚道の晋州城を占領した日本軍が城の南側を流れる南江の畔りの矗石(ちくせき)楼で酒宴を開いたが、その席に侍らせられた論介は日本の一武将(朝鮮では毛谷村六助とされる)を岩の上に誘い出して抱き抱えたままともに南江に身を投じたという。以来、この岩を義岩として矗石楼の奥に論介祠堂を建て、毎年六月に祭事が行われる、朝鮮では知らぬ人のいない義女である(以上の論介の事蹟は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
秋晴や由布にゐ向ふ高嶺茶屋
坊毎に春水はしる筧かな
[やぶちゃん注:現在の英彦山詣でをされた坂本宮尾氏(「杉田久女」)によれば、『鳥居から奉幣殿まで一キロにおよぶ長い長い石畳の参道』『の両側に宿坊跡と記した立て札が並び、人が住んでいる宿坊がいくつか残っているばかりである。久女が〈坊毎に春水はしる筧かなと〉詠んだ、坊から坊へ竹の樋を渡した光景も見られない』と記しておられる。]
三山の高嶺づたひや紅葉狩
[やぶちゃん注:「三山」英彦山は北岳・中岳・南岳の三峰から成り、中央にある中岳山頂に英彦山神宮本社である上宮がある(ウィキの「英彦山」に拠る)。]
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