山原行吟の歌(短歌十三首) 山之口貘
山原行吟の歌(短歌十三首)
獰猛と呼ばれし友は何時となく山村に住みて言葉おとなし。
旅にゆく心なつかしあかつちの丘のあいまを途はうねるも。
山々はむらさき色に變りゆく夕暮の里はものさびしかな。
山國の旅はかなしも吾が心夜更けて宿にものおもひする。
酒をのむ部屋のちくらく山村の友は失戀のものがたりする。
北海に瀨底の嶋は舟のごと浮かべる背より四方(よも)の潮見ゆ。
月冴えて瀨底の嶋のぐるりには海鳴りの音ものさびしかな。
さむみゆく瀨底の島の沖あひに伊江島の影は淡く見ゆるも。
見にゆかん麗はしの乙女伊江島の燈台守りてあるときゝしを。
燈台守りの娘うるはしと噂きく吾等の旅路つかれおぼえず。
ゆきあふ人等かへりかへりて吾等が旅路ぼろ馬車はゆく。
吾が心慰めるごと今宵この酒をもて來し友に涙す。
來て見ればさすが山原は歌の國かへる日を見ず旅重ねゆく。
[やぶちゃん注:初出は大正一三(一九二四)年二月十一日附『八重山新報』。標題「山原行吟の歌」でペン・ネームは「山口三路」。言わずもがな乍ら、前年(バクさん二十歳)、関東大震災の被災者特典によって沖繩那覇に帰郷後の、沖繩本島本島北部山原地方を彷徨した折りの詠歌。但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、バクさんはこの大正十二年十二月には、当時、石垣島の沖繩産業銀行八重山支店支店長の職にあった父重珍のもとに向かっており、歌稿の投稿自体はそれ以降(恐らくは大正十三年に入ってから)のものと推定されている。旧全集年譜は文芸活動以外のこうした具体的事実記載が記していない代わりに、同年の条には『山城正忠(明星派歌人)主唱の琉球歌人連盟』に入り、『上里春生らとともに幹事となる。中山一の提案で泊汐渡橋』(こういう橋は現在の那覇にはない。思うにこれは那覇市の西の泊港の湾奧にある潮渡橋(しおわたりはし)のことと思われる。泊高橋(とまりたかはし)というのが直近にあるが、この「泊汐渡橋」は港の名を冠したものであろう)『附近に民家を借りて事務所とし、貝かに洗濯屋を開業してそこに起居する。地方にいる歌人とも交流する一方、丹青協会や二葉会』(恐らくは孰れも当時の沖繩県内の美術会派と思われる)『に静物や自画像などのリアルな作品を出品したりするが、間もなく琉球歌人連盟は自然消滅、二度目の恋愛にも破れ、るんぺんのような生活を始める』(「るんぺん」はママ)という記載がある。
「瀨底の嶋」瀬底島(せそこじま)。現在の沖縄県国頭郡本部町に属し、本部(もとぶ)半島の西方沖約六百メートルの東シナ海上にある。島全域は本部町の大字である「瀬底」に属す。沖繩方言で「瀬底」は「しーく」また「しすく」と呼ばれる(以上はウィキの「瀬底島」に拠る。その他の地名は私には分かるので注を施さない。悪しからず)。
「ゆきあふ人等」の「かへりかへり」後半は底本では踊り字「〱」。
「酒をのむ」「部屋のちくらく」の「のち」は「部屋の内・中」で、格助詞「の」に名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化した万葉以来の古語の連語「ぬち」の転訛したものと思われる。]
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