日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 5 二戸辺り
山地から我々は長い平地で、いくらかアイオワ州の起伏した草原に似た場所へ出た。世界地図で見ると、日本は非常に小さいが、而もこの草原を越すには、まる一日かかった。村はすくなく、離れ離れに立っていた。我々が通過した部落は、それぞれ特徴を持っていて、ある物は貧弱で、見すぼらしく、他のものは非常にきちんとしていて、裕福らしかった。我々はまた一つの山脈に近づいたが、そこの村の人々は、急な渓流が主要道路の中央を流れるようにしていた。町は奇麗に掃いてあり、所々に美しい花のかたまりや、変った形をした矮生樹が川に臨み、ここかしこには、鄙(ひな)びた可愛らしい歩橋が架けてあった。平原には高さ十フィートの、電信柱みたいな棒が立っていたが、針金がなく、そして電信柱にしてはすこし間がひらきすぎていた。聞いてみると、これ等は冬、旅人が道路に添うて行くことが出来る為に建てたので、冬には路のしるしがすべて、深い雪の下に埋って了うのである。これは米国でも、場所によって真似してよい思いつきである。最近あった暴風雨が、大部ひどい害をしている。あちらこちらで橋が押流され、地辷りで街道が埋っていた。我々もいくつかの地辷りの鼻を、避けて廻った。ある所では、一部分崩壊した家が、小さな流れと見えるものの真中に建っていた。前にはこれが、烈しい激流だったのである。
[やぶちゃん注:これは現在の金田一温泉辺りまで下った印象であろう。
「アイオワ州」同州高地地域はプレーリーとサバンナであるが、前者の様態との類似を指すか。
「一つの山脈」進行方向左手に現われた北上高地のことかと思われる。
「急な渓流」馬淵川。二戸(福岡)附近では町を貫流し、この西岸を奥州街道(現在の国道四号線)が並走する。
「十フィート」約三メートル強。
「電信柱みたいな棒」現在は視線誘導標(デリネーター。デリニエーター。英語の区切り文字の意の“delimiter”(デリミター)に基づくか)の一種(若しくは兼用)、特に北方の積雪地域ではスノー・ポールと呼ぶ。積雪時の路肩の誘導標。当時からあったそれを何と呼んだのか、識者の御教授を乞うものである。]
朝から夜遅く迄旅行していて疲れたので、あまり沢山写生をすることが出来なかった。福岡という村は広い主要街の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあって、極めて美しかったことを覚えている。この地方の人々は、目が淡褐色で、南方の人々よりもいい顔をしている。子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。路に沿うて、多くの場所では、美味な冷水が岩から湧(あふ)れ出し、馬や牛の慰楽のためにその水を受ける、さっぱりした、小さな石槽(いしぶね)が置いてある。この地方に外国人が珍しいことは、我々と行き違う馬が、側切れしたり、蹴ったりすることによって、それと知られる。古い習慣が、いまだに継続しているものも多い。一例として、我々と出合う人は如何なる場合にも馬に乗った儘で行き過ぎはせず、必ず下馬して、我々が行き過る迄待つのである。最初これに気がついた時、私は馬が恐れるので、騎手は馬を押えているために下馬するのだろうと思ったが、後から、低い階級の人々は決して馬に乗った儘で、より高い階級の人とすれちがわないという、古い習慣があることを聞いた。何人かの人が、路の向うから姿を現すと共に、早速高い荷鞍から下り、そして私が遠か遠くへ去る迄、馬に乗らぬのには、いささかてれざるを得なかった。また私は、只芝居に於てのみ見受けるような、古式の服装をした人も、路上で見た。
[やぶちゃん注:「てれ」は底本では傍点「ヽ」。]
図―428
稲田を濯漑する奇妙な装置は、図428に示す所のものである。流れの速い川の岸に、水車を仕掛け、それは流れによってゆっくりゆっくり廻転する。車の側面についている四角い木の桶は、流れの中にズブリとつかって水で一杯になり、車が回転すると共に水は桶から、それを向うの水田へ導く溝の中へと、こぼし入れられる。
[やぶちゃん注:アメリカに水車がないわけではないが、稲作の水田灌漑用の、こうした低い位置で稼働して水を送り込むための装置としての水車はモースには極めて珍しかったのである。]
図―429
昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蠟の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、考婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人人は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蠟をつくりつつあった。この蠟で日本人は蠟燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネテイカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホップス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蠟を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蠟をつくる。先ず種子を集め、反鎚(そりづち)で粉末にし、それを竈(かまど)に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔(くさび)を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蠟をしぼり出す。すると蠟は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。
[やぶちゃん注:「植物蠟」木蠟(もくろう。生蠟(きろう)とも呼ぶ)は当時は主にハゼ蠟で、他にウルシ蠟があった。ウィキの「蝋」によれば、ハゼ蠟はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の果実から作られる蠟で、『主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる。日本以外では“Japan wax”と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』が本邦での生産は衰退した。二十一世紀初頭の現在においては『海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである。木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪である』。主成分はパルミチン酸のトリグリセリドである。一方のウルシ蠟はハゼノキと近縁なウルシ科ウルシ Toxicodendron vernicifluum の果実から採取するハゼ蝋と性質のよく似た木蠟であるが、ハゼ蠟に押され、『現在の日本ではほとんど生産されていない』。主成分はハゼ蝋と同じ、とある。この図429に相当する装置をネット上で探したが見当たらない。モースのスケッチはもはや失われた蠟造りの実際を伝える貴重なものと言える。
「弾薬筒」原文“the cartridge”。明らかに薬莢であるが、ここでモースが詳述するような事実と本邦産のそれが、明治の初めから、多量に、殺人兵器の必要原料として、多量に輸出され続けていたという事実を私は初めて知った。]