日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 14 アイヌの家屋(Ⅱ)
図―394
図―395[やぶちゃん注:上図。]
図―396[やぶちゃん注:下図。]
図―397
これ等の家産の清楚と一般的な絵画美とは、一歩室内へ足を踏み込むと共に消失して了い、下には固く湿った地面、上には黒くすすけた棰があり、そして強い魚の臭気があらゆる物を犯している。四角な炉の近くには、食事の残りを入れた大きな鉢が置かれてあるが、それは如何なる場合にも、大きな、胸の悪くなるような魚の骨である。彼等の小舎の内で見受けた食物とては、燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物と、子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子とだけである。この家の一本の棒からは、筵でつくつた小鞄と、丸い固菓子と、魚の切身とがつるしてあった(図393)。道具類は大きな漆塗の盃、火にかけた薬鑵、その他若干(すべて日本製)と、アイヌがつくつた木の食事椀とであった。図394は炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と、貝殻に魚油を入れ、割った棒の上にのせた燈火とを示す。図395は真鯵(まあじ)の鰓(えら)蓋と鰭とを示し、図396は別の魚の切りようで、串をさし込んで切口を引きはなす。長い条片に切ることもある。図397は魚の頭二つ、その他、並に魚の鰾(うきぶくろ)である。これ等の最後のものは、火の直上にかけてあった。これ等はすべて、屋内にかけ渡した竿からぶら下っていて、火から出る煙が結構それを乾し燻す。だが、時々新鮮な空気を吸うために、逃げ出さねばならぬ程、煙が濠々と立籠める家に住み、そして眠ることを考えて見給え!
[やぶちゃん注:「燻した鰭及びその他の魚の身体部をつるした物」ウィキの「アイヌの料理」の「乾し肉・乾し魚」よれば(注記記号は省略した)、
《引用開始》
アイヌ語では乾し肉をサッカム(satkam)、乾し魚をサッチェプ(satcep)、ニケルイ(nikeruy)、アタッ(atat)と呼ぶ。
特に秋の鮭は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜くための保存食に加工された。まず頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて燻製にする。夏のイチャニウ(icaniw マス)やトゥクシシ(tuksis アメマス)は蝿の害を防ぐため、開いてから火で炙り、焼き干しに加工する。これら乾し魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った乾し魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す。
腹を開いた際に得られるウプ(up 白子)やチポロ(cipor 筋子)も乾燥して保存し、オハウ(ohaw 汁物)の出汁やサヨ(sayo 粥)に用いられた。
獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて乾し肉に加工される。ユク(yuk 鹿)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。このサッカム(乾し肉)はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする。
《引用終了》
とある。これからモースが見た乾し魚は概ね鮭であったと思われる。
「子供の車の輪に似た固い、乾燥した菓子」これは「オントゥレプ」とばれるアイヌの保存食である。「トゥレンプ」(又は「トゥレプシト」。「シト」は団子の意)とは単子葉植物綱ユリ目ユリ科ウバユリ属変種オオウバユリCardiocrinum cordatum var. glehnii 及びそのデンプンを多量に含んだ鱗茎をすり潰して団子状にしたものを指し、「オン」は「発酵させた」の意。「トゥレプ」はアイヌの人々にとって植物性食品の中では古くから穀物以上に重要な地位(日常食というよりもイオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他神事やハレの日の供物的性格を持った贅沢品で、滋養強壮や薬膳としても用いられた。以上は主にウィキの「アイヌの料理」に拠る)を占めていたものである。ウィキの「オオウバユリ」によれば、
《引用開始》
旧暦4月をアイヌ語で「モキウタ」(すこしばかりウバユリを掘る月)、5月を「シキウタ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達はサラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。
1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
2 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉をイタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二蕃粉を団子に丸めて蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない。
《引用終了》
オントゥレプの製造法は、
《引用開始》
トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる。
1 オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(笊)で集める。
2 よく水気を絞ったのち、蕗やヨブスマソウの葉で包んで3~10日ほど寝かせ、醗酵させる。この醗酵作業を「オン」という。
3 オンさせたものを臼に入れ、よく搗き潰す。搗きあがったらこねてドーナツ状に丸め、乾燥させる。
4 紐を通して炉の火棚に吊るして貯蔵する。
食べる際は搗き砕いて水でもどし、団子にしてサヨ(粥)に入れる。
なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。
《引用終了》
とある。サイト「門別・日高旅行
クチコミガイド」内の個人投稿「苫小牧出張旅行3―静内地方のアイヌ文化」の北海道日高郡新ひだか町のシャクシャイン記念館で撮られた、上から十七枚目のものが分かり易い。
「炉と、薬鑵を異る距離におく簡単な装置と」囲炉裏はアイヌ語で「アペオイ」という。ウィキの「チセ」によれば、『和人の民家の囲炉裏は家族の座る席が厳重に決められていたが、それはアイヌの住居も同様だった。アイヌ式の囲炉裏は長い薪を焚けるよう、内地の「木尻」に当たる西側の席が土間のままになっている。それを除いた三方に家族が陣取る。北西が主婦の席、北東がチセコロクル(戸主)が座るシソ(主席)、カムイプヤラを背後にした東側は客人が座るロルンソ(上座)、炉の南側はハルキソ(家族席)である。そのうち男子は南東側、女子は南西側に座る。就寝時の寝床も、ほぼこれに順ずる』とある。
「魚油」鰯・秋刀魚などから製した脂肪油。これは燃やさなくても、採取後、時間が経つと独特の生臭い悪臭を発する。
「真鯵」原文は“a horse mackerel”。これは北東大西洋沿岸及び地中海に分布し、本邦には棲息しないスズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属
Trachurus trachurus (流通名ではニシマアジ・ヨーロッパマアジ)を指す。本邦のマアジ属マアジ Trachurus japonicas ととって差し支えないなく、スケッチははそのようにも見える。しかし私はここで唐突にアジが出るのがやや気になるのである。しかもここまでモースは目の前に豊富にある乾し鮭に対して“salmon”という単語を一切使っていないことが甚だ気になるのである。実は驚くべきことに“salmon”という単語は本書の中では終わりから二つ目の「第二十五章 東京に関する覚書」の中に一箇所出るだけなのである(但し、それはアイヌ関連の収集に赴いた永代橋近くの古道具屋と思しい所で「私は鮭の皮でつくったアイヌの靴」を買ったというアイヌ絡みの叙述で出てくるのであるが)。なお因みに、個人ブログ「kiriya」の「位置を与える、拾う、纂」に、『「秋鰺(あきあじ)」は「ソウ」と発音される漢字の「鯵=鰺(あじ・ソウ)」であるが、「アイヌ語のチュクチェプ=秋食)」の和訳であるらしく、「秋、産卵のために川をのぼる鮭(さけ)の異名」で、北海道・東北地方では「アキあじ(秋鰺)」は「鮭・塩鮭の意」である』とあるのである。モースはもしかするとこの時点ではアイヌの人々が鮭としての「秋鰺」を語り、矢田部らの通訳がそれをそのままに伝えたために、鮭を鰺と誤認していたのではなかろうか? ただ、矢田部らが“salmon”という単語を知らなかったはずもないのだが……にしても全く“salmon”が出現しない原文も異様なんである。識者の御教授を乞うものである。
「鰾」アイヌの人々は本州人と同じように、鮭の鰾から膠を抽出して弓の張り合わせや接合に用いていた。]
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