日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 14 アイヌの家屋(Ⅰ)
壁には非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒、及びその他の狩猟器がかけてあった。小舎の内にあるものは、すべて煙で褐色を呈し、屋根や棰(たるき)は真黒である。床は大地そのままだが、坐る時には藁筵(わらむしろ)を敷く。我々が小舎へ入ると、彼等はきっと上の方の棰から巻いた筵を取り下し、それを地面に敷いて我々を坐らせた。筵には、茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある。
[やぶちゃん注:「非常に古い日本の短刀、毒矢を一杯入れた箭筒」これらの室内の掛物については後に図入りで示されてあるが、まずはウィキの「チセ」によって間取りを予習をしておこう(注記記号は省略した)。
《引用開始》
以下、入り口が西側、神窓が東側に設計されたチセを例として内部構造を説明する。
入り口は寒気や風雨の侵入を防ぐため、セムという前室で覆う。このセムは玄関であり、道具の収納場所、雨天時の作業場でもある。家の北側は壁のみで、北東隅に和人地との交易で入手したイコロ(宝物)を納める宝物棚「イヨイキリ」が設けられる。シントコ(漆塗りの桶)、パッチ(木鉢)、オッチケ(膳)、エチュシ(湯桶)などの漆器やエムシ(宝刀)が麗々しく飾られており、その前の床は就寝が禁じられている。東側には前述のカムイプヤラが設けられ、東側から東南にかけての床は客人の就寝場所とされる。
家の南面には、採光用として2つの窓が設けられる。南東側の窓が「イツムンプラヤ」(対応の窓)で、南西側の窓がポンプヤラ(小さい窓)。家の南西隅は女性の席で、炊事もこの付近で行われる。そのため、ポンプヤラには「汚れ水を捨てる窓」という別名もある。
和人の民家の囲炉裏は家族の座る席が厳重に決められていたが、それはアイヌの住居も同様だった。アイヌ式の囲炉裏は長い薪を焚けるよう、内地の「木尻」に当たる西側の席が土間のままになっている。それを除いた三方に家族が陣取る。
北西が主婦の席、北東がチセコロクル(戸主)が座るシソ(主席)、カムイプヤラを背後にした東側は客人が座るロルンソ(上座)、炉の南側はハルキソ(家族席)である。そのうち男子は南東側、女子は南西側に座る。就寝時の寝床も、ほぼこれに順ずる。チセは基本的に一部屋のみだが、白老など道南地方では、年ごろの娘を抱える家庭に限ってトウンプ(娘の部屋)を家の南西側に増築した。これは娘を村の若者たちに公開することで、結婚相手を探し出すための配慮と考えられる。
チセの暖房設備はこの囲炉裏のみだが、一年を通じて焚かれる火の熱が床でもある地面に蓄積されるため、冬季でも案外暖かく過ごせるという。明治時代、開拓使は同化政策の一環として伝統的な日本建築の住宅を建て、アイヌを移住させた。しかし高温多湿の気候に向いた高床式建築で北海道の寒さに耐えられるはずもなく、体調を崩す者が続出。結局、その日本家屋の隣にチセを作り直し、そこで暮らしたという。
《引用終了》
最後に記されてあるチセの絶妙な暖房効果については、「エコハウス研究会」公式サイトの地熱住宅研究員宇佐美智和子氏の『アイヌの伝統民家「チセ」』に、そのチセの構造の詳細に加えて、チセ復元による過酷な居住実験から微弱継続薪燃焼によって極寒を凌いでいたアイヌの人々の智慧が明らかにされている。必見!
「床は大地そのままだが、坐る時には藁筵を敷く」とあるが、ウィキの「チセ」には、『北海道アイヌのチセは、長方形の外郭が基本で、部屋数は一部屋のみである。踏み固めた地面に茅を敷き、さらにその上にキナ(ガマで織ったござ)を引いて床とし、茅で葺いた壁の上にはチタラベ(花ござ)で覆って仕上げている。床の中央部にアペオイ(囲炉裏)が切られ』るとある。
「茶色と黄色の藁で簡単な模様が細工してある」「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイト内の「花茣蓙」を参照されたい。]
図―389
図―390[やぶちゃん注:上図。]
図―391[やぶちゃん注:下図。]
図―392
アイヌの写生図の多くは、白老でやった。ここには相当大きなアイヌの村がある(図389)。アイヌの家屋は左右同形に出来ていて、畝のある藁屋根は非常に清楚で、このもしくさえある。私はアイヌの村をいくつか通りぬけたが、整頓線の形跡を見た事がなく、往来の場所さえもない。狭い、不規則な小径が小舎から小舎へ、草の間を縫っているが、開けひらいた場所もなければ、子供が遊んだと思われるような、地面を踏み固めた場所もなかった。多くの家の周囲には、家を建てた材料と同じ薹(すげ)、或は蘆を束にした、高い垣根がある。アイヌの家は、六年か七年しかもたぬそうである。部落には家が三、四十軒ある。すくなくとも我々は、この位の人家の村を多く見た。家の多くにはL字形のもの、即ち玄関がついていて、見たところをよくしていた。屋根には、水平の畝をいくつか重ね、別に傾斜の急な棟が一つ、垂直に二フィート近くもつき立った上に丸い棒がのっている物を、構成するような具合に、葺(ふ)いたものがよくある。この棒は棟の底部を横に貫く桁(けた)に、藁繩で結びつけられることによって、その位置を保っているらしい。この種の屋根は、私が日本で見たもののどれとも、全く異っている。図390は特殊な畝屋根を持つアイヌの家、図391は玄関のある別のアイヌ家屋、図392は玄関を大きく描いたものである。上にのっている熊手は、農業に使用するのではなく、海藻をかき集める粗雑な道具である。戸口から入る光線以外には、たった一つの四角い窓を通じて入るもの丈しかない。一軒の家には窓が二つあり、外側に粗末な板の鎧戸がかけてあった。
[やぶちゃん注:「アイヌの家屋」ウィキの「チセ」から「建築方法」を引いておく(注記号は省略した)。
《引用開始》
構造材には周辺の山から切り出された木が使われる。プンカウ(ハシドイ)、ヤムニ(クリ)、トゥンニ(カシワ)、ランコ(カツラ)、ピンニ(ヤチダモ)、ケネニ(ハンノキ)などの腐りにくく加工しやすい木が選ばれるが、腐りやすいタッニ(シラカバ)、ヤイニ(ドロノキ)は避けられる。これと別に結合材として、ハッツ(ヤマブドウ)、クッチ(サルナシ)の蔓を大量に集める。
大地の神に建築の許可を得た予定地を地ならしし、原木は皮をはいで簡単に削り、太ければ割って木材に加工する。その上で、まず屋根から組む。地面の上でソペシニ(桁)とウマンギ(梁)を長方形に組んだ上に、2つのケツンニ(三脚)を立てる。ふたつのケツンニの上に横木を渡してキタイオマニ(棟木)とし、それに従って何本ものリカンニ(さす)を立てる。これで屋根の大まかな形が出来上がるので、そこにリカニ(垂木)を掛け、屋根葺き用のサクマ(横木)を張る。その後の行程にさしつかえなければ、ここで屋根を葺いても良い。
別進行で、柱の用意をする。地面を深さ70㎝ほどまで掘り、イクシペ(柱)を立てる。積雪の重みに家が耐えられるよう、先端を家の内側に傾けた「外ふんばり」の形状になるよう留意する。柱の先端はソペシニやウマンギを受け止めるため、Yの字型に窪みを入れておく。天然の股木をそのまま利用してもいい。家の外郭に沿って柱がすべて立てられ、すべての刻み面が水平で一直線であると確認されたら、建築参加者全員で先に組んだ屋根の部分を持ち上げ、柱の上に載せ、蔓で固定する。これで全体的な骨組みは完成する。なお、屋根を別に組んで柱の上に載せる工法は、小家族用の家・つまり人力で持ち上げられる重さの屋根のみに使用される。村長宅や集会場のような大型のチセの場合は、柱や梁を組み、そのうえで屋根を組む。しかし三脚を基本とした屋根の構造は同じである。
次に壁葺き、屋根葺きに入る。屋根は骨組みの上にスダレをかけ、そのうえから茅や笹を下から吹いてゆく。壁は柱の間に何本もサキリ(横木)を渡し、それを手がかりに葺く。
外郭が出来上がった後に、内部を造作する。家の中央に炉を設け、床にキナ(ござ)を敷く。壁もチタラベ(花ござ)で覆って装飾する。
その後に新築祝い(後述)が行われ、完成へといたる。
《引用終了》
『新築祝い(後述)』とある「チセにかかわる儀礼」も非常に興味深いものなので併せて引用させて戴く。
《引用開始》
チセを建造するに当たり、チセコッエノミ(地鎮祭)を執り行う。まず新しいスス(ヤナギ)を伐って三脚を作り、新居の囲炉裏となる部分に立てる。この三脚に炉鉤を吊るし、その下に薪の燃えさしを3本置く。この燃えさしは、戸主、建て主の旧居の炉から、アペフチ(火の女神)の許しを得ていただいて来たものである。分家を立てるなど、全くの新築である場合は一族の長老の家から燃えさしをもらう。
近隣にヌササン(幣場)を設け、大地の神、森の神、先祖の神にイナウを捧げると共に、家の建設と材料の譲渡を願って祈る。この三脚やヌササンはそのまま一週間ほど放置する。その間に何もなければそのまま建築に取り掛かるが、土砂崩れや洪水、火災に遭う夢を見た場合はその地での建築を諦め、別の場所で同じ儀礼を執り行う。
土地を選ぶことができない場合は、厄払いの儀式を行う。2人の長老がそれぞれ手にエンジュの木で作ったシュトイナウ(棒状のイナウ)を持ち、新居の神窓に当たる部分から出発し、家の外郭を一周する。
家が完成した後は、チセイノミ(新築祝い)を執り行う。炉に長老が火を入れてイナウを捧げ、神に家の安寧を祈る。その後に関係者や村人総出で酒宴を開き、祝う。儀式の最中、悪魔祓いとして屋根裏に矢を射掛ける。この矢がそのまま突き立てば、吉兆としてそのままにしておく。
老人、特に老女が死んだ折は、遺体を墓地に土葬したのちに故人の持ち物を家ごと焚き上げる。これをチセウフイカ(家焼き)、カシオマンテ(小屋送り)という。「女一人では、あの世で家を建てられないから」との考えで、家を来世に送るのである。この家焼きの儀式は火災の危険を案じた松前藩や明治政府によって何度も禁止令が出されたが、家の模型とともに故人の遺物を焼いたり、解体した家の残骸を類焼の心配が無い場所に運んで焚き上げることは昭和初期になっても行われていた。
《引用終了》
「薹」この字は一般には「薹(とう)が立つ」で知られる野菜類で茎が伸びた状態を指したり、アブラナ(双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ Brassica rapa 変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera )の別名として用いられるが、それとは別にやはり古くから、菅笠の材として知られる単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属カサスゲ Carex dispalata のことをも指す。因みに 「跡見群芳譜」の「野草譜」の「すげ(菅)」によれば、植物学上は「スゲ」と呼ばれる植物種はなく、汎称としてカヤツリグサ科 Cyperaceae(莎草科)のうち、狭義にはスゲ属 Carex(薹草屬)の植物の総称、広義にはスゲ属 Carex(薹草屬)・ヒゲハリスゲ属 Kobresia(嵩草屬)・Schoenoxiphium 属・Uncinia 属の植物の総称であるとある。
「L字形のもの、即ち玄関」ウィキの「チセ」に、『入り口は寒気や風雨の侵入を防ぐため、セムという前室で覆う。このセムは玄関であり、道具の収納場所、雨天時の作業場でもある』とある。
「二フィート」約六十一センチメートル。
「丸い棒」先の引用の中のキタイオマニ(棟木)である。
「たった一つの四角い窓」ウィキの「チセ」によれば、『家の最深部の壁には、神聖な窓「カムイプヤラ」が設けられる。このカムイプヤラは神聖とされる東、あるいは山側、川の上流部が覗けるよう穿たれている。入り口はこの反対側に作られるため、チセの立地は地形の制約が無ければ東西、あるいは川の流路に平行である場合が多い』。『なお、カムイプヤラはカムイ(神)のみが出入りを許された窓であり、イオマンテなどの儀式の祭具もこの窓から出し入れする。この窓から他人の家を覗き見するのは、賠償を取られても仕方が無いほど無礼な行いとされた』とある。]
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