今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 40 新庄 風の香も南に近し最上川
本日二〇一四年七月十八日(陰暦では二〇一四年六月二十二日)
元禄二年六月 二日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月十八日
である。新庄二日目。この日、芭蕉は渋谷風流の兄で問屋業を営む商人で城下一の豪商渋谷九郎兵衛盛信に招かれ、風流宅の斜向いのその豪邸に於いて七吟歌仙「御尋に」の巻と以下の句を発句とする芭蕉主催の三つ物をものした(後者は前日の風流主催のそれへの返礼)。
盛信亭
風の香も南に近し最上川
[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。三つ物を示す。
盛信亭
風の香も南に近し最上川 翁
小家の軒を洗ふ夕立 息
柳風
物もなく麓は霧に埋て 木端
主人盛信は俳諧を嗜まなかったので歌仙にも参加していないが、そのホスト代役として盛信の「息」子の柳風(仁兵衛)が脇を、第三を地元の俳人木端(小村善衛門)が付けたものである。
山本健吉氏は「芭蕉全句」で、『この句の季題は「風薫る」。『増山の井』』(ぞうやまのい:俳書(季寄せ)。北村季吟著。寛文三(一六六三)年刊。)『に「風薫(かおる)」を録して「南薫(なんくん)。六月にふ涼風也。薫風自南来(みなみよりきたる)と古文真宝前集にいへり」と説いている』とある。この「薫風自南来」は寧ろしばしば禅語として目にするもので、そこでは例によって「くんぷうじなんらい」と棒読みする。この語は唐代の文宗が作った「人皆苦炎熱/我愛夏日長」(人 皆 炎熱に苦しむも/我 夏日の長きを愛す)の句に文人柳公権がつけた「薫風自南來/殿閣生微涼」(薫風 南より來たり/殿閣 微涼を生ず)の七絶の転句である。
山本氏は先の引用部に続けて以下のように本句を評しておられる。
《引用開始》
「風の香も南」と言って、この南薫を意味している。新庄は、最上川より大分北になるので、芭蕉は南からの風に最上川の水辺の匂いを感じ取ったのである。近々と最上川が感じられることを、盛信への挨拶とした。大国に入っての挨拶句の格をはずしていない。同じ日、盛信亭での歌仙の脇句に、芭蕉は「はじめてかほる風の薫物」と作っていて、「風薫る」の季題にひどく執著している様子が見える。
《引用終了》
因みに、この七吟歌仙「御尋に」の巻の方の発句は風流の「御尋に我宿せばし破れ蚊や」である。
以上の山本氏の指摘は例えば、明日示す、この翌日六月四日の句である「奥の細道」にも載るそれが、
有難や雪をかほらす南谷(みなみだに)
であることからもすこぶる首肯出来る。]
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