今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 46 涼しさやほの三か月の羽黑山
本日二〇一四年七月二十五日(陰暦では二〇一四年六月二十九日)
元禄二年六月 九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月二十五日
である。この日は羽黒山滞在の最後の夜であった。
涼しさやほの三か月の羽黑山
涼風やほの三ケ月の羽黑山
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「曾良俳諧書留」の句形(元は「涼風」を「掠風」と誤る。訂した)。後者は真蹟短冊もあり、これが初案である。底本(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では六月九日の作かとある。句柄や状況からも実際には私もこの日の作であったと思いたい(この日の月の山形での南中は六時十二分。但し、月齢から見ると、確かな「三か月」の形であるためにはその六月八日(南中は五時二十九分)の方がよりよいが、ここは三山順礼の間の月が三日月であったその名残を詠んだとすれば問題ない)。
夕景である。しかし、この句、ただの写生ではない。
本句は意外にも「奥の細道」旅立ち以後の初めての月の句であるが、安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」でこの点に着目し、芭蕉が冒頭「松島の月まづ心にかかりて」と述懐しておきながら、結局、『松島で月の句を詠まなかったのは』、『羽黒の月(法(のり)の月)』(仏法の真如を写す明鏡としての月の謂いであろう)『を大切に思う心が既にその時点』(松島での意)『であったからだ、と覚らせる作りだ。「ほの三か月」に仄見を掛け、前文の「他言する事を禁ず」と呼応させて、私にも修行者の真如の月がいくらか見え初めたと言っているのだ。三日の新月に合わせて羽黒入したのは、どうやら予定の行動だった。ここまでくると先に見咎めた「日和待」』(最上川大石田の段で天気はそう悪くないのに日和を待ったとあり、事実、滞留している)『の意味がほぐれる』とある。頗る同感する分析である。]
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