別れた友に 山之口貘
別れた友に
君は詩人の卵で
詩が実にうまかった
君はその後も詩をつゞけてゐるだらうか
ぼくは君の近況や
近作の詩などを知りたくなって
ながい手紙を書いた
手紙はかすかな音を立てゝ
ポストの底に落っこちた
しかし君はいまだに
うんともすんとも返事をくれないが
それはいったいどうしたといふんだらう
ある日ぼくは
郵便屋さん姿を見かけたが
まさか君の消息を
郵便屋さんにきくわけにもいかなかった
もうすぐに
柿の実たちは
空の青に赤い点々を染めるのだが
君の便りは
なかなかなんだろうか。
[やぶちゃん注:初出は昭和二六(一九五一)年十月号『中学生の友』(小学館)。ここで語りかけられる友は不詳乍ら、叙述から推測するにバクさんが若き日に沖繩に居た頃に知り合った沖繩の詩人であり、戦中から戦後にかけて一貫して沖繩を本拠地とし(沖縄戦を無事に生き延び)、その間にも(恐らく戦後のある時期)幾つかの詩を発表している事実をバクさんが確認している詩人である。若き日の沖繩とは、バクさんが詩に親しむようになったのが大正六(一九一七)年十四歳の時から、大正八年に山之口サムロのペン・ネームで創刊に参加した文芸同人誌『ほのほ』(仲村渠らと)や『よう樹』(下地恵信らと)に関わり、大正九年頃から『沖繩朝日新聞』『沖繩タイムス』『琉球新報』などに盛んに詩を投稿し始め、これまで見てきたように大正一〇(一九二一)年からは『八重山新報』への詩歌の投稿が頻繁となって翌年秋に上京をするまでの間を指している(上京時は十九歳。これに大正一二年二十歳の時に関東大震災罹災者恩典を受けて帰郷し、明星派の歌人山城正忠が起こした琉球歌人連盟に上里春生らと参加、中山一らと作歌活動をした時期から翌大正十三年に二度目の上京をするまでの時期を加えてもよい)。私はそうした条件に合致しそうなのは、この詩人仲村渠(なかむら かれ)ではなかろうかと感じてはいる。仲村渠(明治三八(一九〇五)年十月三日~昭和二六(一九五一)年十二月四日)は本名仲村渠(なかんだかり)致良。バクさんと同じ那覇生で二歳年下である。北原白秋主宰の『近代風景』に参加して詩作を行い、一九三二年頃には詩人グループ『榕樹派』を結成、戦後は『うるま新報』の記者を勤めたと『琉球新報』公式サイトの「沖縄コンパクト事典」にある。私が彼こそその「詩人」であると感じるのには――本詩が持っている寂寥感に基づく――それは返事が来ないことへの淋しさを突き抜けた遠い地への郷愁であるが――実はそこにはその「別れた友」である詩人に対する、曰く言い難い、胸掻き毟るような愛憐の思いを感ずるからである――仲村渠の没年をよく見て戴きたい……この詩の発表からほどなくして仲村渠は没しているのである……]