寄稿(短歌三十二首) 山之口貘
寄稿(短歌三十二首)
山暗み灰色の雲ひくう垂れて心おもたき八重山の旅。
吾が舟を波のまにまに浮ぶれば水底(めなそこ)暗くものおぢのする。
海士の子等貝とたはむる渚邊に音もなく寄す白き泡かな。
嶋がくり白帆見えじな南の空ほがらなり海ひろごりぬ。
年まさる友は今なほ山房に古服を着て彫刻(ほりもの)すらん。
この山の古(ふり)の曲玉ぬすみなば大蛇出で來て魂を捕ふと。
樹の繁み烏はばたきあゝと鳴くこころものうき山行きの午後。
來ては去り去りてはまた來し雨雲に心おちつかぬ八重山の旅。
吾が旅におそろしき隱謀(たくらみ)するごとく船を追ひくる大魚の群。
鰹節製造人の色黑き群に交れる日のさびしかな。
腕太き船人達の傍觀もよろしと思ひし日等もありしが。
つかつかとわが立ち寄れば肩と肩餘りに差あり勞働者なりき。
しまらくは父と共に働けと云はれし日なりがやぶきの家。
しまらくは戀も止めますと皮肉言ひて濱邊の夜を唄歌ひゆく。
接しても見ぬ人達の生活(くらし)にはかれこれ文句を言ふまじと思ふ。
朝な朝な嫉妬の心いらだちぬ名あげしゑかきは永吉なりき。
ゑかき等の名あげしうはさも聞くまじと今は思へり家事にいそしむ。
初戀の女なりしが銀行員と共に我を嘲(はら)へる夢さめし朝。
八重山の町のはづれをくろ焦げし福木並立てり牛の聲する。
人等みな素足(はだし)にて歩(ゆ)く大道をかげろひやまず白砂つづけり。
さすらひの感傷の癖も忘れかぬる大いなる歌と思ひし日かな。
金のため生くるともなく藝術のために生くるともなく家事にいそしむ。
借金の催促者なりき顏高く空を仰ぎぬ唾吐きてゆく。
常になく我に力の自信ありて凝つて睨みぬ眼と眼うごかす。
あはれこれもさすらひ人のうつつなり朝のねざめにふと思ふ女。
戀せよと告げし人等をかなしめり生活(くらし)の隅より錆の出づる日。
あはれ女飯(いひ)のごとくになれよかし戀の痛みの多き我かな。
灰雨にも正秋にもかくれ來し旅の夕べは風面に吹く。
灰雨靑年と會えば何時も泣きごとの歌人達を共に卑しめ
友の多くはふるさとにあり靑白きさびしみを知る濱に照る月。
ふるさともなき心地なり我が性をさびしみ給え故里の友
友多く持てるがかなし旅立ちぬ濱にゆきしがあをめる月のみ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。表記通り「灰雨靑年と」及び「ふるさとも」の末には他に打たれている句点がない。初出は大正一三(一九二四)年七月二十一日附『八重山新報』。標題「山原行吟の歌」。掲載紙の標題は「寄稿」とあるのみで、ペン・ネームは「山口三路」。底本はタイトルを「短歌三十二首 八重山放浪時代」とする。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題で松下博文氏は本歌群の創作を沖繩産業銀行八重山支店支店長として石垣島にいた父重珍の元へと赴いた(大正十二年十二月)には後と推定されておられる。全体の歌柄からも頷ける。なお、創作時のバクさんの動向については前の「短歌十三首 山原吟行の歌」の私の注を参照されたい。
「吾が舟を」の「水底(めなそこ)」「水底」を「めなそこ」と読む例や方言などは管見する限り、見出し得なかった。このルビは初出紙編者による「みなそこ」の誤読である可能性が高い。崩した仮名の「み」と「め」は一見似ているからである。
「朝な朝な」に出る「ゑかきは永吉」について、現在ならばただ名のみで特定出来得る画家は画家で作家の山里永吉(やまざとえいきち 明治三五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)である。日本美術学校中退で田河水泡や村山知義と交わって『マヴォ』同人となり、昭和二(一九二七)年には郷里沖縄へ戻って脚本や新聞小説を書いた。戦後は琉球博物館長・琉球芸能連盟会長(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。但し、バクさんより一つ年上(当時永吉は二十二歳)なだけであるし、細かい事蹟も分からないので彼に完全に比定することは出来ない。
「初戀の女なりしが」の「嘲(はら)へる」のルビは単なる古語風に表記したバクさん自体の誤り(国語学上、語頭音の「わ」は「は」に直さない)ともとれるが、実は仮名の崩し字の「は」と「わ」も非常によく似ているものがあり、これも初出紙編者による誤読である可能性が疑われる。「初戀の女」バクさんの随筆「ぼくの半生記」の中に、既に何度か知るしたバクさんの熱烈な初恋の相手であった(彼女の一方的婚約破棄やその後の復縁慫慂、バクさんの拒否など複雑な経過を辿った相手でもあった)呉勢(ごせい)についての最後の下りがあり、そこには『まもなくゴセイが、ある銀行員と婚約を結んだことが町の話題となったのである』とある。これは「ぼくの半生記」の前後の記載から大正十二年中のことであることが分かる。
「八重山の」の「福木」とは常緑高木のキントラノオ目フクギ科フクギ
Garcinia subelliptica のこと。以下、ウィキの「フクギ」によれば、樹高は十~二十メートルで、『葉は対生で、長楕円形または卵状楕円形で長さ』八~十四センチメートル、『雌雄異株で、花期は』五~六月。一・五センチメートル『ほどのクリーム色の5弁花を葉の付け根に咲かせる。果実は直径』三センチメートルほどで、三~四個の『種子を含む液果で黄色く熟し、クビワオオコウモリ等のオオコウモリ類の餌となる』。『フィリピンに分布』するが、『日本では沖縄県や奄美群島等で防風林・防潮林として植栽されている。日本のものは帰化(移入)とされている』が、『八重山諸島(石垣島、西表島、与那国島)には自生個体もあるという見解もある』とある。『フクギは並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林となる。沖縄県の本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」(「チュラ」は「美しい」、「清らか」の意味)などが有名である。奄美方言の地方名では「火事場木」を意味するクヮジバギといい、緑の壁のように植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされる』。
「金のため」の「家事」は文字通り、普通日常の家事と思われる。当時の状況はまさに先に旧全集年譜から引いた如く『るんぺんのような生活』であったからである。
「あはれこれも」の「朝のねざめにふと思ふ女」(及び以下の短歌に出る女)とは時系列から見て「ぼくの半生記」の中に出る、呉勢(ぐじー)の件が片付いた後、またしても悩んだ恋の相手(呉勢に出逢う前の小学生時代からの憧れであった)『M子』(最終的には縁談を申しこんで既に相手があるとして断られたとある)のことであろうと思われる。
「灰雨」は次の一首冒頭の「灰雨靑年」という呼称から、下の「正秋」とともに人名である。孰れも「かいう」「せいしゆう(せいしゅう)」と音読みであろう。前者は國吉灰雨、後者は石川正秋である。この二人、バクさんの随筆「酒友列伝」の一節で以下のように連続して並んで語られているバクさんの盟友であった(底本は旧全集。)。
《引用開始》
ぼくは、上京した翌年の九月一日の関東大震災が機会になって、一応、沖縄へ帰ることが出来た。ところが、途端に父の事業が失敗して家を失ったり、恋愛に失敗したりで、云わば放浪生活の基礎が出来たのである。そのころの友人達はみんな酒につよかった。詩人の国吉灰雨、上里春生、伊波文雄、桃原思石、歌人の石川正秋、仲浜星想その他で、ぼくらは「琉球歌人連盟」を組織し、歌会を催してはよく飲んだ。その雰囲気は、先ず酒の点で牧水の歌に直結し、若さの点で、啄木の歌に直結していて、酔っぱらっては牧水や啄木を朗詠しながら夜の街を歩いた。なかでも、石川正秋の朗詠はみんなを感心させるものであったが、かれの作にも酒の歌が多く、「酔いしれる父に孕みて産みし子のその酒好きを憂い給うや」などと、母に捧げる歌もあった。酔っぱらってうたうと、おなかが空いてくるらしく、正秋はよくそば屋にはいった。そばを食べるときっと、帯をほどいてそれを金の代りにしてそば屋において、前をはだけたまま家に帰るのも、かれの癖の一つみたいであった。かれが酔って帰ると、おふくろさんや妹さんが、必ず水を枕もとに置いた。水は、二升入りほどの手桶になみなみと入れてある。翌日眼を醒ましたときに、かれはその水を呑んでは吐き出し、呑んでは吐き出すのであるが、かれ自身の解説によると、「胃袋を洗っている。」とのことであった。
酒の席から中座する癖のあるのは、詩人の灰雨であった。かれと飲んだことのある人なら、誰もが知っていたのである。かれは年齢的にも、詩人としても、ぼくの先輩で、ぼくは殆ど毎日かれを訪ねて、色々と迷惑ばかりかけていた。そういうかれが、ある日の朝、珍らしく、はじめてぼくを訪ねて来た。しかしかれは、折角訪ねて来たのに、上れと云っても上らず、垣根のところに立ったままで、いま警察から出て来たところだと云った。事件は、ぼくらと飲んだ夜のことで、灰雨は例によってみんなに気づかれないように中座はしたものの気分がわるくなって来たので、一休みさせてもらうつもりで途中のしるこ屋に立ち寄ったが、店には誰もいないのでそのまま片隅のテーブルにうつ伏せになってしまったとのことだった。そこへまもなく、サーベルの音と靴の音がしたので、ふと灰雨は顔をあげてみたのだが、かれは立ち上って、いきなりその警官の横面をなぐりつけてしまって、とうとう警察へ引っ張られたとのことだった。
ぼくはその日、灰雨から頼まれた伝言を持って、かれの家に届けた。
「灰雨は四、五日国頭へ旅行すると云ってましたから、今日か明日は帰って来る筈です。」
そこで、灰雨の行方がわかったわけで、かれのおふくろさんは安心した様子であったが、灰雨は、留置場での汚れを洗い落してから、国頭旅行からの帰りみたいな顔をして家に帰ったらしいのである。
神はマリアを淫(おか)した如く
すべての
処女も淫(おか)している
青年は
神から
処女をも奪還しなくてはならない
この詩は、灰雨の作で「不良少年の歌」と題する詩の一節なのであるが、こうして現在でも記憶しているはど、ぼくはかれの詩を愛読していたのである。
《引用終了》
「ふるさとも」「さびしみ給え」の「給え」はママ。]
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