耳嚢 巻之八 文福茶釜本説の事
文福茶釜本説の事
館林の出生(しゆつしやう)のもの語りけるは、館林在上州靑柳村茂林寺といふ曹洞禪林の什物(じふもつ)なり。むかしは、參詣の者にも乞ふに任せ見せけるが、今は猥(みだ)りに見せざるよし。さし渡(わたし)三尺、高さ貮尺程の唐銅(からかね)茶釜なり。此に圖する形にて、茂林寺に江湖結齋(がうこけつさい)の時、むかし大衆に茶を出すに、煎じ足らずとて、其ころ主事たる僧守鶴といへる、是を拵へさせし由。守鶴はいつ頃より茂林寺に居けるや知(しる)ものなく、老狸(らうり)の由申(まうし)傳へしと云(いふ)。これを童謠に唱(となへ)ぬらんと云。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「文福茶釜」茂林寺の釜。昔話「分福茶釜」の原型とされる。ウィキの「茂林寺の釜」によれば、応永年間『上州(現・群馬県)の茂林寺という寺に守鶴という優秀な僧がいた。彼の愛用している茶釜はいくら汲んでも湯が尽きないという不思議な釜で、僧侶の集まりがあるときはこの釜で茶を振舞っていた』。『あるときに守鶴が昼寝をしている様子を別の僧が覗くと、なんと守鶴の股から狸の尾が生えていた。守鶴の正体は狸、それも数千年を生きた狸であり、かつてインドで釈迦の説法を受け、中国を渡って日本へ来たのであった。不思議な茶釜も狸の術によるものであったのだ』。『正体を知られた守鶴は寺を去ることを決意した。最後の別れの日、守鶴は幻術によって源平合戦の屋島の戦いや釈迦の入滅を人々に見せたという』。そこでは松浦静山の「甲子夜話」に登場する化け狸の話とするが、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜とされるから、根岸の本話の記載(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の方が早い。底本の鈴木氏注に『三村翁注「文福元来文武久、誤言文福化茶釜、請看一日爐開会、自有陰嚢八畳鋪、旦那山人芸舎集。」』とある。これは我流で書き下すと、
文福、元来は『文武久』、誤りて言ふ、『文福茶釜と化す』、請う、看よ、一日の爐開(ろびらき)の会(ゑ)、自から陰嚢八畳鋪は有りと。「旦那山人芸舎集」
「旦那山人芸舎集」は大田南畝の稀少本。ウィキの「分福茶釜」には、『「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜はいくつもの良い力を持っていたが中でも福を分ける力が特に強くかったことに由来し、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説や水を入れると突然「ぶくぶく」と沸騰することから「ぶんぶく」となったのではないかという説もあるが、どれが本当かははっきりしていない』とある。深夜特急氏のブログ「夢の旅人」の「分福茶釜 茂林寺」で写真が見られるが、この附図とは全く異なるようである。
・「上州靑柳村茂林寺」現在の群馬県館林市堀工町(ほりくちょう)にある曹洞宗青竜山茂林寺。応永三三(一四二六)年(室町中期)、上野国青柳城主赤井正光を開基とするとし、大林正通禅師が開山。「靑柳」は館林の大字名。
・「さし渡三尺、高さ貮尺程」直径九十センチメートル、高さ約六十センチメートル。かなり大きい。
・「唐銅」青銅。
・「江湖結齋」岩波版長谷川氏注に、『曹洞宗で、雲水僧が一堂に集まり、座禅修行をすること』とある。
・「主事」禅宗で僧職の監寺(かんす:寺内事務を監督する。)・維那(いな:寺僧に関する庶務及び指揮を掌る。)・典座(てんぞ:厨房全般を職掌とする。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林・田畑などの管理及び作務(さむ)全般を管掌する。)の総称。
・「守鶴」底本鈴木氏注に、『開山大林正通禅師に従って来て茂林寺にいた。七代月舟の代、千人法要に大釜が必要になったとき、守鶴所持の茶釜を用いたところ、汲めども尽きず間に合った。その後十代月岑(げっしん)が守鶴の眠り姿を見ると古狸であったという。狸
は開山の徳に感じて僧の形にばけていたが百二十年ほどそうしていて姿を消した。後に守鶴宮という小祠を建てて寺の守護神としたという』とある。
・「童謠」昔話。ウィキの「分福茶釜」に、標準話として、『貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である』とある。
■やぶちゃん現代語訳
文福茶釜についての真説の事
館林の出の者が語ったことには、文福茶釜は館林の在方、上野(こうずけの)国青柳村にある茂林寺と申す曹洞宗の禅寺の什物(じゅうもつ)なるよし。
昔は、参詣の者にも乞うに任せて自由に見せておったが、今は濫りに見せぬとのことで御座る。
指し渡し三尺、高さ二尺ほどの唐銅(からかね)で出来た茶釜で、ここに描いたような形を成しておる。
その昔(かみ)、茂林寺にて大がかりな江湖結齋(ごうこけっさい)が行なわれた折り、そこに衆した雲水らに茶を出だすには、これ、並大抵の茶釜にては、とてものことに煎じ足らざるとのことなれば、その当時、同寺の主事を致いて御座った僧の守鶴(しゅかく)と申す者が、これを拵えさせたと伝えておる。
守鶴は何時頃よりこの茂林寺に居ったものか、これ、誰(たれ)一人として知る者なく、何でも、老いたる狸の人に化けて御座ったものの由、永く言い伝えておると申す。
これが今に伝わる、かの「文福茶釜」の御伽話として、巷(ちまた)に唱えらるるようになったと申す。
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