北條九代記 卷第六 鎌倉天變地妖
○鎌倉天變地妖
世の中既に靜謐に屬し、新帝、御位に即(つか)せ給ひ、物騷しき年も暮て、春立つ今日と云ふよりして、京都鎌倉周同(おなじ)く賑ひ、草木の色も新(あらた)に見え、鳥の聲迄も嬉(うれし)げなり。正月七日、若君御弓始あり。同二月六日には南庭に於いて、犬追物有りて、若君殊に御入興(ごじゆきよう)まします。同四月十三日に、承久(しようきう)四年を改(あらため)て、貞應(ぢやうおう)元年とぞ號しける。此比(このころ)鎌倉の前濱、腰越の浦々に死せる鴨鳥(かもとり)いくらともなく、波に搖られて寄來り、八月の初より、戌亥(いぬゐ)の方に、彗星(ほうきぼし)出でて、軸星(ぢくせい)の大さ半月の如く、色白く、光芒、赤し。是等の怪異、只事にあらずとて、前濱にしては、七座(ざ)百怪(け)の祭(まつり)を行はれ、御所に於いては、太山府君(たいざんぶくん)の祭をぞ始(はじめ)られける。されども、異(ことな)る珍事もなく、十一月(しもつき)廿二日には、京都禁裡(きんり)の大嘗會(だいじやうゑ)を無爲(ぶゐ)に遂行(とげおこなは)れ、大外記師季(もろすゑの)朝臣、書札(しよさつ)を以て關東に申下す。除書等(ぢゆしよとう)を相副(あひそへ)て到著(たいちやく)せしめたり、いとゞめでたき御事にて、淳厚(じゆんこう)の世に立歸るべき瑞相(ずゐさう)なりとて、民百姓迄、喜(よろこび)合ひ奉りたり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の承久四(一二二二)年正月七日、二月一日、貞応元(一二二二)年四月二十六日、八月二日・十三日・二十日・十二月二日の天変地異の記事を連ねているが、その実、凶事は出来せず、逆にここでは「淳厚の世に立歸るべき瑞相」と位置づけて叙述しているのが特異である。「吾妻鏡」の重要な部分の記載をほぼ拾っており、特に「吾妻鏡」の引用を必要を感じない。
「新帝、御位に即せ給ひ」後堀河天皇の承久三年七月九日(一二二一年七月二十九日)。
「若君」三寅。藤原頼経。彼は、この後の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日に元服、直後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙されて右近衛権少将に任官、同時に征夷大将軍の宣下が下されて第四代将軍となった(無論、実のない名ばかりの傀儡将軍としてである)。この時、未だ四歳である。犬追物に大喜びするのも無理はない。
「犬追物」「北條九代記 卷第二 問注所を移し立てらる」に既注。
「軸星」この場合は彗星の核となっている星のことを指している。この記録は「吾妻鏡」の八月二日の条で『霽。戌刻。彗星見戌方。軸星大如半月。色白光芒赤。長一丈七尺餘』(霽る。戌の刻、
彗星、戌の方に見る。軸星の大きさ半月の如し。色、白く、光芒、赤し。長さ一丈七尺餘り)とあるもので、「一丈七尺」とは五メートル弱に相当し、視認の長さとしても異様な大きさである。これは恐らく、かのハレー彗星と思われる。
「七座百怪の祭」「七座」は七名の陰陽師によって諸「怪」、魑魅魍魎を鎮め除くための祀り。
「太山府君の祭」泰山府君(たいざんふくんさい)祭(底本の誤植と思われる)。「北條九代記 信濃前司卒去 付 鎌倉失火 竝 五佛堂造立」に既注。
「大嘗會」天皇が即位の礼の後に初めて宮中で行う新嘗祭(にいなめさい:収穫祭に相当するもので、旧暦十一月の二回目の卯の日(現在は十一月二十三日)に天皇が五穀の新穀を天神地祇に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭事。ここはウィキの「新嘗祭」に拠る。しかし当年当月の二度目の卯の日は二十三日であるから「二十二日」に行われたというのは――「吾妻鏡」の同年十二月二日の条に確かに『去月廿二日。大嘗會無爲被遂行』という記載がある――不審である。)のこと。
「大外記師季朝臣」中原師季(師業)。「大外記」の外記は太政官に属した職の一つで少納言の下に置かれ、中務省の内記が作成した詔勅を校勘して太政官から天皇に上げる奏文などを作成した。その中でも平安中期以降、五位に昇進する者を大外記と称した。
「書札」書状。
「除書」除目(じもく)に同じ。京官・外官で新たに任官した者を列記した帳簿を指す。
「淳厚」醇厚。人柄が素朴で人情にあついこと。]
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