萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「うすら日」(2) はつはる(全)
はつはる
ぎたあるのあの糸の切れしをつぐ如し
しづかにくるゝ春のゆうべは
[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。]
ほのかにもケレオソートのにほひして
はつはるの日はくれて行くかな
[やぶちゃん注:「ケレオソート」クレオソート。ブナなどの木タールから得られる無色又は黄色がかった油状の液体で、グアヤコールなど種々のフェノール類の混合物。刺激臭があり、防腐薬・鎮痛薬などに用いる。現在の正式呼称は木(もく)クレオソート。所謂、正露丸の臭いである。]
春あさき若草山のふもとにて
しづこゝろなく吸ふ煙草かな
すつぽんと花火の玉の破れしとき
さくらさくらはあめいろに咲く
薄葉(すすやう)に口紅すこしにぢむほど
月の出よしやくちづけのあと
[やぶちゃん注:「すすよう」のルビ及び「にぢむ」はママ。「薄葉」は「薄樣(様)」とも書き、読みは「うすえふ(うすよう)」が正しい。薄手の鳥の子紙・雁皮紙又は一般に薄手の和紙を指す。]
思ふどち語りつかれて息らへる
藤椅子(といす)の影の靑きくちなし
[やぶちゃん注:「藤椅子」はママ(「籐椅子」が正しい)。ルビもママで、萩原朔太郎は詩篇「交歡記誌」(大正三(一九一四)年七月号『創作』。リンク先はこの注のために急遽作った私の電子テクスト)でも「藤椅子」と書き、しかも「といす」とルビを振っているから、朔太郎は普段も「籐椅子」を「藤椅子」と書き、しかも「といす」と発音していたと考えてよく、これは朔太郎にしばしば見られる一種の確信犯的誤用であるからママとした。]
なにかしてうき身をきつくし死ぬばかり
ひと戀ふすべをおぼへたきかな
[やぶちゃん注:「おぼへ」はママ。]
ふきあげのみづのこぼれをいのちにて
そよぎて咲けるひやしんすかな
[やぶちゃん注:朔太郎満二十六歳の時、『朱欒』第三巻第五号(大正二(一九一三)年五月発行)に掲載された、
ふきあげの水のこぼれを命にてそよぎて咲けるひやしんすの花
の標記違いの相同歌である。]
きのふ心ひとつに咲くばかり
ろべりやばかり悲しきはなし
[やぶちゃん注:「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属
Lobeliaのロベリア・エリヌス
Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種。歌群「ろべりや」他で既注。
本歌は前と同じ『朱欒』に掲載された、
きのふけふ心ひとつに咲くばかりろべりやばかりかなしきはなし
の標記違いの相同歌である。]
たち別れひとつひとつに葉柳の
しづくに濡れて行く俥かな
[やぶちゃん注:本歌も前と同じ『朱欒』に掲載された、
たちわかれひとつひとつに葉柳のしづくに濡れて行く俥かな
の標記違いの相同歌。]
しのゝめのまだきに起きて人妻と
滊車の窓より見たるひるがほ
[やぶちゃん注:底本では「滊車」の「滊」は(「米」+「氣」)であるが表示出来ないし、意味は明らかに汽車であるから、かく訂した。因みに校訂本文は「汽車」としている。「滊」は「汽」の異体字である。以前から申し上げている通り、意味に変化がなく、誤用でないにも拘らず、異体字まで『校訂』してしまっている底本にはやや疑義がある。何故なら異体字を総て正字化する根拠とその徹底可能性には明らかに限界があるからであり、それが絶対の定本とされること自体に疑問を持つからである。
本歌は、前と同じ『朱欒』所収の、
しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓よりみたるひるがほ
の標記違いの相同歌。]
ちりほこり散らばふ黄なる木の葉など
むしろのうへの名所繪圖など
あさはかの女ごゝろにちらちらと
酒のこぼれて嘆く夜かな
[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「嘆く夜かな」の「く」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「はつはる」歌群の終了を示している。]