日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 13 北上川舟下りⅠ
図―437
図―438
我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町へ入った。町通の両側には、どっちかというと、くつつき合った人家と、庭とが並んでいる。蜀葵(たちあおい)が咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。この町へ行く途中でエワタヤマ又はそれが富士山に似ていて、ナムボーといわれる地方に聳ゆるが故に「ナムボー・フジ」と呼ばれる山がよく見えた(図437)。盛岡では河が大いに広く、ここで我々は舟に乗らなくてはならなかったが、舟をやとうのに我々は、河岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋やすべての衛生設備は、この上もなく清潔であった。而もこれが、何でもない製材所なのである! 舟と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は、盛岡には、ほんの短時間止まり、果実と菓子とを買い込んで、正午、北上川を百二十五マイル下って仙台へ出る、舟旅にのぼった。我々が雇った舟は、去年利根川で見た物とは違い、船尾が四角で高く、舳は長くてとがっていた。図438は舟を写生したもので、一人がこぎ、二人が竿を使い、乗組の四人目は熟睡している。舵は奇蹟によってその位置に支えられる。すくなくとも軸承(じくうけ)は幅僅か三インチで、見受ける所、何にも無いものにひっかかっている。舟の中央部には、藁の筵を敷いた四角な場所があり、ここで我々は数日間食事をしたり、睡眠したりしなくてはならなかった。我々の頭上には、厚い藺(い)の筵が、屋根を形づくつていた。河は遅緩で、流れも大して役に立たず、おまけに舟夫たちは、気はいいが怠者のそろいで、しよつ中急ぎ立てねばならなかった。
[やぶちゃん注:この前後の矢田部日誌を再掲しておく。
〇二十一日 「朝四時二十分渋民發、八時前盛岡着。九時四十分盛岡發、但シ川船ニテ北上川ヲ下ルナリ。午後七時半黑澤尻着。……午後十二時半頃黑澤尻發、但シ十二時後ニ至り発セシハ、川ニ急流アルガ故、月光ヲ待テ發セシナリ」
○二十二日 「終日船中ニ在リ」
○二十三日 「船中ニ在リ。十一時カノマタニ達ス(鹿又村ナリ)。南風強クシテ船行カズ。故ニ此處ヨリ人力車四兩、馬壱疋ヲ雇フ……午後十二時十分鹿又發……六時半松島着」
○二十四日 「五時半松島發、九時半仙臺着」
「エワタヤマ」底本では直下に石川氏による、『〔岩手山〕』という割注が入る。現在は「いわてさん」と呼ぶ。
「ナムボーといわれる地方」原文“a region called Namboo”。南部地方。南部とは方位ではなく氏族名。中世以来の旧族居付大名南部氏が近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(岩手県北上市から青森県下北半島まで)を領有したことに由来する。
「ナムボー・フジ」底本では直下に石川氏による、『〔南部富士〕』という割注が入る。岩手山。奥羽山脈北部の山で標高二〇三八メートル。二つの外輪山からなる複成火山で岩手県の最高峰。ウィキの「岩手山」によれば、『別名に巌鷲山(がんじゅさん)があるが、本来「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われる。春、表岩手山には雪解けの形が飛来する鷲の形に見えるため、これが山名の由来になったとも伝えられる。静岡県側から見た富士山に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれる。古名に「霧山岳」「大勝寺山」。俗称に「お山」。「子富士」とペアで「親富士」と表現することもある』とある。
「百二十五マイル」約二〇一キロメートル強。現在の盛岡市内の北上川畔から北上川を鹿又まで下り(最後の部分は旧北上川で計測)、そこから陸路で松島まで計測してみると約二〇〇キロ強あるから、この実測も非常に正確である。
「三インチ」七・六二センチメートル。
「見受ける所、何にも無いものにひっかかっている」原文は“apparently hangs on nothing”一見したところでは、全く引っ掛かっているようには見えない、ただ舵は船尾にちょこんと置かれているだけのように見える、の意。
「数日間」矢田部日誌を読むに、二十一日の午前九時四十分に盛岡を発って、午後七時半に黒沢尻(現在の北上市中心部)に着くも、下流に急流があるために、月の出を待って、日が変わった午前零時半に黒沢尻を発っている。二十二日は丸一日川下りで、翌二十三日午前十一時に鹿又村に到着した。ところがそこから南風があまりに強いために舟下りが不可能になってしまったため、急遽、人力車四台と馬一匹を雇って、夕刻六時半に松島着した。厳密には延べ三日で実船時間は四十九時間二十分に及んだ。この小さな船に四人+船頭四人、計八名は如何にもきつい。がたいのでかいモースにとっては結構、しんどかったのではなかろうかと同情するのだが、モース先生は実は人力車や馬でしたたかに尻を痛めつけられてきたせいで、意外なことに、この三日間を愉快に「懶惰」に過ごしたのであった(後の段に出る)。]
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