『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 神武寺
●神武寺
沼間の神之嶽にあり醫王山之口貘來迎院(ゐわうざんらいかうゐん)と號す、天台宗、鎌倉寶戒寺末境内(けいない)總て石山なり、其山間を穿ち平けて堂宇を建つ、山麓に總門あり、本堂に至る迄凡五町、其道屈曲して甚嶮なり、寺地古は櫻山村に屬すといふ、行基の開基する所。
[やぶちゃん注:「五町」約五四六メートル。
以下の縁起は底本では全体が一字下げポイント落ち。活字が擦れて判読の自身がない字には直下に(?)を附した。]
緣起曰、神龜元年甲子正月中の二日の夜腹の帝の御夢に縱へば晴明なる東の空を叡覽御座に妙なる雲の中に金色の寶塔あり、薰風頻りに自ら御扉開きなり、内より靑き衣着たる童女數多出で玉の簾を褰げられ、醫王善逝の御影あらたかに拜せ御座す、佛御聲を出し告て曰、我いまた衆生濟度の緣扶桑に盡されば法性に還らず、畝火山の御陵を府の嶽に移しすまむ山は夫熊野三ツの峰に同じとて御夢は覺めぬ最恠敷とて叡慮寛かならず、行基沙門に御尋ねましますに、沙門敬而答て云ふ、御陵は世にしろしめさるゝ所なり、至れるかな神武の皇我六合忠(?)穗原の都に大殿造りし五日の風靜かに十日の雨露の惠み、黎民安く御眸に洩るゝなし、天業傳へて千有余年久遠無種の方便併藥師如來にて御座すやと答申されければ則ち勸請あるべきよし宣下ましますにより急き沙門此山に分け入て先づひとつの草宇を結び大誓願を起して云々(下畧)
[やぶちゃん注:略された部分を補おうと思ったが、この縁起はネット上になく、「新編相模国風土記稿」にも載せないため、断念した。情報をお持ちの方はお教え願えると幸いである。
「神龜元年」西暦七二四年。
「帝」聖武天皇。
「醫王善逝」薬師如来の別称。
「寛か」「くつろか」と読み、ゆったりとくつろいで、穏やかなさま。
「六合忠(?)穗原の都」「六合」は「りくがふ」(若しくは「くにうち」と訓じているかも知れない)で天下・本邦、「忠(?)穗原の都」は奈良を指すと思われるがこの文字列は不詳。識者の御教授を乞う。]
斯して一時廢頽せしも文德天皇御宇天安年中慈覺大師中興せしより法燈連綿たり。
[やぶちゃん注:以下、寺内名跡は底本では総て一字下げ。それぞれ行空けして読み易くした。]
岩窟 窟中彌勒の像を置く、寺傳に正應三年從二位中原光氏當山に籠て罪障消滅を藥師に祈りしに、此地に在て三會の曉を待つべしとの告ありしかは、偏に菩提心を發し、窟中に入定せしといふ。
[やぶちゃん注:「中原光氏」(建保六(一二一八)年~正応三(一二九〇)年)は鎌倉時代の伶人。以下、主にhouteki氏のブログ『雅楽研究所「研楽庵」』の「中原光氏」に基づいて記す(但し、一部記載に誤りがあったので原記載の検証は改めて行った)。父(又は祖父)は京の伶人中原景康。天福元(一二三三)年、第四代将軍藤原頼経の命により狛近真(こまのちかざね 興福寺所属の伶人)の猶子となる(鶴岡八幡宮での左舞伝承のためかと推測される)。「吾妻鏡」によれば、文永二(一二六五)年四月三日、『御所の鞠(まり)の御壺(おんつぼ)において昨(きのふ)の鶴岡八幡宮での法會の舞樂を引き移』(本来、そこで行われるべきものをこの場に移して執行されたの謂いか)してここで童舞の御覧があったが、その最後で『右近將監中原光氏賀殿(がでん)』(雅楽舞楽の曲名)『を奏するの間、祿物〔五衣。〕を給はる』とあり、また、文永三(一二六六)年九月二十九日、弁財天座像が鶴岡八幡宮舞楽院に奉納されているが、その右脚の裏に『文永三年丙寅九月廿九日/始造立之奉安置舞樂院/從五位下行左近衛將監中原朝臣光氏』という刻銘があって、光氏が弁才天坐像造立の願主であったことが分かる(当時四十九歳。以上は「鶴岡八幡宮」公式サイトの「宝物」の木造弁財天坐像の解説頁に拠った)。当神武寺の弥勒菩薩石像の銘には「大唐高麗舞師/本朝神樂博士/從五位上行/左近衞將監/中原光氏行年七十三/正應三年庚寅/九月五日」houteki氏は、彼は左方の舞及び右方の舞を兼ね、また神楽歌も伝えていたことを示していると附言しておられる。]
弘法大師胡麻壇石 山の中腹にあり 方三間許の黑き石なり。
女人禁制の碑 奥の院を女人禁制の山と定掟て、堂の北方に碑文を建(たて)らる其文に曰く
[やぶちゃん注:橋本氏の「鎌倉のかくれ里 池子・沼間編」(PDFファイル)によれば現存する(リンク先に画像あり)。
以下、碑文は底本では全体が半角(全体では一字と半角分)下げのポイント落ち。活字が擦れて判読の自身がない字には直下に(?)を附した。]
抑諸佛文慈悲雖無偏頗十二願王之求長壽得長壽利益尤超世兼又脇士日光月光照晝夜昏暗濟一切群類十二神將七千夜刃者往古(?)深仰之大士也隱法性肌現忿怒形飛行大千界時々除災難刻々令給無數逆類破魔軍依報正報何不得其利誰不遂彼益開山顯(?)一峰高云々
[やぶちゃん注:「夜刃」はママ(但し、最後の第三画は一画の初めから始まり、一画の右縦を貫いて右下に出る。しかしその異体字でも「刃」である)。これは「夜叉」の誤字である。私は原物を見ていないので誤植か否かは不明である。]
天狗腰掛松 圍一丈許
[やぶちゃん注:「一丈」三・〇三メートル。]
久明親王廟 山上の洞中に五輪塔あり、文字漫滅す、庶人猥らに此に至れは祟りありといふ、鬼簿に親王嘉曆三年十月十四日五十五歳にて薨すと見ゆ
[やぶちゃん注:現存するが拝観不可。失礼乍ら、この程度の事蹟では御霊となるとは思われない。この「祟り」というのは何か怪しい気がする。
「久明親王」(建治二(一二七六)年~嘉暦三(一三二八)年)鎌倉幕府代八代征夷大将軍。後深草天皇第六皇子。正応二(一二八九)年九月に従兄の前(さき)将軍惟康親王が京に送還されたことに伴い、征夷大将軍に就任した。子の守邦親王に代わるまで特に業績もなく、延慶元(一三〇八)年八月に北条氏によって将軍職を解任され、京に送還させられて出家した。冷泉為相の娘との間に子息久良親王がいる。将軍といっても実権を持たない名目的存在で幕政の実権は得宗の北条貞時が一貫して握っており、将軍在任中には内管領平頼綱の誅殺や連署北条時村らの誅殺などが相次いで起こっているが、久明親王はこれらの事件の圏外に置かれていた(以上はウィキの「久明親王」及び「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
以下は底本では一字下げ(全体では二字下げ)。但し、ポイントは一緒である。]
鎌倉武將執權記を按するに、親王は正應二年十月二十五日鎌倉に下向、十一月九日將軍となる、延慶元年七月十九日歳三十二にして上洛、嘉曆三円十月十四日薨すと見ゆ然れは此地の廟は遺骸を收めし所にあらず、想ふに御子守邦親王なと造立せられしならん。