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2014/07/16

耳嚢 巻之八 細川幽齋狂歌即答の事

 細川幽齋狂歌即答の事

 

 予が許へ來れる正逸といへる導引の賤僧あり。もとより文盲無骨にて、其いふ所取にたらざれど、ある時噺しけるは、太閤秀吉の前に細川幽齋、金森法印今壹人侍座せるに、閤いわく、吹(ふけ)どもふけずすれどもすれずといふ題にて、前をつけ歌詠めとありしに、壹人

 わらわれて珠數うちきつてちからなくするもすられず吹も吹れず

金森法印は、

 笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず

と詠みければ、幽齋いかにとありしに、何れも面白し、我等は一向にらちなき趣向ゆゑ申出(まうしいだ)さんもおこなれど、かくも有べきやと、

 すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず

と詠ぜし由。滑稽の所、幽齋其要を得たりと見ゆ。しかれど此事、軍談の事、古記にも見あたらず、前にいへる賤僧の物語りなれば、其あやまりもあるべけれど、聞まゝを爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。古狂歌譚。

・「細川幽齋」(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)は安土桃山から江戸初期の武将。三淵晴員を父として生まれるが、母は将軍足利義晴の側室(清原宣賢の娘)で実父は義晴ともいう。天文八(一五三九)年、義晴の命で和泉半国守護家の細川元常の養子となり、同十五年には義晴の子義藤(義輝)より諱の一字を貰って藤孝と名乗った。義晴・義藤が京都での戦乱を避けて近江に亡命した際、これに同行した。同二十三年、元常の死により家督を相続。永禄八(一五六五)年に将軍義輝が暗殺されると、義輝の弟一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出して近江甲賀郡へと導き、若狭武田氏・越前朝倉氏らを頼って流浪した。同十一年、織田信長の援助を得て義昭の上洛を成功させ、天正元(一五七三)年に義昭が信長に京都を追われたのちは信長の家臣となり、西岡(長岡)の地を得て長岡姓を称した。同八年に丹後に入国、明智光秀の娘を子忠興の妻とするが、同十年の本能寺の変では光秀の誘いを断わり、剃髪して幽斎玄旨と号し、丹後田辺城に隠居し、同十三年には二位法印となったが、翌年には豊臣秀吉より西岡に三千石を与えられ、九州攻め・小田原攻めに参加、文禄の役では肥前名護屋・薩摩などにも赴いた。慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦いでは家康方につき、七月十八日より田辺城に籠城して敵の兵を引き留めた。この時、三条西実枝に古今伝授を受けていた幽斎が戦死してしまえば、古今和歌集の秘奥が断絶することを後陽成天皇が憂え、開城の勅使を遣わしたこともあって九月十七日に出城した。子の忠興は関ヶ原の戦いに於いて前線で石田三成の軍と戦い、戦後は豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得、その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったと伝えられる。当代屈指の文化人であったが、その素養は母方の清原家で養育された際に培われたものと思われる(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「導引」按摩。

・「金森法印」金森長近(大永四(一五二四)年~慶長一三(一六〇八)年)は安土桃山から江戸初期の武将。飛騨国高山藩藩主。大畑定近の子。初め可近と称し、後に織田信長から諱の一字を貰って長近とし、剃髪して兵部卿法印素玄と号した。信長が加賀・越前を攻めた際、これに従って活躍、越前国大野郡に所領を得、その後、豊臣秀吉の命で天正一三(一五八五)年には飛騨国を平定、翌年、同国をあてがわれた。同十八年には高山の天神山古城に城を築いている。関ケ原の戦いで軍功を立て、新たに美濃国に二万石・河内国に三千石を得た。茶の湯・蹴鞠などに堪能で、茶は養子可重、さらにはその長男宗和に受け継がれ、宗和は茶の湯金森流の祖となった。古田織部との親交もあり、この時代を代表する文化人の一人で、秀吉の御伽衆の一人であったという(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「大閤いわく」の「大」はママ。

・「笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず」底本では下の句の右に『(尊經閣本「すれ共すれず吹もふかれず」)』と傍注する。底本の鈴木氏注に、『『新撰犬筑波集』雑に、「ふくもふかれずするもすられず」の前句に、「われ笛のさらば※になりもせで」[やぶちゃん字注:「※」=「彫」の「周」の上に(たけかんむり)。ささら。]と付け、同じ前句に「山伏の貝われずゞの緒は切れて」、また「硯水うみにほこりのたまりきて」と付けた句がある。また『伊勢誹諧間書集』には、これを宗祇、宗長、守武の三者が付けたことにしている。すでに説話化が始まっているわけで、この狂歌も、そうしたものの改悪と見ることもできるが、むしろこのような連歌の句が秀句化し口承のうちに笑話化したものであろう。卑俗化の跡が甚だしい』と注する。『ずゞ』は数珠。

・「すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず」底本では下の句の右に『(尊經閣本「すりもすられず吹もふかれず」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 細川幽齋が洒落た狂歌を即答した事

 

 私の元へ来たる正逸(しょういつ)と申す按摩を生業(なりわい)と致す賤しき僧が御座る。

 もとより文盲無学の者にして、その言うところ、これ採るに足らざるものなれど、ある時、話のついでに、次のような一譚を物語って御座った。

 

――太閤秀吉の前に細川幽齋と金森法印、それから今一人の者が伺候致いた御座ったところ、太閤殿下の曰く、

「『吹けどもふけずすれどもすれず』という題にて、前を付け、歌を詠め。」

とあったところが、名を失念致いたそのお一人が、

 わらわれて珠數うちきつてちからなくするもすられず吹も吹れず

と詠んだ。

 続いて金森法印は、

 笛竹のわれてさゝらになりもせず吹もふかれずすれどすられず

と詠んだところが、興じた殿下は、

「幽齋、そなたは如何に!」

と仰せられたところ、

「――いや、孰れも面白き歌にて御座る。――我らは一向に埒もなき愚才ゆえ、申し出ださんも愚かなること。――なれど、こういうのは如何で御座ろう?」

と、

 すりこ木と火吹竹とを取違へふくも吹れずするもすられず

と詠ぜられた由。

 

 「……この滑稽の勝負、幽齋殿、その要めを得ておると見えまする。」

と正逸の評では御座った。

 

 しかれどもこの事、軍談の中や古記録にも一切見当たらず、先に申し上げた通りの賤しき僧ばらの物語りなれば、往々にして重大な誤りなんどもあろうとは存ずれど、まあ、聴いたままをここに記しおくこととは致す。

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