日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 9 千歳から苫小牧へ
図―376
図―377
この夜の宿泊地であるチトセに着いた我我は、そこに横浜から同じ船で来た、我々の友人たる、ドイツの医師がいたのを発見した。彼は今や蝦夷島横断雄行中である。私は麦酒の入った箱の一つをあけて、彼に六本やった。彼が如何によろこんだかは、想像出来るであろう。まったく彼は、いくらお礼をいっても、いい足らぬという有様であった。図375は千歳に於る旅館を示す。これはかつて、西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家である。今やその部屋は、稀に来る客以外に、誰も使用しない。屋根の上に並んだ水桶は、煙筒みたいに見えるが、日本家には煙筒は無い。翌朝一行は早く起きた。この日は一回馬をかえて、三十マイル行くのである。私は馬を注意し、伸陽駈足をさせる事にばかり夢中になっていたので、駅から駅の間に何があったか殆どまるで覚えていないが、只正午近くなって、路がより平坦になり、そして砂が多くなって来たので、我々は東海岸に近づいたことを知った。正午我々はトモコマイと呼ぶ所で海を見た。ここで我々は、歩くことを選んだ佐々木と下男の一人とを待って、長いこと休んだ。私は彼等を浦山(うらやま)しく思い、あるいは全行程を歩いたかも知れぬが、とにかく乗馬をならうにはこの上もない好機会なので、乗らざるを得なかった。図376は苫小牧にある古い旅館で、その屋根には、我々が見る多くの家と同様、草が生えている。屋根に西洋鋸草(のこぎりそう)その他の雑草や野生の植物が、いい勢で繁茂しているのは、不思議な光景である。海岸で私はアイヌの小屋二、三と眺望とを写生した(図377)。ここではアイヌの漁夫が数名、網をつくり、魚を乾物にしていた。路中いたる所で、我々が逢ったアイヌは、日本人に使われていたが、殊に彼等の馬の世話をしていた。アイヌは馬に乗るのに、胡座(あぐら)をかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた。
[やぶちゃん注:矢田部日誌の八月二日の条に『朝七時千歳發』『六時シラオイニ達ス』とある。「シラオイ」は現在の胆振総合振興局管内の白老郡白老町。
「チトセ」底本では直下に石川氏の『〔千歳〕』という割注が入る。
「西海岸から首都へ向う大名と彼の家来とが使用した、旧式の家」ウィキの旧「千歳郡」の「歴史」によれば、『江戸時代の千歳郡域は東蝦夷地に属し、島松川流域には石狩十三場所のひとつであるシュママップ場所』(再注する。この「場所」とは江戸時代の蝦夷地(北海道・樺太・千島列島)で松前氏が敷いた藩制の一つで松前氏家臣が現地蝦夷(アイヌ)と交易を行う知行地のことをいう。ここはウィキの「場所」に拠った)『が松前藩によって開かれた。その範囲には現在の恵庭市に相当する地域も含んでおり、幕末ころまで存在した。一方、現在の千歳市に相当する地域にはシコツ場所が開かれていたが、こちらは後に南に隣接するユウフツ場所に編入されている。また、江戸時代初期の万治元年には千歳神社の起源である弁天堂が建立された』。『江戸時代後期、国防のため』寛政一一(一七九九)年に『千歳郡域は天領とされ、文化年間には勇払から千歳に至る千歳越が開削されている。』文政四(一八二一)年『には一旦松前藩領に復したものの』安政二(一八五五)年には『再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。安政4年には銭函から千歳に至る札幌越新道(千歳新道)が開削されている。天領時代に開削された千歳越や札幌越新道は札幌本道や国道36号の前身にあたる。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の』明治二(一八六九)年、『大宝律令の国郡里制を踏襲して千歳郡が置かれた』。郡発足以降は同年中に『北海道で国郡里制が施行され、胆振国および千歳郡が設置され』て『開拓使が管轄』したものの、その直後に北海道の分領支配によって『高知藩の管轄とな』っている。その後、明治四(一八七一)年に『廃藩置県により再び開拓使の管轄とな』ったとあって複雑な支配経緯を辿っていることが分かるが、ここもこの旅館を松前藩や高知藩の藩主がやってきて利用したとは思われないから、それぞれの藩の担当奉行の一行か、開拓使の入植開拓団の一行のそれではなかろうか?
「ドイツの医師」注で前に記した東京大学医学部製薬学教授ジョージ・マーチンであるが、磯野先生もこう表記しておられるものの、ドイツ人というところで疑問が生じた。の「東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー」の東京大学総合研究博物館の神谷敏郎氏の「幕末から明治初期における医学教育」の「3 医学部発足当時の教授陣と教科目」に『製薬学=マルチン(Georg Martin)』とあるのが彼でやはりドイツ人と記されてある(発足当時の医学部本科のお雇い外国人は総てドイツ人とある)から、これは正しくは「ゲオルグ・マルティン」と表記するべきであろう。
「三十マイル」約四八・三キロメートル。距離からこれは千歳―白老間であることが分かる。
「トモコマイ」底本では直下に石川氏の『〔苫小牧〕』という割注が入る。
「西洋鋸草」原文“Yarrow”。キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属セイヨウノコギリソウ Achillea millefolium 。ウィキの「セイヨウノコギリソウ」によれば、『イギリスをはじめ、ヨーロッパ各地の空地、道端などに自生しているのが見かけられる。ヤローという英名は、アングロ・サクソン名“gearwe”、オランダ語“yerw”の訛り』。『アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアに帰化している。日本には明治時代に渡来する。繁殖力が強く、本州と北海道の一部で野生化している』とあるが、モースが来道した頃にはこれほどまでに繁殖していたのであろうか。『その生命力の強さは、堆肥用の生ゴミに一枚の葉を入れるだけで急速にゴミを分解』するほどで、『根から出る分泌液は、そばに生えている植物の病気を治し害虫から守る力があり、コンパニオンプランツのひとつといわれている』とある。「コンパニオンプランツ」とはウィキの「コンパニオンプランツ」によれば、『共栄作物とも呼ぶ農学、園芸学上の概念。近傍に栽培することで互いの成長によい影響を与え共栄しあうとされる植物のことを指す』とある。
「アイヌは馬に乗るのに、胡座をかき、鞍の上高くにちょこんと坐る。私の見たアイヌは一人残らず、全速力で馬をとばしていた」不思議な乗り方である。但し、ネット上の記載を管見すると、北海道には江戸時代に和人が持ち込むまで馬がいなかったともある。アイヌと馬の関係についてお詳しい方の御教授を乞うものである。]
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