今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 41 羽黒山 有難や雪をかほらす南谷
本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)
元禄二年六月 四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月二十日
である。【その一】この前日に新庄を発った芭蕉は羽黒山へ向かった(途中、本合海(もとあいかい)から古口・清川を経て狩川まで、実に二十九キロメートルに及ぶ最上川の川下りを初めて体験している)。羽黒山では南谷の別院に入り、途中に芭蕉生涯一度の本格登山であった月山(一泊)・湯殿山登頂を挟んで十日に鶴岡に発つまで、七泊八日を過ごした。
四日の正午頃、本坊に招かれ、天台の高僧別当代会覚(えかく)阿闍梨(京都出身。法名和合院照寂。次の「其玉や」で注するように第五十代別当天宥が伊豆流罪に処せられて後、当「羽黒三山」(天台宗系ではかく呼称した)の別当は本山の東叡山寛永寺が兼務をした。芭蕉参詣当時の別当は東叡山大円覚院公雄であったが、兼務別当は当地には赴かず、その別当(院)代として派遣されていたのが会覚である)に謁して蕎麦切をふるまわれ、その場で本句を発句とした歌仙「有難や」の巻が巻き初められた(但し、この日は初折の表六句までで、翌五日羽黒山山頂(標高四一八メートル)の羽黒権現の参詣の後に初裏十二句で初折まで出来、月山と湯殿山の登頂が無事成就した後の九日に再開、名残の折(表十二句と裏六句)が詠まれて完成したらしいことが「曾良随行日記」の記載から窺える)。
有難(ありがた)や雪をかほらす南谷(みなみだに)
此日閑に飽て、翁行脚の折ふし、羽黑山於
本坊興行の歌仙をひらく、元祿二年六月に
や
有難や雪をめぐらす風の音
羽黑山本坊ニおゐて興行
元祿二、六月四日
有難や雪をかほらす風の音
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。
第二句目は「花摘」(其角編・元禄二年奥書)の句形で、「南谿集」(みなみだにしゅう・羽州羽黒山連であった松童窟文二編・文政(一八一八)元年刊)にはこの句形で載り、
元祿二年六月四日、於羽黑山本坊
という前書と、
おくの細道には、雪をかほらす南谷とあるは、例の後に再案せられしなるべし
と丁寧に附記されてある(ここらは底本の岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉句集」の脚注に基づく)。
第三句目は「曾良俳諧書留」に載る完成した歌仙「有難や」の巻の発句の句形。脇は「奥の細道」にフル・ネームで名が載る芭蕉らをここに案内した、門前町荒町で山伏たちの摺り衣染めを生業とする図司(近藤)左吉、俳号露丸(呂丸とも記す)が、
有難や雪をかほらす風の音 芭蕉
住程(すむほど)人のむすぶ夏草 露丸
と付けている。
以上から本句は、
有難や雪をかほらす風の音
↓
有難や雪をめぐらす風の音
↓
有難や雪をかほらす南谷
の推敲過程を経たことが知れる。「かほらす」(仮名遣は正しくは「かをらす」は既にして「風」を匂わせているから決定稿の「南谷」は実際の芭蕉が泊した霊場の地名であり、その「かほり」は霊地の妙香ででもあるのであろうが、それは同時に自ずと「南風」から「風薫る」の意が利くように選ばれたものであるということがこの推敲順列から判然としてくるのである。
以下、「奥の細道」の羽黒山の段の前段。
*
六月三日羽黑山に登る圖司左吉
と云ものを尋て別當代會覺阿
闍梨に謁ス南谷の別院に舎して
憐愍の情こまやかにあるしせらる
四日本坊於本坊俳諧興行
有難や雪をかほらす南谷
*
■やぶちゃんの呟き
この露丸は三十そこそこの若者であったが、芭蕉は親しく接した別当代会覚に対しては勿論(次に掲げる「其玉や羽黑にかへす法(のり)の月」の私の注を参照)、この俳諧に精進せんとする青年露丸に対しても非常な好感を持ったことが「奥の細道」やその関連諸資料によってはっきりと分かる。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の人名解説「呂丸(近藤)」には『呂丸は『聞書七日草』という書物を残すが、これは羽黒山での芭蕉の教えを記述した書。
芭蕉の俳論「不易流行」が最初に着眼されたのはこの時の呂丸との対話の中といわれている』とあり、また、露丸は後の元禄五年九月には芭蕉庵をも訪問、この時に芭蕉は「三日月日記」の稿本を彼に譲っている。しかしこの露丸、その翌元禄六年二月二日、京都で客死してしまうのである。]