日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ) 刀剣と矢筒 このフォルム! 好き!
図―399
小舎の一隅には、「神棒」として知られる、彎曲した鉋屑をぶら下げた棒が、何本かあった。私はその一本を買おうと努力したが、アイヌは金銀の価値をまるで知らず、また事実、最も簡単な算術の知識さえも持っていないので、百万ドル出した所で、それは十セント出したのよりも、一向効果的ではない。小舎の寝台の横には、銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった(図398)。これ等の短刀が、我々が北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造られたのであるかどうかは、聞き洩した。私と一緒にいた日本人は、これ等の刀は非常に古いものだといった。そしてアイヌ達は、これを非常に尊敬しているらしく見えた。小樽にいた老アイヌは、一本の短刀を袋に入れていた。彼はそれを私に見せたが、最も貴重な品とみなしているらしかった。柄はゆるくてガタガタしていたが、それはこの貴重さに一向影響しないらしく思われた。刀をかけた壁と直角をなす壁には、蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている。図399はそれ等を写生したものである。私は箭筒を一つ買おうとした。然し一ドルから五百ドルまで値上をしても、いささかの利き目もなかった。然るに、驚く可し、アイヌは箭筒の一つを壁から外し、矢を一本取出して、注意深く毒を搔き除いた上で、それを私に呉れた。
[やぶちゃん注:「神棒」既出のカムイや先祖と人間の間を取り持つものとされた供物的性格を持った神器イナウである。これらは一体一体がそれぞれの謂れを持つものである。改めてちゃんと複数の原物を見るために北海道白老郡白老町若草町の「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「イナウ[木幣]」をリンクしておく。モース先生、先生のやったことは敬虔なキリスト教信者の自宅を訪れてそこに掲げられた十字架を幾らでも出すから売ってくれって言ってるのと同んなじですよ!
「銀の鞘に入った日本の短刀があった。これ等は全く古く、平べったい、卵形の木の小牌に取りつけてあったが、その小牌の柄にあたる部分には、いろいろの大きさの鉛盤が木に打ち込んであった」これと同型の刀は見出せなかったが、後で掲げられている箭筒(図399)と全く同じの添え飾りであることが図から判然とする。モースが述べるように、「短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている」ものであり、また、同じくモースが後に推測したように、江戸時代後期の和人支配以降に本州人が、アメリカ人が「北西地方のインディアンの為に各種の品物を造ると同様に、アイヌ向きに造」ったもので、アイヌの矢筒の形を刀剣用のそれに合わせて模した飾りであることも分かる(次注リンク先画像参照)。これらはアイヌに伝承される儀礼用の刀剣アイヌ刀(蝦夷刀)と思われ、アイヌ語では、イコロ(宝物)又はエムシ(刀・帯刀・太刀)と呼ばれるもので(資料によっては刀の鞘をエムシとするものもある)、男性が儀礼の際に帯びるものであった。「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「アイヌの儀礼具」の「エムシ[儀刀]」(リンク先の少し下にある)も参照されたい(画像あり)。
「蓋を下につるして、三つの箭筒がかかっていたが、短刀を支持する木牌の形は、これ等の箭筒から来ている」この矢筒はアイヌ語で「イカヨプ」という。前に同じく「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「アイヌの儀礼具」の「イカヨプ[矢筒]」(エムシ[儀刀]」のすぐ下にある)を参照されたい(画像あり)。そこの写真で、まさにこの形そのもののそれが見られる。キャプションに『儀礼用の矢筒をいい、本州からの移入品とアイヌ自製のものがあります。移入品は全体に黒漆が塗られ、飾り金具で装飾されています。アイヌ自製のものも移入品の矢筒を模した形態で、表となる片面に彫り文様や金具などの装飾が施されています。材はホウノキなどの割材を多く使用し、桜の皮を巻き付け接合します』とある。また、北海道沙流郡平取町字二風谷の「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のここを見ると、原形はやはりアイヌの意匠であることが分かる。個人的にこれらの形態、東宝特撮怪獣映画に出てきそうな自衛隊の殺獣兵器みたようで、すこぶる附きで好きである。欲しい!]
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