耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事
入定の僧を掘出せし事
寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組千人同心某(なにがし)が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚(おどろき)て内へ人を入れ見しに、巾(はば)六七尺其餘(そのよ)も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘(ふしよう)一つありて、一人の僧形、其邊(そのあたり)に結迦扶座の體(てい)なり。いかなる者よと、大勢松明(たいまつ)など入(いれ)て立寄(たちより)見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋(うづみ)て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:情報屋是雲二連発。この僧、八王子所縁の僧らしいが、どうも、私には信用におけぬ。なお、本話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では巻之十に所収するが、標題も「入定の僧」で、以下の叙述も有意に異なるため、ここに全文を正字化して示しおくこととする(読みは歴史的仮名遣に直し、一部を省略・追加した)。
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入定の僧の事
寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘(ほり)ける處、八疊敷(じき)程廣く穴室(けつしつ)有り。其内に人坐(すはり)候樣成(やうなる)形見えし故立寄見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰の如し。其脇に鉦(かね)一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。
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「委く」は、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。
こうした入定僧奇譚・怪談の類は私の得意とする分野で、既に、
三坂春編(はるよし)「老媼茶話 入定の執念 附やぶちゃん訳注」
小幡宗左衞門「定より出てふたゝび世に交はりし事 附やぶちゃん訳注」
といった「耳嚢」の前後にある類話について電子化とオリジナル訳注を試みている。未読の方は、是非、お読みあれかし。この「耳嚢」よりもそれらは遙かに面白いことを請け合うものである。
・「八王子千人頭」八王子千人同心の総統括者。八王子千人同心は江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団で、その任務は武蔵・甲斐国境である甲州口の警備と治安維持にあった。以下、参照したウィキの「八王子千人同心」によれば、徳川家康の江戸入府に伴い、慶長五(一六〇〇)年に発足し、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などによって組織されたものであった。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためであったが、甲斐が天領に編入、太平が続いて国境警備としての役割が薄れ、承応元・慶安五(一六五二)年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となっていた。江戸中期以降は文武に励むものが多く、優秀な経済官僚や昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々(私の電子テクスト「鎌倉攬勝考」の作者植田孟縉もその一人)、天然理心流の剣士などを輩出した。千人同心の配置された多摩郡は特に徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされ、それが幕末に、千人同心の中から新撰組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。十組・各百名で編成、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭(本話の主人公の役職)によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は二〇〇~五〇〇石取の旗本として、組頭は御家人として遇された。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられており、現在の八王子市千人町には千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。なお、寛政一二(一八〇〇)年に集団(一部が?)で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った、とある。
・「萩原賴母組千人同心某」前に見る通り、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では名が示されてある。但し、この場合は八王子千人同心である萩原賴母の組の統括者である組頭とあって、ひらの同心ではない。名前の明記、入定僧の周囲の様子が本底本よりリアルであること(特に鉦の年号や祟りを恐れてなどとわざわざ書き入れてある)から、本底本をもとに更に後人(恐らくは色気のある筆写した人物辺りが)が都市伝説として補強するために書き直した疑いが濃厚であると私は思う。
・「寛政十一年」西暦一七九九年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、九年前で比較的新しい都市伝説である。
・「巾六七尺其餘」一・八二~二・一二メートル余り。
・「鳧鐘」鉦鼓。叩き鉦(かね)。
・「結迦扶座」ママ。結跏趺坐。
■やぶちゃん現代語訳
入定の僧を掘り出だいた事
寛政十一年の頃の八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)殿の組の、千人同心の一人で御座った某(ぼう)が、自家の墓所の地所が突然、陥没致いたによって、従者にそこを覗いて見させたところが、よほど大きなる穴が続いておることが判明致いたによって、驚き、ともかくもと、その穴の内へと人を入れさせてみたところが、幅六、七尺余りも、これ、正しく四角に掘りたる場所がその奥に御座ったれば、さらに燈を点して探らせたところ、叩き鉦が一つあり、一人の僧形を成した人の形と思しい「もの」が、その辺りに結跏趺坐の体(てい)にて、おるように見えたと申す。
さればそれを聴いたる某、
「……そは、如何なる者ならん!……とくと検分致そうぞ!」
と、大勢にて松明なんどまで用意させて入り、その怪しい「もの」の近くまで寄って見たところが、
――突如!
――その形、粉々に砕け
――ただ、先の伏せ鉦ばかり残ったと申す。……
……されば、某、僧を請じ、その伏せ鉦も、その僧の座って御座った場所に埋め、跡を弔ろうて御座った、と。
これ、当時、某の上司で御座った萩原殿の親族が、前話に出でたる僧是雲に直かに語った、ということで御座る。