日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 6 札幌にて(Ⅱ)
図―375[やぶちゃん注:中央。]
図―376[やぶちゃん注:最下部。]
札幌から見える山々は、高くはないが、デコボコしている。図372は北方に見える山を示す。これ等の峰の中で一番高いのは三千フィートばかりある。また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える(図373)。ブルックス教授は、学校の近くにあるいくつかの低い塚に、私の注意を向けた。その最大のものは直径二十フィートで、高さは二フィート半である。我我はその二つを掘り、地面のもとの水準に達したが、陶器は一つも見出せず、骨の破片が僅かあった丈である。それ等は概して図374のように見えた。
[やぶちゃん注:矢田部日誌に、札幌に着いた翌日の七月三十日の条に『農學校先ナル畦畔ノ古丘ヲ發ケリ』とある。この「畦畔」は「ケイハン」と読み、所謂、畦(あぜ)のこと。
「三千フィート」九一四・四メートル。これは方角と標高及び図374の山形から考えて札幌の北北東五十五キロメートルに位置(現在の日高支庁様似郡様似町(さまにちょう))にある標高九五八メートルのピンネシリと思われる。こちらのピンネシリの投稿写真の稜線とかなり一致している。
「また火山で、いまだに煙を噴いているものも、札幌から見える」図375の特異な山形から見てこれは支笏湖の北西畔の活火山恵庭岳(標高一三二〇メートル)を描いたものと思われる。気象庁の北海道の活火山の公式データによれば現在も山頂東側の爆裂火口で噴気が認められるとある。
「いくつかの低い塚」これは現在、北海道式古墳と呼ばれているものと思われる。北海道式古墳とは北海道の擦文(さつもん)時代前期(約八世紀から九世紀。擦文時代とは七世紀頃から十三世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半に相当)にかけて北海道を中心とする地域で栄えた文化の呼称で、土器表面を整えるための箆(へら)で擦ってつけた特徴的な刷毛目に由来し、これは本州の土師器の影響を受けたものと考えられている。後に土器は衰退して煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。ここはウィキの「擦文時代」に拠った)に作られた墓の一種。円形若しくは馬蹄形の溝に囲まれた区域内に楕円形若しくは長方形の埋葬施設が一基若しくは数基見られるもので、それらは人工的な盛り土で出来た小さな墳丘によって覆われている。埋葬区域内には副葬品(太刀や擦文土器)が発見されている。以上は「北海道大学 埋蔵文化財調査室ニュースレター」第十四号二〇一二年三月発行号(リンク先はPDFファイル)の「特集 北海道式古墳」に拠ったが、そこには現在の北海道大学構内で発掘された北海道式古墳についての解説があり、このモースの叙述部分についても触れてまさに今、発掘されたそれがモースの描いたものの一つだったのかも知れないとある。矢田部日誌の『農學校先ナル畦畔ノ古丘ヲ發ケリ』が同定のヒントになるはずである。リンク先では発掘画像や造墓方法なども図入りで解説されてあり、必読である。
「直径二十フィート、高さは二フィート半」約直径六・一メートル、高さ七六・二センチメートル。]
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