日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 12 東北スケッチⅥ 浪打峠の交叉層
福岡を出てから我々は、急に登りにさしかかった。事実、我々は高い山脈の頂に達するのに、けわしい阪を登ったのであるが、遂に頂上に来た。ここには傾斜を緩和するために、深い切通(きりどおし)が出来ている。岩はこの山を構成している、軽い砂岩らしく思われた。切通の写生は国436に示す。岩層は僅か西に傾下し、私が津軽海峡で曳網した「種」と全く同じに見える、見や腕足類の破片で充ちていた。この堆積は、地質学的には非常に新しいに違いなく、この島の北部で起った変化が、如何に新しく、且つ深甚であったかを示している。この地方は、化石から判断すると、かつて水面下三十尋(ひろ)、あるいはそれ以上の所にあったので、近い頃の地質学的時代に二、三千フィートも、もち上げられたものである。
[やぶちゃん注:ここは時間的に巻戻って描写されている。「福岡」、現在の二戸を出たのは八月二十日であるが、その日は前に注したように渋民に泊まっている。次の段の頭は「盛岡の町へ入った」と始まるが、渋民を発ったのは八月二十一日の朝四時二十分、盛岡着は約三時間半後の午前八時前だからである。
「けわしい阪」岩手県二戸郡一戸町から同県二戸市にかけてある旧奥州街道、山越えの街道(現在の国道四号線の奥州街道より東西直線距離で二・五キロメートルほど離れた東方にある)の最高地点である浪打峠。標高は三百二メートル。ウィキの「浪打峠」によれば、『旧奥州街道が通り、一戸町側の峠手前には浪打峠一里塚がある』とし、『また、峠両側の崖は浪打峠の交叉層と呼ばれ、粗粒砂岩層に「偽層」(クロスラミナ[やぶちゃん注:地層が斜めに交叉する小規模な地層のことで、流動する水中又は空気中に於いて砂や細礫などが堆積することで生じた地層様の現象をいう。])が堆積して縞模様となっている。交叉の様子もはっきりし、外見が美しく、その規模も大きい』とある。この地層は現在、国の天然記念物に指定されており、地層は荒い砂岩で、ホタテガイなどの化石の砕屑物が層になって点在し、それが美しい縞模様をなしている。この浪打峠地層は「末の松山層」とも呼ばれ、今から七百万年前のものと推定されている(最後のリンク先を見るとこの地層の最下層の堆積は今から千五百万年前まで遡るらしい)。グーグル画像検索「浪打峠の交叉層」を見ると、現在のそこ(私は行ったことはない)がまさにモースのスケッチと百三十六年経った今も一致することがよく分かる。個人サイト「ウチノメ屋敷 レンズの目」内の「一戸町・浪打峠の交叉層」・同続きのページ(こちらには貝の化石の現場の写真が出る。そのキャプションに『ここ浪打峠の地層は、第三紀中新世門の沢層とその上部末の松山層からなり、二枚貝、巻貝、腕足類等の浅海性軟体動物化石を多く含んでいる。』とあり、本文を読む上で必見必読と言える。
「水面下三十尋」水深五四・九メートル。
「近い頃の地質学的時代」三陸海岸は第四紀(二百五十八万八千年前から現在に至るまでの地質時代の期間)後期に隆起している。
「二、三千フィート」六〇九・六~九一四・四メートル。浪打峠の現在の標高が三〇二メートルであるから、それに「水面下三十尋、あるいはそれ以上の」水深を加えても三六〇メートルほどにしかならないが、これは恐らく採取した腕足類やホタテガイが浅海性であるからその砂浜海岸の最も浅い数値を示したまでで、実際にはもっと遙かに水深の深い位置からの隆起を想定していたからに他ならない。しかも現在、三陸北部では過去約一〇〇万年間の継続的隆起傾向(現在も進行中)が平均隆起速度で年〇・三ミリメートルと測定されおり、一〇〇万年で三〇〇メートル、二〇〇万年なら六〇〇メートルとなり、実にモースのここでの二千フィートの謂いが実に的を射ていることが分かるのである。恐るべし、モース!]
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