今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 43 月山 雲の峰幾つ崩れて月の山
本日二〇一四年七月二十二日(陰暦では二〇一四年六月二十六日)
元禄二年六月 六日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月二十二日
である。この日、芭蕉は遂に月山(標高一九八四メートル)の頂上を踏破し(登頂は午後三時過ぎ)、山頂の角兵衛小屋に泊まった。
雲の峰幾つ崩(くづれ)て月の山
[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良俳諧書留」には、
雲の峰幾つ崩レて月の山
とある。
……この句は私の亡き母が好きな句であった。童謡のようなこの句を詠ずる優しい母の声の響きが今も聴こえる……
ここで「奥の細道」の羽黒山の段の後段総てを示しておく。
*
五日權現に詣當山開闢能除大師は
いつれの代の人と云事をしらす
延喜式に羽州里山の神社と有書
瀉黑の字誤て里山となせるにや羽
州黑山を中略して羽黑山と云にや
月山湯殿を合て三山とす當-寺
武-江東-叡に属して天台止觀の
月明らかに円-頓融-通の法の燈かゝけ
そひて僧坊棟をならへ修-驗行-
法を励し靈-山靈-地の校-驗人貴ヒ
且恐ル繁榮長(トコシナヘ)にして目出度御山
と可謂
八日月-山にのほる木綿しめ身に引かけ
寶-冠に頭を包強-力と云ものに
道ひかれて雲-霧山-氣の中に
氷-雪を蹈てのほる事八里更に
日-月行-道の雲-關に入かとあやしまれ
息絶身こゝえて頂上に至れは
日没(ホツシ)て月あらはる笹を鋪篠を
枕として臥て明るを待日出て雲
消れは湯殿に下ル
谷の傍に鍛冶小屋と云有此國の鍛-
冶靈-水を撰て爰に潔斉して
劔を打終月山と銘を切て世に
棠せらるる彼龍-泉に劔を淬(ニラグ)とかや
[やぶちゃん字注:「棠」はママ。「賞」の誤字。]
干將莫耶のむかしをしたふ道に堪
能の執あさからぬ事しられたり
岩に腰かけてしはしやすらふ程
三尺計なる桜のつほみ半(ナカハ)にひらける
ありふり積雪の下に埋てはるをわ
すれぬ遲桜の花の心わりなし
炎天の梅-花爰にかほるかことし
行尊親王の歌の哀も增りて覺ゆ
惣此山-中の微-細行者の法式として
他言する事を禁す仍て筆をとゝめて
しるさす
坊に歸れは阿闍梨の求に仍て
三-山順-礼の句々短冊に書
涼しさやほの三か月の羽黑山
雲の峰幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂哉
曾良
湯殿山錢ふむ道のなみた哉
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇書瀉黑の字誤て里山となせるにや
↓
●書寫(しよしや)、「黑」の字を「里山」となせるにや
○×【自筆本になし】
↓
●出羽といへるは、「鳥の毛羽(もうう)を此國の貢(みつぎもの)に獻(たてまつ)る」と風土記に侍(はべる)とやらん。
○靈-山靈-地の校-驗
↓
●靈山靈地の驗效(げんかう)、
○目出度御山と可謂[やぶちゃん注:訓読するなら「めでたきおやまといふべし」である。]
↓
●めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
○三尺計なる桜のつほみ半にひらけるあり
↓
●三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。
○行尊親王の歌の哀も爰に增りて覺ゆ
↓[やぶちゃん注:二箇所の相違がある(下線部)。]
●行尊僧正の歌の哀(あはれ)も爰に思ひ出て猶(なほ)まさりて覺ゆ
■やぶちゃんの呟き
この部分の前半は珍しく地誌の考証の体(てい)を成している。最後に出る句のうち、「涼しさや」と「語られぬ」は別に後掲して注する。
「能除大師」「のうじよだいし(のうじょだいし)」と読む。飛鳥時代の皇族蜂子皇子(はちこのおうじ 波知乃子王 欽明天皇二三(五六二)年?~舒明天皇一三(六四一)年?)のこと。崇峻天皇の第三皇子。ウィキの「蜂子皇子」によれば、崇峻天皇五(五九二)年十一月三日、『蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている』(羽黒山の語源説の一つ「奥羽の黒山」の元はこの話に基づく)。『羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている』とあるが、伝説上の比定に過ぎない。
「延喜式に羽州里山の神社と有」「延喜式」にはこうした記載はない。不詳。
「風土記」出羽国の「古風土記」は現存しない。この語源説は誤伝であろう。
「木綿しめ」「ゆふしめ(ゆうしめ)」と読み、「木綿注連」である。紙縒りを編んで作られた修験の袈裟。行者の登山装束(新潮日本古典集成「芭蕉文集」富山奏氏の注に拠る)。
「寶冠」白い木綿で出来た頭を包み巻く頭巾のこと。同じく行者の登山装束(参照元は同前)。
「日月行道の雲關」「じつげつぎやうだうのうんくわん(じつげつぎょうどうのうんかん)」と読む。太陽や月に代表される星々が永遠に運行するところの天空雲間の境域。
「彼の龍泉に劔を淬(にら)ぐとかや」は後に出る中国の名剣(或いはその剣を鍛冶した夫婦の名ともされる)「干將莫耶」(「かんしやうばくや(かんしょうばくや」と読む)の伝説に基づく。同伝説については私の電子テクスト芥川龍之介の「上海游記 十三 鄭孝胥氏」の『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』の注を参照されたい。「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載るそれを詳述してある。「龍泉」とは干將と莫耶の夫婦が呉山で籠って鍛えた雌雄二振りの宝剣を「淬(にら)ぐ」のに使った泉水のこと。「淬ぐ」とは焼き入れをすることをいう。
「堪能の執」練達の人の厳しい執念の強烈さ。
「三尺」約九十一センチメートル。
「わりなし」いじらしい。殊勝だ。前述の富山奏氏の注に、『雪中に痛めつけられながらも咲いている花に、花としての使命に忠実な自覚があるかのごとく感じての言葉。「わりなし」は切実な心情を表明する芭蕉の慣用語』とある。
「炎天の梅花」やはり富山氏注に、「雪裡(せつり)の芭蕉は摩詰(まきつ)が畫、炎天の梅蘂(ばいずい)は簡齋が詩」という「禅林句集」の句に基づき、『稀有(けう)の状の比喩』とある。「摩詰」は盛唐の詩人で絵もよくした王維の号、「簡齋」は陳簡齋で宋の詩人陳与義の号。
「行尊親王」(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年)は冷泉天皇第二皇子三条院の曾孫、敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の子で、保安四(一一二三)年に天台座主となった(但し、拝命直後に辞任している)。天治二
(一一二五)年、大僧正。白河・鳥羽・崇徳三天皇の護持僧で和歌をよくした。ここは「金葉和歌集」の第五二一番歌、
大峯にて思ひもかけず櫻の花の咲きたり
けるを見てよめる
もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし
に基づく。しばしば参考にさせて戴いているサイト「やまとうた」の「行尊」で彼の和歌が読める。
「湯殿山錢ふむ道のなみた哉」前掲富山氏注に、当時は『地に落ちている物を拾わぬ山中の法で、賽銭は土砂のごとく散り敷いていたという』とある(山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」での実地踏査の記録では現在はそういうことはないようである)。
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……昼――
月山の尾根――
微速度撮影で雲海に且つ現われ且つ消える月山……
……夜――
月山の山頂――
幻想的な雲海たゆたう下界――
見下ろす真如明鏡の月……
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〇芭蕉が見た月について
●1689年7月22日当日は月齢5.4
当日の月の形は「こよみのページ」「月の朔望」の「1689年7月」を見よ。
●1689年7月22日当日の山形(酒田標準)の月出没時刻(「こよみのページ」の算出に拠る)
月の出 午前10時6分
月正中 午後 4時9分
月の入 午後10時1分
最後に。最後に記した山本胥氏の「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫一九九四年刊)には湯殿山から逆に芭蕉のここでの足跡を辿った記録が「月山登山記」として載る(三三六頁~三四三頁。三三三頁には羽黒山・月山・湯殿山の芭蕉の登山行程を示す概念図もある)。山本氏は「奥の細道」のこの月山登頂記の部分を明治以降に爆発的に流行する近代登山とその紀行『を先取りした山岳紀行といっておかしくな』く、まさに『世界最古の山岳紀行』と称するに足る名文と讃えておられる。山本氏の芭蕉を検証したその登攀記録は、如何なるインキ臭い評釈にも勝る非常に素晴らしい記録である。是非、ご一読をお薦めする。]