今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月
本日二〇一四年七月二十日(陰暦では二〇一四年六月二十四日)
元禄二年六月 四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月二十日
である。【その二】芭蕉はこの羽黒山滞在中に、親しく接した別当代会覚阿闍梨らから羽黒山中興の祖として知られる第五十代別当天宥(てんゆう)法印追悼の句を求められたらしい。一応、ここに配しておく。
羽黑山別当執行不分叟天宥法印は、行法い
みじききこえ有て、止観円覺の仏智才用、
人にほどこして、あるは山を穿(うがち)、
石を刻(きざみ)て、巨靈が力、女媧がた
くみを盡して、坊舍を築(きづき)、階
(きざはし)を作れる、靑雲の滴(しづ
く)をうけて、筧の水とほくめぐらせ、石
の器(うつはもの)、木の工(たくみ)、此
山の奇物となれるもの多シ。一山擧て其名
をしたひ、其德をあふぐ。まことにふたゝ
び羽山(うざん)開基にひとし。されども
いかなる天災のなせるにやあらん、いづの
國八重の汐風に身をたゞよひて、波の露は
かなきたよりをなむ告侍るとかや。此度、
下官(やつがれ)、三山順禮の序(ついで)、
追悼一句奉るべきよし、門徒等しきりに
すゝめらるゝによりて、をろをろ戲言(け
げん)一句をつらねて、香の後ニ手向侍
る。いと憚多(はばかりおほき)事にな
ん侍る。
其(その)玉や羽黑にかへす法(のり)の月
悼遠流(をんる)の天宥法印
その玉を羽黑にかへせ法の月
その玉を羽黑へかへせ法の月
[やぶちゃん注:長い前書を有する第一句目は現存する出羽三山歴史博物館蔵になる真蹟懐紙の句形。末尾に
元祿二年季夏
とクレジットする(句の最初は「無」と書いて、それを見せ消ちにして「其」に改めてある)。第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句目は「芭蕉句選」(華雀編・元文四(一七三九)年刊)の句形。
出羽三山神社(出羽三山という呼称は実は近代以降に使われるようになった語であって、かつては「羽州三山」・「奥三山」・「羽黒三山」(天台宗系)・「湯殿三山」(真言宗系)と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があってこれらを総称して現在は出羽三山神社という。宗教法人としての現在の正式名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」。この注記部分はウィキの「出羽三山」に拠る)の公式サイト内の「中興の祖・天宥法印に続く歴代別当遺品展」によれば、天宥別当は慶長一一(一六〇六)年に山形県西村山郡川土居村吉川(現在は西川町)安仲坊に生れ、二十五歳にして第五十代別当に就いてその類稀な才能を発揮、一山の繁栄を願って様々な施策を講じた。例えば今に見る天然記念物指定の四百本にあまる羽黒山杉並木や羽黒山頂までの二千四百四十六段に及ぶ石段、また、東三十三ヶ国を出羽三山の信仰区域と規定してその受け入れ先としての組織や諸制度を整備するなどの現在ある出羽三山信仰の磐石の基礎を築いた人物であった。しかし、讒言によって伊豆大島へ流罪となり、遂に帰ることなく八十二歳にして遷化したとある。芭蕉らが泊まった宝前院若王寺南谷別院も、芭蕉が詣でた二十余年前にこの天宥が五年をかけて建てた建坪七百坪(約二千三百平方メートル)の壮大ものであったともいう(場所については異説もある。現在の比定地には礎石が残るのみ)。山本胥氏は「奥の細道事典」で、天宥は『なかなかの事業家』で、『当時勢力のあった天海僧正に取り入り、つぎつぎに寺領を拡大』するといった『強引さが、一部の人たちから反感を受けた』とし、『事業欲にはしりすぎた天宥は、芭蕉好みの男ではない』と断ずる(私も同感である。山本氏も指摘するように、この前書で記されたような門徒衆の称揚した天宥の業績に対して本当に芭蕉が好ましく感じたとすれば、それは「奥の細道」に記されねばならない。しかし天宥のことは一言も触れられていないのである)。山本氏は、寧ろ、そうした追悼の句を望んだ会覚や門徒露丸の人柄にこそ惹かれ、その懇望にほだされて「戲言」(ざれごと)と諧謔しつつものしたものが、この句と前書であったのではないかと推理されている。これにも私は諸手を挙げて賛同するものである。
「其玉」は七月の魂祭(たままつり)、祖霊祭を指していよう。私の好きな第三句ならば――遠島となって流人の島大島で亡くなられた法印天宥さまの御魂を――仏法のあまねき慈悲の光を放つ月よ――今も恋い慕って已まぬ衆徒らのいる、この神々しい羽黒に、還しておくれ――というのである。第一句・第二句では御霊は羽黒に既に還されたこととなるが、句の詠ぜられる際のそこで仮想された句内の時間が当該の魂祭の日であったとすれば、これでもおかしくはない。]]