日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 18 どさんこ
若し馬の絵を画くことが出来さえすれば、私は我我一行の興味ある写生をすることが出来たのである。図404は矢田部教授の助手を写生したもので、後から馬で行きながら写生した。彼は植物採集箱や包やをウンと身につけていたが、この写生をして間もなく、馬が突然後脚を空中に蹴上げ、助手先生まっさかさまに大地へ墜落し、重い荷鞍や、ブリキの箱や、包がガランガランと音を立てた。彼は立上り、一生懸命にしっかりした上、アイヌの先達(せんだつ)に助けられて、再び馬に乗った。我々が乗った馬のあるものは、不埒きわまる毛物である。昨日私が最後に乗った馬は、私の身体をひどく痛くしたので、今日出発した時、乗馬する迄に私は十七マイル半も歩いた。路は全距離、海岸に沿うていた。
[やぶちゃん注:「矢田部教授の助手」内山富太郎。本章冒頭の私の注で既注。
「十七マイル半」約二八・二キロメートル。矢田部日誌の八月二日の条には『朝九時二十分白老發』で、夜の『七時二十分室蘭着』とあるから、現在の室蘭街道を南下したとすると丁度、登別市幌別辺りで二十八キロメートルに相当する。ここから室蘭までは二十キロメートル程と思われるから、この日の行程の半分以上を歩いたことになり、モースが如何に乗馬を嫌ったかがよく分かる。]
図―405
我々の旅隊は、一人のアイヌによって導かれた。彼は大きな、黒い頰鬚を生やした、毛だらけな男で、頭には直径一フィートの頭髪がある(図405)。頭髪の散るのを除ぐ為、頭に布をまきつけ、着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった。鞍の上に胡坐(あぐら)をかいた彼は、まるで巨人みたいだった。この男は、馬を連れて帰る為に、一行に加った。彼の馬には、標本、衣類等を入れた例の柳行李を二つつけた馬が結びつけられ、更にこの馬には、我々が札幌で贈られた麦酒の箱をつけた馬が、結びつけられた。麦酒は我々が進行するにつれて、ドンドン減って行った。矢田部、彼の助手、高嶺、佐々木、私……これで馬八頭の騎馬行列が出来上った訳である。
[やぶちゃん注:「頭に布をまきつけ」これは恐らく「マタンプシ」と呼ばれる男性用の鉢巻で、単に髪を纏め上げるだけではなく、カムイに自分の居場所を知らせると同時に魔除けのためのもので、シマフクロウの目の文様・蜂の針・波など文様一つ一つに重要な意味があり、それを複合的に組み合わせている独特の伝統刺繡である(ここは天川彩氏代表の「オフィスTEN」のサイト内にあるコラム「祈りのマタンプシ」を参考にした)。「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」公式サイト内のこちらを参照されたい。
「着物の背中には奇妙なアイヌ模様が細工してあった」アイヌの衣服については「アイヌ民族博物館 しらおいポロトコタン」公式サイトの「衣服」を、紋様の総括的概説と画像を見るのなら「北海道デジタル図鑑」内の「アイヌ文様」が、また、紋様の持つ意味については諏訪原貴子氏・鷹司綸子氏共著「アイヌの民族衣服における文様の呪術的要素と地域差」(PDFファイルでダウンロード可能)という論文が詳しい。]
我々はジャガジャガと路を進んだ。全くジャガキャガだったのである。鞦(しりがい)の木の滑子(ローラー)やその他をぶら下げているので、白い、砂地の路を、緩急いろいろに馬をやりながら進む我々は、多分の騒音と挨とを立てた。海岸はどこ迄行っても終らぬように思われた。突如、何等明白な理由なしに、八頭の中の三頭が、列を離れて駈け出し、その三頭の中の一頭には私が乗っていた。我々は止めようとしたが、何の役にも立たなかった。佐々木が先頭に立ち、次が高嶺、最後が私、そして騎馬行列の残部は、間もなく遙か後方に、そして見えなくなって了った。移動出来るものは総て脱落した。先ず帽子、次に紐や革紐が切れてブリキの植物採集箱や、袋や、包荷が一つ一つ落ち、道路にはそれ等の品物が、長い距離にわたって散在したが、これは後から来る仲間が、ひろってくれるものと信じた。
[やぶちゃん注:冒頭部分の原文を示すと“We went rattling along the road, and a rattle it was, for with the
wooden rollers on the cruppers and the other things dangling, we made a good
deal of noise and dust as we trotted or galloped along the white, sandy road.”で、難渋が英文の一文の長さにもよく出ている。“rattle”は動詞で「ガタガタいわせて走る」「疾走する」、名詞では「ガタガタ・ガラガラ(という音)」というオノマトペイアの変化したものと思われる不可算名詞(例・機関銃の銃声)、可算名としては、幼児をあやすための玩具の「がらがら」や、フットボールのなど観戦中にガタガタ鳴らす道具を指す(因みに動物学では特に、角質で輪状になったガラガラヘビの尾の警告音を出す器官をも指す)。発音は「ラァトル」で、寧ろ、確かに機関銃の「タタタ」に近い感じを私は受けた。]
私の乗馬術が如何に上達したかは、私がありとあらゆる物につかまることが出来た事実が証明する。即ち木髄製の日除帽子、色眼鏡、火のついた葉巻をさし込んだ葉巻吸口等は、何ともなかった。馬が奔逸する直前に、高嶺が荷鞍の辛さを軽減する目的で、彼の赤いフランネルの毛布を畳んで、尻の下に敷いた。彼は私のすぐ前にいたが、彼が黒髪を風になびかせながら、ポコンポコンと跳ね上っている間に、毛布が解けて、すこしずつ一方にすべり、ついに路に落ちた。もっと馬の経験があれば、私は必ず馬が吃驚(びっくり)するであろうことを、予期した筈なのである。だが、そんなことをまるで考えぬ私は、高嶺がむき出しの鞍の上でポコンポコンやっているのを、大きに笑っていたのである。と、突然私の馬が、私をもうすこしで大地へ投げつける位烈しく側切れをやった。然しながら、馬の一跳ねごとに、私は僅かずつ、騎座の安定を取り戻した。この無茶苦茶な疾駈は、数マイル続いたあげく、開始の時と同じ様に突然停止した。即ち、路一杯にひろがった馬の一群に追いつくと共に、我々の馬も早速歩き出し、そして彼等の仲間入りをした。我々の馬は彼等と旅行しなれていたので、それ等の臭を認識したのである。
図―406
アイヌの駄馬は、実に不確な動物である。話によると、彼等は世界中のどの馬よりも遅く歩くそうだが、私はこいつら等よりも苦痛多く速歩したり、また勢一杯疾駈する馬があるとは想像出来ない。もうちっと文明の程度の高い馬で稽古することが出来たら、私の乗馬練習の経験は、もっと気持がよかったろうと思う。図406は、荷鞍をつけた典型的な蝦夷の駄馬である。
[やぶちゃん注:中央畜産会公式サイト内の「畜産ZOO館鑑」の「北海道和種馬(ほっかいどうわしゅば)」によれば、『北海道は馬産の後発地域だった』と見出しして、『江戸時代中期、松前藩の藩士たちが蝦夷地(えぞち:今の北海道)に赴任するときに南部馬を連れて行き、内地へ帰るときに原野に放してきたこの馬を、北海道和種馬(体高125―135cm)と呼ぶようになりました』。『北海道和種馬はカラフルな毛色(鹿毛、河原毛、月毛、佐目毛など)の乗馬タイプで、道南の檜山・渡島地方の原野で自然繁殖しているのが原型です。特徴は厳しい自然の中での原始的な生活で鍛えられた丈夫な体質、原野を走り回る強靭な体力です』。『明治以後、北海道は主要な馬産地に指定され、その後地域社会で多彩な活動を展開してきました。そして現在でも北海道の自然に生きる在来馬として、トレッキング、障害者乗馬などの新しい分野での活躍が期待されています』とあり、現状については、『北海道和種馬の2002年の頭数は1722頭、8馬種ある日本在来馬の約75%を占めています(出典:(社)日本馬事協会)。持久力が豊かな北海道和種馬は、今でも地域住民のパートナーとして農民生活を支えているばかりでなく、ホース・トレッキングなど新しいニーズにも積極的に対応し、これまで数回にわたり富士登山を敢行したことは記憶に新しいところです』。モース先生、道産子は捨てたもんじゃなかったんですよ!]
*
今日の『朝日新聞』の記事だ。
「道産子と日本縦断3000キロ 北大生、在来馬たどる旅」
« どんづまり 山之口貘 | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 36 立石寺へ まゆはきを俤にして紅粉の花 »