今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 35 尾花沢 Ⅱ 這出よかひやか下のひきの聲
本日二〇一四年七月 九日(陰暦では二〇一四年六月十三日)
元禄二年五月二十三日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月 九日
である。十泊した尾花沢の滞在七日目。本句は尾花沢滞在中の清風宅での印象をもとにものされた一句と見られるので、初日に次いで清風宅に招かれ饗応を受けて泊まった第一回目のこの日に配しておく。
這出(はひいで)よかひやか下のひきの聲
這出よ飼屋が下の蟇(ひきがへる)
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目「四季千句」(挙白編・元禄二年奥書)の句形で、後者が初案と思われる。なお、柿衛(かきもり)本「奥の細道」では、
這出てかひやか下のひきの聲
とするが、これは私には誤写としか思えない。
「かひや」は「飼ひ屋」で、養蚕のために蚕を飼う小屋。蚕室。
本句は既に述べた通り、「万葉集」の「巻十 秋相聞」にある作者未詳の第二二六五番歌、
朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)に鳴く河蝦(かはづ)聲だに聞かばわれ戀ひめやも
や、同「巻十六 由縁ある雑歌」にある河村王(かわむらのおおきみ:伝未詳。)の第三八一八番歌、
朝霞鹿火屋が下の鳴く川津(かはづ)偲ひつつありと告げむ兒(こ)もがも
右の歌二首は、河村王の宴居(うたげ)
の時に、琴を彈きて即ち先づ此の歌を
誦(よ)み、以ちて常の行(わざ)と
爲(せ)り。
をインスパイアしたものである。但し、この両歌の上五は語の続き方に未詳(講談社文庫版「万葉集」中西進氏)の部分があり、この「朝霞鹿火屋」は中西氏によれば、『朝霞のように山すそにたなび』く煙で、それは鹿火屋(作物を荒らす鹿や猪を追い払うために火を焚く番小屋から出るもの)、その小屋の下で鳴く蛙、その声のように、とする(他に『稲の先(かび)』(「牙」で植物の芽を意味する)。『を収める小屋の節もある』とあるが、他にも諸本「蚊火屋」「香火屋」等ともする。孰れにせよ、実はこれは芭蕉が用いた蚕室としての「かひや」の意ではないことが分かる。芭蕉はその不詳性を承知の上で俳諧に転ずるに措定されていた鹿を小さき蚕に、河鹿を大きな蟇蛙に転じたものであろうか。安東次男氏によれば(「古典を読む おくのほそ道」)、蚕が脱皮や蛹化の前に桑の葉も摂らず凝としていることを指す「蚕のねむり」という季語(春)があり、『蚕が上で眠に入れば蟇は下で目ざめる(片や繭ごもり片や冬ごもりから出る)、ということを目付とした句』とし、『無言で這い出した姿が夏の風物詩となる』とする。問題は蚕や蟇の声が春を想起させる語であることだが、安東氏はこれを「蟇の聲」が季語なのではなく、春にはあんなに鳴いていた蟇よ、この初夏に今一度鳴けと呼びかけたのが、改案決定稿になったとする。蓋し、名推理であろう。
諸家は紅花摘みに加えて養蚕の時期で何かと忙しくする清風宅にあって、何の役にも立たぬ自身を、若しくは客でありながらふっと忘れ去られたような感じの己れを見出し、それを蟇に投影したものと採る。それも一理はあろう。
しかし私は寧ろ、本句の元とした二つの和歌が孰れも、
……下で小さな声で鳴く蛙(かわづ)の声ように、その秘かなあなたの声さえ耳にすることが出来たなら、こんなにもならぬ恋に苦しむことはなかっただろうに――(二二六五)
……下でひっそりと鳴く蛙(かわづ)の声ように、「秘かにそっと慕っておりまする」と私に告げて呉れる娘がいたらよいのだがなぁ――(三八一八)
という焦れる恋を詠ったものであることにこそ着目すべきであると思う。即ち、この一句は次に出る、
まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花
の強く恋を連想させる艶句を引き出すために配されてある、配されねばならなかった「聲」であったのだと私には思われてならないのである。]
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