今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 39 新庄にて 水の奥氷室尋ぬる柳哉
本日二〇一四年七月十七日(陰暦では二〇一四年六月二十一日)
元禄二年六月 一日
はグレゴリオ暦では
一六八九年七月十七日
である。この日、芭蕉は大石田を発って新庄に到着、尾花沢で知遇となった豪商渋谷風流(甚兵衛)の邸宅で歓迎の宴が催された。恐らく以下の句以下の「水の奥」を発句とするの「三つ物」(連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を指し、早くからこの三句だけを詠む形式が好まれた。特に近世以降は歳旦の祝いとしてよく詠まれた形式である)はその席上で読まれたものと推定される。
風流亭
水の奥氷室(ひむろ)尋(たづぬ)る柳哉
[やぶちゃん注:「曾良俳諧書留」。以下、これを発句とする「三つ物」。
風流亭
水の奥氷室尋る柳哉 翁
ひるがほかゝる橋のふせ芝 風流
風渡る的の變矢に鳩鳴て ソラ
新庄には翌日も新庄に滞在、その翌六月三日(新暦七月十九日)に現在の山形県新庄市大字本合海(もとあいかい)に向けて発っているが、本「三つ物」がものされたのがこの日に比定出来るのは、芭蕉の発句に詠み込まれた「氷室」に依拠する。この旧暦六月一日は「氷室の節句」「氷の朔日」に当っているからである。これは奈良時代の古えからこの日に前年の冬に氷室に貯蔵しておいた雪氷を食す習慣に基づくもので、庶民の間では高価な氷の代わりに前年十二月の水で製した「凍り餅(氷餅)」や「欠餅(かきもち)」をこの日に食して暑気払いや夏の厄除けとしたのであった。時候を押さえた心憎い挨拶句であるからこそ比定の有力な証左となるのである。因みに曾良の第三の「變矢」は「へんや」で尾羽を彩色などした変わり矢羽根のことか。
山本健吉氏の指摘するように、実際にそんな氷室が風流亭の奥にあったわけではなく、そのような幽邃な邸を讃える全くの想像吟であったと考えてよかろう(但し、私は実際に氷室の氷が食膳に供された可能性はあると考えている)。なお諸本の指摘にもある、芭蕉が羽州街道を新庄城下に入った際、そこにあった「柳の清水」(昭和初期までは湧水として知られた)で清涼な冷「水」を掬したものと考えてよく、その「柳」をも添えて亭主を含む土地の自然をも言祝いだのだとすれば万全の句とも言えよう。「氷室」には無論、主人の富貴も匂わせてある(そう考えると氷若しくは氷を用いた冷やし物が実際に膳に出ていなければ厭味にもなり、挨拶吟として機能しなくなると私は思うのである)。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 24 室蘭から噴火湾を森へ(Ⅱ) / 第十三章 了 | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 40 新庄 風の香も南に近し最上川 »