芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
*
これは芥川龍之介の「或阿呆の一生」の一節である(以下、リンクは総て私のオリジナル・テクストである)。
この章の次は、以下である。
*
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。
それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。
*
この「四十九」との連続性から、多くの読者はこれを芥川龍之介が自死直前に起こした平松麻素子との心中未遂事件(昭和二(一九二七)年四月七日とされる)と関連づけ、この「彼女」は妻文が相談相手として接近させた幼馴染みの平松であると無批判に信じ続けてこなかったであろうか? 少なくとも私はまさに無批判にそう思続けてきた。それは研究者の間でも日の同定すらはっきりしなかった(七日の同定は二〇〇八年刊行の新全集の宮坂覺氏による年譜による。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄著「年表作家読本 芥川龍之介」では四月十六日の項にこの未遂事件を掲げ、『七日とする説もある』とする)平松との心中未遂という、自死完遂の二ヶ月前の事実があまりにもスキャンダラスで強烈であったからに他ならない。そうしてまた、平松と龍之介の関係が、ほぼここに語られているようなものであった事実とも一致するからでもある。
しかし、本当にそうだろうか?――
この「彼女」とは本当に平松麻素子なのだろうか?――
《補注:但し、私は正直言うと、この「四十八 死」は総体に於いて虚偽記載であると推定している。それは芥川龍之介の自死が一般に信じられているジャールやヴェロナールによるものではなく、青酸カリによるものだと考えているからである(「宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(3)」の私の注などで既に何度もその論理的理由は書いた)。そうしてそれはこのように関係を持っていた愛人から得たものではないとも思っているからである。そもそも自死後に青酸カリによる服毒自殺であると万一、処理された場合、この記載は極めて都合の悪い事態を招くからである。即ち、この「彼女」が一般に考えられているように平松だとすれば、彼女には立派な自殺幇助罪の嫌疑がかかることになり、それはダンディズムに徹した彼には最も忌まわしい事態となるからである(実際には芥川家の主治医で俳句を通しての友人でもあった下島勲氏によって現行の薬物と断じられて現在に至るのであるが、ここにも私は何か下島氏との間に何らかの事前の密約のようなものがあったのではないかと疑っている)。寧ろ、凡そ平松はそうしたものを入手出来得る女性では到底なく、仮に疑われても直ぐに嫌疑が晴れるような、凡そ信じがたい嘘として、龍之介はこの怪しげな虚偽の章段を創って差し挟んだのではなかったか、と私は思っている――ではどこから青酸カリを入手したか? それは山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」で目から鱗の推理がなされている。是非、お読みあれ。――ほんのすぐ近くにそれは――あったのである(なお、毎回ここでお茶を濁して終わるのは、偏えに、言ってしまうと山崎氏の本を読む楽しみが著しく減ぜられてしまうからであって、言わないことに実は他意はないのである。それほど「藪の中の家」はスリリングなのだ)。》
とすれば――四十八の「彼女」が自殺未遂をした平松だとすれば――「四十七 火あそび」の「彼女」は『彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』と、「四十八 死」の『彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』の完全に同一に見える叙述内容から、この「四十七 火あそび」の「彼女」も平松であると誰もが認定するであろう。
しかし――である。
そもそも章段がここまで強い連関性を持って並んでいる「四十七」と「四十八」は「或阿呆の一生」の中では実は極めて異例であるという事実に私は、ふっと気づいた。
と同時に、「プラトニツク・スウイサイドですね。」/「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」という応答が、ある疑義の余韻とともに私の鬱々たる脳内に反響し始めたのである。
「或舊友に送る手記」とともに芥川龍之介の文学的遺書であるところの「或阿呆の一生」の冒頭、龍之介は盟友久米正雄に当てた前書の中で、『君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる』と述べているが、実はこれは龍之介特有の悪戯っぽい作為なのだと私は確信している。久米は実際には「インデキス」はつけられないのである(実際に久米は死後、龍之介の友人たちとの座談の中で本作の「月光の女」の同定を試みたりしているが、そこには現在の知見からみれば明らかな誤りが多く含まれている。「宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)」などを参照)。いや、今もって芥川龍之介の研究者の間でも本作の「インデキス」はまるで完備していないと言った方が正しいのが実情である。
それは何故か?
それはまさに、久米や佐藤春夫らが指摘し、私も「月光の女」の同定を試みた幾多の作業の中(『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』に主な考察のリンクを附してあるので未見の方は参照されたい)に痛感した、龍之介自身による複数の女性の合体が「月光の女」の正体であり、しかもその複数が恐るべき数に上るものであり、しかも「或阿呆の一生」の章段が意識的に時系列をシャッフルして並べ変えられているからである。その際、龍之介は、「月光の女」又は龍之介の愛した「彼女」を〈読者一人ひとりが勝手に錯誤してしまい易いように〉計算して恣意的に配置してもいるのである。
これは龍之介が最後に我々に仕掛け残した自伝的作品への文学的虚構としての迷宮(ラビリンス)であり、自己告白に対する驚くべき少年染みたはにかみであり、そうして何より、彼が愛した数多の「彼女」たち(そこには実は「或阿呆の一生」には実際には書かれていない女性も含めてである)へのおぞましいまでの復讐であると同時に、胸掻き毟る現在形の懸恋の情のほのめかしでもあるのである。即ち、本作を読んだ、龍之介と接触し、何らかの恋愛関係にあった女性たち――肉体関係の有無を問わない――が読んだ際に「これは私のことだわ!」と思わせるような巧妙な仕掛けが施されたものであるということである。
しかも龍之介は、それを章単位ではなく、それぞれの章のある部分が、ある特定の女性(芥川龍之介が/を愛した女性)の特徴を限定する〈かのように見えるように〉書いているのである。
そうして、性交渉を持たなかった数多の女性にまでその感染を広げるための、恐るべき生物兵器こそが、この二章の『彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』であり、『唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』であったのである。それは如何にも童貞の少年ナルシスの甘い〈ほのめかし〉の連続した仕掛けなのである。
そうした仕掛けである――
とするなら――
――我々は取り敢えず、この二章は実は繋がっていない無縁なものを巧みにモンタージュしたものとして、「四十七 火あそび」と「四十八 死」の「彼女」を別人とすべきなのである。
そこで「四十七 火あそび」である。今一度、掲げる。
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
まず、『火あそび』という標題である。
前に述べた通り、心中未遂を起こした平松麻素子は、妻文が夫の自殺の危険を憂慮して文自身が幼馴染みの友人である平松を相談相手として龍之介に接近させたことが分かっている。しかも平松との肉体関係は事実なかったというのが関係者の見解でもあるのである。そうした如何にも特異な関係性にあった平松との関係を――無分別なその場限りの〈情事〉を指す「火あそび」――という語で、かのストーリー・テラーたる文飾彫鏤巧みな芥川龍之介が、使うはずが、ない。「火あそび」という以上、それは妻文には知り得ぬような相手であってこそ「火あそび」である。但し、それは『彼女の體には指一つ觸れずにゐ』るものでも構わない。これはその気がないという意ではない。また『戀愛は感じてゐなかつた』の『戀愛』も、それこそ肉体関係を直ちに希求するような性的欲情を主とする心理状態という意味でとることが出来、それは実際に『戀』していなかったことの証左ではないという点にこそ着目すべきであろう。
……文に知られることのない……肉体関係のない……それをどこかで躊躇させるような女性……しかし龍之介が非常に強い恋情を抱いており……出来得るならば一緒に心中したいと思う女性……
しかもそれは平松のような――一緒に死んでくれるかも知れないと思わせるような多分に感傷的で同情的なか弱い印象の女性――ではないことは明白である。そんな女性は向こうから〈英語で〉『プラトニツク・スウイサイドですね。』とは私は決して言わないと断言出来る。
以上が、この真の「彼女」の属性である。
次に『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という叙述である。
既に私が誰を「彼女」と同定しているかは大方の方はお気づきであろう。
この『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という表現は直ちに、「或阿呆の一生」の別の一章を直ちに連想させる。
*
三十七 越し人
彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
風に舞ひたるすげ笠(がさ)の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
*
この『木の幹に凍つた、かゞやかしい雪』という表現である。この『かゞやかしい雪』のような『顏をしてゐ』る『彼と才力の上にも格鬪出來る』『彼女』とは、芥川龍之介が最後に胸掻き毟る恋をした相手――片山廣子――である。
『彼女の體には指一つ觸れずにゐた』は廣子との関係に照らすと事実であると断言出来るし、その廣子が「死にたがつていらつしやるのですつてね。」と龍之介に語りかけるのも如何にも首肯出来、それに対して、龍之介が丁寧語で「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」と微妙な抑鬱的感触という訂正まで加えて答えるというのも、『才力の上にも格鬪出來る』と彼が絶賛した相手ならではの答えとして相応しい。この答えは平松のみでなく、それ以外の数多龍之介の周辺に見え隠れする如何なる女性(にょしょう)に対する台詞としても似合わしくなく、ただ片山廣子への答えだったと考えた時にのみ、私には最も自然且つ相応しい台詞として「真」であると言い得るのである。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
この台詞は絶対に平松麻素子の台詞ではない。
「ですつてね」は、そうした噂が広まって他者に知られてしまった後の伝聞に基づく「彼女」の台詞である。平松は既に述べた通り、龍之介の自殺願望を食い止めるために文に懇願されて彼の話し相手になったのであり、その彼女が文の手前からも、こんな火に油を注ぎかねない素(す)の台詞を安易に謂い掛けるというのは、それこそ却って不自然の極みなのである。
『彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した』。この地の文を、まずは芥川龍之介と片山廣子の二人だけの秘めた会話の冗談とスル―して取り敢えず進める(実際には冗談ではなかったことの考証は最後に述べる)。
問題は次の会話である。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
この英語の会話は無論、素人にも解る英語ではある。解るが、しかし、この二つの台詞の英語は尋常な英語表現ではない(と私は思う)。意味がというより、検索をかけてもらっても解る通り、英語としての普通一般に用いられる表現ではないということである。当時の東京帝国大学英文科卒の流行作家芥川龍之介に対して、相手の女の方が「プラトニツク・スウイサイドですね。」という異様な水を向けて来ること、それに対して極めて奇異な造語の「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介が応えているという、このシチュエーションを実際に想起してみてもらいたい。
この女性は当時の平均的な一般女性ではないことがよく分かる。
彼女は英語に堪能であるからこそ、先にすかさず「プラトニツク・スウイサイドですね。」と語りかけたのであり、その謂いの背後にある彼女の才気の理解度を分かった上で、二重の、双方向性の、肉の臭いを全く持たない男女の自殺という、異常な英語「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介は応酬しているのである。これは危ないが故に素敵な智の遊びに他ならない。そうしてそうした遊びをし得る芥川龍之介の知人女性というのは、これ、片山廣子をおいて他にはない、のである。
『彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた』のは何故か。これが二人の冗談だったから――では――ない。
これは
――この「彼女」とは実際にそうした心中をすることはない
――この「彼女」はそんな心中をする女性では多分ないから
――あるとしても
――僕はしない
――僕は出来ない
――だからこそ
――僕はこの人を愛していられる
――愛したままで
――死ねる
と龍之介が思ったからこそ、彼は彼自身、存外落ち着いていられたのだと考えれば納得がいく。
片山廣子の後年の随筆に「五月と六月」(松村みね子名義・芥川龍之介の死後二年目の昭和4(1929)年6月号の雑誌『若草』に掲載)がある(この作品については私の芥川龍之介と絡めた詳細な論考『「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』がある。未読の方は是非読まれたい。私の貧しいオリジナル論考の中ではかなりの自信作の一つではある)。この前半部「五月」のパートは誰が読んでも相手が芥川龍之介であることが明白である。その後半に附された「六月」に相当する部分を引く。
圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそごそと音をさせることがあつた。
震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。門だけ殘つてゐた。松嶺院といふ古い札がそのまゝだつた。くづれた材木は片よせられ、樹々は以前のとほりで、梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。
深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た。
「震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た」とあることから、これは大正十三(一九二四)年六月、廣子四十六歳のことであることが分かる。この頃、片山廣子は未だ芥川龍之介とは親密ではなかった。但し、全く知らなかった訳ではない。大正五(一九一六)年に芥川二十五歳の折り、「翡翠 片山廣子氏著」という廣子の歌集評を『新思潮』に掲載、彼女とは何度かの手紙のやりとりがあり、廣子が芥川家を訪問してもいる。その時、廣子、三十八歳。しかし、二人が男女を意識し、急速に接近したのは正にこの廣子円覚寺訪問の一ヵ月後、大正十三(一九二四)年七月のことであった。しかも本作自体は龍之介の自死後に書かれたものである。
この『そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた』という廣子の述懐は、廣子自身がこの時そう遠くない近過去に自殺を思ったことがあるということを示している(でなければ、昔の馴染みの円覚寺の古井戸を訪ねて覗いてそしてここなら「死ねるな」などとは人は思わぬ)。しかし時系列から言えば、これは前半の「五月」よりも遙か以前となり、「五月」の主人公が芥川龍之介であるならば、この話は何の関係もない、ということになってしまう。しかも本作の前半部とは一見、何の脈絡も持たせずに廣子は叙述しているのである。こんなおかしな話はない。
実はこの「五月と六月」の「六月」の部分には、ある巧妙な仕掛けがなされているのではあるまいか?
この廣子が自殺を思ったのは、実はこの井戸の覗いた後の出来事であり、それを井戸に附会させることで時間設定を遡らせ、前半の人物が芥川龍之介であることが読者に分からないようにした(芥川龍之介であるはずがないと物理的に思わせた)のではなかったか?
とすれば――実は廣子が考えた自殺というのは、実は生前の芥川龍之介と交わしたことがある心中の約束であったのではなかったか?
本作「五月と六月」の前半に覆面の相手芥川龍之介を登場させておいて、しかもそこにこの一見無関係に見える文章をさりげなく投げ込んだ廣子の隠蔽の意図は、そこでうっかり安心して自死を匂わせる叙述を挟んで龍之介への秘かな追悼としてしまった結果、逆に龍之介と彼女が以前秘かに自死を語り合ったことがあったのではなかったかという私の疑惑を深くさせる結果となったということなのである。
最後に。「火あそび」ならぬ、私の「あそび」で筆を措くこととする。
「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の台詞部分をシナリオ風に書き直してみよう。因みに、ト書きの「よろしく」というのは、一部のなまくらな脚本家が現場の監督や俳優に当該部分の演出や演技を丸投げする際に用いる掟破りの業界用語である。
廣子 「死にたがっていらっしゃるのですってね。」
龍之介「ええ。――いえ、死にたがっているというよりも、生きることに飽きているのです。」
(二人、これに類した問答、よろしく。その中で、一緒に死ぬことを約束するシーン、よろしく)。
廣子 「プラトニック・スゥイサイドですね。」
龍之介「ダブル・プラトニック・スゥイサイド。」
(龍之介、こう答えた自身が如何にも平然として落ち着いて笑みさえ浮かべているのを不思議そうに感じている風。)…………