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2014/07/13

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 37 立石寺 閑さや岩にしみ入る蟬の聲

本日二〇一四年七月 十三日(陰暦では二〇一四年六月十七日)

   元禄二年五月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 十三日

である。【その二】この日の午後二時過ぎ頃、立石寺(山寺)へ着いた。

 

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の聲

 

涼しさや岩にしみ入る蟬の聲

 

  立石寺

山寺や石(いは)にしみつく蟬の聲

 

さびしさや岩にしみ込(こむ)蟬のこゑ

 

淋しさの岩にしみ込せみの聲

 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間成立)に真蹟にかく上五を変えたものがあるというのを復元した句形(これは底本にはなく、頴原・尾形訳注角川文庫版の注に基づいて復元したものである)。第三句目は「曾良俳諧書留」の、第四句目は「初蟬」(風国編・元禄九年刊)の、第五句目は「芭蕉翁追悼 こがらし」(壺中/芦角編・元禄八年刊)の句形。

 一般には以下のような推敲過程を経たとされる(読み易く書き換えた)。

 

山寺や石(いは)にしみつく蟬の聲

 ↓

さびしさや岩にしみ込む蟬の聲

 ↓

閑かさや岩にしみ入る蟬の聲

 

山本健吉氏によれば、この決定稿は「猿蓑」に撰せられていないことから、「猿蓑」の撰以後、『おそらく「奥の細道」の定稿の成った時である』とされる。現在、「奥の細道」の決定稿は元禄七年初春の頃に成立したと考えられているから実に五年近くの推敲がなされた苦吟であったことが分かる。さればこそ「奥の細道」中、一、二の名吟が生み出されたのであった。

 本句の発想の元は諸家によると、南北朝の梁の詩人王籍の五律「入若耶溪」(若耶溪(じゃくやけい)に入る」の頸聯(書き下しは我流)、

 

蟬噪林逾靜

鳥鳴山更幽

 蟬 噪(さや)ぎて 林 逾々(いよいよ)靜たり

 鳥 鳴きて 山 更に幽たり

 

に基づくとする。しかも安東次男氏は、とかく同じ意になり易い漢詩の対句の弊害を念頭にして、『噪蟬を以て閑情を深めたければ、漢詩より発句の方がまさる、というところに芭蕉の云いたいところ、挨拶がある』とまさに安東節で快刀乱麻の評を附しておられる(「古典を読む おくのほそ道」)。

 推敲は、初案、

   山寺や   石(いは)にしみつく 蟬の聲

は上五が地名で死んでしまって平板な写生に堕し、しかも「しみつく」が小さな「石」の表面にべったりとはりついたような、まさに平板で力のない、いや寧ろ、皮膚感覚に生理的不快感をさえ惹起させるものとなってしまっている。それに対して、改案の、

   さびしさや 岩にしみ込む     蟬の聲

は山寺の寂寥が描き出されて蟬の声もより大いなる「岩」に「さびしさ」として浸潤してゆく。しかしその浸透はまだ十分ではない。そうしてそれは「さびしさ」が勝ち過ぎて、蟬の声を後退させてしまうからである。だからこそ決定稿では、

   閑かさや  岩にしみ入る     蟬の聲

山寺の実景もその寂寥をも併呑する形而上的な「閑かさ」が選び出され、それに従って実相へ直に貫入するところの「しみ入る」が定まったのだと私は思う(そういう解釈で私は教師時代にこの句を教授してきた)。――その決定稿にあっては詠じている芭蕉の姿さえ掻き消えて、無人の山寺全山がゆっくりとクレーン・アップで映し出されるのである。――

 現代の評釈ではこの推敲課程分析の他に、この「蟬」の同定も喧しい(それは私にとっては実にある意味で文字通り「喧しい」ものである。安東次男氏は『蟬がニイニイゼミかアブラゼミか、一匹か複数かというようなことはどうでもよい』とこの不毛な議論を斬って捨てておられる)。ウィキの「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の「論争」の項に以下のようにある(注記[]は「『セミの自然誌』pp.81-84』」とある)。

   《引用開始》

1926年、歌人の斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の9月号[]に書いた「童馬山房漫筆」に発表した。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。1927年、岩波書店の岩波茂雄は、この件について議論すべく、神田にある小料理屋「末花」にて一席を設け、茂吉をはじめ安倍能成、小宮豊隆、中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった文人を集めた。

アブラゼミと主張する茂吉に対し、小宮は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由にこの蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立した。この詳細は1929年の『河北新報』に寄稿されたが、科学的問題も孕んでいたため決着はつかず、持越しとなったが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに1932年6月、誤りを認め、芭蕉が詠んだ詩の蝉はニイニイゼミであったと結論付けた。

ちなみに7月上旬というこの時期、山形に出る可能性のある蝉としては、エゾハルゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミがいる。

   《引用終了》

 私は蟬の羽化は当該年の春から気温変化に大きく作用されるから、以上の「ニイニイゼミ」考証が真に科学的であるかどうかは断定出来ないと思う。確かに「しみつく」「しみ込む」「しみ入る」という本句の雰囲気には「にいにいぜみ」(有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅亜(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ Platypleura kaempferi の通奏音は確かに最も相応しいとは思う。しかし芭蕉らが山寺を巡礼に登ったのは宿坊を借りて後のことで、午後二時半時以降、日の暮れる前の夕景であったから、私個人としてはこの「閑かさ」を演出する蟬は――私の偏愛してやまない――これを聴くと大嫌いな暑い夏を許す気になる――あの――蜩(セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ Tanna japonensis)の声ばかりなのである――


 以下、「奥の細道」。

   *

山形領に立石寺と云山寺有

慈覺大師の開記にして殊淸閑の

地也一見すへきよし人々のすゝむるに

仍て尾花沢よりとつて返し其間

七里計なり日いまた暮す麓の

坊に宿かり置て山上の堂に登ル

岩に巖を重て山とし松栢年ふり

土石老て苔なめらかに岩上の院々

扉を閉て物の音きこへす岸をめくり

岩を這て佛閣を拜し佳景寂莫

としてこゝろすみ行のみ覺ゆ

  閑さや岩にしみ入蟬の聲]

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