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2014/07/19

耳嚢 巻之八 長壽の人其氣質常に異なる事

 長壽の人其氣質常に異なる事

 

 寶藏院の鎗術を師とせる長尾撫髮は九十六にて物故(もつこ)なせしが、寒中も布子(ぬのこ)又小袖にてもひとつ着し、常住坐臥甚だ氣丈にて、死せる時も子共弟子家内の物と盃事(さかづきごと)いたし相果けるとなり。文化五年未(いまだ)存生(ぞんしやう)の由、松平出羽守家來にて、番頭を勤(つとむ)る荻野喜内は、いかなる譯哉(や)、鳩ケ谷出生の由、異名を鳩ケ谷天狗と唱候由。則(すなはち)文化五年八十八歳にて今以(もつて)丈夫成由。常に物の捨るを嫌ひ、道にぬぎ捨し草履を小者にとらせ右をつくろひ直して用ひける由。右は草(ざう)りに限らず、都(すべ)て捨れるもの不捨(すてず)といふ願の由、一奇人なりと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「寶藏院の鎗術」既注であるが再掲する。奈良興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房胤栄(大永元(一五二一)年~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を用いる槍術の一派。今は伝わらない(現在は宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存しているとウィキ宝蔵院流槍術にはある)。

・「長尾撫髮」「ブハツ」と音読みしておく。長尾資正。底本の鈴木氏注によれば、長宝蔵院尾流の鎗術家で、同流は宝蔵院宗家三代目覚舜坊胤正の門人長尾資政を始祖とし、撫髪は三代目とある。因みに、江戸後期の剣客で天真一刀流の祖である寺田宗有(延享二(一七四五)年~文政八(一八二五)年)はウィキ寺田宗有に槍術をこの長尾撫髪に学んで免許皆伝を得たという記事が載る。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから同時代人で、長尾も本記事執筆(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)の直近まで存命であったと考えてよい。例えばこの文化五(一八〇八)年に亡くなったと仮定しても、その九十五年前は正徳二(一七一二)年で、ウィキによれば寺田宗有は十八歳で高崎藩に出仕、剣術を平常無敵流の池田八左衛門成春に入門、以後十二年間に亙る修行の末に谷神伝(こくしんでん)奥義を授けられたとあるから、彼が十八の時は、既に撫髪は五十歳、三十歳以降なら七十二歳超えとなる。

・「常住坐臥」底本には右にママ注記。この後は本当は正しくは「行住坐臥」(仏語で人の起居動作の根本の四威儀を指す)で、別な仏語で永遠不変を表わす「常住」と誤って混用した用法が慣用句化してしまったもの。

・「松平出羽守」松平斉恒(寛政三(一七九一)年~文政五(一八二二)年)。出雲松江藩第八代藩主。但し、文化三(一八〇六)年に家督を父から譲られたばかりで、この文化五(一八〇八)年当時は未だ満十七歳であった。

・「荻野喜内」底本鈴木氏注に、『名は信敏。字は求之、号は鳩谷。三百石。異風を好み高慢なため天狗と呼ばれ、自らも天愚斎と藤した。自ら誇称して、孔子六十五代の後裔孔胤椿の妾が明代に倭寇の捕虜なり、日本に来て出産した者の子孫であるとし、孔平といった(世に天愚孔子平といへど孔平は姓なり。三村翁)。文化九年百五歳であると自称し、同十四年没した。司馬江漢の『春波楼筆記』に、その容貌は乞食が帯刀したのに変らない。千金をたくわえ、漢籍にも通暁し、風流人の跡を弔うことと、自己宣伝を兼ねて、各所の神社仏閣に千社札を貼り歩く。その札に天愚孔平子としるしてあるといっている。千社札の鼻祖とされ、継竿の先に刷毛を付けて貼る仕掛けは、この人の工風であるという』とある。あまりに面白く興味深い注であるので、例外的に全文を引用した。本文の「文化五年八十八歳」が正しいとすると、生年は享保六(一七二一)年、この注の「文化九年百五歳」が正しいとすると、宝永五(一七〇八)年となるが、まあ、前者を採ることと致そう。それでも享年九十七ですから、ご満足でしょう、天愚斎殿?

・「鳩ケ谷」埼玉県鳩ヶ谷市。先の鈴木氏の注から見ても、鳩と自身の蔑称であった天狗とのミス・マッチを、奇人であった当の喜内自身が気に入って自称したものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿の人はその気質に於いて常人と異なる事

 

 宝蔵院の鎗術(そうじゅつ)の師で御座った長尾撫髪(ぶはつ)殿は、九十六歳にて物故(ぶっこ)致いたが、寒中でも布子又は小袖にても、ただ一枚を着すのみにて、行住坐臥、背筋をぴんと伸ばして頭脳明晰、すこぶる気丈にて、死したる際(きわ)も、子供・弟子・家内の者一人ひとりと、別れの盃(さかずき)の儀を、これ、整然と漏るることなく、相い行(おこの)うた後、端然と亡くなられた。

 文化五年の今も、未だ存生(ぞんしょう)なる、松平出羽守殿御家来にて、番頭を勤むる荻野喜内殿は、如何なる訳か、鳩ヶ谷の出生なればとて、異名を御自身、「鳩ヶ谷天狗」と唱しておらるるよし。則ち、文化五年の当年とって、八十八歳にして、今以って丈夫ならるる由。この御仁、何につけても、物を捨つるを嫌い、道にぬぎ捨てられたる使い古しの草履は小者に拾わさせて、これをつくろひ直させて用いておらるると聴く。これは一つ草履に限らず、『総ての世に捨つるものをば、我ら、一切捨てざる』と申す、奇なる願いを立てたればなりと申さるる由。さても、これ、一つの奇人で御座る、とは人の語った話で御座る。

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